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幸福の科学会員で教義上の疑問を解決したい

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月02日 21時00分54秒

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    佐倉哲さんの無我論

    この頃、佐倉哲さんのサイト「佐倉哲エッセイ集」を見ております。佐倉さんという方は、相当に博学で仏教、キリスト教、新興宗教、政治など広範にわたり造詣がの

     この頃、佐倉哲さんのサイト「佐倉哲エッセイ集」を見ております。佐倉さんという方は、相当に博学で仏教、キリスト教、新興宗教、政治など広範にわたり造詣がの深い方ですので、皆さんも是非このサイトを訪問されたらよいと思います。
     この方の仏教論について読みましたが、原始仏教の教典を材にご自身の思想を語っているわけですが、これを読んでみて原始仏教に疎い私にはとても勉強になりました。
     無我論における論争を、佐倉さんと佐倉さんに反対するtakapさんとの間で行っているわけですが、これは現代一流の論争とも言えるものと思われます。双方とも、凄く勉強していらっしゃいます。
     魂の永遠性を釈迦は認めているとするtakapさんの意見に対し、佐倉さんは、釈迦は、魂の永続性を認めない=断見ではないが、魂の永続性を認める=常見でもなく、中庸という独自のものの見方をされたというのです。takapさんは心霊主義も肯定しておりますが、佐倉さんはいっさいこのようなものを否定します。
     私が、以前幸福の科学研究会で議論していたリアリストさんが現実に確証できないものは認めないとする考えは佐倉さんとよく似ていると思いました。霊言をリアリストさんは認めません。私は、認めます。両者の間の溝は簡単には埋まらないだろうな思ったものです。深い溝の対岸に対立する二人が立ち、結論の出そうにもない議論をするのは意味があるのでしょうか。議論はすべきではないのでしょうか。
     やはり、議論はしたほうがよいと思います。議論することにより自分自身の考え方をしっかり持つようになるのではないかと思います。中途半端な考え方では論争に望めません。そのためには勉強するようになるでしょうから。
     
     

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    from: ueyonabaruさん

    2017年04月03日 21時55分57秒

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    佐倉氏は頭のいい方です。迷信は徹底的に排除する気がありますね。初期仏典(原始仏教)では神秘的なことが書かれているようですね。佐倉氏はナ-ガ-ルジュナの

    from: この世は仮の世7vさん

    2017年04月03日 09時45分02秒

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    佐倉氏は仏教学から先に学んで後から仏典に当たったのだと思います。順番が逆なので、彼は殆ど仏典を理解出来てないと思います(´▽`)ノ

  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 10時17分26秒

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    佐倉さんの時間、空間論

    ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。時間、空間論です。難解な、佐倉理論だと意識しておりましたが、ここでは理解可能な佐倉さんが登場します。

     ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。時間、空間論です。難解な、佐倉理論だと意識しておりましたが、ここでは理解可能な佐倉さんが登場します。その博学には、教えられるものがあります。そのまま、コピ-します。
     なお、ここでいう自性とは、実体、本質、本質的存在などの意味であることは、これまでの佐倉学習から得られた知識です。


    佐倉哲エッセイ集

    仏教に関する
    来訪者の声



    --------------------------------------------------------------------------------

    田畑 和義さんより
    1998年6月18日


          空間と時間に自性が有るや否や

           空の思想、縁起論について

     佐倉さんにとって大変な労力を注いだ論文と思い、興味深く拝見いたしました。近年このような思考を公開して行うなどという、勇気ある行動はなくなったものと思っておりました。

     さて空とは[無]自性であるとありましたが、自性する存在があるときこの論は、崩壊するかも知れません。そこで「空間と時間に自性が有るや否や」という質問をしたいのですが。否というお答えでしたら、どのような縁起によるものか知りたいのです。

     佐倉さんの論文は難しすぎて分からないところが多いのですが(単にわたしが頭が悪いだけですが)、

     空間と時間に当てはめて考えると、空間に無限性が有れば自性していることになり、過去があるから現在があり未来が有る、未来があるから現在があり過去が有ることになりますが論理式に当てはめるとどのようになるのでしょう。

     時の流れはいかなる縁起によるものか教えてほしいのです。

     縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。最初にゼロと無限の概念を生んだインドにおいて産まれた仏教にこの概念はどのように取りこまれているのかもお願いします。


    --------------------------------------------------------------------------------

    田畑 和義さんへ
    1998年7月8日


    (1)時間論

     ナーガールジュナの時間論は、『中論』の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられていますが、ここで「時」とは「三つの時(三世)」すなわち、過去・現在・未来のことです。これは仏教だけではなく一般にインドの思想のすべてに当てはまるものです。田端さんが想定されているようなすべての事象の背景としての「時の流れ」としてではなく、このようにインドでは「時」が「三つの時」として理解されている事実が、ここでは、ナーガールジュナの縁起説(すなわち彼の自性主義批判)にとって非常に都合のよいものとなっています。

     もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。

     もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。

     もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)
    「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
     たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわけです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊んでいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」したときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れているのではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそれらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは

      なんらかのものに縁って時間がある・・・

     と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
     ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、どこまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、

      しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるで あろうか。

     という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
     まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。

     (イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々   の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。そ   れらは依存関係(縁起)をしめす。
     (ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だか   ら、事象がなければ時間もない。
     (ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立   しているのではなく他に依存している。

     このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。


    (2)空間論

     わたしは、ナーガールジュナが特別に空間について語っている資料を知りませんが、上記にあげた「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、つぎのように言っています。

      これ[過去が現在・未来に依存しているという論証の例]によ って、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・  下・中など、多数性などを解すべきである。(4節)

     この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解できる、と考えてよいのでないかと思います。つまり、ナーガールジュナが一つの例をあげて「あとも皆同じである」として残した空間論の宿題を、わたしなりまとめてみますと、

    (イ)「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、ま   た、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁   起)を示す。
    (ロ)「上下・左右」の位置関係そのもの(空間)も、事物に依存  している。だから、事物がなければ空間もない。
    (ハ)空間が依存しているところの事物さえも、それ自体で成立し  ているのではなく他に依存している。

      このように、空間はさまざまなレベルの縁起によって成立して いる。

     というようなことにでもなるのではないかと思います。
    このように、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として、事物とは別に存在している何かではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものにすぎない、というのが、わたしの理解するナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、言うまでもないことだと思いますが、「時のながれ」というようなものをナーガールジュナは認めていません。彼にとって、流れるような何かがあって、それを「時」と呼んでいるのではないことは明らかだからです。


    (3)「始め」の概念

     このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、

      縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているので しょうか。

     というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなことは、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めがある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなはだ非仏教的な概念と言えます。
     ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダに文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのときの、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関しては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。


    おたより、ありがとうございました。

    佐倉 哲

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    from: ueyonabaruさん

    2008年02月27日 09時19分06秒

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    「Re:Re:佐倉さんの時間、空間論」しばらく、時間・空間論について勉強したいと思います。佐倉さんのことも、この時間・空間論について自分自身でハッキリ

    from: ueyonabaruさん

    2008年02月21日 10時43分23秒

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    「Re:佐倉さんの時間、空間論」同じく、佐倉さんの時間、空間論から引用し、時間について考えてみます。ナ-ガ-ルジュナは時間がないと言ったということが書

  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月19日 15時12分43秒

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    大川さんの説く涅槃 2

    悟りの挑戦(下巻)から引きます。この「涅槃」というのは、仏教においては、一種の究極の目的を表す言葉でもあります。仏教における目標、目的というべきもので

     悟りの挑戦(下巻)から引きます。


     この「涅槃」というのは、仏教においては、一種の究極の目的を表す言葉でもあります。仏教における目標、目的というべきものです。・・・・・「解脱」という言葉に置きかえることも可能です。

     「涅槃」の原語「ニルヴァ-ナ」とは、吹き消すこと、あるいは吹き消した状態のことを意味します。これを漢語では「滅尽」ということもあります。
     それでは、何を吹き消すかというと、迷いを吹き消すのです。迷い、あるいは迷いとして象徴されるような煩悩の炎、火を吹き消すことを言うのです。
     その煩悩の火とは、いったい何でしょうか。代表的なものが、いわゆる「心の三毒」---「とん・じん・ち」です。

    ueyonabaru: パソコンで「とん・じん・ち」を漢字にすることが      できないのですみません。

     要するに、人間というのは、「とん」---足ることを知らない欲望の塊りなっています。また、「じん」---すぐ怒ります。
    自分が気に入らないことがあると、カッと怒ります。そして、「ぎ」---これは愚かさの代表です。「愚痴」は現代語では不平不満のことをいいますが、もともとは「愚かなこと」という意味なのです。愚かであるからこそ、それが言葉になって出てくるのです。こうした、貪りの心、いかりの心、愚かな心、これが人びとを苦しめている現況であるわけです。

