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from: ueyonabaruさん
2012年08月18日 13時19分35秒
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あの世、三途の川が信じられない
あの世の存在が信じられないと悩む方がおられます。
そのような方にどのようにして、目に見えない世界、あの世のことを説明してあげたらよいのでしょうか?
私としては、一つ次のように提案したいと思います。色々と説明はあるでしょうが、幸福の科学の信者としては、あの世のことについて、それは存在しており、輪廻転生もたしかにあるのだと説明ができることが要請されているはずです。
(一つの説明例)
この世は存在することはたしかですね。それでは死んだらどうなるのでしょうか? まったくの無になるのでしょうか? 死ぬとは肉体が滅びることに違いありません。しかし、人間は肉体そのものでしょうか? そうであれば、肉体が滅びれば、人間はなくなってしまうことになります。あの世というものを考える必要もありません。
仏教やキリスト教や神道、すべての宗教はあの世があると教えております。
仏教に限っていえば、死後、人は三途の川を渡りあの世に行くといいます。あの世では、肉親、縁者などが迎えに来てくれるという風に教えます。そして、やがて、閻魔大王のもとに行き、そこで人は裁きを受け、あの世での行く先が決められるということです。行く先は、極楽か地獄の二つに一つの二者択一なのですね。しかし、中には、閻魔大王の所へ行くことができず、あの世で迷っている者もいるようです。いわゆる、浮遊霊や地縛霊などですね。
人間は、肉体が滅ぶときに人間自身が無くなってしまうのであれば、仏教の説く、三途の川、閻魔大王などはおとぎ話のたぐいにしかなりませんが、これは、古来仏教が説くように霊界はあり、あの世では人間は生きているのだと考えたほうがよさそうです。
人間は肉体と霊からなるものです。肉体は滅びても、霊は残り意識も生前どおりのまま残り、霊となってあの世での生活が始まるというのが真実です。
これらの事情については、大川先生の著書「霊的世界のほんとうの話。」をお読みになり参考にし下さい。
有名な哲学者ソクラテスもあの世の存在を信じておりまして、彼の著書(プラトン)の「弁明」や「パイドン」には、あの世の世界の有り様や天国世界の素晴らしさや、迷える浮遊霊が墓場近くをうろついている様も表現されております。
仏教の没落が言われておりますが、現在の仏教僧には、霊界世界を十分に理解していない者も多いようですが、これでは人間救済のお仕事はできませんよね。
コメント: 全8件
from: にしき鯉さん
2012年08月26日 08時26分10秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
種村さんの事はこの辺にしましょう
確かに私なぞ、うかがい知れぬ事もあるのかも知れませんね
ただ、シャーリープトラがあのような言葉使いをするとは思えません
これは今でもそう思ってます
話の中でダイバダッタの事も出てましたが、彼も大乗経典の言うような悪人ではなかったんですよ
彼はあまりにも厳格に戒律と瞑想に忠実に生きようとして、仲間にもそれを強いようとしました(本人はそれが正しいと思っていました)
1.人里離れた森林に住み、村などで夜を明かせば罪
2.托鉢をして、家人から招待されて家に入れば罪。
3.ボロボロの糞掃衣を着て、俗人の着物を着れば罪
4.木の下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪
5.魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪
確かにもっともな戒律などですが、これではついていけない人が数多くでてきます
ですが短いスパンで結果を出そうとするのなら極限を目指す方法もありと言えそうです
だから500人近くの人間が一時的にも賛同し、ついていったのです
シャーリープトラは、ダイバダッタの考えも説明し、かつ危険性も説明し、間違いのない方法と言う事で釈迦の法を500人の弟子に伝えました
これが後の「中道」の理論につながっています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 慢というのは、いい意味はあまり感じられません。>
そうですね、ところが「慢」と「誇り」紙一重なんです
私もよく思うのですが、心の弱いとき、感情の高ぶったとき、なんと自分は傲慢なのだろうと思います
たとえ、言っている事が正しくても、それは自分を守りたいがためのプライドなのでしょう
これを、矯正するのは並大抵の事ではありません
唯一あるとすれば、自分を低く見る事、「女房の言うことを聞かない」事があった場合
教えてもらっているんだという意識を持つ事でしょうか
自分は修行途中だから、総ての人から教わるんだと言う気持ち
自分を卑下するのではなく、壁を取去ってしまう事
簡単な事です
相手がいなくなった時を考えればいい
私たちの年齢になれば「死」も近づいてきます
私は父も母ももういません、今しか妻の意見を聞く事はできないのです
それがつまらない世間話でも、日々の愚痴でも「今しかないのです」
