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from: ueyonabaruさん
2011年05月27日 00時49分05秒
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「空」と「無我」は難しい
先生のお言葉です。「悟りの挑戦」から引いてみます。
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ですから、この「空」というものも、また非常に難しいことではありますが、これは仏教の真髄、特に大乗仏教の流れのなかでは中心中の中心の教えなのです。
前章の「無我とは何か」、本章の「空と縁起」はそれぞれに難しい内容を含んでいるとおもいますが、一回読んでスパッとわかるなら、それはもう悟りを開いたということであって、わからないからこそ勉強と精進が必要になるのです。
なぜならば、「無我」や「空」という言葉は、知識的にのみ理解することは、ほぼ不可能なことなのです。これは、悟りの世界の言葉なのです。これは、悟性、悟りの性質をもって理解しないといけないものであり、知性や理性や感性でもっては、つかみきれないものなのです。これは個人個人の洞察力に負うところがかなりあるわけです。
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このご文章を読むと、なるほど、私が何度読んでもスッキリと意味が取れなかったわけが分かります。直感や洞察力、悟性で知るものなのですね。もん吉さんは、「空」について瞑想をするとも言っておられるので、それぐらいの修行をしなければ、「空」への理解は進まないのかもしれません。 わたしは、瞑想はしませんが、この難題はいつも考えておきたいものです。
コメント: 全40件
from: ueyonabaruさん
2011年06月01日 22時46分49秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
にしき鯉さんへ
> hikaru0827さんへ > > < 変わりながらも変わらない何かがあります。 > それが「不生不滅」であるところの空…そのようにも思います。> > > う〜ん、とりあえず「空」の解釈は了解です > > 魂(霊的エネルギー)が不生不滅という意味がわかりません > 死後、魂が存在するならば、当然「思考する心」も付いていると思うんです > > それならば、永遠に不滅というべきではないでしょうか? > > 生まれる事も無く滅する事もない、これは、「ある事も無い、ない事も無い」と同じように意味がありません > > 大事なのは、どういう状態でそう言っているのかが知りたいのです >
これは悟りの境地に至らないとホントには分からないことでしょうね。ほかに仏教では、「一即多、多即一」という語もありますね。矛盾する言葉がイコ-ルで結ばれるわけです。我はアルファでありオメガである」という言葉もそのようなものです。「無限であり有限である」もそうでしょう。
なんだか分からなくて、しかも魅力あることばです。
よく理解はできませんが、これまでの議論から、「無我」、「空」については、いずれも光のエネルギ-との関わりで、皆さん説明されたように思います。光のエネルギ-とは神、仏のことですね。
「不生不滅」という語は、やはり光のエネルギ-で説明できないでしょうか? まず、最初に世界を意識するとき、あるい瞑想するとき、そこにあるのは光のエネルギ-であると考えてみるんです。
大川さんも、「空」を説いているとどこかの信徒ブログで見ました > > それは本の抜粋だけで私には意味がわかりませんでした > どなたか、「不生不滅」だけでも、kKの教義で説明してくれませんか > > お願いします > >
幸福の科学の「空」論は、私が#741で先生のご本から引用しております。また、、「不生不滅」については、#743で、Hikaruさんが先生のご法話を例にして説明されておりますね。
光のエネルギ-という語で説明はいたしますが、これら神秘的な言葉の意味は、ある悟りがない限り理解不能かもしれません。禅的な悟りもそのようなものかもしれません。
from: もん吉。さん
2011年06月01日 22時17分07秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
あの世がはっきりわかるとこの世の修行に支障が出るから、霊界から干渉できないように、この世の人の主体性に任されているんだけどね。
分からないように仕組まれているんだよね。
だから、生まれることも滅することもないっていうのはなんとなくそんな気にさせる方便ですよね。
本当は永遠不滅のエネルギーってことが正しいよね。
from: にしき鯉さん
2011年06月01日 20時43分54秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
hikaru0827さんへ
< 変わりながらも変わらない何かがあります。
それが「不生不滅」であるところの空…そのようにも思います。>
う〜ん、とりあえず「空」の解釈は了解です
魂(霊的エネルギー)が不生不滅という意味がわかりません
死後、魂が存在するならば、当然「思考する心」も付いていると思うんです
それならば、永遠に不滅というべきではないでしょうか?
