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  • from: 坪井さん

    2010年04月20日 21時08分21秒

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    続・石の旅 グアム


     <font size="3">海底火山が隆起してできたグアム島は、フィリピン沖の北マリアナ諸島にあり、マリンブルーの海に囲まれた美しい島である。ビーチ沿いにホテル群が立ち並ぶ西海岸。海岸を走るバスから陸側のビル影に見えるのは、海岸に沿って続く灰色の岩壁である。この島には土がないのかと思えた。
     一つの火口から火砕流として大量にマグマが噴出されると多孔質の軽石からなるスコリア丘が形成される。街ができる前は、農業もできない不毛地帯であったろう。川がないため海岸に土砂も運ばれず、砂浜は珊瑚のかけらだけが堆積する。白い砂浜の海は鮮やかなマリンブルーとなる。
     西海岸からグアム島の南端にある標高406mのラムラム山を回りこむ。山裾の療せた赤土と雑草だけの荒涼とした風景が続く。
     東海岸に着くと、横井さんが潜んでいたジャングル地帯となった。樹木、竹、ヤシの木に囲まれた大きなタロフォフォの滝の岩を見る。岩は小石が多く含有されており、丹沢の七沢石を思わせる凝灰岩であった。西海岸で火山が爆発して溶岩が流れ、その火山灰が東海岸に堆積したのか。
     南端のココス島の砂浜には、火山弾なのか多孔質の重い軽石が転がっている。沖縄の竹富島と同じ「星の砂」がある美しい島である。岩石の検査法の本によると、星の砂の正体は、有孔虫という生物の化石である。有孔虫は、殼を持つアメーバの仲間で古生代カンブリア紀からあり、海草に半透明の偽足を伸ばす生きた有孔虫を見ることができる。その化石は地質の時代決定や蓄積環境の復元に役立つとのこと。なんとも夢のない余分な解説と妻の声。
     * マリアナ諸島のマリアナという地名は、16世紀、スペイン皇后のマリアンナが由来で、「グアム」は、現地人のチャロモ語で「我々の持っているもの」という意味。
     原住民にとって島の名前は必要であったが、マリアナ諸島全体の名前は必要がなかった。それは、世界の支配者にのみ必要なものであった。さしづめ、「字(あざ)」は原住民が付けた地名で「大字(おおあざ)」は支配者が付けた地名ということか。(船橋地名研究会員の報告)

    西海岸と岩


    東海岸の滝と岩


    ココス島の石と星の砂

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年04月10日 18時55分11秒

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    横井さんのお話2


     <font size="3">米軍がグアムに上陸したとき、2万人いた日本軍の兵力は3千人となって、戦闘不能となり佐藤少佐は投降した。投降命令が届かなかった横井さんは、ジャングルに28年間潜んで、戦闘状態にあった。
     「恥ずかしながら帰って参りました。」「天皇陛下よりお預かりした三八式小銃はちゃんと持って参りました。」という言葉は有名になった。三八式小銃は、台座はなくなっていたが、薬きょうを持っていたということは、敵弾を加工して弾を打つことができたということである。
     横井さんは28年この川で海老漁をしていたのだから、海老を横取りしたのは地元の人である。横井さんの名誉のために付け加えたい。
     横井さんが見つかるまで、ただの米軍基地だったグアムは、横井さんのおかげで有名になった。ヒルトン、ハイアットなどのホテルが建ち、島の東側にまで観光客が訪れるようになり、一大リゾート地となった。
     ガイドさんは70歳を過ぎても仕事があり、みな、横井さんのおかげと感謝されている。


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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年04月07日 20時51分56秒

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    横井さんのお話


     <font size="3">グアムで発見された横井庄一さんのお話
    川エビ漁をしていた地元の人が仕掛け網にエビがないので
    見張っていたところ エビを横井取りしていた人を捕まえた
    その人が横井さんだったそうな

    *今日,グアムの観光バスのガイドさんが教えてくれました
     横井さんの名誉の為 内緒にしていたお話なんでしょうね

     