     結局「涅槃」とは、この世的なる肉体を中心とした迷いを吹き消した状態に至ることです。これは実に、阿羅漢の境地と同一であることがおわかりかと思います。修行者として阿羅漢の境地に至ることが、すなわち涅槃の境地を得るということなのです。

     涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻(ueyonabaru註 これらがこの世のくるしみを表す)を透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静」の境地なのです。要するに、実在界の眼で、この世の自分のあり方、苦しみの在処(ありか)を見ること、それが涅槃寂静」の境地なのです。
     ですから、人生の途上で、さまざまな苦しみや悩みが出てきますが、生きながらにして涅槃の境地を得た人は、いま述べたように、実在界から見下ろすようなかたちで、自分の悩みや苦しみを見つめることができます。そして、それに囚われません。それを取り出してみることができます。阿羅漢になれば、このような境地に達することができるのです。

     ueyonabaru また、涅槃の種類などについての解説がありますが、その部分は省略します。

     以上、「涅槃とは何か」ということについて、いろいろと説明しましたが、結局三法印の「諸行無常」「諸法無我」涅槃寂静」は、すべて「この世的なる執着を断ちなさい」とい教えなのです。
     
    「肉体を中心とする煩悩にとらわれた生き方をしていては、人間としての悟りは得られない。本当の意味の幸福も得られないのだ。だから、
      あなた方は流れ去っていくものに執着してはいけない。これ  が、「諸行無常」である

      あなた方は、目に見えるもの、触れるもの、そんなものに執着 してはいけない。これが「諸法無我」である。

      あなた方は、この肉体を中心とする煩悩の炎に燃え包まれてい ることを是としてはいけない。その炎を吹き消したときに現れる 境地こそ、真なる幸福の道である。これが「涅槃寂静」である。

     このように、三つとも「執着を断て」という教えであり、「生きながらにして実相世界に参入しなさい」という勧めであるわけです。ゆえに、これが仏教の根本、中心であるわけです。

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    from: ueyonabaruさん

    2008年02月19日 15時40分30秒

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    「Re:大川さんの説く涅槃2」大川さんの涅槃論を読む限り、解脱を現世を生きている間も目指すというのですから、田中裕さんの考えと異なっているとも思えませ

  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 17時52分13秒

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    大川隆法の説く涅槃

    大川さんに行く前に、涅槃についての、田中裕さんと佐倉さんの論旨をできる範囲でまとめてみます。(田中裕さん)①涅槃について、小乗仏教は生死からの解脱を考

     大川さんに行く前に、

     涅槃についての、田中裕さんと佐倉さんの論旨をできる範囲でまとめてみます。

    (田中裕さん) 

    ① 涅槃について、小乗仏教は生死からの解脱を考えていた。生死 とは過去世、現世、来世を循環輪廻する無明の世界である。
     ※ueyonabaru註 輪廻転生を認めている考えである。

    ② 神々への信仰が、この無明から我々を救済するのではない。ヒ ンズ-やギリシャの神々は嫉妬心をもつなどから、この無明の世 界に属する。

    ③ ゴ-タマブッダは人間ではあるが、神々を超える「法に目覚め た人」、「覚者」として位置づけられる。

    ④ 生死の世界は無明であり、そこには実体などはない。この無明
     を特徴づけるのは縁起(依存関係による生起)である。、小乗仏 教では、涅槃についてそのような(無明)世界を超越するもの  として了解されていた。

    ⑤ 龍樹は、縁起=無自性=空性という仏教の基本を、人間の生死
     のみでなく生死と涅槃との関係に適用した。

    ⑥ 小乗仏教でも、煩悩とはいえ、優れた思索があった。涅槃とは
     段階的な修行の結果得られる少数の聖者のみの恵みであったと  とする小乗仏教の教えは、それなりに尊いものである。

    ⑦ 涅槃とは、修道(修行)を抜きにして得られるものではない。

    ⑧ 仏教では、「来世において救われる」という思想が当初から
     存在しなかった。来世も生死の一部であり、終着駅ではない。

    ⑨ 仏教は現世利益の呪術に頼らず、来世の幸福も説かない。

    ⑩ 小乗仏教には、「出家者の仏教、エリ-トの仏教」という制約 があった。涅槃というものが、「逃避」という色調を帯びること となった。解脱した、ブッダはこの世に生をうけることのない、 完全にこの世から姿を消すものと理解された。

    ⑪ 龍樹は、このような小乗仏教を更に越えていく思想を鮮明に提示します。それは、難解な思弁のように見えても、本質的に「在家」の信徒を勇気づけるメッセージを含んでいたように思います。その典型的なものが、観涅槃品の次の句でしょう。

     19生死は涅槃にたいしていかなる差別もなく、
       涅槃は生死にたいしていかなる差別もない

     20涅槃の究極なるものは即ち生死の究極なるものである。
       両者の間には、最も微細ないかなる差別も存在しない

     「生死からの解脱」と特徴付けられる涅槃理解がここで、退けられます。我々が生死を繰り返している「この世界」を離れて別に、なにか「永遠なる」涅槃の世界なるものが有り、そこに我々が行くわけではない涅槃と生死の両者には寸毫の差別もない--これが中論の根本的メッセージのように思われます。 

    (佐倉さん)

    ⑫ 「涅槃」と「生死」が別々のものではない、とナーガールジュナは主張している。「救い」とはこの世から別の世界に逃れ行くことではない。ご指摘の通り、縁起論からしても、四諦論からしても、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動こそなすべきことであるわけですから、まさに、

     仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしない。地獄をなくすために、おのずから地獄におもむかんとすることこそが、仏教徒の本来の姿勢である。

    ueyonabaru お二人は、同じ立場のように思えます。しかし、気になることが一点あります。田中裕さんは転生輪廻を認めているように思えます。一方、佐倉さんは、これまでの佐倉学習から見れば、転生輪廻を認めない立場であったはずです。

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 11時19分22秒

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    博学佐倉さんと田中裕さんの対論 2

    博学なお二人の会話はもう一度なされます。ここで、田中さんから龍樹の涅槃論が提起されますのでこれを読んでみたいと思います。その後、これについて、大川隆法

     博学なお二人の会話はもう一度なされます。ここで、田中さんから龍樹の涅槃論が提起されますのでこれを読んでみたいと思います。その後、これについて、大川隆法の仏教との比較をしてみるつもりです。
     なお、お二人(佐倉さん田中さん)は、ほぼ同じ考え方に立つのではないかと思っております。そのままコピ-します。


    佐倉哲エッセイ集

    仏教に関する
    来訪者の声


    田中裕さんより
    1998年2月20日


    与謝野晶子の短歌に寄せて


    1 与謝野晶子の短歌に寄せて                  

    佐倉さんの文章の中で、ご自身の「死後の世界」について、与謝野晶子の短歌

    劫初より造りいとなむ殿堂に
         われも黄金の釘一つうつ

     に寄せて書かれたものが印象的でした。  
    与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。

     その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。

     佐倉さんが次のように述べていらっしゃる文章、非常に共感を持って読みました。

     増谷文雄氏が思いを馳せておられる「死後の世界」というもの が、死後に氏が行く世界のことではなく、死後に氏があとに残して行くこの世界、つまり「人類の運命や世界の成りゆき」のことだ、ということです。わたしはうまれてはじめて仏教の「無我」という言葉>の意味がわかるような思いがしました。同時に、「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せ>ぬ思想が、とても貧弱なものであるように思うようになりました。

     エゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせる「宗教家」よりも、自分があとに残していく世界と、そこに住まう人々を配慮できる「俗人」のほうがずっと尊いと思いますね。これは、別に仏教とか、キリスト教とかに関係なく言えることでしょう。
     ところで、前回の私の投稿に対して、御返事を頂きありがとう存じます。このHPをみて「来訪者の声」に投稿される方は多数にのぼりますから、佐倉さんが、その一つ一つに、誠実に応対されているのを見て、非常に感銘を受けております。

     龍樹の涅槃論についてお書きになる予定はないとのことですので、ご興味を持っていただくために、浅学を顧みず、私の理解するところをお伝えします。

    2 龍樹の涅槃論

      涅槃(ニルバーナ)について、「小乗」仏教では「生死からの解脱」という考え方を持っていたように思います。生死(サムサーラ)とは過去世、現世、来世のの輪を永遠に循環輪廻する無明(無知の闇)の世界です。

     神々への信仰が、この無明から我々を救済するわけではありません。ヒンズーの神々は、希臘の神々と類似していて、人間の持たぬ様々な超能力を持ってはいるものの、嫉妬、闘争心などの人間的な弱点をも持っており、基本的には、この無明の世界に属しているのです。

