サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: ainotaigaさん
2011年06月14日 11時36分10秒
icon
活動について。
皆様こんにちは。私達のデモ活動について実は以下の様な掲示板で信者とアンチの言論が繰り広げられています。
http://www.blogger.com/comment.g?blogID=8397707658989947714&postID=5635876165669338585&page=1&token=1306820250556
私もデモに参加していました。少し感じていた部分もあったのですが、こう言われると、それなりにショックを受けました。
でも考えさせられる部分もある様に感じよく分からなくなりました。
みな様はどの様に感じられますか。
コメント: 全39件
from: hikaru0827さん
2011年06月21日 07時19分05秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
にしき鯉さんへ
>しかし、それをイベントとしてやるなら「布施のお金の流れ」や「効果」を明確にしなければならないと思います
>とかく、宗教法人というのはお金の流れが不明瞭です、効果も不明瞭です
>信徒を巻き込んで布施をとって、効果のわからないものを声高に言っている事が問題なんです
>わかってもらえますでしょうか?
危惧されている内容は、分かるような気がします。
でも、”信徒を巻き込んで…”というのは、信徒、会員さんに失礼な事でもあります。
会員さんは、自らの意思で、それに参加し思いを込めているのではないでしょうか。
それが正しいか正しくないか、その責任は各個人が取るものです。
祈願の効果については、外部で見てるよりも、幸福の科学内では深く認知されているのだと思います。
知識や情報の累積で感覚で掴んでいるという雰囲気かもしれません。
どうでしょうか?
他者の為に祈るのは良い事だと言われました。
効果については、総裁・会員間では納得し合っています。
問題は社会に許容されるか否かです。
>>< でも"死者にお経は意味が無い"は少し短絡ではないですか?
死者自身が、お経の意味が分かり、クラリと心を変えれば救われます。
>>魂を救い得るのは、最終的には本人自身である、という事かと思います。これは在家であっても、出家者であっても同じではないでしょうか>
>いや、そういう意味ではないんですよ
>出家と在家の区別ではなく、在家の煩悩的な人に説く教えと、道を究めようとする方に説く教えは違うという事なんです
了解しました。
1点だけ。よく在家とプロの教えという線引きをされますが、それについて。
山への登り方や、コースは数多あるでしょうが、頂上は1つだと思います。
法話からの教訓を限定化固定化してしまうと釈尊の意図を外れてしまうのではないかと危惧します。
私ごときが、にしき鯉さんにこんな事を言うのは分不相応なのは重々承知しております。
対機説法とは別に、誰も揺るがせない普遍の教えというものもありますよね。
from: hikaru0827さん
2011年06月21日 00時10分08秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
ueyonabaruさんへ
>キリスト教のある一派では、絶えず祈れと教えます。それは、正しいと思うんです。素直に、何でも願い、そして祈りたいと思いますが・・・・・。
真逆とも言える考え方を提示されました。
とても新鮮な気持ちです。
答えは一つではないですね。色々な考え方があって当然です。
私のスタンスは、
・御利益信仰はNG
・「人事を尽くして天命を待つ」が許容ライン
です。
・「人事を尽くして天命を待つ間に祈る」
も日常的にはよくある事です。
『祈願の心構え』と言われました。
例えば感謝であり、報恩であり、利他、愛他だろうと思います。
まずは自分が出来得る努力をし続ける事も前提です。
しかし人の気持ちは移ろいやすく、不安定で、流されやすいものです。
例えば、なかなか願いが叶わないとどうでしょう?
叶っていなければ、感謝、報恩という流れにいきません。
時期が来てないんだ…と納得し、精進するしかありませんが…。
しかし、そのような状態が続けば、徒労感が漂い、鬱々とした感情が湧いてくる…そういう恐れもあります。
だからこそ「祈願祭」というイベント内で導師のもとに行う事で、心得違いのないようにしているのかもしれません。
逆にすんなり願いが通ればどうでしょうか?