      -グアムからのれきしさんぽでした-

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  • from: 坪井さん

    2010年04月02日 23時30分35秒

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    初ばやし


    <font size="3"> 坪井には、初ばやしという正月行事がある。正月に子供みこしが家々を回り、厄除けを祈願する。ご神体は今は二宮神社であるが、本来は霞ケ浦の大杉神社であり、以前は、子供神輿が「あんば大杉大明神 悪魔払ってよーいやさ」と唱え、家々にお札を配った。
     屋敷裏に大杉神社を祭る家があり、今でもこの神社前で必ず神輿をもむ。この神輿のもみ方は、地面すれすれまで下げてもむ。「地ずり」という銚子など沿岸の地区で行われるもみ方に似ている。吉橋の大杉さまは肩より上でもむが、地区の境で神輿を隣に引渡すときは、腰より下でもむ。集めた悪魔を振り落とすかのように。
     八千代の郷土資料館に尋ねた。「吉橋の大杉さまは、毎年竹で作った神輿を奉納していたが、神社を覗くと、ここ数年、新しい神輿が奉納されていない。中止されたようだ。」

     なぜ、坪井に海の神様である大杉信仰があるのだろうか。霞ヶ浦に灯台のように立っていた大杉は、航海の目印として信仰を集め、大杉神社の境内にある安穏寺の住職は、天海以来上野寛永寺や日光輪王寺と兼帯したほど格が高い神社であった。大杉信仰は庶民の信仰として、漁師により全国に広まった。「ほうそう」に効くとして江戸時代に爆発的に流行り、幕府から禁止令がでたほどであったという。
     ヒゲタ醤油などの醸造家が資金繰りの神様として信仰した神様であり、醤油の原料となる小麦を納める村人が大杉神社の評判を聞いて、信仰するようになったのかと考えた。
     熊野街道で栄えた紀州湯浅郷は、醤油発祥の地であり、銚子のヤマサ醤油の創業者初代浜口儀兵衛は、湯浅郷の隣の広村の出身である。「湯浅醤油沿革大要」を見ると醤油としての醸造は1234年頃で、正応年間(1288年〜)には岩佐某が近隣に売ったとある。
     しかし、ヒゲタ醤油の田中玄蕃は、その後信仰を外房の神社に変え、ヤマサ醤油などの小麦の仕入先は常陸であって、船橋から買ったという記録はない。銚子の醸造家は、江戸へ醤油を出荷した帰り船に仕入れた原料を乗せたとあるが、坪井周辺はそのルートからも外れている。
                
     今ひとつ考えられるのは、移住してきた漁師が、大杉信仰を持ってきたという説である。
     初ばやしは、船橋では坪井、金掘、楠ケ山、大穴、ハ木ケ谷で行われ、八千代では吉橋などで大杉さまと呼ばれて、同様の祭が行われていた。これらの地区は、中世に、吉橋城を中心として高城氏が坪井城などの城郭を支配した地区とほぼ一致している。
     坪井の西光寺は、熊野山西光寺という真言宗豊山派の寺で、吉橋の貞福城の末寺である。
     坪井のもう一つの寺は、日連宗の安養寺であるが、この寺の鐘には湯浅と銘があり、坪井と吉橋との間にある高本の村の湯浅家の寄贈である。今は船橋市と八千代市に分かれているが、吉橋と坪井のつながりは宗教面でも密接であった。
     安元年間(1175年)上総一族の匝瑳常広の五男・宗光が紀伊国有田湯浅郷の湯浅宗重の養子となって湯浅を称し、承元4年(1210年)、将軍・源実朝の命により、紀伊国相瀬川庄の地頭職となった。その次男宗影は下総国匝瑳郡南庄の熊野神宮領の地頭として下総国に残り、下総湯浅氏の祖となったと伝わっている。
     鎌倉幕府の政策と黒潮の流れにより、下総と紀州の関係は深く、紀州者は下総深く支配し、後の戦に敗れ、農民となって吉橋地区に土着した。
     江戸時代には、綿花の栽培の肥料とするため、干鰯を求めて関西漁師が九十九里に来た。が、元禄年間の大津波で壊滅的な打撃を受け、一部の漁民は、親戚筋がいる地に移住した。
     海の神様を祭る初ばやしの行事は、これらの漁師の長が持ってきた庶民信仰か。今は坪井でしか行われない行事になった。

    平成3年吉橋の大杉さま くぐっているのが竹と杉でできた神輿

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    坪井