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  • from: 坪井さん

    2010年09月11日 22時22分58秒

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    坪井の苗字  


    <font size="3"> 旧坪井村の地区(本村)は齊藤さんか岩佐さんがほとんどである。毎年、消防団が、自治連合会に挨拶に来られるが、この村の2世たちの自己紹介は「岩佐です。」「齊藤です。」「岩佐です。」 ??? 家の場所や親の名前も言ってくれないと何処の誰だか分らない。村の中では今も屋号で呼び合う理由はこういうことかと実感。
     苗字は、武士がその所有権を明確にするため、所領の名称を苗字とした。ゆえに苗字のルーツは地名が多い。開墾した新田の庄の新田義貞。千葉に来てその地名を名乗った千葉氏。
     豊島清元三男清重は下総郡葛西庄に来て葛西姓を名乗った。その領地は、東京に南葛飾郡(葛飾、葛西など)、埼玉県北葛飾郡、中葛飾郡、千葉県東葛飾郡、茨城県西葛飾郡と葛の字が付く広大な領地である。
     上総一族の匝瑳常広の五男宗光は紀伊国湯浅郷湯浅家の養子となり地頭となった。その二男宗影は下総国匝瑳郡の地頭となり下総湯浅氏の祖となった。
     明治三年(1870年)九月一九日の平民苗字許可令、明治八年(1875年)二月一三日の平民苗字必称義務令により国民全部が苗字を付けた。多くが本家筋と同じ苗字を付けた。それが坪井では岩佐と齊藤の二つであった。
     江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主などだけが苗字を名乗ることを許された。ということは、他の者は先祖伝来の苗字を持っていても使うことを許されなかったという言い方もできる。
     船橋の海神では御代川、田久保、矢作の苗字が多い。御代川はヤマトタケル関東上陸のとき海神の遠浅の砂浜に流れる澪(ミオ)を案内した漁師が賜り、他の姓も同様にその時の褒美として賜った姓と地元の方から聞いた。漁師や農民の姓が今に残るということは、その時代に士分となったからか、江戸時代は公的に使えなかったが姓は脈々と存在していたのか。
     元来、生まれた本家に二男三男として住んでいたころは、苗字があったのに、分家したとたんに苗字を呼ばれなくなるというのは不自然である。公的な文書に苗字が残っていないだけで、二男、三男といえども苗字は持っており、明治になって新たに名乗ったのではなく、先祖伝来の苗字を届けただけなのであろう。

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    坪井

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