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from: hikaru0827さん
2011年06月28日 18時37分26秒
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釈尊が池に石を投げ入れた話に思う
にしき鯉さんへ標題を変えました。<釈尊が池に石を投げ入れた話>……………………あるとき、釈迦の弟子が釈迦に、死人の周りで有り難いお経を読めば死人が善い
にしき鯉さんへ
標題を変えました。
<釈尊が池に石を投げ入れた話>
……………………
あるとき、釈迦の弟子が釈迦に、死人の周りで有り難いお経を読めば死人が善い所へ生まれ変わるのでしょうかと尋ねた。釈迦の回答は否だった。
釈迦は小石を拾い池に投げた。その沈んでゆく石を指差し、池の周りで、石よ浮け、浮いてこいと唱えていれば石は浮くだろうか、と答えた。しかし石は自重により池の底まで沈んでゆくのである。
………………………
>>< これは教えの「段階」というよりも「奥行」ではないでしょうか。>
>奥行きも段階も同じようなもんですよ、と言ってしまったらみもふたもないですね
しつこくてスミマセン。私自身、何が心に引っ掛かっているのが探っている状態です。
その人にとって、今必要な教えかどうか、という観点から「段階的」というなら分かります。
例を出します。
…………………
僧に尋ねた。「人を殺した男が、しかし、その後精進し、善行を重ねた。この男は地獄に落ちますか?」と。
これの正解は、
「不眛因果・不落因果」
という話です。
…………………
どちらか1つではダメで、生悟り、野狐禅とされます。不眛因果と不落因果はセットなんです。これが「奥行き」です。
>まず、【池の石】の話は、在家一般に通用する話としての比喩です
>それは超能力や願望成就に固執しないようにとの釈迦の願いがありました
>死後の世界が「ありがたい経」で変わるか?と言えば変わりません
この「池の石」の話は、一般的に「お経では人を救えない」と理解されているようです。
しかし、それは釈尊の本意を汲み取れていないと思います。
あまりに一面的です。
にしき鯉さんのおっしゃる通り、縁起を説いたものです。
しかしながら、「では、お経で人が救われないか?」と言えば、救われる場合もあるんです。
言霊に力があるように、悟りの言葉が並び、信仰を集めるお経にも、相応の影響力があると思います。
「お経で人が救われるかどうか?」と問われれば、「是是、否否」だと答えます。
「また仏教を難しく言って」、と叱られそうです。
ですが、真実です。
「お経では救われない」と簡単に理解して、
かたや、お経で救う話があると、
この一見矛盾に見える連立方程式の解を、「在家の為の教えと、道を究めようとする出家者の為の教えは違うから」
という解釈は、私には仏教を矮小化していると感じます。
私の思い込みかもしれませんが、仏陀の教えはもっと立体的で深遠ではないでしょうか。
何をもって深遠か?も人それぞれ感じ方が違うのでしょうけど。
>次にバルドの教えについてです。
>死者の「心の善根」を見つけ出し、その善根にあった世界に導くようにするのがラマの仕事です
お経で善導する…可能な事です。
これは、秘儀、技術、スキルの話です。
もちろん出来る人がやれば出来ます。条件が揃えば。
出来ない人が、変われない人に、あるべきでないタイミングに、いくら行っても無理でしょう。
このような秘儀が出来るからエライのではなく、エライ人だから出来るんです。
大切なのは「正しい心」を持っているかどうか?です。
そこに在家も出家者も関係ありません。
在家の生活は、仏の道から遠いとお考えですか?
確かに、雑多な波動に流されやすく、欲望を掻き立てるものが多く、守るべき家族や生活があるため、執着も増えます。
しかし、そこからの学びもまた真理です。
世俗の中でこそ学べる真理もあります。
特に現代社会の中で、仏陀の教えを、在家と出家者という立場で線引きする必要はない、と思います。
どうぞ御反論下さい。
from: にしき鯉さん
2011年06月28日 23時12分15秒
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「Re:釈尊が池に石を投げ入れた話に思う」
hikaru0827 さんへ
うわ〜、凄い反論が来ましたね、嬉しいです
<その人にとって、今必要な教えかどうか、という観点から「段階的」というなら分かります。>
その通りです、
今、必要な教えが凡夫(普通の人)に説いた小石のたとえですね
そして、それは生きるための基本的な考えです
対して、バルドの教えはすでに肉体がなく、心だけで彷徨っている魂に投げかけるものです
私はどちらも正しいと思っています、別に僧と在家を隔てるつもりはありません
しかし、現実的には24時間、考えられる時間を作れる僧の方が「道」の習得は早いと考えています
(私も在家ですから、 hikaruさんの気持ちはわかります)
・・・・
せっかく素晴らしい疑問を出してくださったので答えたいと思います
<僧に尋ねた。「人を殺した男が、しかし、その後精進し、善行を重ねた。この男は地獄に落ちますか?」>
これは仏教ではプラスマイナスの問題です
人殺しは大罪です、カルマも重いです、その後の精進というのは努力と善業を積んだと言う事でしょう
しかし、バルドに入った時はどこに自分の心を合わせるかという問題があります
と、いうのは悪業は下に引き下げる力、善業は上にしがみつく力と考えてください
中有の49日の最初の七日間(初七日)は無色界からの光がふりそそぎます
しかし、心がそのステージに達してない場合、目もくらむ恐怖にしか感じないと言われます
畏怖しながら落ちていくんです、それから、ず〜っと日にちをかけて
人間に生まれるのは大体43日あたりと言われています
ところが質問のように悪をたくさん働き、人をたくさん殺した場合、一気に落ちます
中有に入る前に普通の人は死後、魂の気絶が3〜4日あります
それは「肉体を自分」と思っている人が「魂だけの自分」と気づく期間です
「悪業」を定義すると潜在意識における自我、他を害そうとするイメージによる想念、現実に行なってしまった「殺害」などの行為があります
一般人は行為が一番、重く作用します
殺意を持って行為をしたなら、自我、イメージともに汚れています
この人は地獄とまでは言いませんが明らかに下の世界に行くでしょう
しかし、その後精進したということですね
そうすると、イメージ、潜在意識下における「汚れ」は取り除いている可能性はあります
人を殺したという物理的なカルマが落ちれば又、転生の時期が来ると思います
その時は地獄での「死」です、生まれ変わりです
仏教における転生輪廻は上のように説明されています
・・・・・・・・・・・・・・・
表題とは関係ありませんが、、、
幕末の時代、坂本竜馬や、西郷隆盛、大久保利通も戦争を経験しています
彼らは反対意見の者をたくさん殺しています
もちろん、彼らは自分の信念があり、日本国をよい物にするためにと言う気持ちはあったと思います
しかし、「行為のカルマ」は必ず残ります
だから、死後「偉大な事業を成し遂げたから天界行き」などという説明は受け入れられません
どんな偉い人にも作用するから「法則」なんです
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