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  • from: 坪井さん

    2010年05月19日 22時17分02秒

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    続・石の旅 鎖塚と網走石


    <font size="3"> 明治政府は、ロシアの南下に備え、明治24年、網走から札幌までの軍用道路建設に着手した。囚人道路とも呼ばれ、網走刑務所と空知監獄の受刑者の使役により建設されたが、劣悪な環境と深夜に及ぶ過酷な労働で212名が死亡した。死んだ囚人に土をかぶせただけの土まんじゅうからは、死ぬ時に付けられていた鎖が出土することから鎖塚とよばれ、かつては国道39号線に多くあったという。
     看守も食糧難から多くの犠牲者を出した。墓標の多くは20代、戊辰戦争で賊軍であった士族の子弟には、不浄役人とさげすまれる公職しかなく、食事は囚人以下、柿色の囚人服も黒の看守服も無念さは同じであった。網走監獄には囚人の合葬碑と職員の粗末な墓標がある。
     市内の永専寺住職は、網走刑務所で法話を続け、出所しても帰る家のない囚人を預かる慈恵院を作った。明治40年から昭和3年までその数1,307人。周りの理解はなかった。
     永専寺のおばあちゃんに聞いた。前は囚人が死んでも、身内の恥と遺体を引き取りにこないことが多く、そのまま裏山に埋めることが多かったそうな。墓石は、地元の網走石を使ったという。網走には安山岩も多い。資料には墓石は軟石とだけあり、網走市役所に聞いた。「網走軟石というのは文献がないが、札幌軟石というのはあります。」と親切に調べてくれた。北海道では凝灰岩を軟石と呼んだようである。
     凍てつく大地で墓穴は誰が掘ったのか。墓石の石工に払う金や弔いの金を払う家族はあったのか。住職の苦労は流氷のように私の心に押し寄せた。
     
    <font size="2"> *実家が網走の友人がいた。聞けば、家の近くにある寺の住職は網走刑務所で法話をしているとのこと。実家は永専寺の檀家で、友人はおばあちゃんと親しく話をしていた。この話はそこから始まり、北海道の墓石につながった。いつか網走軟石をこの目で見たいと思った。

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    坪井

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