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from: ueyonabaruさん
2011年12月07日 11時42分13秒
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先生のご法話を振り返って
昨日のご法話を振り返って、印象深かったことを書いてみます。
記録を取るつもりで、手帳も準備しましてが、お話の迫力に押され、なんの記録もできませんでした。
マレーシアでは、イスラム教国なので、案内は、非イスラム教徒向けの公演と銘打ったそうです。しかし、イスラム教の方々も来られたようですね。イスラム教の国では、イスラム以外の宗教は禁じられているので、伝道も公にはできず、公演の案内にも、非イスラム教徒向けとしなければならなかったわけでしょう。
スリランカは小乗の上座部仏教の国であり、ブッダ再誕信仰はないのですが、当地の支部長は、ブッダが再誕していると信じる方のみが参加してくださいと呼びかけたそうです。それでも当地の仏教の僧侶たちが続々と詰めかけたようです。これは、インドでの様子がこちらにも伝わっていたからとおっしゃっておりました。また、仏教徒であるが故に、ブッダにお会いしたいと彼らが思ったのだともおっしゃいました。
先生は、前世でゆかりのある仏教国においては、非常な懐かしさ親しさをお感じになったともおっしゃいました。
フィリッピンでは、キリスト教の信者である方々がホントに熱心にお話を聞いてくれて、先生ご自身が感動するほどであったということです。
今、エル・カンターレが生まれているという信仰が、私たち幸福の科学信者の信仰なんだということですね。これが、今回の演題の主旨です。
わたしは、これまで、特定の人物を神として信仰するということを知りませんでした。神は、絶対者であり、人間が神であるということは有り得ないと思っていたわけです。
しかし、クリスチャンはイエスを神としております。天なる父も神であり、イエスはそのひとり子ですね。
このようなクリスチャンの信仰のかたちがどうもしっくりいかない気持ちが長い期間ありました。
幸福の科学の信仰のかたちは、キリスト教と同じであると、思えます。現実にこの世に生きた人を神とする点でおなじものになります。
仏教はブッダを哲学的な思索で解釈しようとする動きが近代の主流のようです。しかし、これは、宗教とは乖離していく動きだと思われますね。悟りの境地という人間の観念の有り様を研究するのは、それなりの価値は無論ありますが、いまいち本当の信仰とは異なるような気がしております。
原始仏教典をちらちら見たのですが、そこでは人間が生き生きとしており、神秘世界が眼の前に広がります。宗教とは、本来、そのようなものではないのかと思います。単純なんでしょう。
この間クリスチャンの方のお葬式に参加しました。実に単純なもので、イエスを讃える言葉の連続でした。仏教の経文のようにむつかしいものは一切ありません。
先生がこのごろよくお話されるように、単純な信仰というものが、結局はゆきつくところではないかと思います。むつかしいと思われる仏典でも、奥底に厳としてあるのは、単純な哲理、すなわちブッダへの帰依ではないでしょうかね。
ソクラテスも対話篇を読むと、彼の単純な信仰心が浮き彫りになります。彼は、デルポイ神殿に祀られていたアポロ神を信仰しておりましたが、私たちは、エル・カンターレ信仰というわけです。
信仰と悟りについて考えていきたいと思います。
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