生まれる事も無く滅する事もない、これは、「ある事も無い、ない事も無い」と同じように意味がありません
大事なのは、どういう状態でそう言っているのかが知りたいのです
大川さんも、「空」を説いているとどこかの信徒ブログで見ました
それは本の抜粋だけで私には意味がわかりませんでした
どなたか、「不生不滅」だけでも、kKの教義で説明してくれませんか
お願いします
from: hikaru0827さん
2011年06月01日 15時50分49秒
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「Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
ueyonabaruさんへ
>> 明らかに釈迦と年代の違う方の書いた文章の枕詞に、「私は尋ねた。すると、釈尊はこのように話された」とついたりしているそうです。 > 「かく思う」「こう感じる」「このように私は悟った」ではありません。 > > 瞑想中に釈迦と話をしたかのように書かれています。そのような事もあったのではないか、と思います。 >
> 興味があります。どの本を読めばよいのでしょうか、教えてください。
以前調べ物をしていた時に、目にしたものです。
どこで見たか、すぐに思い出せません。
すみません、ちょっと時間ください。
もん吉。さんへ
> 無我は拘りのないサラサラッとした境地で、空は三次元に生きながらあの世帰りした境地っていう定義はどうかな?
感覚的には、そんな風ですね。
天台教学では、「三諦」というのがあるようです。
①空性…空とは何かを悟る
②仮説…悟った空を、何とか言葉で表現する
③中道…空を実践する
というようなものらしいですが、
では「空性」とは何か?というと、「根元なるもの」という解釈のようです。
霊的エネルギーとか、神の光とかと、表現は違いますが、指しているところは同じのようです。
にしき鯉さんへ
返信ありがとうございます。
>KKでは、不生不滅である霊的エネルギーは「肉体が無くなった後の心」と考えているんでしょうか?
>そしてその心は「不生不滅」だと言う事ですか?
幸福の科学の教えなのか、私の考えなのか、線引きが曖昧です。
教義として「それは違う」という部分がありましたら、どなたかご指摘ください。
-----------------------------
宗教的なものに没頭すると、ともすると肉体も物質も仮の姿であり見せかけだ、くだらないものだ。となりがちです。
ですが、
色心不二と申します。
色即是空とも言います
肉体も物質も「本来の自分を証明する十分条件」とはなり得ませんが、しかしながら、それをこの世界に存在せしめているのは、やはり霊的エネルギーであり、神の光だと思うのです。
人間の心もそうですが、万物に霊光は宿っていると思います。
コスモスは、茎を伸ばし、花を咲かせ、そして散ります。
諸行無常です。
が、毎年花を咲かせます。
それはやはりコスモスの花です。急にチューリップが咲いたり、桜が咲いたりはしません。
変わりながらも変わらない何かがあります。
それが「不生不滅」であるところの空…そのようにも思います。
答えになっているでしょうか?
from: にしき鯉さん
2011年06月01日 07時47分42秒
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「Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
hikaru0827 さんへ
ちょっと、噛み付いてみたつもりなんですが、hikaruさんには敵わないや!
これだけ、真面目に答えられると返答しなくてはなりません
>たとえば、「不生不滅」=「生まれることも滅する事もない」
>だって、人間として生まれてきてるではないですか?
>死んだら肉体は滅するではないですか?
これは実態があるかないかという話です
それはあるとも、ないとも言えるんです、だから定義をします
私たち、人間の世界ではあります、食事をするのも、恋をするのも実態としてあります、これは表層意識で感じてる事です
ところが潜在意識に深く入っていくと「自己」が意味を持たなくなってくるんです
死も生も自我も崩壊します、それを一度でも経験すると不生不滅が理解ではなく、、、
わかります
<肉体ではなく、「霊的エネルギーは不生不滅だ」という事です。>
もう、一度、噛み付かせて下さい
KKでは、不生不滅である霊的エネルギーは「肉体が無くなった後の心」と考えているんでしょうか?
そしてその心は「不生不滅」だと言う事ですか?
