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from: ueyonabaruさん
2008年11月29日 14時56分12秒
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エマ-ソンの日記から ⑤
神は君の内部に住んでいるということだ。これは比喩でもなければたとえ話でもない、多くの人びとも君も、この事実を知らない、だが神は存在するのだ。神は君の世
神は君の内部に住んでいるということだ。
これは比喩でもなければたとえ話でもない、
多くの人びとも君も、この事実を知らない、
だが神は存在するのだ。
神は君の世界のなかにいるのだが、
世界は神を知らない。
神とは、生命の多様な鼓動が別れてゆく
巨大な「心臓」だ。
覆いかくされているにせよ、
「無限なる者が」人間の胸奥に座している。
しかも君は君の客人をしらない、
君が何者を内に包んでいるかを知らない、
君の内部で彼の生命を覆っている雲は、
幾重にも張りめぐらされた君の罪悪の網の目だ。
彼の栄光はその網の目を通りぬけようともがきつつ
お前の悪の色に黒ずんでしまう。
だから、おお人間よ、
君の客人、君の魂の内なる魂の規模に合わせて振舞うがいい。
行くところどこででも堂々と振舞う
この使節にふさわしく
偉大であれ
君の魂に君をゆだねよ---
その支配に従え---
君に言うが、君の魂こそ神自身なのだ、
君という人間を通して、押しころした声で語り、
君という人間を通して、その光を奪われて外部を見ているが、
彼こそ「すべて」を支配するあの存在なのだ。
だが、もし君が彼の声に従い
その高貴な思想に従うならば、
彼の声は君の耳にいよいよ澄んで聞こえるようになり、
その光は君の目にいよいよ燦然と輝くようになるだろう。
いま彼を覆いかくしている雲は裂けて
君は主を見るようになるだろう。
だから偉大であれ、
高慢であってはならない--高慢であることを蔑むほど偉大であれ
君の目をきょろきょろさせるな、
片隅をのぞき込むな。
天真爛漫な神にふさわしく、
君の目の前をまっすぐに見よ。
君の私室にあっても威厳を失わず、
光にみちあふれて、そこを歩むがいい。
そして、王者が自分の国を裏切ろうとはしないように、
君も君の国を裏切ってはならない。
いまはじめて啓示されたことが
君にもよく理解できる
理由はこうだ、
全てのもののなかに住む「霊」が
君のなかに住んでいるからだ。
君が自然の法則を学び得るのは、
その法則をつくった者が君の胸のなかにひそんでいるからだ
だから、おお若者よ、
君がこの真理を知って愛するなら、君は幸福だ。
君は君自身にとって一つの法則なのだ、
万物の魂は君のなかにあるのだから
君は自分以外の何ものをも必要としない。
法則、福音、摂理、
天国、地獄、最後の審判、
真理と善の測り知れぬ倉庫、
こんなもののすべてを、君は
君のただ一つの心のなかに見いださねばならぬ、
他のどこにも見いだせないからだ。
君が法則なのだ。
君の心の奥まった部屋からの応答がなければ、
福音も、
平和や希望を啓示してはくれない---
他のものはすべて藁くずにすぎない。
それは未知の真理を啓示することなどできない。
摂理を実施するのは、
ほかならぬ君自身だ、
君の勤労には富を、君の怠惰には欠乏を、
善には栄光を、怠慢には蛾をさずける。
君は風を蒔けば、やがて旋風を刈り取る、
いつの時代にも君は、君自身の勤労の
賃金を支払うのだ。
内なる全能の精力(ちから)
徳を完成させ、罪悪をののしる。
徳はみずからの光でものを見る。
最悪はみずからのつくりだした夜の闇ののなかでつまずく。
君が正しいことをするのを是認するのはだれか。
君のなかにいる神だ。
君が不正にはたらくのを非難するのはだれか。
君のなかにいる神だ。
君のよこしまな行いを罰するのはだれか。
君のなかにいる神だ。
神のほかには何ものも存在しない。
どこを見ても
すべてのものが神にいそぎ帰ってゆく、
光も神のかすかな影ににほかならない。(1831.7.6)from: hiraokaさん
2008年12月03日 00時36分57秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:エマ-ソンの日記から⑤」ueyonabaruさん、こんばんは>自縛霊はその土地に縛られて成仏してないもの、
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from: ueyonabaruさん
2008年11月28日 14時35分50秒
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エマ-ソンの日記から ③
20歳あとからの分をご紹介していきます。著作においても行動においても、最初にあまりに高いものをもとめることを避けよ、というのは、すぐれた助言である。・
20歳あとからの分をご紹介していきます。
著作においても行動においても、最初にあまりに高いものをもとめることを避けよ、というのは、すぐれた助言である。・・・・・天候とか時刻とかに興味を示すことを侮蔑してはならぬ。談話が次第に思う壺へはまったあとではじめて、所を得た知識や時宜を得た熱情が正しく報いられるであろう。 (1824.1.25)
ぼくは自分自身を二度も三度も検察した結果、自分が罪人であり、聖者であることを知った。・・・・・善とか悪とかいわれる心の状態が、いかに外的な環境とは無縁であるかをこの目でたしかめたのだ。(1825.1.4)
神が存在することは不確かだが、神が存在しないということは有り得ざる、驚くべき妄想ではないかと思う。 (1826,1.8)
人間が自分の思想を綿密に調べてみるなら、自分がどんなに未来というもののなかに生きているかを知って驚くだろう。彼の幸福は常に前方にある。こんな生物だからおそらく不死なのだ。
(1827.2.6)
あまりに多くのものを信ずるのは危険だ。それは何ものも信じないことに近いからだ。汎神論は無神論に通ずる。 (1827.3.11.)
