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from: 坪井さん
2011年01月21日 20時08分12秒
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切支丹禁令の高札が撤去された日
<font size="3"> 坪井にあった切支丹禁令の高札が撤去されたのは、明治6年2月24日のことである。切支丹禁令は明治政府に引き継がれ、新政府も徹底した弾圧を繰り返えした。岩倉使節団は、訪問先のアメリカ大統領や英国のビクトリア女王などにキリシタン弾圧を非難され、不平等条約改正の障害であることを知って本国に連絡、切支丹禁令の高札が撤去された。
欧米諸国が日本におけるキリシタン弾圧を知ることとなる事件があった。幕末の1864年(元治元年)、日仏修好通商条約が締結され、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。浦上村の住民数名が訪れ、プティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」とささやき、隠れキリシタンとして信仰を守っていることをささやいた。「七代耐え忍べば、再びローマから司祭がやってくる」という村の伝承は真理となり、村人はさらに信仰を深くした。1867年(慶応3年)浦上村の信徒たちが、寺請制度で定まっている聖徳寺の葬儀を拒否し、信徒の存在が明るみに出た。庄屋が、旦那寺との関係を絶ちたい家の名簿を提出させたところ、その数700戸と村の大部分の家であった。庄屋は長崎奉行所に訴え出た。浦上四番崩れの始まりである。
長崎奉行は信徒を捕縛し、厳しい拷問により棄教を迫った。拷問の末、高木仙右衛門以外は棄教し村に返されたが、ころんだ者は家族にとっても裏切り者であり家からも村からも追われ棄てられ、山影で泣き崩れた末、十倍の責めを覚悟で改宗を取り消す「改心もどし」を庄屋に願い出た。
江戸幕府が瓦解、新政府は信徒を流罪とすることを決定した。流罪が決まると異教の者が村に入り込み、家財から畳、瓦にいたるまで略奪した。信徒はただ泣きながらそれを見ていることしかできなかった。やがては一村総流罪となった。庄屋の庭に集められた村人は何匹と数えられ、それぞれの流刑地に向かった。乳児を背負い幼児の手を引く母、杖にすがりながら歩く老婆、列はいつ果てるともなく続いた。長崎の港で団平船に詰め込まれた信徒は、洗礼に使った白いヴェールを頭にいただき、天主堂を仰ぎ見て最後のお祈りをした。
流刑先では馬小屋に住まわされ、改宗をせまられた。病人でさえ裸にし真冬の池に入れ、弱らせて牢屋の傍に穴を掘らせ殺したり、子供を呼び寄せて親の前でその子を拷問する。水責め、雪責め、氷責め、火責め、箱詰め、磔など陰惨な拷問が繰り返された。
新政府の保守派の神道派から異教徒として迫害された。廃仏毀釈運動で迫害された仏教徒もその矛先を他に向けたがった。各国公使は、事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なったが、新政府は内政干渉として弾圧を続けた。
村に帰る日が来た。長く悲しい旅であった。3,380名の旅人のうち、村に帰ってきたのは1,930名、うち766人は家なしであった。やっとの思いで荒地を開墾したが収穫期に台風が襲い、赤痢が流行った。ロ・ド神父が薬箱を持って浦上に通い、赤痢患者を210名、死者は8名に喰い止めた。岩永真紀らの乙女たちが立ち上がり、献身的な救護活動が行われた。赤痢が治まったころ、今度は天然痘が村を襲った。救護活動には流罪から帰った青年達も加わった。
信徒たちは庄屋屋敷を買い取り、大正14年ようやく浦上天主堂を完成させた。その天主堂は、昭和20年8月9日の原爆により信者8,500名とともに焼失した。-
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