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  • from: 坪井さん

    2011年11月18日 22時50分34秒

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    獅子舞Ⅵ 越後獅子


    <font size="3"> 角兵衛獅子は、水害が多く生活が成り立たない越後の月潟村で、水戸浪士角兵衛が子供に獅子舞を教えて、農閑期に諸方勧進させたのが元祖といわれる。
     鶏毛をうえたる木獅子を被り、頭に羯鼓をかけ、笛を吹いて舞踊する越後獅子、上総獅子なんどと云えり(飛州志)。親方が太鼓を打ち、笛役一人、4,5歳から12,3歳の子獅子2,3人が一組となって諸国を渡り歩く。太鼓に合わせて「そっくり返り」「片手返り」「蟹の横ばい」などの一人芸や「淀の川瀬の水車」などの二人芸を演じた。十余組の角兵衛獅子が江戸の家々を門付けしていたという
     東北を回っていた渡辺寅之肋の話。稲刈り間近な頃に月潟村を出発し、弥彦神社を参拝して各組に分かれて村々を門付けして回る。越後を離れ、山形を回るころは冬となり、秋田あたりで正月を迎えた。日暮れの前に村につけず、雪深い夜道をさまよう。巡業で子供を連れ歩くには親方も若すぎた。辛い旅の果てに子供は皆無表情になったという。村に着くと部落長と話し、泊まる家が決められた。家々を一人芸で回った後、集まって組み芸をして見物料を取った。新春は書き入れ時。青森、南部を経て仙台で稼ぎ、雪解けの頃に福島を抜けて会津に入り月潟に帰る。田植えを済ませて6月の地蔵尊の祭りを待った。越後獅子は、次第に農家の副業から専業となり曲芸化していった。江戸でも他の大道芸、門付芸と同様に、越後獅子は庶民に親しまれた。
     獅子の子は、成長すると骨が硬くなり芸ができなくなるため、常に小さい子を探さなければならなかった。親方は巡業しながら親に捨てられた可哀そうな子を探した。地方より江戸の貧民街の方がよく見つかったという。可愛い子供の曲芸として諸外国へも紹介された越後獅子も、明治半ばになると子供は獅子の子といっていじめられ、児童虐待であるとして親方を見る世間の目が冷たくなった。義務教育の実施、禁止令の発布などで、越後獅子は急速に衰退し、明治末年に月潟村から完全に姿を消した。
    *逆立ちする子供たち(阿久根巖)

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