     ゴータマブッダは食中毒で死んだと原始教典に率直に書かれているように、神々ならぬただの人間に過ぎませんが、神々をすら越える「法」に「目覚めた人」として、神々以上の「覚者」という位置づけでしょう。

     生死の世界には頼るべき何ものもない、そこにあるものは自立して存在できる実体ではなく、徹底的に虚しきものにすぎない---これを特徴付けるものが縁起(依存関係による生起)であったわけですが、涅槃は、すくなくも小乗仏教ではそのような生死の世界を超越するものとして了解されていたと思います。

     龍樹のラジカルな所は、縁起=無自性=空性という仏教の基本を生死の世界だけではなくて、生死と涅槃との関係にも適用した点でしょう。(小乗では、人空のみを説いて法空を説かなかったと言われる理由)

     もっとも、倶舍論をよめば分かりますように、「小乗」といっても原始仏教の後継者として、煩瑣とはいえ、優れた思索の跡を伝えています。涅槃は、段階的な絶えざる修行の結果、選ばれたごくごく少数の聖者にのみ恵まれるという教えは、それなりに尊いものです。

     涅槃は、凡愚の徒には到達できぬ理想ではあっても、それは、日々の地道な実践を照らし出す法灯明の源泉であったわけで、修道を抜きにして天啓のごとくある日突然に人々に恵まれるという安直な考えは通用しませんでした。

     更に、仏教では、「来世において救われる」という思想が当初から存在しなかったことは注意すべきでしょう。来世というのは生死の一部なのですから、われわれのめざすべき終着駅にはなりません。

     仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないものなのです。

     我々の苦しみの原因を認識し、無知を克服し、その原因を除去するために、地道な努力を一歩一歩積み重ねるという根本的な姿勢を、原始仏教の四聖諦の教えの中に見ることが出来ます。倶舍論といえども、このような仏教の基本思想を、その時代のコスモロジーを背景としその時代の言語で語ったものなのでしょう。

     しかし、小乗仏教には、基本的な制約が在りました。それは、「出家」の仏教、エリートの為の仏教であったということです。 彼らが究極においてめざしていた涅槃は、人々が苦しみ呻吟している「この現実世界」からの「逃避」という色調を脱することが出来なかった点です。解脱した仏陀は、もうこの世に生をうけることはない、完全に生死の世界から姿を消すと理解されていました。

     龍樹は、このような小乗仏教を更に越えていく思想を鮮明に提示します。それは、難解な思弁のように見えても、本質的に「在家」の信徒を勇気づけるメッセージを含んでいたように思います。その典型的なものが、観涅槃品の次の句でしょう。

    19 生死は涅槃にたいしていかなる差別もなく、
       涅槃は生死にたいしていかなる差別もない
    20 涅槃の究極なるものは即ち生死の究極なるものである。
       両者の間には、最も微細ないかなる差別も存在しない

    「生死からの解脱」と特徴付けられる涅槃理解がここで、退けられます。我々が生死を繰り返している「この世界」を離れて別に、なにか「永遠なる」涅槃の世界なるものが有り、そこに我々が行くわけではない涅槃と生死の両者には寸毫の差別もない--これが中論の根本的メッセージのように思われます。 


    --------------------------------------------------------------------------------

    田中裕さんへ
    1998年3月26日


    (1)与謝野晶子

    与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。
    その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。

    まったく、同感です。

    (2)涅槃論

    「涅槃」と「生死」が別々のものではない、という主張は、確かに、ナーガールジュナがしばしば行うところです。要するに、「救い」とはこの世から別の世界に逃れ行くことではない、という主張だろうと思います。ご指摘の通り、縁起論からしても、四諦論からしても、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動こそなすべきことであるわけですから、まさに、

     仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないもの
    ということになります。

    (3)出家論

     出家と在家の問題は、歴史的問題であって、仏教の本質に属する問題ではないだろうと思います。縁起論や四諦論を仏教の本質と考えると、そこから、出家の必然性を、論理的に、直接導き出すことはできないからです。実践仏教(つまり、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動)の一つのアプリケーションとして、出家をする人々がいる、ということだろうと思います。

     しかし、出家の思想には、やはりどこか「この世を逃れる」側面があるのも否定できません。もし、出家が「この世を逃れる」、あるいはその準備のようなものであるならば、それは、縁起論や四諦論などの仏教の本質的な思想から考えると、きわめて非仏教的なものと考えざるを得ません。地獄をなくすために、おのずから地獄におもむかんとすることこそが、仏教徒の本来の姿勢であるはずだからです。

    おたより、ありがとうございました。

    佐倉 哲

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 10時48分21秒

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    博学佐倉さんと田中裕さんの対論

    ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。博学なお二人の会話ですが、そのまま読んでみたいと思います。田中裕YutakaTanakaさんより19

     ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。博学なお二人の会話ですが、そのまま読んでみたいと思います。


    田中裕 Yutaka Tanakaさんより
    1998年1月24日


    いくつか問題提起をさせていただきます



    初めまして。貴ホーム頁を拝見し、インターネットの双方向性をいかした新しい知的空間が形成されつつあることに多大の感銘を受けました。狭い専門の枠を越えた談論、権威に囚われず自由に思索する精神古代希臘の広場でかわされた哲学的饗宴が、装いを改めてネットで復活するような予感があります。

    龍樹の縁起思想について書かれた最新の御論考について、いくつか問題提起をさせていただきます。

    質問1:佐倉様は、伝統的な訳語に従ってシュニャターを「空」と翻訳し「空=無自性=縁起」の等式の内に龍樹の基本思想を要約されています。

    私は、シュニャターは、原語の意味に忠実に「空性(くうしょう)」と訳すべきだと思いますがこの点いかがお考えでしょうか。

    これは、単なる訳語の好みといったレベルの話ではありません。佐倉様がご指摘になったように、シュニャターとは「依存関係によって生起するものの空性」であって、縁起とともに語られるべきものです。それ故に、それは「無自性」とも言い換えられたわけです。大乗仏教のその後の発展、特に中国では、「空」が道教的な「無」の概念と混同される危険が常にありました。老子が、「有は無から生じる」というとき、「無」はあたかもそこからすべてのものが生成する母胎(かたちなき基体)の如く捉えられています。縁起と等値されない「無」の概念との混同を避ける意味でも、シュニャターは「空性」と訳すべきではないでしょうか。

     質問2:今回の御論考では、形式論理学の対偶律を使って、龍樹の議論の建て方 が、実質的には原始仏教のそれと同じであるということをご指摘になったと思います。「PならばQ」と「PでなければQでない」という二つの主張はPとQとの論理的等値を意味しますので、仰るとおり龍樹と原始仏教の縁起の定式は、表現が違うだけで実質的には同じだといえましょう。

    ただ、因果の双方向性ということは、時間を捨象した命題間の論理的等値性と同じではないという問題が残ります。「言うものは知らず」と「知るものは言わず」は同じことを言っていますが「言う」ことと「知る」ことに因果的な双方向性があるわけではありません。因果関係は、時間的なものを捨象しては語れない部分を持っていると思いますが、佐倉様はこの点についていかがお考えでしょうか。

    コメント:以前、米国の宗教学会で、D.kalupahana から直接聞いたのですが、彼は龍樹を大乗仏教の教学の創始者ではなくて、説一切有部の思想の批判を通じて原始仏教の根本思想である「縁起」をあらためて説いた復古主義者として捉えていると言っていました。復古主義者が、結果として新しい思想を生み出す ということは良くあることでしょうが、原始仏教の縁起概念に、龍樹が何を付け 加えたのかということを明らかにすることが必要かと思います。

    私は特に龍樹の涅槃論に多大の関心を寄せておりますので、佐倉様が、この問題についてどんなご意見を聞かせて下さるか龍樹に関する御論考、続編を期待しております。

    追伸

    以前に、米国と日本の学会で発表した哲学と宗教に関する拙論をネット上においてありますので、ご興味がおありでしたら、ご覧下さい。

    http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/papers.htm
    http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/tetugaku/nittetu1997.html

     佐倉様が、与謝野晶子の短歌に触れておられたエッセーも拝見しました、私は「桃李歌壇」という連歌と連詩のHPも主宰しております。 どなたでも気軽に参加できますので、もしよろしければ、思索に疲れたときなど、短歌もしくは連歌など投稿してみて下さい。

     

    ┌---------------桃李歌壇-------------------┐
    │  http://www.win.or.jp/~metanki/kadan/  │
    │  sn2y-tnk@asahi-net.or.jp        │
    └-----------主宰 田中裕(東鶴)------------┘

     