これはhikaruさんに対する質問です、
皆さん、すみませんがご理解ください
・・・・・・・・・・
「無我」の理論は本当の自分は何なんだろうという疑問から始まりました
仏教は難しい観念論だと言う人がいます
後世の大乗仏教はバラモン教と似てきて理屈でガチガチに固めてきています
でも、釈迦は観念を使って、観念を超える教えを残してます
酒を飲むな、物を盗むな、生き物を殺すな、これらは皆、観念です
でも、その観念を使っていると、自分に不必要なものがわかってくるんです
生き物を殺すなという教えを守ってみましょう
仏典の中で、アリ一匹を踏まぬように歩きなさいという話があります
それは「小さな悪業でも積むな」というよりも、アリも魂があるんだと言う事でしょう
総ての生き物には個別の魂が宿っています
それを、認めるか否かで「自分の心の広がり」は違ってきます
もっと言えば、潜在意識が広がるんです、思考の束縛がなくなればなくなるほど奥にある意識は広がるんです
(ここで言う思考の束縛は「アリは害虫」という意識です)
実践することで得られるもの、それは観念とエゴに縛られた心を解放することに他ならないんです
それで、自覚としてそこに到達した人が、「無我」と「非我」を言い出しているんです
・・・・・・・・・・・・・・・
<僧用と、在家用と教えを分けるべきだ、という事でしょうか?>
いや、そうではなくて「真理を理解したい人」と「心理を信仰したい人」に分けるべきでしょう
私は、ここにいる方は「理解したい人」に思えるんです
だから「信仰したい人」はどの宗派の人であれ認めます
from: もん吉。さん
2011年05月31日 18時53分59秒
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「Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
まあ、だから八正道や六波羅蜜多なんていうのも、お釈迦様にとっては、人に伝えるために後付けで考えた理論だよね。
別にそんなに難しいこと言わないでも自分が光エネルギー体としてどういう作用をするかそれが分かればいいわけだから。
ってまあ、僕が悟りについて小難しいこと言ってた時に。
言われた言葉なんだけどね
あはは。
from: ueyonabaruさん
2011年05月31日 13時08分38秒
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「Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
もん吉さんへ
> 無我は拘りのないサラサラッとした境地で、空は三次元に生きながらあの世帰りした境地っていう定義はどうかな? > > >
そんな感じがあります。
from: ueyonabaruさん
2011年05月31日 10時55分37秒
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「Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
hikaru0827さんへ
> 「無我」とは「人の存在の本質は空である」という意味のような気がしてきました。 > > オギャアと出てくる前は自分は存在しないと思ったり、死んだら自分は消滅すると思ったり、ではなく、自分の本質が光エネルギーであると悟る事を無我というのではないでしょうか? > > すると、「諸法無我」とは、「全ての本質は、光エネルギーである」という意味になります。 > > ん?となると、「一切皆空」=「諸法無我」なのでしょうか!?
論理的に組み合わせたりすると分からなくなりますね。空も無我も似たようなものではないでしょうか?
① 無我ということをテ-マにすると、我はあるのかないのか あるとすればいかなるものかということになるのでしょう。我はある それは肉体ではなくて霊的なものであるとしてみます。
② 諸法無我については、万物(世界)はあるのかないのかと考えたとき、万物は肉体の目に見えるようなものとして絶対存在をしているのではなく、その本質は光のエネルギ-であるとします。
①と②から、我も諸法も等しく、光エネルギ-となります。
難しくなってくるのは、すべてが光エネルギ-であるとすればいいものを、空の立場から説明をしたり、無の立場から色々と説明するからではないでしょうか? そのような説明が無用というのではありませんが。
hikaruさんの論説、大変参考になります。また、こちらの矛盾点などがあれば、ご指摘くださいネ。
> > それと、他の仏教団体との法戦が避けて通れないならば、ある程度の観念的な仏教理論であっても会員に教えておく必要があったのかもしれません。 > 釈尊の生まれ変わりをトップにいただく団体なわけですから、会員も。他の仏教団体帰依者とそれなりに議論も出来ないと困ります。 > > >
おっしゃるとおりです。
> 明らかに釈迦と年代の違う方の書いた文章の枕詞に、「私は尋ねた。すると、釈尊はこのように話された」とついたりしているそうです。 > 「かく思う」「こう感じる」「このように私は悟った」ではありません。 > > 瞑想中に釈迦と話をしたかのように書かれています。そのような事もあったのではないか、と思います。 >
興味があります。どの本を読めばよいのでしょうか、教えてください。
> 現在は情報に壁がないですから難しい面もありそうです。 >
そうですね。
> 今の幸福の科学は、会員が自分にあった教えを選択して勉強出来る環境のような気がします。 > > 仏教理論の書籍を読み込む方もいれば、易しい文章で書かれた書籍を好む方、感性に訴えるような文章を好む方も居ます。 > > 様々なものが提示されており、私たちに選択する自由があります。 > > ちなみに「仏教」が哲学的で理論的なのは、少なからず「ゴウタマシッダルタ」ご本人の性格が影響していると思います。 > 毘る遮那仏の性格を強く感じます。 > > > >「空」は光とエネルギーです > > 私もそのように理解しています。
from: hikaru0827さん
2011年05月31日 07時51分56秒
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「Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
にしき鯉さんへ・みなさんへ
遅くなり申し訳ありません。
いつまで観念論してるんだとお叱りをうけそうです。
>たとえば、「不生不滅」=「生まれることも滅する事もない」
>だって、人間として生まれてきてるではないですか?