ちょっと、内輪話になってしまいました、この辺で、、、
・・・・・・・・・・・・・・・・・
> <キリスト教には、「死者をして死者に葬らせよ」という言葉がありますし>
< 生きている人が死者のことをいつまでも気にかけることは良くない、死者には死者の世界があり、そこでの摂理に従い死者自身の道を歩むだろうという風に捉えております>
了解です、ありがとうございました
from: ueyonabaruさん
2012年08月26日 01時03分39秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
にしき鯉さんへ
> 「種村氏はかって、舎利仏と私が認定しました、しかし、その後、彼の心が変化し、分派活動を起こしました、これは教団とは意図する方向が違います、よって破門しました、事実認定については裁判ではっきりと証明します」
> と、これだけで充分だと思います
> 元、奥さんの時もそうですが、書籍で相手をやり込めると言うやり方は第三者から見ても気持ちよく聞ける話ではありませんよ
一般的にはそれで結構かと思います。しかし、こちらでの実状は、そのような言葉で済ませるものでもなかったのです。詳細は省きますが、一番の彼らのマイナスは、信者を動揺させたことだと私は思います。この罪は大きいでしょう。
> これは仏教の本だったかは忘れたんですが、インドの理想的な生き方とされています
>
> (1):学問や知識を身につけるよう励む
> (2):妻をめとり、子をもうけて家庭を営む
> (3):孫ができるに伴い、社会から距離をもって夫婦で暮らす
> (4):家と家族を捨て諸国を行脚する
>
> 最後の「諸国を行脚」するというのは修行のための出家ではありません
> 一人の男子として、自分の人生を見つめなおし、数十年生きて得たものを人々に還元し、更に自分の未来世を瞑想するのです
>
> これで見ると、人間としての「生」をよく知っていると思います
> 20代が(1)40代が(2)50代が(3)そして60代以降は執着を離れて自己を裸の自分にもどす訓練です
私も60代をとっくに超えておりますが、あとは感謝行として支部の地味なお仕事を引き受けております。庭の管理と、月刊誌の送付などです。まだまだ忙しいですが、それでいいと思っております。人生は暇ができるとだめですね。小人、閑居すべからずです。75歳までは、ご奉仕ができればと思っております。
> < そのような者に対しては、愛情、優しさ、祈りが効果的なのかもしれません。女性は、優しさで人を変えていくところがあります。男性は、持論を譲りません。プライドが高いのですね。>
>
> とても大事な事です
> プライドとは何でしょう?
男性のプライドです。女房の言うことを聞かないというような。しかし、プライドという言葉は悪い意味だけのものでないことは承知しております。実力の伴わないプライドを振りかざすのはみっともありません。大学教授というだけでプライドの高すぎるのもおります。
誇りという言葉はプライドよりは、おっしゃるように静かなものであり、実績、自信の裏づけがあるような気がします。
慢というのは、いい意味はあまり感じられません。
> 自分の作り上げた「鉄壁の自論」はプライドの部類です
鉄壁の自論と豪語するのであれば、いちおう認めたいと思いますが、反面それをくじきたい気持ちが生じますね。こちらがくじくことができなければ、相手が上ということです。試合をして負ければ相手が上です。勝負の世界を描いているように思いました。
> <キリスト教には、「死者をして死者に葬らせよ」という言葉がありますし>
> これは全く知りませんでした、わかりやすく説明してもらえると嬉しいです
昔から覚えている言葉です。聖書の中の言葉ではないでしょうか? 私は、はじめは意味が分からなかったのですが、幸福の科学の本やその他を読むという経験があって、今は、字義通りに解釈しております。
生きている人が死者のことをいつまでも気にかけることは良くない、死者には死者の世界があり、そこでの摂理に従い死者自身の道を歩むだろうという風に捉えております。
あまりに亡くなった人のことを気にかけている方に、その言葉を言ったことがあります。先祖供養は大事ですが、それを中心に考える宗教には、時として、生きている意味を見失う傾向があると私には思われます。
from: にしき鯉さん
2012年08月25日 23時19分28秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
返信ありがとうございます
最初に書きたくない部分から書きます
<「舎利弗の真実に迫る」のことでしょうか。>
そうです、教団が大きくなれば、問題はいくつも出てきます
それに対するやり方について書きました
「種村氏はかって、舎利仏と私が認定しました、しかし、その後、彼の心が変化し、分派活動を起こしました、これは教団とは意図する方向が違います、よって破門しました、事実認定については裁判ではっきりと証明します」
と、これだけで充分だと思います
元、奥さんの時もそうですが、書籍で相手をやり込めると言うやり方は第三者から見ても気持ちよく聞ける話ではありませんよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 「死」を見たことがないのか?