    --------------------------------------------------------------------------------

    田中裕 Yutaka Tanakaさんへ
    1998年1月29日




    (1)空と空性について

    スーニャタ(sunyata)はスーニャ(sunya)に「-ta」という接尾語をつけて抽象名詞化したもので、ご指摘のとおり、「空性」のことです。ちょうど、英語の"empty"に"-ness"をつけて"emptiness"という名詞を造るようなものです。チベット語でもサンスクリット語や英語と同じように、"tongpa" (sunya, empty) に"-~nid"をくっつけて"tongpa~nid" (synyata, emptiness) という抽象名詞を造るようです。したがって、同じように、スーニャタの場合は、「空」という語に「性」をくっつけて、抽象名詞であることがより明確な「空性」を訳語として使用した方が良いのかもしれません。

    しかし、漢字の「空」という語は、単に形容詞としてだけでなく、それ自体でも抽象名詞として使うことができるために、漢訳者たちはスーニャタの訳にも「空」を使用したのだと思います。そのために、わたしも、スーニャタはただスーニャを名詞化したものにすぎないということから、「空」を使っても良いのではないかと考えます。

    「空」を無と誤解することは、中国で始まったことではなく、すでにナーガールジュナのときにもあったようで、彼はしばしば、論敵が空の意味を理解しないで批判している、と語っています。しかし、ナーガールジュナや般若経の著者たちは、「空」という語の否定的な響きや、「無」との関連性があることを知っていて、わざわざ「空」という用語を使用したのではないかとわたしは思っています。彼らが「一切は空である」というような主張をした背景には、もちろん、「一切は有る」と主張した説一切有部の主張があったわけですが、それだけではなく、聴く者をして「そんな馬鹿な!」と思わせて注意を引かせる、一種の宣伝効果もねらっていたふしがあるようにわたしには思われます。この宣伝効果は2千年を経た現代でもまだ失われていないようで、わたし自身もこれにひっかかってしまったのですが、もし、彼らが、わたしが推測するような宣伝効果をねらっていたとしたら、やっぱり、「空性」という語よりは「空」という語の方がふさわしいだろう、と思われます。そして、そのためには、誤解されやすいという代価は払わねばならないでしょう。


    (2)ナーガールジュナがつけ加えたもの

    ナーガールジュナは、伝統的な縁起の思想を否定することもなく、また、なにも新しいものはつけ加えなかった、というのがわたしの主張です。たとえば、中村元教授が主張されるように、伝統的な縁起は「一方向的」で、ナーガールジュナのそれは「双方向的」であるから、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えることによって、縁起を「全く新しい意味」に解釈した、のではありません。

    PならばQであり、PでなければQでない。(伝統的表現)
    QでなければPでなく、PでなければQでない。(ナーガールジュナ的表現)

    逆観と呼ばれる後半部分はどちらも同じです。ナーガールジュナがやったことは、順観と呼ばれている前半部分の「PならばQ」を「QでなければPでない」と言い換えたことです。一見、伝統的表現では、前半も後半もPが先にきてQがあとに来ていますが、ナーガールジュナの表現の前半部分では、PとQの順序が逆になっているように見えるために、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えた、と中村元教授らは主張されているわけです。しかし、注意してみればわかるように、ナーガールジュナは単にPとQの順序を逆にしたのではなく、「QでなければPでない」というふうに、PとQを否定したものを逆にしているのです。いわば「裏返し」にしてから順序を逆にしているのです。これは、論理学で言う「対偶律」に他なりません。つまり、「PならばQ」と「QでなければPでない」は論理的に同値であり、意味が同じ、というわけです。
    こうして、「QでなければPでなく、PでなければQでない」というナーガールジュナの「相依性」の縁起が生まれたわけですが、それは、伝統的表現の縁起説に含意(implication)されていたものを明るみに引き出したにすぎなかったわけです。そのために、ナーガールジュナは、伝統的な縁起思想を否定したのでもなければ、なにか新しいものをつけ加えたのでもない、と言えるのではないかと思うわけです。因果説との関係でいえば、ナーガールジュナの仕事によって、伝統的縁起説は単なる因果関係(Causality)ではなかったことが判明した、ということになるかと思います。




    (3)涅槃とプロセス哲学

    プロセス哲学のホームページを興味深く拝見させていただきました。確か、Hartshorne や Jacoboson なども仏教に深い関心をよせるプロセス哲学者だったとおもいますが、ナーガールジュナの「涅槃」への関心もやはり、プロセス哲学との関連からなのでしょうか?わたしは、ナーガールジュナの涅槃説にはまだ特別な注意を払ったことはないのですが、どのような観点から彼の涅槃説に興味をもっておられるのでしょうか。わたし自身は、次の予定では、般若経の空とナーガールジュナの空の比較を考えているのですが、これもまた、大変な大仕事となりそうなので、いつ終わるかわかりません。



    おたより、ありがとうございました。

    佐倉 哲

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 00時38分30秒

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    佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 についてueyonabaruの感想

    佐倉さんとcloma、「ただのひと」さんとの議論を読んでのueyonabaruの感想です。反論をされたお二人のおっしゃることは大体が私の考えかたと共通

     佐倉さんとcloma、「ただのひと」さんとの議論を読んでのueyonabaruの感想です。
     反論をされたお二人のおっしゃることは大体が私の考えかたと共通します。ここまで来て分かるのは、佐倉さんは、形而上的なものや神秘的な経験をすべて否定するということ、また、真理は言葉の中にあるとハッキリ言っていることです。
     真理は言語表現の中にあるとする考えは、現代の哲学の見解として一般にあることなのでしょうか。不勉強な私はこれについて知りません。堂々と、自説を主張される佐倉さんですが、「ただのひと」さんへの回答で次のようにおっしゃっておりますが、ここはなんだかおかしいような気がします。

      もし、電車が向こうからやってくる線路の上にたっていて、  「ただただ、電車が走っているだけで、それを見ている私という 主体は、言語が造り上げた虚像にすぎない」、などと考えて、そ のままそこに立ち続けるでしょうか、それとも、身の危険を感じ て、線路からのがれるでしょうか。もし、ただのひとさんも、わ たしといっしょに、線路から逃げてしまうのなら、「主客未分  離」などというものこそ、虚像(主観的な思い込み)にすぎない と言わねばなりません。

     主客合一の境地を、上の言葉で批判するのが正当なのかということです。これでは神秘的な境地についてかたることや観念的なことは一切いえなくなるでしょう。
     いや、佐倉さんはこのようなことは一切言うまいと決意しているだけかも知れません。頭脳明晰な佐倉さんが西田哲学の理解ができないとも思われません。
     佐倉さんは、幸福の科学の批判の急先鋒でもあります。今後、このテ-マでの議論も見てゆくことになりますが、もう暫く佐倉さんのことを調べてからのことになりそうです。

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月17日 23時56分53秒

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    佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 に対する反論 2

    佐倉さんのことをさらに知るため、もう一人の方である「ただのひと」さんの反論と、それへの回答を見てみたいと思います。長い文章ですが、そのままコピ-してみ

     佐倉さんのことをさらに知るため、もう一人の方である「ただのひと」さんの反論と、それへの回答を見てみたいと思います。長い文章ですが、そのままコピ-してみました。


    佐倉哲ホームページ

    真理と論理、および真理の根拠(3)
    「ただのひと」さんの批判とわたしの応答
    佐倉 哲

     これは、わたしの「真理と論理、および真理の根拠」に対して寄せられた、「ただのひと」さんによるご批判とわたしの応答です。

    1997年9月12日


    「ただのひと」さんより
    97年9月6日

     こんにちは、ただのひとです。佐倉さんの「真理と論理、および真理の根拠」を読みました。わたしは佐倉さんとは違った考えをもっています。佐倉さんは、

     真理とは真なる言明のことを意味します。たとえば、 「昨日、雨が降った」という言明は、昨日、本当に雨が降ったのならば、真理となり、そうでなければ誤謬となります。また、「いま、ちょうど12時30分です」 という言明は、一日に二回だけ真理になります。
    真理は事実や経験の中にはあり得ません。真理は言葉の中 にのみあり得ます。

     と書かれていますが、私にとっては真理はそのようなものではありません。私にとっては、真理は、言葉の中に存在するというよりも、むしろ言葉に表現される以前の事実や経験そのものです。昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降った」という言明が真理なのではなくて、雨が降った出来事そのものが私には真理です。
    人間をとりまく全てのもの、出来事、現象は、人間の言葉以前に、言葉とは無関係に、言葉からは独立して存在し、また成り立っています。例えば、花は本来、「花」という日本語や、flowerという英語が人間によって付与される以前に、そのような言葉や名称とは無関係に、存在する何かです。「存在する何か」という言葉以前に存在する何かです。「花が咲いている。」「美しい花が咲いている。」「美しい赤い花が咲いている。」「美しい赤い花がひっそりと咲いている。」・・・とどんなに言葉を、表現を精緻に、論理的整合性にも注意を払いつつ積み重ねたところで、人は花そのものに行き着くことはできません。花というものを認識するには、このような「花」という言葉や、「花が咲いている」という言明を飛び越えて、花そのものを見つめなければなりません。そこで出会う花そのものが「花が咲いている」という言明以上に圧倒的に真実(真の実在)であり、真理です。