ぼくは自分をひとりの男に友情の絆で結びつけた。その男は、ぼくの真理への愛情に劣らぬくらい熱烈に真理を愛し、その多様な探求の点でぼくを凌駕する知力をもち、・・・・・。しかもその男は、ぼくの気のせいかと思ったほどなのだが、首尾一貫した無神論者であって、魂の存在や、それから、もちろんのことだが、霊魂の不滅などまるで信じていない。こんな問題に対するぼくの信仰は強固であって、ぼくが生きているかぎり崩れ去ることはないとぼくは信じている。それでいながらぼくは、この不敵な懐疑家を愛し尊敬する。彼の魂は気高く、彼の徳は、サドカイの徒の徳がいつもそうであるように、崇高なのである。 (1827.4.6)
この世の栄えは好きな所へ行くがいい。心には独自の栄光があるのだ。心がなすところのものはいつまでも朽ちることがない。どんな人間でも多くの主人に兼ねしたがえることはできない。・・・・・。ぼくの行く手に、不思議な思想が突然姿をあらわして、ぼくを前方へさしまねく。ぼくは、自分が「神」に通ずる大道を歩いていることを疑わない。 (1827.4.7)
だれでも自惚れをもてば、必ず自惚れのために苦しむ。自惚れを捨てて柔和になれば、必ず自分という人間が変化した幸福のよろこびを感ぜずにはおられないのである。 (1827.5.5)
ひとりの男の話---その男は臨終の床に自分の放蕩息子を呼びよせて、大きな遺産をあたえ、ただひとつ、毎日一時間だけ孤独な時間をすごすという約束をさせた。息子は父との約束を守り、賢い立派な人間になったという。 (1827.8.24)
from: ueyonabaruさん
2008年11月30日 00時00分37秒
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「Re:Re:エマ-ソンの日記から③」>ぼくは、ueyonabaruさんにおじゃまでしたら別の場所でリアリストさんとお話を続けようと思っていましたが,
from: ueyonabaruさん
2008年11月29日 11時30分42秒
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「Re:Re:エマ-ソンの日記から③」スウェ-デンボルグの説く霊界は、やはり誰かの解説などが必要ですね。その都度教えていただければありがたく思います。
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from: ueyonabaruさん
2008年11月29日 12時37分51秒
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エマ-ソンの日記から ④
祈りとは何だろう?それは、人間の願望を神に向かって表現したものである。では神とは何だろう?それは、人間精神の中に形成し得るもっとも高い人格概念である。
祈りとは何だろう?それは、人間の願望を神に向かって表現したものである。では神とは何だろう?それは、人間精神の中に形成し得るもっとも高い人格概念である。完全の域に達した、個人自身の魂である。なぜなら、個人は、これ以外の神を考え得ないからだ。私が有限であるように、神は無限なのだ。私が罪深い存在であるように、神は罪なき存在なのだ。私が無知であるように、神は全知なのだ。・・・・・ (1830.2.28)
太陽は私たちを照らし暖め、光をあたえてくれるが、私たちはなぜそうなのか知りたいという好奇心はもたない。ところが私たちは、あらゆる悪や苦痛や飢や蚊や馬鹿な連中に接すると、なぜだろうと考えるのである。(1830.8.18)
人間が堕落して道を誤るのは、自分自身でなくて他人に耳を傾けるときだ。世界の偉人たち、人類の教師、徳高きもの---ソクラテス、ベ-コン、ニュ-トン、バトラ-、その他の人は、他人の意見を鵜呑みにせず自分で探求した人びとである。そして、それこそ倫理学や宗教を発見する道だったのだ。(1830.9.27)
神はすべての魂の基底を形づくっている。共感というものの謎をときあかしてくれるのは、この事実ではあるまいか。虫や肉体にたいして恐怖や共感をおぼえるのは、私たちの内部の虫や肉体であり、宇宙の神を礼拝するのは、私たちの内部の神にほかならない。(1930.12.10)
神を礼拝する者は徹頭徹尾きまじめでなければならないとする人は、自然というものの大きな部分を看過しているのだ。きまじめ一方の人間は、ふざけてばかりいる人間と同じく、完全な性格ではない。こっけいなものによって表される真理も多いのだ。(1931.3.4)
