サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: 坪井さん
2011年09月09日 21時36分06秒
icon
坪井の隠れ穴
<font size="3"> 坪井小学校20周年記念誌の地図には、坪井城の南に「穴倉」が描かれている。地下式坑といわれる中世の遺跡である。地下式坑は全国では6干基、内、千葉県に1836基が確認されており、千葉県北西部に集中分布している。遺跡としての穴は上部が壊れていることが多く、それがなんであるかを特定することが難しい。中から穀類が発見されるものや底に防水対策をしたものも発見されることから、墓ではなく食料庫である可能性が高いといわれる。千葉県では、現在でも農家は穴を掘り大根やイモ類を保存する。土壌が関東ローム層で穴掘りが容易であること、食料の氷結防止に最適な温度であることなど、気候風土にあった施設と理解できる。
その通説に一石を投じたのが地下式坑隠れ穴説である。歴史読本2010年5月号「戦場の村のメンテナンス・システム(藤本久志)]に掲載されている。中世は、村に戦争がくると村人は城や山に逃げ、穴を掘って身や家財を隠したという。農民が隠れている挿絵もリアルであるが、同時に掲載されている長野県佐久町中山遺跡の穴の実測図は、坪井の地下式坑と同じ形なのにはもっと驚いた。坪井の地下式坑は、坪井城付近の畑が住宅開発される際に発掘され、その発掘写真や遺跡は埋蔵文化財調査事務所で保管されている。そこで見た地下式坑の写真とほとんど同じ形だったからである。グアムで見た横井さんの隠れ穴、女真族、蒙古と二度も島民のほとんどが殺された壱岐の隠れ穴、ひめゆり学徒隊の洞窟など、戦時において穴は避難所であった。
坪井を含む千葉県北西部は、中世において、北条、上杉、里見の軍が幾度となく城を攻め合った場所。小城が多くあるこの地に集中して地下式坑があるということは、当時の築城の際の構築物のひとつとして作られたものなのかもしれない。
さて、坪井の地下式坑は避難所なのか、それとも単なる食料庫なのか。市職員の説明では食料庫ではないかという。穴の場所は、地籍図に方形に残る坪井城の外にあり、敵が攻めてくる習志野側にあることから、村人の避難所とは考えにくい。避難所としては、坪井城から村の中の西光寺裏まで続く3本の洞穴の方が近くて多くの人が隠れられる場所である。私見であるが、地下式坑は、坪井城の付近に建てられた武家屋敷の地下倉庫として作られ、平時は食料を保管し、戦時は、家財などの隠し穴にしたものではないだろうか。
「穴」という、無いところが遺跡であるものは、物証が少ないことから分析や解釈が難しいとのこと。坪井に長屋門が無いことを論ずるように、無いもの文化論のひとつになりそうだ。-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
-
from: 坪井さん
2011年09月03日 00時14分26秒