     それに対して「花が咲いている」という言明はどこまでも虚です。言葉による精緻な表現は所詮「絵に描いた餅」に過ぎません。絵に描いた餅と本物の餅とどちらが真かと問われられば、本物の餅に決まっています。ですから、純粋経験と呼ばれるものこそが、認識そのものであり、真理そのものです。純粋経験は、認識や真理の根拠というのではなく、認識や真理そのものです。言葉は、このような言葉以前の、もの、出来事、現象、経験に対し、社会的動物としての人間が、あとから付与したものに過ぎません。ですから、雨が降ったら「雨が降った」という言明が正しい、ということは(同語反復の意味ではなくて) 、雨が降ったら、その出来事に対し、日本語では「雨が降った」と表現するのが適切である、ぐらいのことしか意味していないのではないかと思います。

     言葉は、人間が社会生活を営むためのコミュニケーションの道具として非常に有効ですが、その一方で、人間の真の認識というものを妨げるという弊害ももっていると思います。例えば「花」という言葉のもっている社会的に付与された固定的なイメージが、本来非常に複雑で多様な性質を持っている花そのもの認識や、花との出会いをさまたげることがあります。どこかに花が咲いていて「あ、花が咲いているよ」「ほんとうだ。」という言葉のやりとりですましてしまい、花そのものをじっくりと見つめることがないという事態は日常よく起こることです。子供はこの純粋経験を豊かにもっています。つまり、子供は「花」という言葉以前の花を知悉しており、「雨が降っている」という言明以前の雨をよく知っています。それが大人になり、言葉を身につけるようになるにつれて、対象と言葉がべったりと張り付いてしまって言葉抜きに、ものを見つめたり感じたりする事がなかなか困難になってきます。言葉という、固定化し、パターン化したイメージのフィルターを通さなければものを認識出来なくなってきます。ことに教育が進んだ現代社会ではこの傾向が強く、人間の知的偏重は進んでいます。ですから、現代社会に生きる、言葉や考えに毒されている私たちは、ある注意を働かせて、「花」という言葉やイメージを離れて、花そのものを見つめてみたり、「雨が降っている」という言明を離れて、雨の音にじっと耳を傾けてみたりということが必要であると私は考えます。もしかしたら昔の日本人はごく自然に、このようなことを行っていたのかも知れませんが、私たち現代人にはある意識的な努力が必要だと思います。

     しかし、一方で私たち現代人も純粋経験と全く無関係に生きているわけではありません。純粋経験を完全に離れては、人間の生活は決して成り立ち得ません。例えば私たちはごくごくと水を飲む。ご飯を口に運ぶ。道を歩く。このようなことは、「わたしは水を飲む」とか、「わたしは、ご飯を食べる」とか「わたしは道を歩く」などという言語化以前に成り立っているものであり、これは純粋経験として自覚されなくても立派に純粋経験であると思います(むしろいちいちこれは純粋経験だなどと意識されたものは、既に純粋経験とは呼び得ないのかもしれません)。

     また車の運転などを例に考えると、運転を習いたての頃は、「まず、クラッチとブレーキをを踏み、ギアをローにして・・・」などといちいち意識化し、言語化して、行いますが、なれて来るに連れ、何も考えずに、その場の状況によって体が自然に動くようになります。むしろいちいち言葉に頼っていては、適切な運転が出来なくなってしまうでしょう。このようなことも純粋経験ではないかと思います。つまり人間はたとえ現代人の大人であってもなにもかもを言語化して生活しているわけではありません。言葉以前の言葉を離れた経験としての純粋経験はちゃんと立派にだれの生活においても成立しています。このような純粋経験において「主もなく客もない」と言うのは、まさにそのとおりであると私は思います。

     じっと花を見つめているときそこにあるのは、ただ花ばかりです。「私(という主体が)花(という客体)を見つめる」という自覚はそのように言語化して初めて生じるものであり、そのような言語化以前には、私が花を見つめているわけでもなく、花が私によって見つめられているわけでもなく、ただただ、そこに花があるばかりです。これが純粋経験です。このような経験は、あるとかないとか議論する以前に成立しているものです。あるかないかと問い始めたら、その瞬間に消えてしまいますが、そのような詮索を離れて花をじっと見つめたときに、直ちに「純粋経験は存在する」という言明以前に成り立っているものです。

     わたしは、佐倉さんのサイトの中で、「作者について」のページが好きなのですが、佐倉さんは「好きなもの」として様々のものを列挙しておられます。わたしはこのページに純粋経験を大事にし対象に直接していく日本人的な特質を見ています。わたしを語らずして、おでんや、お好み焼き、ゆでたてのとうもろこしでご自身を語っておられます。ここではおでんや、お好み焼きは、佐倉さんから切り離された客体ではなくて、佐倉さんと主客一如なのではないでしょうか。わたしはこのページに脱キリスト教、脱西洋的なものを感じとっています。

     今日、私は夕方、近くの海岸に行って、海に沈む夕日を眺めてきましたが、その海に沈む夕日を私は表現し尽くすことはできません。「どこまでもつづく水平線のかなたに、真っ赤な夕日が沈んでいった」と言葉で述べたところで、その言明が事実と一致しているにしても、私にとっては、そのような言葉は、私が見た夕日そのものを表現し尽くしてはいません。私にはわたしの見た夕日そのものが真であり、どんな言葉も言明も虚です。

     私は東洋のものの見方の特質は、このような言語化以前の純粋経験を認識の主とするところにあると思います。それに対して西洋的な見方においては、あくまで言語認識こそを認識や理解の中心とみなし、どこまでも言葉の中にとどまり続けようとするように思います。わたしは佐倉さんのおっしゃる「知球モデル」の考えには賛成ですが、この「知球モデル」という考え方は、東洋的な見方に立って初めて成り立つものなのではないでしょうか。それに対して「積木モデル」というのは、あくまで言葉のレベルを抜け出ようとしない、西洋の見方の中で生じるものだと思います。言語認識の根拠をさらに言語によって探求し、それを言語化し、言葉に言葉を積み重ねていきます。佐倉さんの「知球モデル」というのは言語認識以前に言語による根拠付けというのは不要であり、言語認識の向こうには茫漠とした言葉にならない言葉以前のものそののものの世界が広がっているばかりである。言葉というのはこの言葉以前のものそのものの世界を表現し尽くすことは出来ないし、ましてものそのものに置き換わることは出来ないが、絶えずものそのものに肉薄すべく拡大させ、更新させていくことはできる。「知球モデル」というのはそう言うことだと思います。この考え方は純粋経験を認識の主とする東洋の見方に立って、初めて成り立つものだと思います。



    --------------------------------------------------------------------------------




    作者より だだのひと さんへ
    9月12日


    (1)いったい何を指して「真理である」と言うのか

     わたしは、もちろん、絵に描いた餅のほうが実際の餅より「より真実である」、というようなことを主張しているわけではありません。いったい何を指して「真理である」とか「真理でない」とか、わたしたちは主張しているのか、という問題なのです。例えば、二人の人(aさん、bさん)が意見をことにして、それぞれ次のように主張し合っていると仮定します。

    (a)Xは真理である。
    (b)Xは真理ではない。

     問題は、ここで真誤の吟味の対象となっているXが、「ただのひと」さんが主張されているように事実そのものを指しているのか、それともわたしが主張するように言明をさしているのか、ということになります。それでよく見ると、Xが言明ではなく事実そのものを指しているという立場をとると、とてもおかしなことになることがわかります。例えば、もしXが「昨日雨が降った」という言明ではなく、昨日雨が降ったという事実そのものを指しているとすると、(a)の言明では問題が発覚しませんが、(b)の言明は、
    (b1)X(すなわち、昨日雨が降った、という事実)は真理ではない。
    という奇妙な意味のない言明となってしまうことがわかります。それに比べて、Xを事実としてではなく、言明として、言い換えると、何の不都合も生じません。
    (b2)X(すなわち、昨日雨が降った、という言明)は真理ではない。
     このことは、わたしたちが「Xは真理である」とか「Xは真理でない」とか主張するとき、その真偽の対象Xは、事実そのものではなく、事実に関するわたしたちの判断や主張、すなわち言明(厳密には平叙文)、であることを意味しています。つまり、真理(あるいは誤謬)であるところの当のものは言明なのです。言明だけが真理であったり誤謬であったりすることができるからです。事実は、誤謬であることができないので、真誤の吟味判断の対象にならないのです。
     さらにまた、もし、真理が事実そのものを指しているとすると、事実と無関係に真理が存在することが説明できません。たとえば、次の二つの言明は、事実と無関係に、真理です。

