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from: 坪井さん
2009年10月24日 00時28分26秒
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雨降田
町会有志で開墾した畑の周辺には伝説がある◆昔、坪井城の対岸に御堂があった。御堂の下の田んぼは胸まで潜る深田であり、この田んぼに農作業で入るとなぜか晴れていた天気が急変し、雨が降る◆坪井城が襲撃され焼け落ちたとき御堂も焼け、祭っていた地蔵菩薩が御堂下の田んぼに沈んだ。この地蔵の涙が雨になると祈祷師のお告げ◆村人は何度も田んぼに入り探したが地蔵は見つからなかった。悲しげな雨は降り続き、この田を雨降田と呼ぶようになった。この場所からは後年板碑が見つかり、今は郷土資料館に保管されている◆室町時代の武蔵形板碑の石材は秩父長瀞の緑泥片岩。採掘場で荒加工され、その状態で商品として流通し、需要地で仕上げ加工をされるという三つの段階の加工・流通により造られた石の塔婆である。-
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坪井、
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from: 坪井さん
2009年10月18日 18時19分36秒
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from: 電柱探検隊千葉市蓮池支部さん
2009年10月16日 21時18分13秒
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from: 電柱探検隊千葉市蓮池支部さん
2009年10月13日 22時52分00秒
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地名のない町 新宿
東京新宿には追分と呼ばれる場所があった。道が青梅街道と甲州街道に分かれる内藤新宿である。追分は正式な住所となったことはない。江戸時代、宿として旅籠がつくられる以前に、この地一帯は大きなお屋敷が立ち並ぶ地であった。場所には地名や番地はなく、代わりにすべての坂に名前があり、坂の名前かお屋敷の名前で呼ばれた。「追分」だけが場所の通称として使われた。その名が新宿区のゴールデン街に立つ電柱に残っていた。-
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坪井、
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from: 坪井さん
2009年10月11日 07時17分56秒
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from: 坪井さん
2009年10月02日 19時58分24秒
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坪井城跡の村づくり
坪井城跡の史跡本調査は10月1日から始まった。今回の発掘場所では住居跡、掘跡らしきものが発見されている◆この一帯は今は畑であるが、明治時代は広大な杉林の中に城壁があり、ばくち場と呼ばれていた。博徒が村人を巻き込んで博打をする場所となってしまい、ぶっそうな事件も続いて対策を求められた◆土地の所有者である名主は、風紀上の管理を求められて困惑したであろう。面積が広すぎて、自分の家だけでは開墾もできない。また、開墾して畑にしたとしても当時は農機もない時代であり、1軒で耕作できる面積ではない。お役人はなんとか管理しろと言ってくる。村の有志が立ち上がった。草を刈り、つるを切り、杉の大木を切って根を掘り上げ、畑にした。開墾した者の名前で登記し、各々が懸命に耕した◆本来、城跡の土地なら、しかるべき家が一筆で所有しているのが自然であるが、この地の地籍図が細かく分筆されている理由はそれによる。右の写真はたて穴式住居跡のようにも見えるが、開墾時にあったといわれる杉の大木を抜根した跡かもしれない。ちなみに、写真の穴にある横のラインは、ゴホウを掘る農機の跡とのことである◆ばくち場はなくなり、村に平和が訪れ豊かな農地が生まれた。城跡の地は、史跡を破壊した乱開発の地ではない。村づくり、環境づくり象徴の地である。-
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坪井、
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