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from: 坪井さん
2011年08月18日 00時44分53秒
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九戸城
二戸(にのへ)市にある九戸(くのへ)城に行く。二戸は盛岡の北、八戸との間にある町である。糠部郡(ぬかのぶぐん)には四門九戸の制がしかれ、地域名として一戸から九戸までの地名があった。四戸以外の地名は今もあり、苗字は一戸から九戸まですべてあるという。五戸を過ぎたころ国道の標識は「前方二戸、三戸、左折八戸」とどちらを向いても「へ」の連発であった。
九戸城の狭い大手門を上ると、城内の曲輪(くるわ)には一面に新緑の芝生が広がっていた。史跡を見に来た者にとって観光客目当ての怪しげな天守閣がないのは嬉しい。城は馬淵川、白鳥川、猫淵川により三方を囲まれた断崖の上にあり、多くの曲輪群を空堀、石垣で仕切った大規模な城郭である。忙しく発掘を指示する研究員に出会った。発掘品は二戸市埋蔵文化財センターに展示してあるという。
九戸政実は跡目相続争いを発端に宗家の南部信直に対し挙兵した。豊臣秀吉から領地安堵を受けた信直は九戸政実の乱を鎮めるとして豊臣家に応援を要請、秀次を総大将とする6万の討伐軍が九戸城を包囲したが攻めきれず、助命を約束し開城させた。しかし、それは謀略であり、政実は処刑、家臣や女・子供まで二の丸に集められて皆撫で新りにされ、城に放たれた火は三日三晩天を焦がし続けたという。
城は九戸氏の残党への警戒から蒲生氏郷により改修され、南部氏の本城として引き渡されたが、南部氏はすぐ盛岡に居城を移す。謀略で死した九戸一族の屍の後に南部宗家が居住することはその亡霊が許さなかったのであろう。平成7年二の丸大手門で十数体の首なし人骨が発見されている。
石垣はこの改修工事で蒲生氏郷が連れてきた穴太衆が築いた。この地の地名は「石切所」である。穴太衆の開発した石切り場がこの他の産業となり地名として残ったのか。大きく岩肌を見せる南東の山を眺めながら、古の石工の仕事に思いを巡らせた。
石垣も虎口も氏郷による改修であり、秀吉に攻められた中世の城郭を見たいという私の願いは叶わなかった。中世の城は、二戸市埋蔵文化財センターに展示された地層の断面の中に黒い炭化物の層となって残るのみであり、九戸城は九戸一族の巨大な墓苑であった。-
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坪井、
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