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from: raraboさん
2018年01月15日 15時17分20秒
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会内経典の、「電子化」を望みます。
先ほど、幸福の科学出版に電話をかけました。
「会内経典の、『電子化』」だけについて、電話をかけたのでは無いのですが、
ついでなので(部署が違うことを認識していましたが…)、
聞いて見たところ、「会内経典を電子化する予定」は現状無いとの事でした。
一般向けの書籍(幸福の科学出版で扱う書籍)と、
会内経典は「扱いが違う」との事なので…という説明でした。
…正直、納得いかない所もあります。
電子化技術に詳しいわけでは無いの、よく分かりませんが、
商業レベルでKindle等の電子書籍化も、可能になっている世の中なので、
不可能では無いと思うのですが…
正直、Amazonで扱っているKindleの規模と、会内経典では、
現状、規模が違いすぎて、コスト面に問題があるとも思います。
まあ、将来・未来において、電子化も徐々には進んで行くと思うのですがね…
コメント: 全14件
from: raraboさん
2018年01月25日 20時22分41秒
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ueyonabaruさん
>私は毎日正心法語を唱えます。これが私の元気の素ですね
立派なことです。正直、恥ずかしいですが、私は、毎日はできておりません。
御釈迦様の逸話に「人のカルマの事は人間には理解し切れるものではないない。たかだかその人の数回の前世を視て、何かの判断を下すのは傲慢で品の無い行為である。」と、暗に透視能力を持った者達を諭された…
というのが、あるらしいのですが、私は、初めて知りました。
これは、弟子の誰に、諭されたのか?御存じの方、おられませんか?
from: ueyonabaruさん
2018年01月23日 23時35分14秒
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raraboさん
> だいたい、このぐらいの試練なら、自分の魂の成長になると「計画できない範囲」も見込んで、生まれてくるものですものね...
今の私は、ただ懸命に前へ進んで行こうという思いでいっぱいです。前に、中村久子さんのことをご紹介しましたが、あのような方のことを思うと泣き言など言って居れないのだと自分を鼓舞するのですね。彼女は、常に「ナムアミダブ」と唱えていたのだと想像します。
私は毎日正心法語を唱えます。これが私の元気の素ですね。
from: raraboさん
2018年01月23日 10時50分43秒
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ueyonabaruさん
>間違いという言い方はできないでしょうが、たしかに難しいですよね。因果律というのは大方の人々は悪い方向へ考えてしまいがちでしょうね。
因果律については、また違った方向で、後日改めて、質問したいと思いますので、よろしく、お願いします。
>私はどこか喜びの感情が出てきました。伝統的な因果律から解放されたような自由な気分でした。
確かに、伝統的な因果律から解放される…と思いますが、
正直、自分が望んで無いのに、新たな課題が、自分に絡みついてくる…というイメージが、今でも強いですね…
あ~、問題集がまた1つ増えちゃった…って感じかなぁ…
ネガティブでごめんなさい。本当は、鍛えてくれる材料がもう1つ増えてくれたと思わなきゃいけませんね…
>これはどう解釈するか自分なりに考えますと、障碍者ご本人が不自由な体でこの世に生まれることを選択したということにはなりませんか。原因は、障碍者の方の自由意思にあったと考えてみたいと思うのですよ。修行のためか、カルマの刈り取りが目的なのかは分かりませんが、ご本人の意思があったと見た方が良いのではないでしょうか? 伝統的な固定的な考えでは分からないところがあるのでしょう。
確かに、100%の計画化をして、生まれてくるのは、「主が御生誕される時の計画」でも、無理…ですよね。
だいたい、このぐらいの試練なら、自分の魂の成長になると「計画できない範囲」も見込んで、生まれてくるものですものね…
>心理学的には、因果律を自己処罰の心の傾向と関連付けて説明することがありますね。閻魔大王が罰を与えるのではなくて、自身の心が運命を創り上げるという見方もありますので参考にしたいものです。