私は神の子供であり、キリストの弟子である。あるいは神の目から見れば、私とキリストは相弟子なのだ。(1831.6.20)
「服従」こそ宇宙の法則を読む目である。君が君の願いを便宜の前に屈しめず、君の願いのレベルより低い利益のなかに安んずることがなかったら、君はよろこぶがいい。・・・・・天上的な感情の欲するままに、いや高く浮揚せよ。感覚や因襲と取引することなく、王者のみを相手とせよ---元首は元首を相手とする。(1831.6.30)
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from: ueyonabaruさん
2008年11月28日 06時58分14秒
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エマ-ソンの日記から ②
あと一遍、20代の日記から引用させて下さい。あと二ヶ月経つと、ぼくは満二十歳になる。人類のうつろいゆく世代のただなかで、歳月の深淵のなかで、ぼくはだれ
あと一遍、20代の日記から引用させて下さい。
あと二ヶ月経つと、ぼくは満二十歳になる。人類のうつろいゆく世代のただなかで、歳月の深淵のなかで、ぼくはだれも知らず、誰にも省みられない孤独の叫び声をあげ、仮借ない「時」に向かって泣き言をいう-「とどめてくれ、いっさいを破壊し圧倒する者よ、この手におえぬお前の疾走を、ほんの束の間でも、とどめてくれ。・・・・
「されどかの川は流れ去り流れきたりて、永遠につくることあらじ」
ぼくより前に何千人の人間が、おそるべき「時」の飛翔を凝視したとき、ぼくと同じ恐れと悲しみのまなざしを「時」に向かって挙げたことだろうか。だが、あらゆる存在を滅ぼし変化させるこの無限なる「時」は例外をおかず、おやみなく、その至高の力を働かせ続ける。
こうしていそがしく進みまた去ってゆく平凡な無数の人びとのなかに、永い期間をおいてときどき現れる小数の人間が、同じ人間仲間に奉仕するために全力を傾けることによって、この世界で(そしておそらくあの世でも)永く記憶に残る者となるのだ。
いつくしみ深い神が、地上の人の子らを天上からみそなわしているとすれば、高潔な精神ををもった人びとが、人間性のために、また人間性の改善をめざすことを公言して行った、辛抱づよい研究と、激しい労苦の光景は、神のよみするところとなるだろうと彼らが考えたのは、まちがってはいなかったのである。
彼らの語るところによれば、人間は懐疑と虚偽の暗闇のなかで手さぐりしている。「真理」の光は消え、あるいはかすかに燃えているにすぎないからだ。さあ、炎をふたたび燃えたたせ、燃料を補給しようではないか-遠くまであかあかと照らす標識の光となって燃えあがり、世界をあかるくするまで。そうなればぼくたちの子孫は、あかるい光のなかを歩むようになり、ぼくたちが死の部屋におりていったのち久しく経たのちも、ぼくたちへの祝福を神に祈りもとめるだろう。・・・・・
※二十歳というこの時点で、すでに自分の役割を自覚しているようです。 -
from: ueyonabaruさん
2008年11月27日 15時58分31秒
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エマ-ソンの日記から ①
エマ-ソンを解説するのは私の手に余りますが。生没は、1803-1882です。メイフラワ-号でイギリスから清教徒たちがアメリカに渡ったのが、1620年で
エマ-ソンを解説するのは私の手に余りますが。
生没は、1803-1882です。メイフラワ-号でイギリスから清教徒たちがアメリカに渡ったのが、1620年です。独立宣言がなされたのが、1776年。南北戦争が1861年から1865年まで行われておりますが、これは日本の幕末、維新の頃にあたりますね。エマ-ソンは幕末から明治の初期に生きていたことになります。彼は、アメリカ文学の父とも、アメリカ思想の父とも呼ばれています。
彼の思想を一言で言えば、超絶主義(Transcendentalism)となります。理想主義哲学、ロマンティシズム、インドのヴェ-ダの思想との関わりが挙げられるでしょう。でも、この説明はは参考程度にとどめた方がよさそうです。例えば、プラトンのことを一言で言えるでしょうか。イデア論者と括るには、やはり余ってしまいますよね。
