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from: 坪井さん
2010年04月02日 23時30分35秒
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初ばやし
<font size="3"> 坪井には、初ばやしという正月行事がある。正月に子供みこしが家々を回り、厄除けを祈願する。ご神体は今は二宮神社であるが、本来は霞ケ浦の大杉神社であり、以前は、子供神輿が「あんば大杉大明神 悪魔払ってよーいやさ」と唱え、家々にお札を配った。
屋敷裏に大杉神社を祭る家があり、今でもこの神社前で必ず神輿をもむ。この神輿のもみ方は、地面すれすれまで下げてもむ。「地ずり」という銚子など沿岸の地区で行われるもみ方に似ている。吉橋の大杉さまは肩より上でもむが、地区の境で神輿を隣に引渡すときは、腰より下でもむ。集めた悪魔を振り落とすかのように。
八千代の郷土資料館に尋ねた。「吉橋の大杉さまは、毎年竹で作った神輿を奉納していたが、神社を覗くと、ここ数年、新しい神輿が奉納されていない。中止されたようだ。」
なぜ、坪井に海の神様である大杉信仰があるのだろうか。霞ヶ浦に灯台のように立っていた大杉は、航海の目印として信仰を集め、大杉神社の境内にある安穏寺の住職は、天海以来上野寛永寺や日光輪王寺と兼帯したほど格が高い神社であった。大杉信仰は庶民の信仰として、漁師により全国に広まった。「ほうそう」に効くとして江戸時代に爆発的に流行り、幕府から禁止令がでたほどであったという。
ヒゲタ醤油などの醸造家が資金繰りの神様として信仰した神様であり、醤油の原料となる小麦を納める村人が大杉神社の評判を聞いて、信仰するようになったのかと考えた。
熊野街道で栄えた紀州湯浅郷は、醤油発祥の地であり、銚子のヤマサ醤油の創業者初代浜口儀兵衛は、湯浅郷の隣の広村の出身である。「湯浅醤油沿革大要」を見ると醤油としての醸造は1234年頃で、正応年間(1288年〜)には岩佐某が近隣に売ったとある。
しかし、ヒゲタ醤油の田中玄蕃は、その後信仰を外房の神社に変え、ヤマサ醤油などの小麦の仕入先は常陸であって、船橋から買ったという記録はない。銚子の醸造家は、江戸へ醤油を出荷した帰り船に仕入れた原料を乗せたとあるが、坪井周辺はそのルートからも外れている。
今ひとつ考えられるのは、移住してきた漁師が、大杉信仰を持ってきたという説である。
初ばやしは、船橋では坪井、金掘、楠ケ山、大穴、ハ木ケ谷で行われ、八千代では吉橋などで大杉さまと呼ばれて、同様の祭が行われていた。これらの地区は、中世に、吉橋城を中心として高城氏が坪井城などの城郭を支配した地区とほぼ一致している。
坪井の西光寺は、熊野山西光寺という真言宗豊山派の寺で、吉橋の貞福城の末寺である。
坪井のもう一つの寺は、日連宗の安養寺であるが、この寺の鐘には湯浅と銘があり、坪井と吉橋との間にある高本の村の湯浅家の寄贈である。今は船橋市と八千代市に分かれているが、吉橋と坪井のつながりは宗教面でも密接であった。
安元年間(1175年)上総一族の匝瑳常広の五男・宗光が紀伊国有田湯浅郷の湯浅宗重の養子となって湯浅を称し、承元4年(1210年)、将軍・源実朝の命により、紀伊国相瀬川庄の地頭職となった。その次男宗影は下総国匝瑳郡南庄の熊野神宮領の地頭として下総国に残り、下総湯浅氏の祖となったと伝わっている。
鎌倉幕府の政策と黒潮の流れにより、下総と紀州の関係は深く、紀州者は下総深く支配し、後の戦に敗れ、農民となって吉橋地区に土着した。
江戸時代には、綿花の栽培の肥料とするため、干鰯を求めて関西漁師が九十九里に来た。が、元禄年間の大津波で壊滅的な打撃を受け、一部の漁民は、親戚筋がいる地に移住した。
海の神様を祭る初ばやしの行事は、これらの漁師の長が持ってきた庶民信仰か。今は坪井でしか行われない行事になった。
平成3年吉橋の大杉さま くぐっているのが竹と杉でできた神輿-
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