はい、そういう観点もあると思いますから、神理は深くて、学び甲斐があると思いますよね。
from: ueyonabaruさん
2018年01月22日 23時26分48秒
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raraboさん
> 因果律についてですが、(私にとっては)悪が増える可能性が高いシステム(因果律)は、どこか間違いがあるのではないのか?~~~
間違いという言い方はできないでしょうが、たしかに難しいですよね。因果律というのは大方の人々は悪い方向へ考えてしまいがちでしょうね。
> それで、思い出したのですが、過去の書籍になりますが、土屋書店 (1987/04)より出版された、「日蓮聖人霊示集―人生の悩みに答える」の中に、(現状、手元に無いので、記憶を頼りに書きます。)「聴覚に、障害のある孫の将来が心配」という相談に対して、日蓮様が、この問題の原因は、この子の「過去のカルマの問題」ではなく、子宮の中にいる時に、偶々、位置が悪く、耳にあたる部分に、負担がかかってしまい、このような障害となって生まれてしまった。...という回答だったかと記憶しています。
そして、カルマというのは、このように、本人がまったく関与しない時にも、生まれて、背負わされる事もある...と説明されていたように記憶しています。
...いや、もう、こうなると、やはり、一日一生で生きていくという考えにしか、結局は落ち着く先が無いのではないかと...(自分で質問しといて、なんか申し訳ないですが...)思うようになりました。
日蓮上人のおっしゃったこのくだりは憶えております。因果律が必ずしも正解ではないという風にも受け取れますね。これは、自身から出た因果ではなくてそれ以外の因果だと受け取らざるを得ませんね。それがなんであるかは語られておりませんから私たちはただ黙って日蓮様の言葉をお聴きすることしかできませんね。正直、この言葉を読んだとき、私はどこか喜びの感情が出てきました。伝統的な因果律から解放されたような自由な気分でした。
これはどう解釈するか自分なりに考えますと、障碍者ご本人が不自由な体でこの世に生まれることを選択したということにはなりませんか。原因は、障碍者の方の自由意思にあったと考えてみたいと思うのですよ。修行のためか、カルマの刈り取りが目的なのかは分かりませんが、ご本人の意思があったと見た方が良いのではないでしょうか? 伝統的な固定的な考えでは分からないところがあるのでしょう。
心理学的には、因果律を自己処罰の心の傾向と関連付けて説明することがありますね。閻魔大王が罰を与えるのではなくて、自身の心が運命を創り上げるという見方もありますので参考にしたいものです。
> あまりに、大きく増えすぎた「カルマを持つ魂」というのは、間引き(別環境にて、修行させる)をしないと、地球では、もはや、全体の成長が見込めないからなのでしょうね...これは、マクロ的な、高級霊しか取れない対応なんでしょうね。
ここに至ると私のような者には大きすぎて正直分かりません。
from: ueyonabaruさん
2018年01月22日 22時47分24秒
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hikaru0827さん
> Ueyonabruさんの問いに答えると、全盲になる因縁もあったし、かつイエスの奇跡を受ける因縁もあったのだと思います。反省などあったかもしれないし、もっと大きな任務を背負っていたのかもしれません。因果は重なっているように思います
因果律は考える以上に複雑であり多重であると思います。我々の認識している因果律というものが浅い認識のものであるのかもしれませんね。神仏の関与してくることにより固定的な因果律が変化していくのかもしれません。神々が関与して、人の心の向きを変え、これが原因で奇跡が起きるということは考えられないでしょうか。
from: hikaru0827さん
2018年01月22日 12時47分19秒
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日蓮聖人のお話しについて、反論しますと、明らかに不敬罪になりますので・・・・・。
ただ因果律の天網の中に、少しずつ「偶然」という緩衝材があるのかもしれない、という感じもあります。
まあこの世に生きる私たちとすれば、raraboさんの言われるように、今を一生懸命生きる事、ときおり大きな時間の中でのものの捉え、高い視点でのことの真実の見極め、が必要ということかもしれませんね。
from: raraboさん
2018年01月20日 13時02分16秒