    (c)もし昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降ったのだ」とい  う言明は正しい。
    (d)赤信号は赤信号である。

     これらの言明が世界の一切の事実と無関係に真理であることは、これらの言明が誤謬となり得るような事態(可能世界)が存在しないことから明らかです。つまり、いかに全能の神であろうとも、これらの言明が誤謬となるような世界を作り出すことはできないのです。このように、もし、事実と無関係に真理が存在するならば、事実そのものを真理である、とは言えなくなります。
     以上のようなことを考えるとき、やはり、真理は、事実のなかにではなく、言語のなかにある、と言わねばならないと思われます。


    (2)「主客未分離」の純粋経験について

     ただのひとさんは、

    「私(という主体が)花(という客体)を見つめる」という自覚はそのように言語化して初めて生じるものであり、そのような言語化以前には、私が花を見つめているわけでもなく、花が私によって見つめられているわけでもなく、ただただ、そこに花があるばかりです。これが純粋経験です。
    といわれますが、もし、電車が向こうからやってくる線路の上にたっていて、「ただただ、電車が走っているだけで、それを見ている私という主体は、言語が造り上げた虚像にすぎない」、などと考えて、そのままそこに立ち続けるでしょうか、それとも、身の危険を感じて、線路からのがれるでしょうか。もし、ただのひとさんも、わたしといっしょに、線路から逃げてしまうのなら、「主客未分離」などというものこそ、虚像(主観的な思い込み)にすぎないと言わねばなりません。

    (3)「西欧」対「東洋」

     わたしも、かつては、ただのひとさんのように、私は東洋のものの見方の特質は、このような言語化以前の純粋経験を認識の主とするところにあると思います。それに対して西洋的な見方においては、あくまで言語認識こそを認識や理解の中心とみなし、どこまでも言葉の中にとどまり続けようとするように思います。
    というような意見に、一時、惹かれていたこともあります。しかし、このような考え方にはあまりにも多くの問題が含まれています。たとえば、西洋は、ギリシャ・ローマの文明(ヘレニズム)とユダヤ・キリスト教の文明(ヘブライズム)の水と油を混ぜたような混在文明であり、しかも、ギリシャの文明とローマの文明とは同じものではなく、ユダヤ教とキリスト教の関係も水と油のようなものです。そのうえ、ヨーロッパには土着文明(ケルト民族やゲルマン民族などの伝統的文化)が残っており、「西洋的な見方」と簡単に言えるほど、西洋の考え方は単純ではないことです。
    同じことは、「東洋のものの見方」についても言えます。インドの思想と中国の思想と日本の思想とをみんな一緒にして、「東洋の考え方」などといえるものがあるのでしょうか。インドにおいても、ヒンズー教と仏教の間には、たとえば、日本の天皇主義とアメリカの民主主義の違いほどの大きな違いがあります。中国の老荘思想と儒教思想のあいだにも、とても、一緒にできない相違があります。

     このことは、日本のさまざまな思想においても同様でしょう。とくに、不立文字、教外別伝などの言語軽視の伝統は、禅の伝統の中でも、とくに、臨済宗の主張なのであって、同じ禅でも曹洞宗はこれにきわめて批判的です。たとえば、道元は次のような手厳しい批判をしています。

     あわれむべきことに、彼らは念慮(慮知念覚=考察思案)が語句であることを知らず、語句が念慮を透脱(解脱=真実相の顕現)することを知らない……。彼らいわく、「いまの東山水上行の話だとか、南泉の鎌子の話のようなものは、無理会話(分別判断では理解できない話)である。というのは、もろもろの念慮に係わる語話は、仏祖の禅話ではないのだ。無理会話こそが、まさに仏祖の語話である。そうであるから、黄檗の行棒や臨済の挙喝などは、理会(分別判断による理解)が及び難く、念慮にかかわらないのであって、このようなものが朕兆未萌以前(もののぎざしの現れる以前)の大悟なのである。先徳が方便として多く葛藤断句を用いるというのは、無理会なのだ。」このように言うやからは、いまだかつて正しい師に出会ったことがなく、参学によって得られた眼力がない。言うに足らない愚者である……。似而非僧侶がいう無理会話は、おまえにのみ無理会なのであって、仏祖はそうではない。(『正法眼蔵』「山水経」より、森本和夫訳)

     つまり、不立文字、教外別伝などの言語軽視・分別思考軽視の伝統は、「東洋のものの見方」の中でも、中国・日本の仏教の中の、その一部である禅宗のなかの、またその一部である臨済宗の考え方にすぎません。それを、まるで日本思想全体の、あるいは、東洋思想全体の考え方であるかのようなアイデアが、今日でも幅を利かせているのは、京都学派(西田幾太郎や鈴木大拙やその後継者たち)のたれ流した思想的公害だとわたしは思っています。近代工業化がわたしたちに益とともに害をもたらしたように、彼らの思想的仕事も、益だけでなく害ももたらしたのです。その害に、わたしもただのひとさんも、汚染されているのではないでしょうか。

     ご批判、ありがとうございました。

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    2008年02月17日 13時45分31秒

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    佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 に対する反論

    clomaさんという方と「ただのひと」さんという方が、佐倉さんに反論をよせており、今回はclomaさんの反論および佐倉さんの回答を次のとおりそのままコ

     clomaさんという方と「ただのひと」さんという方が、佐倉さんに反論をよせており、今回はclomaさんの反論および佐倉さんの回答を次のとおりそのままコピ-します。大変に長いので恐縮ではありますが、掲載させていただきます。内容が、難しいので、後ほどueyonabaruのまとめを加える予定です。





    佐倉哲ホームページ

    真理と論理、および真理の根拠(2)
    cloma さんの批判とわたしの応答
    佐倉 哲

     これは、わたしの「真理と論理、および真理の根拠」に対して寄せられた、cloma さんによるご批判とわたしの応答です。

    1997年8月30日

    cloma さんより
    8月24日

     事実に依存するかしないかは、「現在の事実」と言い換えれば同意できる面が多いと思います。佐倉さんが事実に依存していない例としてあげたもの、「未来の仮定」は、過去の事実の記憶に基づいているわけで、「事実」とここで呼んでいるものと、言明とは実際には切り離せないように思います。また、もし切り離すのであればそれは実用性を失い言語的な遊びに過ぎなくなってしまうかもしれません。

     ……西田の「純粋経験」なるものは、このように、きわめて独断的な判断であり、それは彼の思い込みにしかすぎません……。
    真理は結局個人的問題ではないのか?他人の意見は参考にはなるが、それが独断かどうかは自分での追体験があるかどうかにかかっており、その意味では思考感情感覚を含む全体的な体験によってのみ追求できるのではないか?もし、佐倉さんが何らかの体験を経て、西田さんの文をまた読む時、彼の言っていた事が独断でもなんでもない当たり前の事のある一面であったと論理的考察も無しに了解する可能性さえあると思います。

     ……人類の科学の発展が、この「知球モデル」の有効性を証ししていることは言うまでもありません。
    知球モデルは、経験、実験の「積み重ね」という事をその有効性の論拠にいれたとたん、「積み木モデル」になのではないか?また、「知球モデル」のみを行なう事は、今の現在、ここに在る事のみを扱う事になり、過去の記憶とか、類推の余地がないのではないのでしょうか?もし、積み木モデルには不安があり、純粋な知球モデルにはないのだとしたら、不安という苦を解消するには純粋な知球モデルを実践し続ける必要があるようだが、はたしてそれはどのようになされ、いったい可能なのか?
    また、科学は不安の解消という点でほぼ何もしておらず、人間の愚行も減ってはいないわけだし、道具ばかり増えて使う側の人間は記憶力も思考力も感受性も何もかえって衰えているように思え、科学信仰もキリスト教と変わらないし、根っこは同じだと思います。

     ……「究極的真理」がわたしたちに求めるものは、信仰という名の賭にすぎません。
    この一連の結論の欠点は、佐倉さん自身がいろいろ考察したり、考えたりしている動機を考慮していない事であると思う。はたして、「究極的か現在の局所的か」はともかく、佐倉さんが考えたりしなくてはいられないのは、「真理」を欲しがっているからではないのでしょうか?そして、その真理は「確か」なものでなくては嫌だからなのではないでしょうか?また、積み木モデルを言葉の上では否定しようとしていますが、実際には「知球モデル」の「積み重ね」という、積み木モデルまがいの姿勢を示唆しており、御自分で否定しようとしている「究極的真理」または「全体的な知」を実は切望しているのではないでしょうか?それに、ニュートンにせよ、アインシュタインにせよ、哲学者にせよ、彼らが考え、いろいろなモデルを提唱した背景には、その場その場の「知球モデル」を実践できず、「積み木モデル」の路線で「究極的真理」を求めた結果なのではないでしょうか?
    もし、以上の推論が正しければ、佐倉さんは自分が考えている動機と、その結果結論として得られた姿勢の矛盾に陥っているように思えるのです。また、もし、結論が覆し難いのであれば、「知球モデル」の純粋なる実践をさっそく行なう努力を始める必要があるのではないかと思います。

