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  • from: 坪井さん

    2012年01月16日 22時21分22秒

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    獅子舞

    今日「船橋の地名」58号が送られてきました。「カツシカ」という地名とその表記(滝口昭二)、「あんばさま(疱瘡神)の話」など、興味深い話題でした。私は坪井の三匹獅子舞について書きました。
     三匹獅子舞の話は、ブログは途中になっているので、今回、全文掲載します。

    <font size="3"> 坪井の獅子舞        

     坪井には獅子舞行事があった。大神保、金堀、楠が山、坪井で行われていた三匹獅子舞である。安養寺と西光寺が交代で最初に踊る年番寺とな り、子安神社、泰山堂、白山権現の順に舞い、最後にまた年番寺で終わる。当時踊り手だった人は今も健在。踊りの最後のセリフは「天下泰平」であった。 その獅子頭は、船橋郷土資料館に保管されている。吉橋の獅子はクーダレシシ(糞たれ獅子)、桑橋は海老獅子、平戸と島田は頭が竹籠状の籠獅子、麦丸はマナズジシ、坪井の獅子頭も籠獅子である。


      獅子頭につけた胴幕の中に二人以上が入って舞う二人立ち獅子舞は、大陸から伎楽として伝来したもので伎楽系(神楽系)と呼ばれ西日本に多い。関東や東北では、太鼓を打ちながら一人立ちで踊る風流(ふりゅう)系といわれる舞いが多く、坪井の獅子舞は後者である。風流とは、今の風流という言葉が持つ上品な趣という意味ではなく、人を驚かすような華美なものという意味である。仏具師により作られたという獅子の頭は、霊力を感じさせる大きな目と、人を吸い込むような大きな鼻の穴が特徴である。
     「房総の祭事記」によると、千葉県内106箇所で行われていた三匹獅子舞は、北総、上総はほとんどの場所で獅子舞と呼び、作祭(豊作祈願)、悪疫祓いのため踊られる。安房ではその太鼓から羯鼓(カッコ)舞いと呼び、厳しい気候からか全て雨乞い行事である。
     後北条氏が支配した北総は三匹獅子舞がほとんどであり、里見氏が支配した地域では、神楽系の獅子舞が多いというのも面白い。三匹獅子舞の奉納場所は、神社77、寺8と神社がほとんどであり、坪井のように神社・寺両方を回る地域も10箇所あった。


    別所の三匹獅子舞       長狭の神楽獅子舞

     古代オリエントの霊獣であった獅子は、西はエジプトに渡ってスフィンクスとなり、東はインドに渡り中国を経由して、文殊菩薩の乗り物として仏教によって日本に伝来した。
     日本における獅子舞行事の起源については、多くの村に巻物が残っているというが、千葉県に縁があるものとしては、埼玉県秩父郡浦上村昌安寺所蔵の「大日本獅子舞の由来」が興味深い。鎌倉時代、雷鳴とともに帝城の紫宸殿に三つのものが落ちた。石清水八幡宮の神託には「これは聖人出世のときにまれに出る獅子という猛獣の頭であり、これからのちの天下の祭礼はこの獅子舞いで天下泰平を祈るべし。」とあった。幕府は帝の勅を受け、下総国の角兵衛に獅子舞いを命じた。角兵衛は、弟角内、息子角助を連れ、三人で参内して踊り、のちに三人とも一流づつ舞い出し世に広めたそうな。

     獅子は高麗を経て狛犬となって渡来した。埼玉県日高市の高麗郡にある高麗神社へ行く。国が滅び帰国できなくなった高句麗の若光王が、大和朝廷より土地を与えられ、郡長となって渡来人1799人と開拓した地である。
     旅の目的は、高句麗人の村なら獅子舞は彼らが伝えた伎楽系の狛(高麗)犬型であろうということを確かめるためであった。確かにパンフレットで踊っている 獅子舞いの頭は伎楽系に多い狛犬型であった。しかし驚いたのは江戸時代に使われていたと伝えられる古獅子面は北総と同じ風流系であり、踊りはなんと三匹獅子舞であったことだ。
     この神社の三匹獅子舞も北条氏が行わせたものなのか。高麗神社や全国の多くの神社で三匹獅子舞が奉納されているのは、鎌倉時代、全国に領地を有していた北条一族によるものなのか。そう思えた旅であった。