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えーと、トピックを立てたraraboです…
「会内経典の、「電子化」を望みます。」って事でしたので、
因果律に関係ない書き込みになって続いてますが…
とりあえず、私も、因果律について、新たに思い浮かんだ事を、
こちらに書き込みます。
「トピックの内容」の、構成の修正等は、管理人さんに任せます。
因果律についてですが、(私にとっては)悪が増える可能性が高いシステム(因果律)は、どこか間違いがあるのではないのか?という思いで、最初にトピックを立てたワケです。
それで、思い出したのですが、過去の書籍になりますが、土屋書店 (1987/04)より出版された、「日蓮聖人霊示集―人生の悩みに答える」の中に、(現状、手元に無いので、記憶を頼りに書きます。)「聴覚に、障害のある孫の将来が心配」という相談に対して、日蓮様が、この問題の原因は、この子の「過去のカルマの問題」ではなく、子宮の中にいる時に、偶々、位置が悪く、耳にあたる部分に、負担がかかってしまい、このような障害となって生まれてしまった。…という回答だったかと記憶しています。
そして、カルマというのは、このように、本人がまったく関与しない時にも、生まれて、背負わされる事もある…と説明されていたように記憶しています。
…いや、もう、こうなると、やはり、一日一生で生きていくという考えにしか、結局は落ち着く先が無いのではないかと…(自分で質問しといて、なんか申し訳ないですが…)思うようになりました。
ただ、これはミクロ的な、個人での対応策ですよね、
なぜ、ミクロ的と思ったか?…というと、
「孔子、「怪力乱神」を語る」の11章にある、「現在、中国14億人分の「魂の入れ替え」に着手している」という項目を読んで、あまりに、大きく増えすぎた「カルマを持つ魂」というのは、間引き(別環境にて、修行させる)をしないと、地球では、もはや、全体の成長が見込めないからなのでしょうね…これは、マクロ的な、高級霊しか取れない対応なんでしょうね。
from: hikaru0827さん
2018年01月20日 03時31分45秒
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Ueyonabruさんの問いに答えると、全盲になる因縁もあったし、かつイエスの奇跡を受ける因縁もあったのだと思います。反省などあったかもしれないし、もっと大きな任務を背負っていたのかもしれません。因果は重なっているように思います。
from: hikaru0827さん
2018年01月18日 20時05分31秒
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私は、因果の理法とはもっと複雑なんだろうと思っています。
因果の天網は、空間的に複合、時間的に多重、といった印象です。
形而上学的になって申し訳ないです。悪い癖です。
例えば聖書に出てきた全盲の方ですと、
私は、罰ではない可能性がある、と言いましたが、実際のところ少しはあるんじゃないかな、って思います。
イエスが彼に責任はないといったのは方便だろうと思いますね。
娼婦に石を投げる人々に「投げれる資格のある人だけ投げなさい」と言って暴力を止めた話もありました。
彼は、人が人を、もっと愛し、もっと許し合う世界を作りたかったのでしょう。
複合的で多重の説明は、私もまだ説明できるほど腑に落ちておりません。
まず今感じることを書いてみます。
「全盲の人生」という結果について、いろいろな視点でとらえる事が可能です。
一つに、目が見えず、不便だった、とも見れます。この果に対する因果もあるでしょう。本人由来も。
二つ目、他の感覚が研ぎ澄まされ、調律師として成功(例えばです)。この果にも因果があるでしょう。
三つ目、イエスに奇跡を行使された!なんて羨ましい果でしょう。どんな因果があるのでしょうか。
四つ目、聖書に載った!なんて光栄な果でしょうか。これについても因果はあるでしょう。
まだまだ様々な見方が出来るでしょう。この説明は時間的な多重構造といったところでしょうか・・・。
また、「ひとつの因」がどのような「結果」として現れるか、1年のスパン、10年のスパン、今世のみのスパン、10回分の転生を見通した場合で、それぞれにあるのだと思います。
方程式がいくつもある感じです。
私は、いまの「果」は今に至るまでの「因縁」の積算の結果生まれるものだろう、と思っていましたが、式は一つでないのかな、と思いました。
from: ueyonabaruさん
2018年01月16日 22時21分01秒