> 病気で苦しむ人を見たことがないのか?
これは仏教の本だったかは忘れたんですが、インドの理想的な生き方とされています
(1):学問や知識を身につけるよう励む
(2):妻をめとり、子をもうけて家庭を営む
(3):孫ができるに伴い、社会から距離をもって夫婦で暮らす
(4):家と家族を捨て諸国を行脚する
最後の「諸国を行脚」するというのは修行のための出家ではありません
一人の男子として、自分の人生を見つめなおし、数十年生きて得たものを人々に還元し、更に自分の未来世を瞑想するのです
これで見ると、人間としての「生」をよく知っていると思います
20代が(1)40代が(2)50代が(3)そして60代以降は執着を離れて自己を裸の自分にもどす訓練です
このような生き方は日本でもある程度可能です
もっと、自分の生きた経過をしっかり見つめ、社会に必要なくなったら
さっさと引退するべきです
もともと、裸一貫で、生まれた身、死ぬときも一緒です
善業は来世に果報として送り、悪業と言うマイナス因子はできるだけ潰しておく
それが人間としての最高の生き方かとも思います
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< そのような者に対しては、愛情、優しさ、祈りが効果的なのかもしれません。女性は、優しさで人を変えていくところがあります。男性は、持論を譲りません。プライドが高いのですね。>
とても大事な事です
プライドとは何でしょう?
「慢」(プライド)と「誇り」を取り違えている人が多いですね
一緒に考えてみませんか、先に私の意見を書きます
プライドも誇りも生きる気力の素です
プライドは傷つきます、誇りは信念があれば傷つきません
神への祈念は「誇り」の部類です
自分の作り上げた「鉄壁の自論」はプライドの部類です
誇りは価値観を見直す事で変化していきます
プライドは破壊されたら、口惜しいだけです
・・・・・・
<キリスト教には、「死者をして死者に葬らせよ」という言葉がありますし>
これは全く知りませんでした、わかりやすく説明してもらえると嬉しいです
from: ueyonabaruさん
2012年08月24日 11時00分15秒
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「Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
にしき鯉さんへ
仏教のお話は好きですので、色々と教えてください。私の習った仏教は、大川仏教と谷口仏教ですので、にしき鯉さんの仏教とは大違いなところもあろうかと思いますが、ともかく仏教のお話をさせてください。
> 「死」を見たことがないのか?
> 病気で苦しむ人を見たことがないのか?
> いずれ、誰でも「それ」を迎えるのに、心の準備はしなくて大丈夫なのか?という問いかけをしています
> 唯物論者でもかまいません、その時に自分自身が消える恐怖に打ち勝てれば、それは一つの宗教です
お釈迦様の言葉遣い、いちいちごもっともです。易しい言葉ですがするどく問いかけます。不信仰のものは、苦難のときには深く人生を考えることもありますが、多くはやがて忘れてしまいますね。困ったものです。
唯物論者でも基本的には、我々と変わらないものだとは思いますが、彼らもその信念が強いときには、心を曲げません。頑固者がおります。
そのような者に対しては、愛情、優しさ、祈りが効果的なのかもしれません。女性は、優しさで人を変えていくところがあります。男性は、持論を譲りません。プライドが高いのですね。
> なかなか、そうは思えませんけどね、なぜなら、人間として生まれること事態、執着とリアリティを求めたから生を受けているのですから
こちらではそのような言い方はしませんが、分かるような気がします。リアリティ-という言葉は、現実世界を表しているものですね。他に、娑婆世界という言葉もこの現実界をよく表現しているものですね。仏教では、この世は仮の世とも言います。仮の世は執着すべきではないということでしょう。さりとて、この仮の世、おろそかにしてもいけないわけで、幸福の科学はこの世のユ-トピアを目指し頑張っているわけですが、時には、この世は仮の世と離れてみるのも良いかと思うこの頃です。
> 釈迦は、サンキャ哲学を成道前に習得しています
> 簡単に言うとバラモン教の勉強です
> そこで、勉強したものは成道後はほとんど、使っていません
> もちろん、浮遊する魂も見ていたでしょう
> 怨念で現世に縛り付けられた魂も見ていたでしょう
