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  • from: 坪井さん

    2009年11月28日 07時16分26秒

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    石の旅 江戸の埋葬

    非人頭の車善七は江戸の新吉原に九百坪の住居を持ち、天保14年には四千人もの非人を配下としていた。幕府は彼らに勧進と紙くず拾


     <font size="3">非人頭の車善七は江戸の新吉原に九百坪の住居を持ち、天保14年には四千人もの非人を配下としていた。幕府は彼らに勧進と紙くず拾いを仕事として独占的に認め、小塚原の刑務、警察、消防、清掃の役務を負わせた。
     天保9年、善七の幼名「車千代松」の文書によると、牢死、死罪、変死者の埋葬方法は、罪状により、「取捨」か「片付」とされた。「片付」の死骸は小塚原回向院で死骸受取帳に名前と確認印を記入捺印して、死骸は深く埋葬して墓印を立てたが、「取捨」は、非人頭に死骸を遣わし、名前札を立てず、深く埋葬することなく土を掛ける程度であった。 
     文化2年、田安家家老の武家奉公人が重病となり、請人に引き取られた。彼の放蕩により四六見世に売られた女房が、薬を持って看病にきた。四六見世とは、本所、深川などにあり、夜は四百文、昼は六百文の安い隠売女が働くところである。
     女房は裏長屋を借りて看病したが死去。元亭主が投げ込み・取捨になると聞いた女房は、四六見世での自分の客である回向院の僧侶に頼んで回向してもらい、その費用は自分の年期を延長して工面したそうな。江戸の庶民の信心深さを示す話である。(写真:元小塚原回向院に立つ表札)

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年11月22日 06時24分09秒

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    石の旅 遊女の墓

    江戸の墓には身分がある。大名は巨大な台石、笠付き大塔婆、あるいは五輪の塔や宝塔、一般武士は台石を積んだ上に竿石、僧侶は卵塔


     <font size="3">江戸の墓には身分がある。大名は巨大な台石、笠付き大塔婆、あるいは五輪の塔や宝塔、一般武士は台石を積んだ上に竿石、僧侶は卵塔(無縫塔)であり、庶民、町民は小さな竿石もしくは舟形光背の一石墓で台石なしと定めがあった。遊郭を貸しきるほどの豪商も死なば一石墓とされた。
     寛文4年に定められた檀家制度により寺の宗門人別帳で信仰が管理され、旅行や転居も寺請証文が必要であった。庶民まで皆が仏教徒になり、法要を行い、墓を建てるようになった。墓はキリシタンでないことの証になったが、死してなお身分制度に縛られた。
     さて、宗門人別帳から除外された人々の墓はいかに。内藤新宿の飯盛女(遊女)の墓として、投げ込み寺と呼ばれる成覚寺の子供合埋碑がある。隣の旭地蔵に刻まれた戒名は「離念信女」。悲しい4文字の戒名は心中した遊女のものである。死んだら戒名を知らせてくれればいいと決まり文句が書かれた身売り証文により、この地に売られ、この地で生涯を終えた子供。この場合、「供(ども)」という字はかわいいという使い方ではなく、時代劇で「野郎供」などと使われる十把一絡の扱いであろう。子供も弔われ戒名はあった。
     旅範屋の肝いりである橋本屋藤兵衛が成覚寺の檀家であったことから、内藤新宿の旅罷屋の飯盛女が成覚寺に投げ込まれるようになった。その数二千三百人。着物を剥ぎ取られ裸で投げ込まれたという。が、「投げ込み」とは大きな穴を掘って死体を放り投げることをいうのではない。寺に金一分と銭二百文を投げ込んで葬祭供養いっさいを依頼することをいう。江戸の寺は、大寺院を除き、どの寺も投げ込みを受け入れた。寺院の境内を発掘すると、墓の下に整然と埋葬されている区域と、雑然と多くの遺骨が発見される墓標なき墓地の区域が見つかるという。
     親戚知人が名乗り出ない行き倒れは回向院下屋敷に運ばれたが、地方からの出稼人などは請人が死体を引き取り、自らの旦那寺に仮取置することに定められていた。遊女の葬儀もその定めに従ったものであろう。
    但し、それは定めの中での歴史であり、定めの外にも遊女はいた。この寺の近くに新宿歌舞伎町がある。この地は江戸時代には大きな沼地であり、これを埋め立てて歓楽街が作られた。今でも風林会館の交差点から南北、東を見るとみな上り坂であり、すり鉢状の底に立っていることがわかる。この地を埋め立てたとき沢山の蛇が出てきた。それを樽に詰めて埋め、弔いに弁天様を奉った。蛇はこの地に棄てられた遊女の化身と言われたそうな。
     近所のお茶屋のご主人が場所を教えてくれた。歌舞伎町一目にある王城の隣、あやしげな広告の中の小さな歌舞伎町公園の地で弁天様は今も奉られている。すり鉢の底のような歌舞伎町には今は、朝から荼髪のホストがたむろする。すり鉢ではなく蟻地獄の底かもしれない。(写真:子供合埋碑 ペットボトルが2つ。どんな人が手を合わせにきているのか)