そこには、自惚れ・怠惰・依頼心などの落とし穴があります。
どちらにせよ、心の操縦がとても難しいと感じています。
逆境は自分を磨くチャンス。人事を尽くして後の失敗は、自分の実力不足と思う。成功には感謝する
私はこの方が楽です。
クリスチャンは確かに常時祈りを捧げています。
感謝の祈りは、殆ど挨拶のように自然体で行っていますね。
お願いをする場合も、純粋で、叶わずとも決して神を恨みません。
このような姿は美しいものです。
日本人の祈願と、何が違うのでしょう?
日本人の祈願にはギブアンドテイクな感覚があるのでしょうか?
お賽銭…祈願料…そのようなものが純粋さを失わせているのかもしれません。
連名でなくお一人で、福島県民の為に祈願されるような愛と情熱の士には心より敬服致します。
改めて私が御利益信仰が好きになれない理由を考えると、それは「執着を助長する」面があるからかもしれません。
祈願料というものが、その「お金」と「願い」両方への執着を増長させていないか危惧します。
幸福の科学での祈願祭においても、もし「高いな」と思いながらされてる方が居るなら、不安ですね。
クリスチャンの祈りが美しく感じるのは、そこに欲や執着をあまり感じないからです。
彼らは原罪意識からか、逆境への適応がスムーズです。…自虐は困りますが。
原罪意識も功罪あるという事でしょうか。
与えられた環境を、まずは受容し、足ることを知る。
そのままでは進歩がありませんから、利自即利他から外れないように、成長を目指す。
貧・病などの苦境は、理性、知性を働かせて、やるべき事を着実に行っていく。
私はこういう道を選びます。
どのように思われますか?
from: にしき鯉さん
2011年06月20日 23時24分33秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
ueyonabaruさんへ
<
私の心がまえに、間違いがあれば、ご指摘も戴きたいと思っております。>
「ご利益」の定義を勘違いしているように思えます
一般に「ご利益」というのは努力なくして、利得を得ようとする「現世利益」の事を指します、主に物質的な望みですね
hikaruさんが嫌いと言ったのは「現世利益」のことだと思いますよ
日本では努力を怠るということで悪い意味で使われています
病気が治る事を神に祈る行為は「ご利益信仰」とは言わないですよ
from: にしき鯉さん
2011年06月20日 22時57分44秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
hikaru0827さんへ
< でも"死者にお経は意味が無い"は少し短絡ではないですか?
死者自身が、お経の意味が分かり、クラリと心を変えれば救われます。
魂を救い得るのは、最終的には本人自身である、という事かと思います。これは在家であっても、出家者であっても同じではないでしょうか>
いや、そういう意味ではないんですよ
出家と在家の区別ではなく、在家の煩悩的な人に説く教えと、道を究めようとする方に説く教えは違うという事なんです
(在家でも道を追いかける人には貴重な教えです)
・・・・・・・・・・・・・
<祈願が利他であり、菩薩行ならば、祈願する者にとっては善き事のように思います。>
その通りです、日本国民の大多数が祈願という形をとらなくても、復興や被災者の心の支えになりたいと思っています
しかし、それをイベントとしてやるなら「布施のお金の流れ」や「効果」を明確にしなければならないと思います
とかく、宗教法人というのはお金の流れが不明瞭です、効果も不明瞭です
「放射能除去の祈願」をやるなら、もう少し、被災者に配慮が必要です
今も、農業ができない、漁業ができない、住む事もできない、そういう方がたくさんいますね
もし、大川さんが無償で現地に入り、「放射能除去の祈願」を信徒をつれてやっていたなら私は絶賛したでしょう
だから、効果を聞いたんです、根拠を聞いたんです
ありえる話と、確実な話は違うんです、大川さんが毎日、被災者のために祈りを行なっているというなら何も言いません
信徒を巻き込んで布施をとって、効果のわからないものを声高に言っている事が問題なんです
わかってもらえますでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<私個人は、神仏の前で行うのは、「お願い」ではなく、「誓い」若しくは「報告」です。御利益信仰は嫌いです。>