>死んだら肉体は滅するではないですか?
「肉体が不生不滅だ」と言ってる訳ではありません。それだと、ご指摘の通りですが。
肉体ではなく、「霊的エネルギーは不生不滅だ」という事です。
おっしゃる通り、自分が本当は霊的存在である、という事を知っている事が前提です。
さらには実感しているか?が重要になってきます。
しかし、「人は霊的存在である」は教えの基本中の基本です。
当然、霊的存在とは?霊的エネルギーとは?という説明が必要です。
それについて古来より教え継がれている「空」とは、霊的エネルギーの事なんですよ、と。それはこのようなものです。と説明されているわけです。
無明の私らにそれを伝えるのは至難の業かと思いますが、それに総裁は挑戦されています。
「空」の大家自身が、言葉を尽くす程、真理から遠ざかる、と言ってるくらいですから…。
あらためまして、
『 「常・断・一・異・来・去・生・滅」の極端を否定した「八不中道」が「空」であり、「空」とは霊的エネルギーである 』
とすると、
「無我」とは「人の存在の本質は空である」という意味のような気がしてきました。
オギャアと出てくる前は自分は存在しないと思ったり、死んだら自分は消滅すると思ったり、ではなく、自分の本質が光エネルギーであると悟る事を無我というのではないでしょうか?
すると、「諸法無我」とは、「全ての本質は、光エネルギーである」という意味になります。
ん?となると、「一切皆空」=「諸法無我」なのでしょうか!?
ニュアンス的には、空は状態、無我は境地を示しているように思います。
>こんな事をいっているから、仏教は難しいといわれるんです
>宗教に入りたての人に説いたってチンプンカンプンです
仏教は難しい事も含んでますよ。それに惹かれる人もいます。
もちろん対機説法は大切です。
この話は「宗教入りたての人」向きでないのは確かです。
でも講演では分かりやすく説明されてましたよ。
私には興味深かったです。人それぞれにタイミングというのもあるでしょうね。
それと、他の仏教団体との法戦が避けて通れないならば、ある程度の観念的な仏教理論であっても会員に教えておく必要があったのかもしれません。
釈尊の生まれ変わりをトップにいただく団体なわけですから、会員も。他の仏教団体帰依者とそれなりに議論も出来ないと困ります。
・・・・・・・・・・・
>釈迦は「空」は説かなかったんです
ただ、それと同じ内容は説いてます
八不中道は、天台智ギ大師の説だと思いますが、他の高僧も含め、「天なる父」のご指導やインスピレーションはあると思っています。
ですから釈迦自身が地上で説かなかったといえども、八不中道や空が、釈迦の教えではないとは言い切れません。
明らかに釈迦と年代の違う方の書いた文章の枕詞に、「私は尋ねた。すると、釈尊はこのように話された」とついたりしているそうです。
「かく思う」「こう感じる」「このように私は悟った」ではありません。
瞑想中に釈迦と話をしたかのように書かれています。そのような事もあったのではないか、と思います。
>釈迦は内弟子にはかなり、哲学的な瞑想を説いています
>しかし、在家に向けては、「解脱の喜び」よりも「幸福な世界(天」」に生まれるための方法を説明したんです
>そしてレベルをゴチャゴチャにするから難しく感じるんです
>もっとシンプルなんですよ、仏教は!
僧用と、在家用と教えを分けるべきだ、という事でしょうか?