     佐倉さんの姿勢は本当はどうなのでしょうか?現在は「知球モデル」のつもりで「積み木モデル」を続けているように思えます。さらには、我々が「真理」などを求めてしまう背景には「良くありたい」という衝動があり、それは「生き延びたい」という衝動から来ているように思え、「なぜ、考えてしまうのか?」と考えると、「確かな行動規準」を求めてのように思えます。

     もしこの考察が正しければ、せっかくいろいろ考えて、結論を出しておきながらそれを行為として実践しなかったり出来ないのであれば、もう一度考え直す必要があると思えるのです。少なくともニュートンの理論の場合、地球上でのかなりの分野と、月へ行くくらいの範囲内であれば、実践が可能でしたが、アインシュタインはそれだけで満足できずに実践の範囲が広がる理論を打ち出しました。真理の探究という事も、同様に、根拠が必要でないと結論づけるなら、根拠の正当性の検討抜きに理論の実用的正当性が無い以上、論理的思考を完全に放棄して生きられるのか自問する必要が出てこないでしょうか?

    cloma





    作者より cloma さんへ
    8月30日

     ご批判ありがとうございます。わたしの説明が不十分だったために、いくつかの誤解があるようにおもわれますが、ご批判をいただいた部分に関して、もう少しくわしい説明を加えてみたいと思います。


    (1)言語と事実について

     わたしが、事実に依存しないで真理であると決定できる例としてあげた

     もし昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降ったのだ」という言明は正しい。
    という言明の真誤の決定は「過去の事実の記憶」などに依存してはいません。もしこの言明の真誤が、過去の事実の記憶に依存しているならば、この言明が誤謬となり得る「過去の事実の記憶」の反証例を一つでもあげることができるはずです。しかし、それは絶対できない、とわたしは思っています。なぜなら、この言明は誤謬になる可能性のない文の形式を持っているからです。つまり、
    もし A ならば A 。
    という形式を持った文は、「A」の内容に係わらず常に真理なのです。たとえば、「A」のところに、「橋本龍太郎はアメリカ人である」を挿入しても、また、「橋本龍太郎はアメリカ人ではない」を挿入しても、この文は真理なのです。
    このように、文が形式のみによって、真誤を決定できるのは、言語には規則(約束事)というものがあるからです。言語に規則があるのは、言語というものがコミュニケーションの道具だからであり、規則がなければ、コミュニケーションが成立しないからです。たとえば、「赤信号のときは渡ってはいけません。青信号のときは渡ってもよろしい」というとき、わたしたちは、「赤信号は赤信号」であり、「青信号は青信号」であることを当然のことととし、それに対して、「赤信号は青信号」であるとか、「青信号は赤信号」である、という解釈を許しません。そうでなければ、コミュニケーションそのものが成立しないからです。

     「赤信号は赤信号」とか「もし A ならば A」のような同語反復を真とする規則は、通常「同一律」などと呼ばれていますが、それは、わたしたちの言語そのものを成立させている基本的な規則なのです。cloma さんが投書によって、言葉を使って誰かに語りかけるとき、当然、cloma さんもこの同一律の規則を前提にされているのです。そうでなければ、他人に語りかけようとするはずもないからです。言明が文の形式のみによって真であると決定できるのは、その言明が言語の規則そのものを端的に表現しているからであって、「実用性を失い言語的な遊び」として無視できるようなものではありません。それどころか、同語反復の言明を無条件に恒真とする約束事があってはじめて、言語というものは事実について語ることができ、実用性をもつと言うべきでしょう。


    (2)「個人的真理」について

     真理は個人的・主観的なものではあり得ません。真理が個人的・主観的なものではなく公共的・客観的なものであるのは、すでに説明したように、真理は、共同体のコミュニケーションの道具としての言語の世界に存在するもの(「真なる平叙文」)だからです。もし真理が個人的なものであるならば、たとえば、

    いま、午前九時です。

     という言明が、個人ごとに、真であったり誤謬であったりする可能性を認めることとなり、テレビの番組リストも、始業時間や終業時間も、電車やバスの時刻表も、あらゆる私的あるいは公的約束事は無意味となってしまい、人間社会は瞬間的に崩壊してしまうでしょう。つまり、真理を個人的なものと考えた瞬間に、わたしたちの共同体を支えている言葉の意味はすべて失われてしまうのです。このことは、言葉に意味を持たせているのは真理の公共性・客観性であることを示唆しています。わたしたちは、言葉を使用している限り、真理の公共性・客観性をすでに前提にしているのです。したがって、真理は個人的・主観的なものではあり得ません。

    (3)思い込みと追体験について

     さて、真理が公共的・客観的なものであるとすると、個人の思い込みにすぎないものは真理ではあり得ません。そして、残念なことに、「追体験」のようなものでは、その体験内容に関する判断が真理であることを保障することはできません。なぜなら、わたしが彼らと同じ内容の夢を見たと判断しても、そのことによって夢の内容が現実の真相である、などとは言えないように、たとえ、わたしが、西田や鈴木大拙と同じように、「主もなく客もない」というような経験をしたと判断しても、それは、わたしも、彼らと同種の思い込みをしているにすぎないのであって、とても、それが真理であることの保障にはなりません。

     科学的実験などと違って、「主もなく客もない」という判断が真理ではなく、たんなる個人的な思い込みにすぎない、と言えるのは、それが公共的・客観的ではないからです。たとえば、沢山の人のいるレストランのなかで、わたしが、「わたしとわたしの目の前にあるテーブルは一つである」という体験するとき、同時に、まわりにいる人たちにも、わたしとわたしの目の前にあるテーブルが、分けることのできない「一物」として見えているのでなければ、わたしの「わたしとわたしの目の前にあるテーブルは一つである」という判断は公共的・客観的とはいえません。追体験のように、各自別々にそれぞれの「一体感」を経験することしかできず、同時共有できないような体験では、わたしたちは、結局、似たような別々の夢を見ているにすぎないと言わねばなりません。「主もなく客もない」という判断が、公共性・客観性を欠いた、純粋に主観的な思い込みにすぎないことは明らかです。


    (4)積み木モデルと知球モデルについて

     積み木は土台がなければなにも積み上げられないというイメージから、「積み木モデル」によって、知識には「究極的根拠」が必要であるとする見方を代表させ、それに対して、無知空間に囲まれた、足がかり(土台=究極的根拠)がない、宙ぶらりんの小さな知識の固まりというイメージから、「知球モデル」によって、「究極的根拠」を前提としない知識の捉え方を代表させましたが、おそらく、わたしの説明不足のため、積み木モデルと知球モデルについては、cloma さんはほとんど完全に誤解されていて、この部分は応答するのが困難です。そこで、ここでは、むしろ、誤解のいくつかを指摘して、わたしの説明不足を補充したいと思います。

     誤解の最大の原因は、わたしの「真理の究極的根拠」という概念を「確実な真理」と同意義に捉えられているからではないかと思います。わたしの説明不足だったと思いますが、「真理の究極的根拠」とは次のようなものを意味しているのです。ある言明が真理であると確実に決定されるためには、根拠の提示を必要としますが、その提示された根拠そのものが認められるためには、その根拠の根拠の提示が必要となります。このように、根拠の根拠をさかのぼることによって、それ以上の根拠を必要としない最終的な根拠(デカルトの「第一原理」や西田幾太郎の「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」やキリスト教の「神の言葉である聖書」)にたどり着くとします。その場合の、最終的根拠のことをわたしは「真理の究極的根拠」と呼んでいるのです。だから、たとえば、ニーチェのデカルト批判は、デカルトの主張が確実ではないという指摘にあったのではなく、デカルトの主張は前提を必要としない究極的な真理(「第一原理」)ではない、という指摘にあったのです。

     そういう「真理の究極的根拠」という考え方に対するわたしの批判は、たとえば、「真理の究極的根拠」はそれ自体が(いわば、第一原理であるために)それ自身の根拠を持たない、それゆえに、それを受け入れるためには、根拠の提示を必要とする知識ではなく、信仰によらざるを得ない、というものだったのです。つまり、わたしは「根拠」を否定したのではなく、「究極的根拠」を否定したのです。同様に、知識の「積み重ね」を否定したのではなく、知識の積み重ねのためには「究極的土台」が必要である、という主張を否定したのです。また、「確実な知識」を追求することを否定したのではなく、「確実な知識」の追求は、ある「究極的な知識」に依存しなければならない、という主張を否定したのです。ですから、たとえば、