明治の知識人たちには大きな影響があったそうです。福沢諭吉、北村透谷、宮沢賢治など、多くのものが、彼の著作を読んだということです。生長の家の谷口雅春師は、生長の家はエマ-ソンを幽祖
とするとまで言い切りました。生長の家は、エマ-ソンを幽祖とする光明思想に仏教理論を加えてできたという風なことを書いておられたことを記憶しています。
多様なエマ-ソンですが、彼は日記を書いておりますので、そこからかいつまんでご紹介するのがよさそうです。以下抜粋です。
叔母の信仰は、ぼくの考え得るあらゆる信仰のなかで至醇至高のものである。その信仰は、方便と、ひとつの目的にかなっているか否かを主眼とする、ひろやかな、深い、一風変った原理にもとずいているらしい。・・・・・彼女はいわば、彼女の宗教を奉ずる魔女であり、いつも自分を、狭い、だが崇高な小径を歩かねばならぬ人間だと考えている。その小径は、歓喜にみちた、荘厳な栄光の、はてしない世界に通じているのだ。
われわれの内部に刻みつけられた「対比」の原理-どうしてこの原理は生まれたのだろう。・・・・・
あと12日すると、ぼくは19才になる。これはみじめなことだと思う。教育のある人間でこの年齢まで生きて。こんなに多くの年月を無駄に費した者が、ぼく以外にひとりでもいるだろうか。・・・・・ぼくは、いまでは不遜な愚かしいものに見えるかも知れないが、将来偉くなることについて絢爛たる夢をいだいた人間なのである。ぼくの幼いころの想像は、ひたすら栄光を跪拝して、社会でいちばん高い位置を占めた人びとの栄誉を得ようと企て、歳月と時代の称讃によって聖別された人びとと名声を競うことさえ辞さなかったのだ。・・・・・この希望は、時折、ぼくが経験する、詩神たちの住む天界との高い交わりによってはぐくまれ、あおりたてられた。そうした交わりは、時あってぼくを、ふだんのぼくをはるかに超えた、異常な気持や感情の器とするのだった。・・・・・
人間生活のもろもろ不幸を思って泣いてばかりいたヘラクリトスは馬鹿者だったのだ。あるいは美と階調が見えなかったり聞こえなかったりしたのであろうか。・・・・・ほんとうの哲学はもっと明晰な視力をもっていて、人間の状態の大きな不均衡のただなかにも、幸福の大きな均等化を認める。・・・・・人間の心は、崇高な「必然性」によって結合され支配されている調和ある全体を、認識することができる。ところでこの必然性は、その力強い環のなかに、多くの個人の自由を抱きしめ、何ものをも控除することなしに、すべてのものを、その正しい目的へと向けるのである。・・・
人間にむかってぼくの頭をさげたり、畏縮した態度をとらなければならないいわれは無いのだ。魂を裸にしてみるとき、ただ毅然たる独立精神をもつ人間だけが尊敬に値するのだ。・・・・・だが、自分は測り知れぬほど高い運命を成就すべく生まれた不滅の存在であり、ぼくの道徳的知的属性は直接に全能の神に由来するものであって、神の子供としてのぼくの存在と状態は、同じく神の子供である他の人間の支配や意志からは永久に独立していなければならぬという事実を考えるときに、ぼくという人間は、自分の目からみて、人生におけるより高い位置に、よりよき自尊の念へと高められる。・・・・・敬虔なキリスト教徒だったら、自分の謙遜に淫することはないはずだ。創造主にたいする彼の崇敬の念は、創造物にたいする度外れな尊敬を禁ずるのである。
※以上は、エマ-ソンが20才までに書いていた日記からの抜粋です。私の本では、彼が20才で1823年のときから1838年までの日記が載っています。それ以降の日記があるかどうかは分かりません。次回は、20才からあとの分を若干引いてみたいと思います。from: ueyonabaruさん
2008年11月28日 06時08分40秒
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「Re:Re:エマ-ソンの日記から①」>>まだ、彼女の本は1冊しか読んでおりませんね。>彼女の「帰ってきたソクラテス」なんかは、どうでしょうか?そうで
from: リアリストさん
2008年11月28日 03時59分05秒
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「Re:Re:エマ-ソンの日記から①」>ぼくは「事実であること」と「そう信じること」とは、明確に分けられるものではないと思うのです。>日常一般的な生活
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from: ueyonabaruさん