それも1つの方法ですが。
現在は情報に壁がないですから難しい面もありそうです。
今の幸福の科学は、会員が自分にあった教えを選択して勉強出来る環境のような気がします。
仏教理論の書籍を読み込む方もいれば、易しい文章で書かれた書籍を好む方、感性に訴えるような文章を好む方も居ます。
様々なものが提示されており、私たちに選択する自由があります。
ちなみに「仏教」が哲学的で理論的なのは、少なからず「ゴウタマシッダルタ」ご本人の性格が影響していると思います。
毘る遮那仏の性格を強く感じます。
>「空」は光とエネルギーです
私もそのように理解しています。
from: もん吉。さん
2011年05月30日 12時39分23秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
まあ、他律的っていうけどさ。
転生は地上に降りて魂修行をしたいっていう欲求が起きないとしないですよ。
だから、嫌なら転生しないで天国の花園で幸せでいることも出来たんだよね。
みんな、いろいろあるのは承知で生まれて来てますよ。
まあ、にしき鯉さんがそれを望むなら帰天したあとで天国にずっといるのも自由ですよ。
from: にしき鯉さん
2011年05月30日 12時24分43秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
ueyonabaruさんへ
<仏教でもそのような位置づけをしていませんか? 解脱をしていないのに、菩薩行を行なう人をさして、菩薩と呼ぶのは、厳密な意味では正しくないでしょうね>
いや、逆です
菩薩…梵語「bodhisattva」を漢字音写して「菩提薩埵(ぼだいさった)」。これを略して「菩薩」といいます。
もともとは仏を目指すの修行者の意味で、自らの悟りのみではなく、他者の救済を行う大乗仏教の修行者を意味します。
< お釈迦様は、阿羅漢のなかでも、さらに優れたものとしての位置づけがあったのではないでしょうか?>
そうですね、釈迦はは独力で解脱に到達していますからね、
道筋を示されて到達した阿羅漢と一線を画したいのは民衆の気持ちでしょう
山の頂上に行くのに「道を作りながら頂上まで登った人」と「整備された道をたどって到達した人」を一緒にしてはいけないかも知れません
いろいろ、考え方の勉強になりました、感謝します
その内、「解脱」の厳密なる意味合いを書いてみたいと思っています
from: ueyonabaruさん
2011年05月30日 11時02分19秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
にしき鯉さんへ
> 自己の「解脱」よりも人々の心の救済を優先する人の事を言うんですよ > 当然、一般的には解脱はしていません(例外はいます) >
> 菩薩が阿羅漢より、優れているとしたのは上座部に対する大乗の攻撃手段ですよ >
ここのところは、理解できます。菩薩を境涯で分けているのは、幸福の科学でそのようにしておりますし、仏教でもそのような位置づけをしていませんか? 解脱をしていないのに、菩薩行を行なう人をさして、菩薩と呼ぶのは、厳密な意味では正しくないでしょうね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > > <解脱したら生まれかわりがないとするのは論理的におかしいように思います。> > これは、前に話しましたね、解脱したら選択できるようになるんだと考えていると、、、 > >
前にも確かに話しました。選択できるということであれば、私の理解と変わりません。
> > 「人はどこから来てどこへ行くのか」=悪に至る道、幸福に至る道、それらを超えた道、を説くために転生されてきたと考えています >
これは、おっしゃるとおりです。
> ですが、別に釈迦だけが、真理を伝えたわけではありません > 多くの聖者といわれる方々が法を説いています >
お釈迦様以前にも、覚者はいたことについては、同感です。
> 「如来」原語ではタターガタですね、 > これは師を持たないで覚者となられた方を指します > ですから、初期経典では釈迦も阿羅漢の一人なんです > > ただ、衆生が釈迦に対して尊敬の念をあらわすために、如来、正等覚者、などの別称が使われました >
お釈迦様は、阿羅漢のなかでも、さらに優れたものとしての位置づけがあったのではないでしょうか?