      

     越後獅子というものがある。角兵衛獅子は、水害が多く生活が成り立たない越後の月潟村で、水戸浪士角兵衛が子供に獅子舞を教えて、農閑期に諸方勧進させたのが元祖といわれる。
     鶏毛をうえたる木獅子を被り、頭に羯鼓をかけ、笛を吹いて舞踊する越後獅子、上総獅子なんどと云えり(飛州志)。親方が太鼓を打ち、笛役一人、4,5歳から12,3歳の子獅子2,3人が一組となって諸国を渡り歩く。太鼓に合わせて「そっくり返り」「片手返り」「蟹の横ばい」などの一人芸や「淀の川瀬の水車」などの二人芸を演じた。十余組の角兵衛獅子が江戸の家々を門付けしていたという
     東北を回っていた渡辺寅之肋の話。稲刈り間近な頃に月潟村を出発し、弥彦神社を参拝して各組に分かれて村々を門付けして回る。越後を離れ、山形を回るころは冬となり、秋田あたりで正月を迎えた。 日暮れの前に村につけず、雪深い夜道をさまよう。 巡業で子供を連れ歩くには親方も若すぎた。辛い旅の果てに子供は皆無表情になったという。村に着くと部落長と話し、泊まる家が決められた。家々を一人芸で回った後、集まって組み芸をして見物料を取った。新春は稼ぎ時。青森、南部を経て仙台で稼ぎ、雪解けの頃に福島を抜けて会津に入り月潟に帰る。田植えを済ませて6月の地蔵尊の祭りを待った。 越後獅子は、次第に農家の副業から専業となり曲芸化していった。江戸でも他の大道芸、門付芸と同様に、越後獅子は庶民に親しまれた。



     獅子の子は、成長すると骨が硬くなり芸ができなくなるため、常に小さい子を探さなければならなかった。親方は巡業しながら親に捨てられた可哀そうな子を探した。地方より江戸の貧民街の方がよく見つかったという。可愛い子供の曲芸として諸外国へも紹介された越後獅子も、明治半ばになると子供は獅子の子といっていじめられ、児童虐待であるとして親方を見る世間の目が冷たくなった。義務教育の実施、禁止令の発布などで、越後獅子は急速に衰退し、明治末年に月潟村から完全に姿を消した。(逆立ちする子供たち 阿久根巖)

     三匹獅子舞いは越後獅子のように幼い子供に曲芸をさせて旅をするものではない。伊勢大神楽のように伊勢神宮の御札を持って回る全国組織を有するものでもない。古野清人著「獅子の民族」によると、三匹獅子舞は神社の祭礼のために獅子舞を出すのではなく、農家が農耕儀礼として村の鎮守さまに豊作を祈願するために行われる。村によって異なるが、「ちはやふる・・」という言葉で始まる口上が多いのは、神に捧げる踊りであることを示すものである。オヤジシ、ナカジシ、メジシの三匹による狂言にも似た長く激しい舞い。名誉ある踊り手には後継ぎの長男が選ばれた。次男三男は花笠持ちの役だけ、婿にも踊らせず、村から踊りの流出を防いだ。
     郷土資料館にある坪井の獅子は角が折れ、口が割れていて、修理には数百万円かかるという。小さな村で、高価な獅子頭を買い、踊りを習わせる負担は大きかった。門外不出の理由もそこにあるのだろう。祭りの時だけ旅芸人を呼ぶのではなく、村で獅子舞を維持するのは大変である。踊り、笛、太鼓などの練習。しかし、この多大な負担以上の価値を獅子舞に感じたからこそ全国に広まったのであろう。
     閉鎖的に伝承されたこの農耕儀礼は、戦争で若者が減り、長男が勤め人になり、時代とともに信仰から単なる民族芸能になった時、継承の力を失った。
     後継者が育たなかったのは、坪井では、若い世代にさせていた踊り手ではなく、年寄りが長くやっていた笛吹きであった。伝承の難しさを考えさせる出来事である。
     東京オリンピックの昭和39年、坪井は獅子舞を辞めた。
     

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