2008年11月25日 10時56分28秒
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ヘルメス・トリスメギトスのことウオ-レスのことについて
hiraoka-リアリスト論争はしばらく中断してしまうことになりそうで残念です。今後の再開を期待したいと思います。hiraokaさんが以前にお尋ねの表
hiraoka-リアリスト 論争はしばらく中断してしまうことになりそうで残念です。今後の再開を期待したいと思います。
hiraokaさんが以前にお尋ねの表題の件ですが、神秘の法(大川隆法)に載っているので是非直接ご覧下さい。たくさんの興味深いことが書かれておりますので、ご購入の上、お読み下さいね。
申しましたように、文章の抜粋をあげ、ご紹介しようと思っております。ウィキのことは全く考えておりません。
エマ-ソンのご本がなかなか見つからないようですね。図書館にもないのですか。図書館になかった話をこちらも一つ話します。
スウェ-デンボルグを読み始めた頃、どうしても意味が分からず、もしかすると英語の原本ではどのようになっているかをみれば手がかりがつかめるかもしれないと思い、近くの琉球大学の図書館にミニバイクで出かけ調べてみました。ないのです。係りの方は、さらに国立大学の図書館のネットワ-クがあるそうで、そこでも調べてくれたのですが、ありません。普通に考えると、大学の図書館ともなるとスウェ-デンボルグの著作などの古典は全集として備えていると思いませんか。今の時代マイナ-なんでしょうか。
「ソクラテスの思いで」という本、表題からは魅力的な感じがします。琉球大学の図書館に再度行き、あれば借りたいとおもいますが、あるかどうか。
>ものすごく期待されると困ります。hiraokaさんの期待するエマ-ソンではないのかもしれませんから。ウィキに書くなど考えられませんよ。
ぼくの期待するエマーソン像を書いて欲しいのではないんです。
ぼくの知らないことを教えてくれるエマーソンをueyonabaruさんに期待してるんです。
エマーソンについて書いてくださったら、ぼくがどうにかしてウィキに登録できるようにがんばってみます
ワッと泣き伏すという表現素晴らしいと思います。モ-ツアルトの40番でしたか、大ト短調という有名な曲ですが、まさしくその言葉にピッタリの曲想ですね。最初から悲しみが感じられるのですが。この曲は、小林秀雄が、日中に歩いているときでしたか、空中から実際にでだしの節が聞こえてきたという神秘的な体験を書いております。
モーツァルトの曲は、「明るく明るく演奏して、最後にワッと泣き伏すように演奏するのが良い」と言った指揮者がいましたね。from: ueyonabaruさん
2008年11月27日 10時33分41秒
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「Re:Re:Re:Re:ヘルメス・トリスメギトスのことウオ-レスのことについて」>ueyonabaruさんが池田さんと合わないのは、池田さんが「霊界
from: リアリストさん
2008年11月27日 07時02分15秒
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「Re:Re:Re:Re:ヘルメス・トリスメギトスのことウオ-レスのことについて」>リアリストさん、まさか・・・あなたはひょっとして、もしかしたら須呂
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from: リアリストさん
2008年11月21日 22時32分03秒
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「心」について
少し、私の立場を整理致します。万物の源で生命の実相であるところの霊魂は存在する。(これは私が信じている事)幽霊は物理的実体がありませんので、否定する。
少し、私の立場を整理致します。万物の源で生命の実相であるところの霊魂は存在する。
(これは私が信じている事)幽霊は物理的実体がありませんので、否定する。
では、次に第三の関門として、「心」はあるのか?です。
私の立場は、「心」は存在しているです。その理由を述べます。
先の、「事実である事」と「信じている事」の境界は物理的実体が存在しているかどうかでした。
では、心とは「信じている事」なのでしょうか、それとも「事実」であることなのでしょうか?