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hikaru0827さん
因果律の件について、この数日考えておりました。hikaruさんは原因結果の法則を絶対なるものと考えておられるのでしょうか。これについては、原因があり結果は起こるというのは私も否定はしません。イエスが全盲の人をこの人の罪ではない親の罪でもないと言ったことは、イエスが霊感で、この全盲者が罪なき者であること知ったから癒しという奇跡を起こしたのでしょうか、気になるところです。
この全盲者の奇跡は大変に興味深いものですね。色々の考え方ができると思います。
1 イエスは基本的に人間は罪びとではないと考えていた。罪というのは本来ないのである。だから癒しという奇跡が起き得るのだ。罪というものが実在するものであればイエスでも癒しという業はできなかった。(生長の家の思想)
2 イエスは、この全盲者が罪なき者であることを霊感で見抜いており、癒しという奇跡を起こした。これは因果律に背反するものではない。
3 イエスが奇跡を起こしたのは、この全盲者がイエスへの信仰が深くそして敬虔な人物だったからイエス(神)は奇跡を起こした。この全盲者は罪びとではないということも知った上でのイエスの奇跡であった。
4 イエスは罪びとであろうとなかろうと、神への信仰と心において悔い改めがあれば奇跡は起きる。悔い改めの段階で反省が徹底しており、信仰があれば、これを原因として奇跡は起こりうる。これは高い次元での因果律の発露である。信仰世界における因果律というべきか。神々が関与してくるという段階のもの。
こんなことを考えておりました。わたしは、4のとおりであって欲しいと思っております。いかがでしょうか? 奇跡がなければならないという考えは毛頭ありません。念のため。
from: ueyonabaruさん
2018年01月16日 22時21分00秒
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hikaru0827さん
因果律の件について、この数日考えておりました。hikaruさんは原因結果の法則を絶対なるものと考えておられるのでしょうか。これについては、原因があり結果は起こるというのは私も否定はしません。イエスが全盲の人をこの人の罪ではない親の罪でもないと言ったことは、イエスが霊感で、この全盲者が罪なき者であること知ったから癒しという奇跡を起こしたのでしょうか、気になるところです。
この全盲者の奇跡は大変に興味深いものですね。色々の考え方ができると思います。
1 イエスは基本的に人間は罪びとではないと考えていた。罪というのは本来ないのである。だから癒しという奇跡が起き得るのだ。罪というものが実在するものであればイエスでも癒しという業はできなかった。(生長の家の思想)
2 イエスは、この全盲者が罪なき者であることを霊感で見抜いており、癒しという奇跡を起こした。これは因果律に背反するものではない。
3 イエスが奇跡を起こしたのは、この全盲者がイエスへの信仰が深くそして敬虔な人物だったからイエス(神)は奇跡を起こした。この全盲者は罪びとではないということも知った上でのイエスの奇跡であった。
4 イエスは罪びとであろうとなかろうと、神への信仰と心において悔い改めがあれば奇跡は起きる。悔い改めの段階で反省が徹底しており、信仰があれば、これを原因として奇跡は起こりうる。これは高い次元での因果律の発露である。信仰世界における因果律というべきか。神々が関与してくるという段階のもの。
こんなことを考えておりました。わたしは、4のとおりであって欲しいと思っております。いかがでしょうか? 奇跡がなければならないという考えは毛頭ありません。念のため。
from: ueyonabaruさん
2018年01月25日 23時49分45秒
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raraboさん
> 御釈迦様の逸話に「人のカルマの事は人間には理解し切れるものではないない。たかだかその人の数回の前世を視て、何かの判断を下すのは傲慢で品の無い行為である。」と、暗に透視能力を持った者達を諭された...
というのが、あるらしいのですが、私は、初めて知りました。
これは、弟子の誰に、諭されたのか?御存じの方、おられませんか?
非常に良いお言葉ですね。これは、とても参考になります。出典が分かればこの言葉を活用し、皆さんにもお伝えしたいものです。どこかで読んだ覚えがあるようですが、ハッキリとしません。残念です。
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