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from: 坪井さん
2010年01月01日 00時23分14秒
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石の旅 あけましておめでとうございます
</font><font size="3"><font color="#ff0000">あけましておめでとうございます。<font color="#2e8b57">
昨年のれきしさんぽは、黄金艦隊、遊郭、庚申塔の石材探しなどをテーマとしてさんぽしました。
坪井にあった「泥めんこ」のルーツを調べ始めたのがきっかけですが、途中で出あうテーマが奥深く、なかなか先に進みません。ま、それが「さんぽ」というものとご容赦いただき、しばし石の旅にお付き合いください。
お正月は、船橋地名を語る会会報50号記念号に投稿した「石の旅」を分割掲載します。本年もよろしくお願いいたします。<font color="#000000">
庚申塔の石
石は、昔からここにあり、永遠にあるとして信仰の対象とされる。さもなくば、動かぬものとして、存在すら意識されず、ましてその物流など気にも留められない。庭に敷いた砂利が荒川系か相模川系かなどとこだわる人はいないであろう。この話は、そのような意識されない石の産地探しの話しである。
船橋周辺は石仏が多い。村の辻々には道標や庚申塔が建ち、墓地には真新しい御影石の墓石の隣に、先祖の苔むした光背石が並ぶ。坪井では、村の入り口であったところに、7つの庚申塔が並んでいる。
この庚申塔は年代により色が違う。享保14年以降の笠付の庚申塔三基は赤く(<font color="#db7093">■<font color="#000000">)、他の角柱は石が青い(<font color="#8fbc8f">■<font color="#000000">)。この色が違う謎を解きたいと、石のルーツを訪ねる旅を思い立った。
石は旧石器時代から全国的に流通していた。以前、千葉県文化財センターの主任研究員の方から船橋日大前駅周辺の源七山遺跡のお話を聞いた。坪井で発掘されたヤジリの石材は信州産の黒曜石であるが、信州の狩人が坪井に来たのではなく、旧石器時代にも石の物流があり、多くの人の手を経て船橋に来たのだそうな。坪井の庚申塔も付近にあった石を刻んだのではなく、はるか遠い地より運ばれて来たのかもしれない。
庚申塔の石材、物流を知りたいと思い、遺跡石塔研究会の方に尋ねた。「庚申塔の石材は伊豆の小松石。江戸城の石垣を造った余り石で彫られたようです。」
江戸城や内堀、外堀の石垣を造るために、多くの石工集団が江戸に集められた。加藤清正など西の大名が競って伊豆に石丁場を作り、三千艘の石舟で江戸に石を運んだ。江戸城が完成した後も、外堀増築、修復のため石工集団は必要とされ、職業集団として江戸に留めるための仕事が必要であった。幸い、伊豆の余り石は十分にあった。石工は余り石で既製の墓石や石仏を量産し、関東一円に出荷、廉価販売した。今の内神田二丁目鎌倉橋あたりや荒川河岸などに丁場があったといわれる。-
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