> しかし、それを公言することは、他の宗派のつけいるスキになるから経典では残さなかったのだと思います
> インドの偏狭の地での活動は、個人のパワーに左右されます
お釈迦様在世の当時でも、他宗とのせめぎあいはあっただろうと思いますので、自身の持つ霊能も封印する場合もあったのでしょうね。というより、あえて言わなかったのかもしれません。 サンキャ哲学というものもあったのですね。
仏教に、スッパニヤ-タでしたか(?)毒矢の例えというのがありますね。その例えを読み、お釈迦様は形而上的なことはすべて否定したのだという極論を展開する者も出てきました。仏教が唯物論的に解釈されるのは困りものです。
仏典はどのように解釈するかは分かれるところです。自分の判断力をシッカリ持たねば と思います。私の場合、自分中心で解釈してゆきます。
> 釈迦自身は一体の霊は指導できると思います
> でも、インド中の霊など、到底、物理的に無理です
お釈迦様がインド中のすべての霊を神通力で救うということは叶うことではありません。お釈迦様は法を説き、この法を各自が学ぶことにより、インド中の人間を救おうとしたのですよね。
> 釈迦は理論派であり、無理なことは無理と最初から手を出しません
> だからその霊を救うよりも、今、生きてる人たちを救うことに主眼を置いたのではないでしょうか?
大川先生も、釈迦は論理性のすぐれた方だと言っております。原始仏教典を読むと、そのことが私たちにもよく分かります。
キリスト教には、「死者をして死者に葬らせよ」という言葉がありますし、生きている人間を救うことが優先しますよね。生きているときに真理の一端でも知れば、あの世での救いも早いと教えられております。
> 行き着く先はボディがある世界もありますし、ない世界もあります
> 幽体もない世界もありますよ、逆に人間よりも自由度がないボディもあります
> これがあの世=霊界とする矛盾です
色々のボディ-があるのですか? 幽体のない世界、想像もできません。もっとも幽体で生活するというのも実感として分かるわけでもありません。
地獄では、岩のようになってしまった人間、木になってしまった人間、体の大部分が地中に埋まって顔だけ出している人間もあるようですが、そのような方々には、霊としての自由はないでしょう。これらを、人間より自由度がないボディ-とおっしゃっているのでしょうか?
> 釈迦は証明のできない事は、言いませんでした
> 神通力にしても、寂静の境地にしても、修行を続けていれば獲得できるものです
お釈迦様が論理的な方だとは思いますが、仏教には神秘的な面も多く含まれております。原始仏教典には不思議なことが多く表現されております。
神通力も欲しいのですが、今の私には、自分の守護霊との実感的交流ができるという状況が一番の目標となっております。その次に、涅槃寂静の境地というものを目指します。
> 最近の「幸福の科学」には少しヒステリックな部分が多いと思いませんか?
> 「舎利仏の霊言」にしても、とてもシャリープトラとは思えない言葉の数々です
> 霊言を経典とするならば、見知らぬ人が読んでも歓喜できる内容にして欲しいです
> 私は「舎利仏の霊言」は、いいわけとしか取れませんでした
> とても、見苦しく感じました(ごめんなさい)
「舎利弗の真実に迫る」のことでしょうか。誤解があるように思います。種村氏のブログをご覧になりましたか? あれは信用できるのですか。彼は霊感のある方ですが、それは悪い霊感です。
種村氏は裁判に訴えられております。真実はそこで明らかになるでしょう。私は、沖縄で行われたある裁判を傍聴した経験がありますが、審理の過程で証人尋問というものがありますが、被告種村氏は証人を立てるよう裁判所から要求されるはづです。それができるのでしょうか、大いに疑問のあるところです。
デタラメであるかどうかは、証人が出廷し、証言するかどうかで分かることです。
種村氏のブログで、同氏に相談した者として挙げられている方々は、実際はでっち上げのようですよ。彼の妄想でしょう。
from: にしき鯉さん
2012年08月23日 22時57分48秒
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「Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
早速の返事ありがとうございます
<病気などの苦難は、人生の生き方を反省させてくれることが多いと思います。人間は、節目節目で何らかの目覚めの機会が準備されていると考えられます。>
そうですね、その通りです
釈迦は神の御使いと言う表現をしています
「死」を見たことがないのか?
