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from: ueyonabaruさん
2011年08月06日 16時37分09秒
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信仰、思い込み、集団催眠
信仰、思い込み、集団催眠について自分なりに考えてみます。
まず始めに、これらの言葉を、こちらで勝手に定義してみます。
① 信仰とは、神仏をを信じること。
② 思い込み。それは、通常には、現在意識の作用であり、事実を取り違えること、ホントはAであるのに、Bであると取り違えること という具合に使われます。しかし、思い込みという言葉自体には、必ず取り違えがあるという意味は本来はありません。思い込みが正しい選択をしている場合もある筈です。正しい場合には、信仰に通じます。
思い込みという言葉は、錯覚、錯誤の意味で使われることが多いようですね。
③ 集団催眠。それは、術者が、ある催眠術行為により、被催眠者をして何らかの思い込みをさせること(=錯覚)。
①と②の関係についてです。神様はいるのかという問題について、いる、いないの回答に分かれるとします。これは2者択一でしょう。神様はいるとした人は、信仰者に入ります。いないと答えた人は、非信仰者になりますね。非信仰者の論として、神は知覚できないからいない、存在証明はできない、それは人間の思い込みであると言うのでしょう。
「人間の思い込み」にしかすぎないという非信仰者の論ですが、これに反論し、信仰者が、神は決して「思い込み」ではないと反論したとします。これでは、言葉足らずになります。なぜなら、「思い込み」という言葉は価値中立のものですから、
この論戦は、言い換えれば、神は存在するか否かの論点でしかないのです。思い込みだから、神は存在しないと言われると、そうなのかとも思うのですが、「思い込み」という言葉自体は、単に強く思うことなのであり、事実の取り違えが必ずしも含まれているものでもありません。
そこで③についてですが、術者の暗示のとおりに被催眠者は動かされてゆきます。それこそ、人間の「思い込み」のなせる現象だといえましょう。猿だと言われると人間が猿にもなります。
信仰は催眠術のようなものでしょうか? 術者は誰でしょうか? 催眠術と信仰とは直接の関係はないのかもしれません。人間には信じる意志というものがあらかじめあり、何か信じるに足るものを求めてゆきます。真理の探究、悟りを求めてゆきます。
①、②、③はそれぞれ峻別して考えるべきだと思います。それぞれに関係はありますが。
思うことは、催眠術の不思議さです。これは、一種の魔法かもしれません。戦後の日本人の不信仰、物質信仰、軍備なしの平和主義、憲法信仰など、これは誰かが催眠術という魔法をかけているようにも思います。あまりにも現実から遊離しております。
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