私は報告一本です、皆さんの思う神ではありませんが常に審判されているという気持ちはあります
ここに書く行為も含めてですが、自分の為した行為が皆さんのマイナスになるなら自分への見返りも必ずマイナスになると考えます
from: ueyonabaruさん
2011年06月20日 00時02分36秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
hikaru0827さんみなさんへ
単に、自我欲ならNGです。 > > 私個人は、神仏の前で行うのは、「お願い」ではなく、「誓い」若しくは「報告」です。 > 御利益信仰は嫌いです。 >
ご利益信仰はお嫌いとのことですが、これについて、すこし私の考えを述べたいと思います。
人間は、この世で生きている上で、自分の思いや願いがナカナカ叶わないことが多すぎますね。求不得苦です。このような世界にあって、人が、思いをかなえるようにしたいというのは、切実な要求ではないでしょうか。
また、貧と病も人間の大きな苦しみです。これから脱却したいとする思いも実に切実なるものがあると思うんです。
幸福の科学では、自助努力をモット-としておりますが、この原則は決しておざなりにすることはしませんが、世には、神仏への祈りと祈願を通して貧、病を克服したいと思っている人は多いのです。
このような観点から、私は、ご利益信仰も肯定したいと思います。ご利益を得られるための心がまえなども勉強しなければならないと思うのですが、いったん心がまえが整えば、何でも神様に願っていいのではないでしょうか? 心がまえは、愛他の精神を持つことではないかと思います。まず、自分が幸せになることを祈る、自分が富むことを祈る、自分の病が治ることを祈る、それはいいと思うんです。それから、他に、それを及ぼしていくのですね。
キリスト教のある一派では、絶えず祈れと教えます。それは、正しいと思うんです。素直に、何でも願い、そして祈りたいと思いますが・・・・・。
私の心がまえに、間違いがあれば、ご指摘も戴きたいと思っております。
このごろ、信仰心を重要視するようになってきており、信仰を通して、多くの人びとが幸せになってもらいたいとの思いが内心強くなってきております。「正心法語」の読誦運動により、信者が増え教勢が伸びないかと思っているんです。単純な、信仰の形態が、多くの人びとを救うのではないかと思うんですね。
from: hikaru0827さん
2011年06月19日 17時57分55秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
にしき鯉さんへ
>><釈尊が池に石を投げ入れた話>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>あるとき、釈迦の弟子が釈迦に、死人の周りで有り難いお経を読めば死人が善い所へ生まれ変わるのでしょうかと尋ねた。釈迦の回答は否だった。
>釈迦は小石を拾い池に投げた。その沈んでゆく石を指差し、池の周りで、石よ浮け、浮いてこいと唱えていれば石は浮くだろうか、と答えた。しかし石は自重により池の底まで沈んでゆくのである。
詳細な紹介ありがとうございます。
でも"死者にお経は意味が無い"は少し短絡ではないですか?
死者自身が、お経の意味が分かり、クラリと心を変えれば救われます。
魂を救い得るのは、最終的には本人自身である、という事かと思います。
これは在家であっても、出家者であっても同じではないでしょうか。
この話は、因果の理法、自己責任の原則や、自助努力の大切さを示唆するものだと思います。
今回の件では要するに、
『その行為が、相手や自分にとって、幸福や向上に、有効であるか否か』
だと思うんです。
一口に『有効』と言っても、「効果的」「将来的」「社会的」「重要性」と、様々な側面がありますから、ベストな選択だと断定する事は難しいですね。
例えば、
①「放射能除去の祈願」はどうでしょう。
これは当事者だけでなく、全国各地で行っているのでしょうね。
だとすれば、その祈願は多くの場合、「利他」の行為であり、祈願祭は「善念の結集」という事になります。
原発事故が、日本国民の共業ならば、その行為は当然とも言える事です。
祈願が利他であり、菩薩行ならば、祈願する者にとっては善き事のように思います。
では、
②霊能者が現地に行って、えいやっ!と放射能を消し去ったら、どうでしょう?