病気で苦しむ人を見たことがないのか?
いずれ、誰でも「それ」を迎えるのに、心の準備はしなくて大丈夫なのか?という問いかけをしています
唯物論者でもかまいません、その時に自分自身が消える恐怖に打ち勝てれば、それは一つの宗教です
なかなか、そうは思えませんけどね、なぜなら、人間として生まれること事態、執着とリアリティを求めたから生を受けているのですから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 六道輪廻のことは深く勉強はしておりません。私には、簡単な天国地獄の説明が分かりやすいです。>
それはそれでかまわないと思います
別に、皆が皆、勉強をしているわけではありません
知識なんぞ、スパイス程度のものです
大事なのは方向性です、自分が上に向かうか、下に向かうかがはっきりしていれば大差ないと考えています
・・・・・・・・・・
<そうですか? 私には考えられません。仏典にはないとしても、お釈迦様が浮遊霊などの姿が見えなかったはずはないと思うのですが・・・。ソクラテスには浮遊霊が見えたそうです。さらに霊力の高いお釈迦様ですので、見えたはずです。>
事実です、しかし少し補足を入れます
釈迦は、サンキャ哲学を成道前に習得しています
簡単に言うとバラモン教の勉強です
そこで、勉強したものは成道後はほとんど、使っていません
もちろん、浮遊する魂も見ていたでしょう
怨念で現世に縛り付けられた魂も見ていたでしょう
しかし、それを公言することは、他の宗派のつけいるスキになるから経典では残さなかったのだと思います
インドの偏狭の地での活動は、個人のパワーに左右されます
釈迦自身は一体の霊は指導できると思います
でも、インド中の霊など、到底、物理的に無理です
釈迦は理論派であり、無理なことは無理と最初から手を出しません
だからその霊を救うよりも、今、生きてる人たちを救うことに主眼を置いたのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・
<霊界では意識だけの世界と教えられておりますが、幽体を否定はしません。あの世に行っても、幽体をもっているということです。その幽体なるものは、肉体と同じ形状をもっているそうです。あの世での悟りが深まるにつれ、幽体からさらに精妙な霊体へと移行するということのようです。
あの世とは霊界ではないということでしょうか?>
はい、私は「あの世」という言い方に矛盾を感じます
あまりにも、漠然としてあの世=霊界という言い方はグローバルすぎるのではないでしょうか?
一つの生が終わり、次の生が誕生する、簡単に言うとこれが輪廻転生です
行き着く先はボディがある世界もありますし、ない世界もあります
幽体もない世界もありますよ、逆に人間よりも自由度がないボディもあります
これがあの世=霊界とする矛盾です
・・・・・・・・・・・・・・・
蛇足ですが、、、釈迦が説いたものは、
何が原因でこれこれの転生がありうる
これこれの行為を行うとこの世界に縛り付けられる
不幸の原因となっているものを民衆が知らないから「戒」という形で原因から取り除いていくと言うのが基本でした
釈迦は証明のできない事は、言いませんでした
神通力にしても、寂静の境地にしても、修行を続けていれば獲得できるものです
・・・・・・・・・・・・・・・・
最近の「幸福の科学」には少しヒステリックな部分が多いと思いませんか?
「舎利仏の霊言」にしても、とてもシャリープトラとは思えない言葉の数々です
霊言を経典とするならば、見知らぬ人が読んでも歓喜できる内容にして欲しいです
私は「舎利仏の霊言」は、いいわけとしか取れませんでした
とても、見苦しく感じました(ごめんなさい)
from: ueyonabaruさん
2012年08月23日 00時12分40秒
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「Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
にしき鯉さんへ
お久しぶりです。
> 唯物論者はこう言います
> あの世とか、死後の世界を語るのは人間の心の弱さから来るもの
> 死で総てがなくなるのが怖いから架空の世界を作り上げただけの話
> ueyonabaru さん これにどういった形で返答しますか?