心の物理的実体こそが脳なのです。脳神経細胞のネットワークなのです。これで、知情意を始め
意識や記憶の一切を司っております。では、そのネットワークと心は分けられるのかと言いますと
それが「色心不二」です。心とからだは分けられない。これを正確に現代医学に当てはめますと
心と脳神経細胞のネットワークの機能は分離出来ずに一体のものである、となります。
霊は否定するが、心は存在している。それは、脳機能の中に物理的現象として存在しているから
ということです。ですから、イメージとしては肉体と心は一体不可分となっており、それに霊魂が
重なり合っているような状況です。霊には様々な意味合いがありますが、ghost(幽霊)は否定しますが
spirit(心)は肯定するとなります。 -
from: hiraokaさん
2008年11月21日 01時01分13秒
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:「神」の存在は、「事実」か「信じること」か? 2
ueyonabaruさま>池田さんや小林秀雄には信仰はあったのではないでしょうか。ええ、ぼくもあったと思うんです。でも、信仰の「仰」の字は使わないだろ
ueyonabaruさま
>池田さんや小林秀雄には信仰はあったのではないでしょうか。
ええ、ぼくもあったと思うんです。
でも、信仰の「仰」の字は使わないだろうと思うんです。
彼らは強力な推論で自分の構築した世界観宇宙観に自信を持っているので、自分の推論の結論に「信」を置いていたと思うんです。
>また、小林秀雄は存命のころ、橋かなにか高いところから落っこちたことがあるのですが、自分が助かったのは亡くなった母親が守ってくれたと思うと話しておりましたし、・・・
へえ〜、そうなんですか。
やはり人智を超えたものの存在を強く感じていたんですね。
>魂が存在するのは当たり前だとも言っておりました。
へえ〜、はっきり言ってたんですね。
でも、彼らが「魂」と云うときは、「自分を自分として認識できる本体」「自己そのもの」と云う意味なのだろうと思うんです。
ソクラテスも「魂」と云う言葉をよく使ってるんですが、当時の(今も?)、素朴に直感できる「あなた自身」「自分自身」の意味で使ってるようですよ。
>あとひとつ、批評について語った言葉があります。批評は、相手を理解し愛しなければ、良いものは描けないということも言っておりました。
さすが、ですね。
リアリストさま
>ひょっとしたら、hiraokaさんは、毎日の介護を「何で、こんな大変なことを俺独りがしなければならないんだ?」と思われてはいませんか?
大丈夫です大丈夫です、ご心配なく。(*^。^*)
でも、32歳よりも前に、今のようになったら狂って自殺を考えたかも知れませんね。
>それはhiraokaさんがそれに耐えられるからです。
ええ、そうなんですよねぇ〜、つらいんですけど。
いやほんと、ぼくの経験に何人の人が耐えられるだろうって思うんですよ。
ああ、自分って結構強いんだなあって思ってるんですよ。
でも、「もう一度、やってみるかい?」と問われれば、まっぴら御免でございます。(^.^)
ワシントンだったか、「もし生まれ変わったとしたら、迷わず同じ人生を繰り返します」と云ったそうですが・・・・。
ぼくだったら、「いえいえ違う道をたどります。特に、生活のためにこんなに一日のほとんどを費やさなくてもいいようにしてくれなきゃ嫌です。」と主張しますです。(^.^)
>「片手落ち」という言葉を使われましたね。
気に障られましたら、ごめんなさい。
差別用語なんでしょうね。
ぼくはあんまりそういうことにこだわらないんですよ。
自分が侮蔑的に云われても、「まあ、それはあなたの言葉なんだよな」、くらいにしか思わなくなったんです。
もちろん、昔の自分だったら逆上してたことでしょう。
父親が「あいつは、こう云った!」と逆上しているのを何度も見て、直感的にそういう感情を避けなければならないと思うようになったようです。
まあ、こういうのもつらい体験ではありますが・・。
>hiraokaさん自身は、健康である事が当たり前であると思っておりませんか?
大丈夫ですよ。
それどころか、この年になって一度も大病もせず同級生よりもはるかに若く見られることに感謝を通り越して、不思議だなあ!って思ってるんです。
>既に思想に「転生輪廻」が入っているからですよ。これはhiraokaさんも信じておりませんか?
「私自身も霊魂のようなものがあって死後赴く事は確信しております。」と申し上げております。
そうだったんですか! いや、まったく誤解していました。
ueyonabarさんがリアリストさんから離れたのは、リアリストさんが霊界を信じていないからだと思っていました。
いやはや、言葉と云うものは厄介なものです。
リアリストさんは言葉を厳密に使おうとされているんですね。
じつは、「あれあれ? おかしいな。
リアリストさんは人間は神の現れであると同意した。
神は消えることはない。だから、自分も消えることはない。
だから、自分の肉体の死後での存在も認めているはずだ。
かたや、幽霊というのは自分が肉体ではないのに生きているときの惰性で、まだ生きていると思い込んでいる霊が、敏感なひとに見えるものだ。
これら幽霊の存在を信じていないとは、どういうことなのだろう?