ちょっと見てみたい気もしますが、悲劇になりそうな予感もします。
歴史的に、そのような事をした霊能者は迫害の憂き目にあっています。
A:長く法を説くメリットを取るか?
B:多数の日本国民の肉体生命の健康に寄与するか?
Bの波及効果も大きそうですが、魂を救うという宗教者の本分を考えると、Aに傾きそうです。
でもイエスならBを選びそうですね。
釈尊ならどうされるでしょうか?
③祈願祭において、自分の為に祈る、という場合はどうでしょう。
自己の肉体生命を神仏の手足として、もっと使わせて欲しいという、利自即利他の心根ならば、善いでしょう。
単に、自我欲ならNGです。
私個人は、神仏の前で行うのは、「お願い」ではなく、「誓い」若しくは「報告」です。
御利益信仰は嫌いです。
でも愛の念いで、祈りをされる方は立派ですね。
④こっそり現地に行って、こっそり霊能力で放射能を除去する、はどうでしょう。
迫害は免れそうです。
しかし、今回の事故を奇貨として、学びを仕組まれていた人にとっては、余計なお世話になるかもしれません。
この世に無駄な事は無い訳ですから、まるで「無かった事にする」のは、ある意味勿体ないことにも思います。
災い転じて福としたいものです。
…さてさて色々なパターンがありますが、鳥の目・虫の目・魚の目で見て、総合的によりベターな選択肢はどれになるでしょうね。
from: ainotaigaさん
2011年06月18日 11時51分48秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
> レムリアのすり替えは凄いですね。
>
> レムリアの感性の思想は僕も共感できる部分はあるんだけど、その先にルシフェルが罠を仕掛けてあるみたいですね。
>
> 幸福の科学の会員もかなりやられたからね〜
>
> 智慧の不足は恐ろしいですよね。
なるほど、そうした中で私なりにどうしたら最低限、信仰を間違わない智慧が得られるかと考えると、やはりその人の心の中に与える愛の心があるかだと思うんですよね。
そうするとカンテラのように、心と心が照らしあうのだと思うんですよね。
自分の心に光があると、感動するものや共感する教えが違ってくると思うんですよね。波長同通ですよね。
from: ainotaigaさん
2011年06月18日 11時17分00秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
> レムリアは、愛を悪を悪として許すっていう原理としているんだけど、これは悪因悪果を眩ませているんだよね。
そうなんですか!?知りませんでした。なるほど凄いすり替えですね。
それで言えば、「神の愛で祈願してるんだから、一発で震災の人を救えばいいじゃん」という声が聞こえてきそうですね。
from: もん吉。さん
2011年06月18日 11時06分35秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
たとえば、先祖供養は幸福の科学も霊友会も行うんだけど。
自分の不幸は先祖が自分の成仏してないから起きているので供養するっていうことになると因果の理法を眩ませるんだよね。
レムリアは、愛を悪を悪として許すっていう原理としているんだけど、これは悪因悪果を眩ませているんだよね。
from: ainotaigaさん
2011年06月18日 10時47分54秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
> 邪教というのは、本来は真理であったものの、すり替えじゃあないかな。
>
> 微妙なすり替えがあるからね〜
そうですよね。その中でも基本的にHSの末端信者から総裁先生まで貫いているのは、「与える愛」だと思います。天上界の主エルカンターレもそうだと思います。
思いにおいて愛なんですよ。放射能除去祈願を受ける人の心構えが違うんじゃないでしょうか?