> ・・・・・・・ > > < 幸福の科学にゴ-ルがないということですが、ゴ-ルとはなんでしょうか。生まれ変わりの頚木からのがれることでしょうか? > > そうではないと思いますよ。菩薩たちの生まれ変わりは、人救いのためと、さらに自己を磨くためになされると思うんです。その意味で、誰にも修行にゴ-ルはないものと考えるべきではないでしょうか。永遠に人救いをするという決意を持ったものが、ホントの菩薩であり、如来だと思います。それが、彼らの永遠の仕事です。> > > 嫌になりませんか? >
人間の本質が愛であり、慈悲心であるとすれば、義務ではなくて自然の生き方と思えます。菩薩、如来のみならず、私たちだってその道を歩んでいるのです。さぼりたくなるのも現実にはありますが、本質がそのようなものですから、結局ここに戻ってきます。
確かに、そういう心を持った人もいるでしょう?それは尊敬されるべきです > しかし、そうでない人もいます > > 価値観は人によって違います > 輪廻、そのものに嫌悪を持っているのは私だけでしょうか? >
お気持ちは良く分かります。でも雄雄しく立ち向かうしかないのではないでしょうか。この娑婆世界はまさに苦です。そして、ここに生まれることを選択してきた以上、ここで前に進むしかありません。どんなことがあってもここを生き抜くことしかありません。
> 私は、輪廻や森羅万象、それを知って選択できるのがベストだと考えているんです > > 人や神につくす事は素晴らしい事です > でも、創造主がいて、その手の平で遊ばれるのはいやですね > それが魂の磨きとか、高級霊になるんだとしても嫌です >
自由ですよね。「人や神のために尽くしなさい」と強制されるのは嫌です。同感です。時には、わが道をゆくでもいいと思います。私もエル・カンタ-レに従えという言い方をされたら、反発するたちです。自発性を重んじたいのです。
> それだったら、私は、「無」に帰りたいですね > 創造主にお願いして総てを消して欲しいです > > 「選択の無い人生」は牢獄だと思いますよ! > > > > > > > > > > > > > > > > > > >
選択のない人生はホント嫌です。人間の自由性を奪うことは誰もできません。神様は人間に自由にせよということも言っておられる筈です。自由こそ、人生です。神は自由であり、そして人間も自由なのです。我々は自由の世界を生きているのです。
from: にしき鯉さん
2011年05月30日 09時36分02秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
ueyonabaru さんへ
とうとう、解脱の定義まで創作とされ、否定されちゃいました
まあ、それは各個人の判断ですから反論は止めましょう
・・・・・・・・・・・・・・・
<菩薩という境涯に達した方々でもこの世に生まれてくるのが事実でしょう。如来だって、大如来だって生まれてくるのです。>
菩薩はボーディサットバァの音写で境涯(ステージ)じゃないんですよ
自己の「解脱」よりも人々の心の救済を優先する人の事を言うんですよ
当然、一般的には解脱はしていません(例外はいます)
菩薩が阿羅漢より、優れているとしたのは上座部に対する大乗の攻撃手段ですよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<解脱したら生まれかわりがないとするのは論理的におかしいように思います。>
これは、前に話しましたね、解脱したら選択できるようになるんだと考えていると、、、
・・・・・・・・・・・・・・・
<お釈迦様ほどの大如来の悟りにいたってからは、生まれ変わりがなくなるとするのであれば、弟子たちのうちで菩薩の心境まで達していたた方々は、大如来の境地に至るまでは他律的に生まれ変わりの連鎖の下にあるとするのでしょうか。また、菩薩や如来の境地で、生まれ変わりの連鎖から離れるとすれば、お釈迦様ほどの方が、何故この世に生まれたのでしょうか。説明がつかないのです。>
「人はどこから来てどこへ行くのか」=悪に至る道、幸福に至る道、それらを超えた道、を説くために転生されてきたと考えています
ですが、別に釈迦だけが、真理を伝えたわけではありません
多くの聖者といわれる方々が法を説いています
「如来」原語ではタターガタですね、
これは師を持たないで覚者となられた方を指します
ですから、初期経典では釈迦も阿羅漢の一人なんです
ただ、衆生が釈迦に対して尊敬の念をあらわすために、如来、正等覚者、などの別称が使われました
・・・・・・・
< 幸福の科学にゴ-ルがないということですが、ゴ-ルとはなんでしょうか。生まれ変わりの頚木からのがれることでしょうか?
そうではないと思いますよ。菩薩たちの生まれ変わりは、人救いのためと、さらに自己を磨くためになされると思うんです。その意味で、誰にも修行にゴ-ルはないものと考えるべきではないでしょうか。永遠に人救いをするという決意を持ったものが、ホントの菩薩であり、如来だと思います。それが、彼らの永遠の仕事です。>
嫌になりませんか?
確かに、そういう心を持った人もいるでしょう?それは尊敬されるべきです
しかし、そうでない人もいます
価値観は人によって違います
輪廻、そのものに嫌悪を持っているのは私だけでしょうか?