     知球モデルは、経験、実験の「積み重ね」という事をその有効性の論拠にいれたとたん、「積み木モデル」になのではないか……
    とか、
    積み木モデルを言葉の上では否定しようとしていますが、実際には「知球モデル」の「積み重ね」という、積み木モデルまがいの姿勢を示唆しており……
    というふうなご批判は、「真理の究極的根拠」の意味に関する誤解から生まれたもので、「知球モデル」の批判になっていないのです。
     また、実際、わたしたちの日常生活のなかでわたしたちが知識と呼んでいるものは、デカルトの「第一原理」や西田幾太郎の「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」やキリスト教の「神の言葉である聖書」のような、「真理の究極的根拠」の土台の上に築かれているものではありません。わたしたちの知識というものは、そんな「究極的土台」の上に積み上げられたものではなく、わたしたちが直接目で見たり手で触れたりする経験から始まって、技術(顕微鏡や望遠鏡や火星探索機など)の発展によって、拡大・蓄積・修正されてきたものです。それゆえ、わたしたちの知識はわたしたちの経験の限界によって条件づけられており、そのため、わたしたちの知識の確実性も条件的なものです。知識とはそんなものであって、無条件的に真理であることを豪語する「真理の究極的根拠」などという代物は、一握りの形而上学者や宗教家が造り上げた無用の概念にすぎない、ということを主張したのです。

    (5)真理を求める動機について

     わたしはさまざまな主張が真理であるかどうかについてはしばしば興味を持ちますが、真理を求める動機については、あまり興味がないので、ほとんど考えたことがありません。cloma さんのように「良くありたい」とか「生き延びたい」とか「確かな行動規準」を求めているがゆえに、真理を求めているというのは、そういうこともあると思いますが、それだけではないと思います。「知りたい」というような欲望は、かならずしも他の欲望を満たすための第二次的な欲望ではなく、むしろ、もっと基本的な人間の欲望の一つではないか、とわたしは思います。アリストテレスは、「人間は生まれつき知ることを欲する」と言いましたが、わたしはその言い方のほうが事実をよりうまく言い当てているような気がします。なぜなら、人間は、わたし自身を振り返ってみても、興味本位に、結末を考えることなく、端的に「知りたい」と思うことが多いからです。それに、身の危険を犯してまでも、あるいは損をするとわかっていながらも、それでも知りたい、というような事態さえ起きることを考えてみますと、知ることが単なる手段ではなく、それ自体目的にもなりうるのだと思われるのです。


    お便りありがとうございました。

    佐倉 哲

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    from: ueyonabaruさん

    2008年02月17日 23時05分12秒

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    「Re:Re:佐倉さんの真理、論理、真理の根拠に対する反論」作者よりclomaさんへ8月30日ご批判ありがとうございます。わたしの説明が不十分だったた

    from: ueyonabaruさん

    2008年02月17日 20時55分39秒

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    「Re:佐倉さんの真理、論理、真理の根拠に対する反論」clomaさんのおっしゃることが、分かりにくいので、まず、clomaさんの発言から、先に読み解い

  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月16日 15時34分47秒

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    佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 のまとめ

    私なりにまとめてみました。真理とは①日常、私たちは、「正しい」とか『誤っている」とか判断します。その判断や知識には「究極的な基盤」があるのでしょうか。

     私なりにまとめてみました。

    真理とは

    ① 日常、私たちは、「正しい」とか『誤っている」とか判断しま す。その判断や知識には「究極的な基盤」があるのでしょうか。 哲学者達はその「究極的な基盤」を求めてきましたがそれは成功 したのでしょうか。科学はどうでしょうか。あるいは宗教はどう でしょうか。

    ② 真理の対象として考えるべきものは言明(ueyonabaru 言語表 言)です。「昨日、雨が降った」という言明は、昨日本当に雨が 降ったのであれば真理になりますし、「いま、12時30分で  す」という言明は一日に2回 だけ真理になります。真理とはこ のようなものです。

    ③ しかし、真理の対象となる言明は、たとえば「花」、「鉛筆の 芯」などの単語や句などは対象にはなりません。また、「はやく
     学校に行きなさい」や「昨日、「阪神は勝ちましたか?」などの
     命令文、疑問文もその対象から除かれます。

    ④ わたしの理解することによれば、真理とは言語によって構成さ れる真なる言明のことです。誤謬とは誤った言明です。そして、 ある言明が真であるかどうかは、事実に依存しているものと事実 に依存しないものとがあります。

    論理とは

    ⑤ 論理とは、前提となっている言明から、結論となっている言明 を導く手続き(推論)のことを指します。推論には、正しい推論 と間違った推論があります。たとえば、

      前提1 すべて生きているものは必ず死ぬ。
      前提2 神は生きている。
      結論  それ故、神は死ぬ。
      
      この推論は全く正しいのですが、たとえば次の推論は間違って おります。
      
      前提1 すべてのフランス人はヨ-ロッパ人である。 
      前提2 橋本龍太郎は日本人である。
      結論  それ故、ビル・クリントンはアメリカ人である。
     
      このように、論理とは、言明の一つ一つが実際に真理であるか どうかを吟味するものではなく、前提が正しいかどうかではなく
     また結論が正しいかどうかでもないのです。それは、前提が正し ければ、そこに示された結論が必然的・論理的に導き出されるか らその結論も正しいということなのです。



    真理の根拠

    ⑥ すでにのべたように、ある言明が真であるかどうかは事実に依 存する場合と依存しない場合があるので、ある言明が真であるか どうかを決定する方法も二種類あることが分かります。第一の方 法は、言明が事実と一致するかどうか調べることであり、第二の 方法は、言明が論理の公式から導き出せるかどうかを調べる方法 です。第一の方法はわたしたちの日常経験による確認や科学的実 験によってなされています。第二の方法は、構文の論理的分析に よります。これは、数学の証明などそうです。

    ⑦ しかしながら、ある言明が真であることをどのように確実に決 定すかは哲学上の大問題です。真であるかどうかを第一の方法で 探るとしたとき、「見間違い」「聞き間違い」などがあり、必ず しも確かなものともいえないこともあります。
      そのようなことがある中で、デカルトは「我思う、ゆえにわれ 有り」というデカルトの第一原理(真理の根拠)を提唱しまし  た。何もかも疑っていくと、少なくとも「疑っている限り、疑っ ている自分が存在している」ことだけは確実である。この第一原 理を根拠に、その上に真理の体系を築こうとしました。

    ⑧ しかし、このデカルトの第一原理も、ニ-チェが批判するよう に、この確実だとされたわれなるものも、われを確認するのに他 の状況、他の知識と関連せざるを得ないので、真に真理の根拠と は言いえない。

    ⑨ 西欧哲学は、すべて、何を真理の究極的根拠にするかという問 題を追求してきたといっても過言ではありません。

    ⑩ これらの哲学者をよそ目に、人間の浅はかな知恵によらず、絶 対なる神の言葉に依存すべきだとすのが、キリスト教や類する宗 教の立場です。しかし、「聖書は神の言葉である」とか「神は存 在する」ということは、人間の思いこみだという問いにたいし、 教会側は明瞭な回答をすることができないでいます。従って「神 のことば」は真理の究極的根拠とはなり得ません。


    純粋経験

    ⑪ 西田幾太郎のいう、純粋経験という神秘的なものも、西田の経 験であり、一般に経験されることがらではないので、これも思い こみの類であり、真理の究極的根拠とはなりえない。西田哲学は ヴェ-ダのインド哲学のア-トマンとブラフマンとの同一をいう ようなものでしかない。
      西田の純粋体験などは、形而上的信仰にすぎない。


    真理の究極的根拠は必要か


    ⑫ わたしたちににとって、本当に真理の究極的根拠は必要なのか 疑問である。究極的根拠が必要とされるのは、真理の探究にあた り、土台となるしっかりしたものが必要とされるという、私がい う「積み木」モデルという考え方に依拠するものである。しか  し、私たちの知識は、積み木のように一つの知識が崩れると積み 木全体が崩れるようなものでしょうか。

    ⑬ 私は、積み木モデルでなく「知球」モデル型の真理の探究法を 提案する。わたしたちの知識は、無限の無知空間に浮かんだ「知 球」のようなものととらえることができます。この方法で捉える 知識は、究極的なものではなく、部分的なものです。目の見えな い人が象の足に触り象は木ののようなものであるといい、他の  者が、象の鼻にさわり〇〇〇のようなものであるというような知 識でしかないが、全ての人の情報を総合して象とはどのようなも のであると把握してゆく作業が知球モデルによる探求法です。
      

     

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    from: ueyonabaruさん

    2008年02月16日 16時12分34秒

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    「Re:佐倉さんの真理、論理、真理の根拠のまとめ」いちおう、佐倉さんの考え方はどうなのかを知るために、また自分自身の理解を確かにする目的で、まとめの作

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