from: ainotaigaさん
2011年06月18日 10時28分02秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
補足させて頂きます。
簡単に例えますとHSで文証は「与える愛に生きましょう」があると思います。
理証では、なぜ与える愛に生きるのかといえば「幸福が拡がるからです。」となります。それは仏光物理学からなります。
現証では「自他ともに幸福になりました。」「〜が成功した」「病が治った」とかだと思います。
from: ainotaigaさん
2011年06月18日 10時16分08秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
にしき鯉さん、考えさせられるご指摘だと思います。
こういう話にどれだけ答えてゆけるかがHSが日本人をどう伝道できるかに直結するのかもしれませんね。私も考え続けたいテーマだと思います。
見方によれば霊感商法とかわらないと言えば変わらないかもしれません。HSの立場からすれば信じている中身が違うというしかないですね。まあ邪教の事は詳しくありませんが自分の保身の為に活動している事が多いのじゃないでしょうか。
総裁先生も以前言ってました。三次元的展開は同じ様に見える事もあると。
義援金の寄付だって、どこも同じ様にやりますよね。この世的な事は逆に騙せれやすいのじゃないでしょうか。
しかし古い話ですが、以前先生のお話で「文証、理証、現証」というのを思い出しました。
邪教の多くは文証がないらしいです。教えに中身がなく生きてゆく人間としての法や指針がありません。
また理証では、とにかくお札を見につけよとか、護摩焚きをすればよいとか、先祖供養すれば救われるとか言うが、なぜそうなるのか論理的理性的な説明がない。
現証としては、HSでガンが治ったとか実人生で幸福になった。人間関係が改善されたとかの具体的な顕れでしょう。それは証明というより体験した人の話の中身やその顕れ方の素晴らしさで判断するしかないでしょう。
それらを兼ね備えた宗教が素晴らしいものであると以前、先生からお話頂いた事がありましたね。
たぶん今でも通用する教えではないでしょうか。
from: にしき鯉さん
2011年06月18日 06時16分40秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
もん吉。 さんへ
返信、ありがとうございます
<にしき鯉さんにとっての信仰についての考えを教えてもらえますか。>
喜んで書かせていただきます
ちょっと、今日の夜から友達の引越しの手伝いで名古屋まで行ってきます
書くのは申し訳ありませんが月曜以降になります
bakusuikaiin2さんへの返答もその時、書かせてください
もっともっと有意義な質問ができるように頑張ります
(お互いに高めあいましょう)
from: ueyonabaruさん
2011年06月21日 11時47分12秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:活動について。」
hikaru0827さんへ
ご返事ありがとうございます。このような、信仰の問題、とりわけ祈り、祈願などは、微妙な意味合いがあると思われますので、深く議論することは大切だと思いますね。
> ueyonabaruさんへ > > >キリスト教のある一派では、絶えず祈れと教えます。それは、正しいと思うんです。素直に、何でも願い、そして祈りたいと思いますが・・・・・。 > > > 真逆とも言える考え方を提示されました。 > とても新鮮な気持ちです。 > 答えは一つではないですね。色々な考え方があって当然です。 >
> 私のスタンスは、 > ・御利益信仰はNG > ・「人事を尽くして天命を待つ」が許容ライン > です。 > ・「人事を尽くして天命を待つ間に祈る」 > も日常的にはよくある事です。 > > > 『祈願の心構え』と言われました。 > 例えば感謝であり、報恩であり、利他、愛他だろうと思います。 > まずは自分が出来得る努力をし続ける事も前提です。 >
おっしゃるように、努力を抜きにしての祈り、祈願は効果がないと思います。
たとえば、祈願が叶ったとします。そのとき、その人はどのように思うでしょうか? ①目に見えぬものへの感謝をする、そして報恩の行に入る ②目に見えぬものへの感謝をするが、やがて感謝することも忘れ、たまたま困ったときに再度神頼みをする ③祈願などはしない。すべて人間は努力のみが大切、能力がすべてである ④最大限の努力をまず行なう。その上で、目に見えぬものへの祈り、祈願をする