私は、輪廻や森羅万象、それを知って選択できるのがベストだと考えているんです
人や神につくす事は素晴らしい事です
でも、創造主がいて、その手の平で遊ばれるのはいやですね
それが魂の磨きとか、高級霊になるんだとしても嫌です
それだったら、私は、「無」に帰りたいですね
創造主にお願いして総てを消して欲しいです
「選択の無い人生」は牢獄だと思いますよ!
from: ueyonabaruさん
2011年05月29日 22時11分10秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
にしき鯉さんへ
> > だけど、その先に何があるんでしょう > Kkの教義に乗っ取って生きる、そして霊界で修行して又、生まれてくる > この繰り返しが真理だと言うのなら「解脱」「悟り」のルートは意味がありません > > 八正道も、六波羅蜜も、必要ないとは思いませんか?
解脱というのは、悟りに至ることをいいますね。解脱をしても、仕事はあるというのが真実ではないでしょうか? 悟りにも、解脱にもさらに上なる悟りがあるだろうと思うんです。生まれ変わりは、他律的になされる場合と自立的に、自発的に生まれ変わりたいという意志があってなされる場合があると思います。
菩薩という境涯に達した方々でもこの世に生まれてくるのが事実でしょう。如来だって、大如来だって生まれてくるのです。
解脱したら生まれかわりがないとするのは論理的におかしいように思います。
お釈迦様ほどの大如来の悟りにいたってからは、生まれ変わりがなくなるとするのであれば、弟子たちのうちで菩薩の心境まで達していたた方々は、大如来の境地に至るまでは他律的に生まれ変わりの連鎖の下にあるとするのでしょうか。また、菩薩や如来の境地で、生まれ変わりの連鎖から離れるとすれば、お釈迦様ほどの方が、何故この世に生まれたのでしょうか。説明がつかないのです。
ですから、悟りの境地に至れば、自発的な生まれ変わりがあるとしなければおかしいのです。
幸福の科学にゴ-ルがないということですが、ゴ-ルとはなんでしょうか。生まれ変わりの頚木からのがれることでしょうか?
そうではないと思いますよ。菩薩たちの生まれ変わりは、人救いのためと、さらに自己を磨くためになされると思うんです。その意味で、誰にも修行にゴ-ルはないものと考えるべきではないでしょうか。永遠に人救いをするという決意を持ったものが、ホントの菩薩であり、如来だと思います。それが、彼らの永遠の仕事です。
from: もん吉。さん
2011年05月29日 21時55分36秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
まあ、欲界からの浮上というか。
蒔いた種は刈り取らないといけないってことにおいて、自分の課題のみによる転生からの卒業というのはありますよ。
光の天使や菩薩になれば、神仏の世界計画に参加して行きますから単に学びのために生まれてくるだけでなくなって世の中をよくするために使命を持って生まれて来ますけど。
それから、如来や光の指導霊になると自分で計画を立てて人類の進化の一翼を担うようになります。
まあ、人類を指導するということにおいては学びを続けているみたいですし、指導霊にカルマがないってことではないみたいですけれど。
from: もん吉。さん
2011年05月29日 21時21分27秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
なるほど、にしき鯉さんは悟りによる解脱を転生輪廻から解放だと考えているわけですね。
うーん、まあそういう考えがあることを知らないわけではないんだけど。
あれは創作ですね。
魂は進化したら進化したところで新たに課題を得て学んで行きますから。
転生輪廻から外れることはないんだよね。
お釈迦様が解脱したから転生しないというのも作り話です。
from: hikaru0827さん
2011年06月04日 01時38分46秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:「空」と「無我」は難しい」
にしき鯉さんへ
えらく議論が進んでいますね。
置いていかれてます。
>魂(霊的エネルギー)が不生不滅という意味がわかりません
>それならば、永遠に不滅というべきではないでしょうか?
おっしゃる通り、不生不滅は永遠不滅と同じ意味だと思います。
語弊があるかもしれませんが、不生不滅としたのは、「語呂」かもしれません。
>生まれる事も無く滅する事もない、これは、「ある事も無い、ない事も無い」と同じように意味がありません
そのようには考えませんでした。
不生と不滅は、ほぼ同義だと思っています。
例えば、部屋の灯りを想像して下さい。
「不生不滅」を当てはめるならば、
「不点灯、不消灯」です。灯りを「点けないし、消さない」つまり、点きっぱなし状態という意味です。
もし「有点灯(点ける)」なら、じゃあ点ける前は消えてたの?という事になってしまいます。「不消灯(消えない)」 とは矛盾します。
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