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  • from: 坪井さん

    2009年11月20日 04時14分14秒

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    石の旅 悲運の武士の墓


    神楽坂に光照寺がある。場所は、室町初期の牛込城跡で、江戸を一望できる高台。この寺に巨台な大名墓が並ぶ。出羽松山藩主初代忠恒(ただつね)、2代忠予(ただやす)の長男忠英(ただふさ)、忠英長男忠郷(たださと)、同次男忠起(ただおき)などの墓である。出羽松山藩は、徳川四天王といわれた酒井家の庄内藩から分家した、名門の血筋を引く藩である。しかし、2万石の東北の小藩が何故にこれほどの巨台な墓石群を江戸に建立せねばならなかったのか◆出羽松山藩初代忠恒は山形県松山町の心光寺に2代忠予、3代忠休(ただよし)とともに合祀されている。2代忠予の嫡男忠英は盲目のため廃嫡となり、3代は家老酒井図書の長子忠休が継いだ。2代忠予の子忠郷、忠起は忠休の養嗣子(ようしし:家督を継ぐ養子)となったが、忠郷は16歳で藩医に毒殺され、次男忠起も33才で早世、4代は3代忠休の次男忠崇(ただたか)となった。世にいう宝暦騒動である◆光照寺に立ち並ぶ墓は、悲運の忠英一族の墓であった。初代忠恒の墓を江戸に建立し、忠恒と同じ大名墓に忠郷、忠起を祀り、我が一族こそ正当なる継承者であることを、この高台から後世に訴え続けているのであろう。

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