といぶかしんでいました。
>私は幽霊なるものが物理的実体を伴ったものであるのかを確かめたかったのです。
ああ、このことでしたら、ぼくは物理的にあるはずだと思っています。現在の物理の分野がまだよく解ってないのだと思っています。
ぼくにはとても手におえない難問ですが、ほんとうはこのことを物理的に証明したかったんです。
>ちょっとイメージして頂きたいのですが、時間軸に対して宇宙が螺旋上に回転しているイメージです。
このことについては、ご心配なく。
ブラバツキー夫人の十八番理論ですので、ぼくもある程度わかってます。
>脳の機能として脳内に幽霊を作り出す力がある。・・・・これは、脳内の神経伝達物質の問題となってきます。
研究したわけではないので断定はできないのですが、「脳内の神経伝達物質」ではなくて、ニューロンのネットワークの混線・混乱ではないかと思うんです。
薬で幽霊を見たと思うことは多いにありえますが、たいていは脈絡が無くその場限りで、見たものと現実の過去をつき合わせることはできませんね。
しかし、数ある幽霊との遭遇体験と云われているものは、じっさいの現実と付き合わせられる例がたくさん残っているんですよ。
>幽霊を科学的に認めるならば、現代医学、大脳生理学に矛盾する内容であってはならないという立場です。
現代医学、大脳生理学に矛盾しているとは、ぼくには思えません。
もっともその分野の結論が、「自分を認識している本体は、脳による作用である」と主張するなら話は別ですが・・・。
そうはやとちりしている学者さんも多いみたいですね。
茂木さんが徹夜の研究をして、朝の始発電車で帰るときにモウロウとした頭でボウッと考えていたそうです。
そのとき、ハッとクゥオリアの意味が解ったんだそうです。
「赤い色と云うのは解るが、赤の赤色らしさと云うものがそれだったんだ!」と思ったんだそうです。
赤色の赤らしさと云うのが、イデアなのかも知れません。
この、赤色の赤らしさを感じ取る本体が、本当の自分に近い本体なんですねえ。
夢なら水のみずみずしさとか、毒々しさとかよくわかるんですけど、・・・。
ちなみに、ぼくは脳による所産を否定しません。
ぼくらは霊と肉を同時に生きているのだと思っています。from: ueyonabaruさん
2008年11月21日 09時48分30秒
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「Re::「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?2」hiraokaさん下のhiraokaさんのご発言に関してですが、>ソクラテスも「魂」と云う言
from: リアリストさん
2008年11月21日 06時30分17秒
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「Re::「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?2」hiraokaさん、御丁寧にレスを頂きありがとうございます。また、随分と誤解されていたのです
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from: hiraokaさん
2008年11月18日 01時11分24秒
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「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?
ueyonabaruさんと、リアリストさんに感謝します。表題の前に、リアリストさんへのご返事を書きます。>自身が経験した事、これが最も確実な「事実」で
ueyonabaruさんと、リアリストさんに感謝します。
表題の前に、リアリストさんへのご返事を書きます。
>自身が経験した事、これが最も確実な「事実」です。
これこそが曲者なんですよぉ〜。(*^。^*)
リアリストさんは、経験したことの物理的に起こったことを「事実」とされているとは思いますが・・・。
重要な問題は、「経験したことを、どのように思ったか?」、
「経験したことを、自分の中のどの位置にどのようなパターンとして収めているか?」、なんです。
つまり、「自分にとっては事実だ、と思っていること」を事実だと記憶し、かつ思い出すわけです。
このことは、ぼくに云われなくてもご存知と思います。
同じように、リアリストさんが思われる「事実」の定義も、ぼくは納得します。
>心理学の「ジョハリの窓」
次に書くことは、この手法を否定しているわけではありません。
この4分類は、自分で書いて、さらに自分を知る人にも書いてもらえばより効果的かもしれません。
もっとも、この手法は「他人を気にしている自分が自分自身を苦しめているのだと気づかせる」のが目的でしょうから、これでもかまいません。
この手法は、世の中に「自分と云うものを、他人の目から見たら自分はこう見えるだろう、それが自分だと」と無意識に思い込んでいる人たちが、いかに多いかと云うことを気づかせてくれるでしょう。
ですが、この分類を自分ひとりでやっても、それこそ自分の見ている世界なんです。
さらに、ぼくの云うように「他人による、あなたのジョハリ・テスト」を本人が読んだら気絶してしまうかも知れませんね。
ショック療法です。(^.^)
>私の場合は、宗教のあるべき姿を模索している状況と言えましょうか。また、このような対話を通してお互いに何らかの「気付き」があることを願っております。
たいへんに驚きました、尊敬します!