そのような方はいらっしゃいます。多いでしょうね。子供でも神や仏を信じるのは、弱い者だと言う子もおります。相当に自分に自身のある方はそのように言い、世の中を渡っていけます。
そのような方でも病気や、家族の不幸、倒産などの苦悩にぶち当たるとき、なぜ自分は病気になったのかなぜ不幸になったかと悩み、神仏に目覚めることがあります。
そのような不幸にあっても自己の信念を変えず、病気と闘い、そして勝利しあるいは病気に負け倒れる方ももいるでしょう。様々です。
しかし、病気などの苦難は、人生の生き方を反省させてくれることが多いと思います。人間は、節目節目で何らかの目覚めの機会が準備されていると考えられます。
唯物論者に対してどのように説明するかですが、これは難しいことです。
私の従兄が唯物論者とも言うべき性格を持っております。霊界の話は一切受け付けません。そのような彼に、彼の母親がグソ-(後の世、あの世)はあるのだからと言うと、彼は、「お母さんがなくなったとき何らかのシグナルを分かるように送ってくれたら信じる、そのようなことはできないでしょう」と言葉を返すのです。そのおばも10年ほど前になくなりました。
要するに目に見えるものしか信じないのですね。そのような方への説得は難しいものだと思っております。祈りと、時間と、幸福の科学の書籍の献本と、こちらの悟りの深さがあれば善導できるのではないかと思います。粘るしかありません。幸福の科学では、悟りが深まると、一転語で救いの道を開けるということを教えられてはおります。
仏教の四諦のところの説明、「苦」の箇所の内容を説明し、お釈迦様の人生分析の鋭さを話すときには少し聴いてはくれますが、エル・カンタ-レとなると遠い遠い話になりますね。
> <仏教に限っていえば、死後、人は三途の川を渡りあの世に行くといいます。あの世では、肉親、縁者などが迎えに来てくれるという風に教えます。そして、やがて、閻魔大王のもとに行き、そこで人は裁きを受け、あの世での行く先が決められるということです。行く先は、極楽か地獄の二つに一つの二者択一なのですね。しかし、中には、閻魔大王の所へ行くことができず、あの世で迷っている者もいるようです。いわゆる、浮遊霊や地縛霊などですね。>
>
> これは大乗仏教の比喩ですね、当時の民衆には六道の説明は難しいので地獄か極楽かの二者択一の方がわかりやすかったのだと思います
六道輪廻のことは深く勉強はしておりません。私には、簡単な天国地獄の説明が分かりやすいです。
> 一言、付け加えれば釈迦自信は浮遊霊や自縛霊の話は一切しませんでした
そうですか? 私には考えられません。仏典にはないとしても、お釈迦様が浮遊霊などの姿が見えなかったはずはないと思うのですが・・・。ソクラテスには浮遊霊が見えたそうです。さらに霊力の高いお釈迦様ですので、見えたはずです。
> 「あの世」=「霊界」とするのは無理があります
> 肉体を持ったものが現世で、意識だけのものが霊界ですか?
> 「幸福の科学」がそう教えているならそれは間違いです
霊界では意識だけの世界と教えられておりますが、幽体を否定はしません。あの世に行っても、幽体をもっているということです。その幽体なるものは、肉体と同じ形状をもっているそうです。あの世での悟りが深まるにつれ、幽体からさらに精妙な霊体へと移行するということのようです。
あの世とは霊界ではないということでしょうか?
> <人間は肉体と霊からなるものです。肉体は滅びても、霊は残り意識も生前どおりのまま残り、霊となってあの世での生活が始まるというのが真実です。>
>
> それは変だと思いませんか?
> 前にhikaruさんとの話で人間に生まれるときは修行のため前世の記憶を無くすと聞きました
> それなら、なぜ、霊界に行くときだけ記憶が残るのですか?
> 心が総てを形成するのなら霊界に行くときも現世に生まれ出るときも
> 同じ修行ではありませんか?
> 人間の心がより、高みを目指すのなら霊界も現世も環境の違いだけではないのですか?