以上の四つがあったとしたら、私が許容できないのは、③のみなのです。②については許容したいと思います。それは、目に見えぬものを心のうちにもっているからです。神仏を認めていることになります。しかし、いかにも浅い信仰であるとは言えますね。
> しかし人の気持ちは移ろいやすく、不安定で、流されやすいものです。 > > 例えば、なかなか願いが叶わないとどうでしょう? > 叶っていなければ、感謝、報恩という流れにいきません。 > 時期が来てないんだ…と納得し、精進するしかありませんが…。 > > しかし、そのような状態が続けば、徒労感が漂い、鬱々とした感情が湧いてくる…そういう恐れもあります。 >
祈りや祈願は、たとえ叶わずとも、積極的に行なってもいいと思います。なぜなら、人間は、目に見えぬものとの不断の対話をする必要があると思うからです。
3年ほど前に、私の直の弟が亡くなりましたが、そのときにも祈願をお願いしました。余命は数ヶ月という段階でしたので、期待はしておりませんでしたが、とりあえず祈願はしたわけです。
> だからこそ「祈願祭」というイベント内で導師のもとに行う事で、心得違いのないようにしているのかもしれません。 > > 逆にすんなり願いが通ればどうでしょうか? > そこには、自惚れ・怠惰・依頼心などの落とし穴があります。 > > どちらにせよ、心の操縦がとても難しいと感じています。
さきほど四つの例を挙げましたが、祈願が叶ってどのように振舞うかは、その人によります。私の感想ですが、祈願が叶ったときには、人は多くの場合、敬虔な方向へいくことが予想されるのです。
敬虔な信仰心の方へいかないとすれば、それは災いですね。
> > > 逆境は自分を磨くチャンス。人事を尽くして後の失敗は、自分の実力不足と思う。成功には感謝する > 私はこの方が楽です。
結構なことだと思います。
> > > クリスチャンは確かに常時祈りを捧げています。 > 感謝の祈りは、殆ど挨拶のように自然体で行っていますね。 > お願いをする場合も、純粋で、叶わずとも決して神を恨みません。 > このような姿は美しいものです。 >
神様との交流ですね。
> 日本人の祈願と、何が違うのでしょう? > 日本人の祈願にはギブアンドテイクな感覚があるのでしょうか? > お賽銭…祈願料…そのようなものが純粋さを失わせているのかもしれません。 >
幸福の科学の祈願は普通のギブエンドテイクと若干様相が異なりますね。世界平和の祈り(祈願)をするのに、お布施が必要となります。他者のために祈ることが、こちらからの持ち出しがあるのです。信者さん、喜んでそれを行ないます。偉いと思いますよ。
> 連名でなくお一人で、福島県民の為に祈願されるような愛と情熱の士には心より敬服致します。 > > > 改めて私が御利益信仰が好きになれない理由を考えると、それは「執着を助長する」面があるからかもしれません。
執着はいけませんが、祈願は積極的であってもいいのではないでしょうか。
> 祈願料というものが、その「お金」と「願い」両方への執着を増長させていないか危惧します。 > 幸福の科学での祈願祭においても、もし「高いな」と思いながらされてる方が居るなら、不安ですね。 >
高いなとか、色々の感情が起こるだろうとは思いますが、それは自然でもありますね。他者のための祈願にお布施が付随することは、執着を助長するようなことはないと思います。
> クリスチャンの祈りが美しく感じるのは、そこに欲や執着をあまり感じないからです。 > 彼らは原罪意識からか、逆境への適応がスムーズです。…自虐は困りますが。 > 原罪意識も功罪あるという事でしょうか。 >
クリスチャンの原罪意識は、敬虔なる自分を形成するに、実に効果的です。学ぶべきですね。
> 与えられた環境を、まずは受容し、足ることを知る。 > そのままでは進歩がありませんから、利自即利他から外れないように、成長を目指す。 > 貧・病などの苦境は、理性、知性を働かせて、やるべき事を着実に行っていく。 > 私はこういう道を選びます。 > > どのように思われますか?
それで結構ではあります。しかし、その上で、祈り、祈願は大切だということを私は主張したいのです。それは、目に見えぬものとの交流であり、対話となります。
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
閉じる
icon拍手者リスト