科学の結論を信じることも、ある意味で宗教なのだと云うことに気づいていらっしゃるのですね。安心しました。
ぜひ、お付き合いください。
>hiraokaさんが、何故このようなスタンスに到ったのか是非お聞かせ下さい。
はい、ぼくは科学少年でした。
過去ログにもあるように啓示のような体験をしてから、人が生きていることの不思議や、宇宙が存在することの不思議や、自分が自分をなぜ自分と認識できるのか?自分はなぜ他を自分とは思えないのか?と云ったような疑問にずいぶん苦しんで来ました。
これらは、すべて偶然の結果だとは思いたくなかったのでしょう。
それで、さまざまな方面から納得のいきそうな調べものを始めることになりました。
科学方面からも哲学方面、文芸、その他片っ端から、自分が納得できうるものを探し求めました。
幽霊の話や博物学や民俗学などもずいぶん読みましたが、あるときエドガー・ケイシーのリーディングを読んで、「本当にあの世ってあるんだ!」と仰天しました。
まさに理性的に考えて、「これは死後の世界があるとしなければ、まったく説明できない」と思ったのです。
それから、「もし死後の世界があるとするならばそれはどのようなものだろう?」と云うことに主題が変わりました。
この考えの変化には一年以上かかったと思います。
大川さんも「このように考えることができるようになるためには、どうしても一年以上はかかります。」と云っていました。
それからのちは、ソクラテスの云うとおり「善きものは自分がすでに知っている」と云うとおり「そのはずだ」と思えるようになりました。
さて長くなりましたが、表題のことに移ります。
「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?
↑このテーマでよろしいでしょうか?
その前に定義しておきたいことがありましたらお知らせください。
ぼくは、どちらでも云えると思います。
例えは悪いかもしれませんが、ぼくの考えは不確定性原理と同じです。
「神はその人の思うように現れる」と云うのが、ぼくの結論です。
無いと思えば、そのように無いように(現れる?)見えるし、在ると思えばイワシの頭もそのように(現れる?)思われるでしょう。
なぜそのように神が現れるかと云うと、自分は神だったのだとうすうす気が付いてきたからなんです。
このようなことを書けば、昔なら異端審問にかけられるでしょう。
ですが、「成長の家」などは最初からそう云っています。
イエスも「私にできることは、あなたたちもできる」と云っています。
ここで気をつけなければならないのは、「自分は神だ」と同じように「あなたも神だ」なんです。
ぼくはこのことを証明できません。ですがリアリストさんのおっしゃる、
「>宗教のあるべき姿を模索している状況」
に貢献できるのではないでしょうか。from: ueyonabaruさん
2008年11月20日 11時06分53秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?」池田さんや小林秀雄には信仰はあったのではないでしょうか。今再
from: リアリストさん
2008年11月20日 05時15分19秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:「神」の存在は、「事実」か「信じること」か?」>>毎日楽しく幸福に生活しております。現実生活の中に幸福を感
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from: ueyonabaruさん
2008年11月14日 09時25分15秒
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無限と有限について
表題のように大きく出ましたが、これは私個人の疑問であり悩みであり、おりに触れ、誰かに訊くのですが解決できないことがらです。科学と哲学にお詳しいhira
表題のように大きく出ましたが、これは私個人の疑問であり悩みであり、おりに触れ、誰かに訊くのですが解決できないことがらです。科学と哲学にお詳しいhiraokaさんにも聞いてもらいたいのです。
私が高校の1年の頃でしょうか、数学の時間に無限数というのですか、要するに無限の概念がはじめて登場したときのことです。
1から2に至るまでには、その間には1.01、1.02等々という数字があります、さらに、1.01から1.02に至るまでには、1.001,1.002等々と数字が続くことになります。そうすると1から2に到達するというのは一体可能なのかという疑問が出てきました。多くの級友はそのようなことを悩まずに素直に勉強を続けていきましたが、私の数学の勉強はここで停止してしまったのです。1と2の間には無限が横たわっているのです。無限とはなにか、有限とは何か、いよいよ分からなくなってしまったのです。
そんなことがあって、宗教に入ったと思うのですが、「一即多、多即一の概念」、バイブルにある「われはオメガでありアルファである」、などはこのあたりのことをいうのであることはおよその推測はつきます。
私は、自分自身、物理学というのは性格的には好きな人間ではあると思っているのですが、電気とはなにか、電磁波とはなにかなどと観念的に考えてしまい、結局は物理を理解できなくなるようです。
from: ueyonabaruさん
2008年11月17日 17時24分05秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無限と有限について」リアリストさんとhiraokaさんの議論が行われることを希望します。ブログの整理
from: リアリストさん
2008年11月17日 05時11分17秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無限と有限について」hiraokaさん、早速のお返事ありがとうございます。>ぼくのスタンスをちょっとだけ訂
from: ueyonabaruさん
2008年12月03日 07時04分17秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:エマ-ソンの日記から⑤」毎回お忙しい中ご返事いただき感謝します。>いわゆる成仏をしていれば、この世に