> 私はこの辺で「ゆがみ」を感じるんです
hikaruさんのおっしゃるとおりです。そのように教えられております。人間の心が高みを目指すのはおっしゃるとおりですね。霊界でも現実界でも同じく修行だと思います。しかし、霊界と現実界は大きな違いがあります。この現実界が特殊な世界なのです。肉体というヤッカイなものに魂が宿っているのです。肉体から出る煩悩が人を過たせます。自由な魂にとっては、肉体は邪魔なぐらいです。肉体があるから罪も生じます。この特殊な世界で、肉体と調和し、精神の優位を保つ訓練をしているのが我々なのでしょう。修行としては、この現実界で魂を磨くのは、霊界よりも学びは大きいと言われております。
また、この無明の世界に在って、目に見えぬものを認めること、信仰を持つことも大きな修行と教えられております。
霊界は、おっしゃるように思いの世界です。他人の心も見える世界です。そこでは、嘘がつけないそうです。相手の心が見えるのですね。この世の現実界では、相手が何を考えているのか見抜くことがナカナカできません。このあたりは、大きな違いですね。
私たちは、ホントは霊界の住人だと教えられております。その霊界から修行のためこちらに来ているわけですね。本来は自由な、霊界人です。
> 仏教の没落が言われておりますが、現在の仏教僧には、霊界世界を十分に理解していない者も多いようですが、これでは人間救済のお仕事はできませんよね。
> 少し誤解があります
> 理解していない者も多いです、しかし、瀬戸内寂聴さんのように民衆に受け入れられるように努力しているものもいます
私は、仏教がこの国で栄えた時代の僧侶達と今の僧侶のレベルを考えております。偉大な方が見当たらないのはなぜでしょうか? 30年ぐらい前には、薬師寺の高田という方が有名でした。政治のことも、日本の行く末も案じ、意見を発表されました。そして、世間からも尊敬されていたように思います。ところが今、このような方がいないのです。
これは仏教の没落ではないでしょうか?
> 「人の心を救済する」と言うのが「菩薩」なら自分は死ぬまで何人の人に「心の安らぎ」を与えたかが、一つの目安かと思います
そうだと思います。
from: にしき鯉さん
2012年08月22日 21時47分08秒
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「Re:あの世、三途の川が信じられない」
久々に仏教の話が出ましたので参加します
<この世は存在することはたしかですね。それでは死んだらどうなるのでしょうか? まったくの無になるのでしょうか? 死ぬとは肉体が滅びることに違いありません。しかし、人間は肉体そのものでしょうか? そうであれば、肉体が滅びれば、人間はなくなってしまうことになります。あの世というものを考える必要もありません。>
<仏教やキリスト教や神道、すべての宗教はあの世があると教えております。>
唯物論者はこう言います
あの世とか、死後の世界を語るのは人間の心の弱さから来るもの
死で総てがなくなるのが怖いから架空の世界を作り上げただけの話
ueyonabaru さん これにどういった形で返答しますか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
<仏教に限っていえば、死後、人は三途の川を渡りあの世に行くといいます。あの世では、肉親、縁者などが迎えに来てくれるという風に教えます。そして、やがて、閻魔大王のもとに行き、そこで人は裁きを受け、あの世での行く先が決められるということです。行く先は、極楽か地獄の二つに一つの二者択一なのですね。しかし、中には、閻魔大王の所へ行くことができず、あの世で迷っている者もいるようです。いわゆる、浮遊霊や地縛霊などですね。>
これは大乗仏教の比喩ですね、当時の民衆には六道の説明は難しいので地獄か極楽かの二者択一の方がわかりやすかったのだと思います
一言、付け加えれば釈迦自信は浮遊霊や自縛霊の話は一切しませんでした
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あの世」=「霊界」とするのは無理があります
肉体を持ったものが現世で、意識だけのものが霊界ですか?
「幸福の科学」がそう教えているならそれは間違いです
<人間は肉体と霊からなるものです。肉体は滅びても、霊は残り意識も生前どおりのまま残り、霊となってあの世での生活が始まるというのが真実です。>
それは変だと思いませんか?
前にhikaruさんとの話で人間に生まれるときは修行のため前世の記憶を無くすと聞きました
それなら、なぜ、霊界に行くときだけ記憶が残るのですか?
心が総てを形成するのなら霊界に行くときも現世に生まれ出るときも
同じ修行ではありませんか?
人間の心がより、高みを目指すのなら霊界も現世も環境の違いだけではないのですか?
私はこの辺で「ゆがみ」を感じるんです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教の没落が言われておりますが、現在の仏教僧には、霊界世界を十分に理解していない者も多いようですが、これでは人間救済のお仕事はできませんよね。
少し誤解があります
理解していない者も多いです、しかし、瀬戸内寂聴さんのように民衆に受け入れられるように努力しているものもいます
「人の心を救済する」と言うのが「菩薩」なら自分は死ぬまで何人の人に「心の安らぎ」を与えたかが、一つの目安かと思います
from: ueyonabaruさん
2012年08月26日 16時59分23秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
にしき鯉さんへ
> 話の中でダイバダッタの事も出てましたが、彼も大乗経典の言うような悪人ではなかったんですよ
> 彼はあまりにも厳格に戒律と瞑想に忠実に生きようとして、仲間にもそれを強いようとしました(本人はそれが正しいと思っていました)
> 1.人里離れた森林に住み、村などで夜を明かせば罪
> 2.托鉢をして、家人から招待されて家に入れば罪。
> 3.ボロボロの糞掃衣を着て、俗人の着物を着れば罪
> 4.木の下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪
> 5.魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪
> 確かにもっともな戒律などですが、これではついていけない人が数多くでてきます
> ですが短いスパンで結果を出そうとするのなら極限を目指す方法もありと言えそうです
> だから500人近くの人間が一時的にも賛同し、ついていったのです
> シャーリープトラは、ダイバダッタの考えも説明し、かつ危険性も説明し、間違いのない方法と言う事で釈迦の法を500人の弟子に伝えました
> これが後の「中道」の理論につながっています
このご文章を読むと、ダイバッダにも正しさはあったということのようです。
誰にも100%の悪というのはないと思いますね。ダイバダッダに寄り添いながら考えていけば、彼の弁護論もなりたちます。一部の義はあったと考えることはできそうです。
シャーリ-プトラがあのような物言いをするはづはないと言われますが、どうなんでしょうか? 私は判断できません。仏典から見て、シャーリ-プトラは、そのような人ではなかったとにしき鯉さんは判断されているわけです。しかし、それはにしき鯉さんのご判断であり、ここでは、いちおうお受けし、参考にさせてください。
逆の方から見てみます。幸福の科学の信者側の観点からの見方です。語られる弗舎利の言葉には十分に悟りの息吹が感じられるのですね。私は、念仏宗の法然、親鸞を論じるあたり、特に感動させられます。
色々の見方ができます。にしき鯉さんの見方、幸福の科学の見方で異なってまいります。戒律、悟り中心の見方でいけばにしき鯉さんの見方になるのだろうと思います。
それにしても、ダイバダッダの反逆の原因が、一方は戒律という修行の方法論の違いから生じたものとし、他方は、ダイバダッダが法につかず食料についた では大違いです。ホントはどうなんでしょう?
> < 慢というのは、いい意味はあまり感じられません。>
> そうですね、ところが「慢」と「誇り」紙一重なんです
少しずれますが、静かなるプライドは自信であり誇りのような語感を感じます。プライドは逆に慢に陥る感じがありますね。ですから、静かなるプライドはあるべきでしょうね。
誇りは、なんらかの真実性を必ず帯びておりますが、他の人の誇りに対して、それを認めないようであれば、単なるプライドになってしまうのかな。
> 私もよく思うのですが、心の弱いとき、感情の高ぶったとき、なんと自分は傲慢なのだろうと思います
私は、心の弱くなったときには落ち込むタイプです。感情の高まったとき、もう激情に流されないまい というのがその後の反省になります。
> たとえ、言っている事が正しくても、それは自分を守りたいがためのプライドなのでしょう
> これを、矯正するのは並大抵の事ではありません
正しいことを言っているという自信があるのですが、それでも相手が納得してくれないとき、時として、自分の言っていることが受け入れられないことなのに、自分を否定しているように感じてしまいます。そして、怒ります。冷静に見る必要があります。人は、自分の主張に同感することができないだけなんです。
そうは言っても、自分自身の受け入れられないという面があるのだという自覚も他方あるわけで、もっと自分を磨かねばと思わされます。
悟りを得た人が語るのであれば、反発の度合いも又異なってきます。
> 唯一あるとすれば、自分を低く見る事、「女房の言うことを聞かない」事があった場合
> 教えてもらっているんだという意識を持つ事でしょうか
> 自分は修行途中だから、総ての人から教わるんだと言う気持ち
> 自分を卑下するのではなく、壁を取去ってしまう事
> 簡単な事です
壁を取り去ってしまえばいいというのは同感です。自他一体です。
> 相手がいなくなった時を考えればいい
> 私たちの年齢になれば「死」も近づいてきます
> 私は父も母ももういません、今しか妻の意見を聞く事はできないのです
> それがつまらない世間話でも、日々の愚痴でも「今しかないのです」
> ちょっと、内輪話になってしまいました、この辺で、、、
内輪話も結構なことです。ホンネが大事です。一日一生、一期一会でまいりましょう。
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