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年11月20日 04時14分14秒

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    石の旅 悲運の武士の墓

    神楽坂に光照寺がある。場所は、室町初期の牛込城跡で、江戸を一望できる高台。この寺に巨台な大名墓が並ぶ。出羽松山藩主初代忠恒(ただつね)、2代忠予(ただ


    神楽坂に光照寺がある。場所は、室町初期の牛込城跡で、江戸を一望できる高台。この寺に巨台な大名墓が並ぶ。出羽松山藩主初代忠恒(ただつね)、2代忠予(ただやす)の長男忠英(ただふさ)、忠英長男忠郷(たださと)、同次男忠起(ただおき)などの墓である。出羽松山藩は、徳川四天王といわれた酒井家の庄内藩から分家した、名門の血筋を引く藩である。しかし、2万石の東北の小藩が何故にこれほどの巨台な墓石群を江戸に建立せねばならなかったのか◆出羽松山藩初代忠恒は山形県松山町の心光寺に2代忠予、3代忠休(ただよし)とともに合祀されている。2代忠予の嫡男忠英は盲目のため廃嫡となり、3代は家老酒井図書の長子忠休が継いだ。2代忠予の子忠郷、忠起は忠休の養嗣子(ようしし:家督を継ぐ養子)となったが、忠郷は16歳で藩医に毒殺され、次男忠起も33才で早世、4代は3代忠休の次男忠崇(ただたか)となった。世にいう宝暦騒動である◆光照寺に立ち並ぶ墓は、悲運の忠英一族の墓であった。初代忠恒の墓を江戸に建立し、忠恒と同じ大名墓に忠郷、忠起を祀り、我が一族こそ正当なる継承者であることを、この高台から後世に訴え続けているのであろう。

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  • from: 坪井さん

    2009年11月14日 01時46分55秒

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    石の旅 大名の墓

    古代、中世では、民衆は死なばただ野に捨てられた。平安貴族もそうであり、これを風葬と呼ぶ。平家や源氏の墓は後世に建てられたものであり、平安時代は洛内での


    古代、中世では、民衆は死なばただ野に捨てられた。平安貴族もそうであり、これを風葬と呼ぶ。平家や源氏の墓は後世に建てられたものであり、平安時代は洛内での埋葬を禁止した律令まであった。洛外に埋葬した盛土の上に置いた川原の石が墓石となった。◆武士の世となり、領主、大名は巨人な台石、笠付き大塔婆、あるいは五輪の塔や宝塔を墓石とした。千葉市の大日寺の境内に並ぶ大小16基の五輪塔は、千葉常兼(つねかね)より16代までの千葉一族の墓である。北条一族の五輪塔と同じ小松石であり、千葉氏がその勢力下にあったことを伺わせる。大多喜には本多忠勝の五輪塔。千葉の山間の地にまで伊豆の小松石が運ばれたことに驚く◆東京は四谷の西念寺には宝篋印塔の服部半蔵の墓があり、寺の奥には大名の巨大な墓石群がある。高井但馬守一族の墓である。但馬の国にあるべき墓石が江戸にあるのは、江戸で生まれ江戸で死したからであり、但馬の国など見たこともない方々か。一人死ぬたびにこの巨台な墓石を真鶴から運び、四谷見附で外堀から引き上げこの高台に運んだのか。無縁仏となったとて、やすやすと撤去させまいぞと巨大石は叫んでいる。などと思いながら墓石群の写真を撮っていたら、警察官がスッと立っていた。警備中の服部半蔵が警察官の姿で現れたか!いや、お寺に不審者と思われ通報されたようである。

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  • from: 坪井さん

    2009年11月06日 20時59分34秒

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    石の旅 七沢石

    七沢の石切丁場には、信州高遠の石工が出稼ぎに来て、石を切り出し刻んだ。高遠藩は、現在の新宿御苑に屋敷を構え、内藤新宿を発展させた。内藤清成は、江戸開府


    七沢の石切丁場には、信州高遠の石工が出稼ぎに来て、石を切り出し刻んだ。高遠藩は、現在の新宿御苑に屋敷を構え、内藤新宿を発展させた。内藤清成は、江戸開府の功により徳川家康からこの地に20万坪を超える広大な屋敷地を拝領したと誉れ高いが、石工の世界では別である◆お国である信州高遠では、藩の過酷な年貢の取立てに苦しんだ。飢饉の時は数千人が諸国に散ったという。石工たちは五人組という共同責任の制度により石切目付に監視され、農閑期は七沢の石切丁場に出稼ぎに、農繁期には帰村し田畑を耕した。年貢のほか運上金も取り立てられた。七沢石は、石工たちの血がにじんだかのような、赤い礫岩を含む凝灰岩である。明治時代には戦死者の墓石や石臼として遠く北海道にも販売され、大正9年頃が最盛期であった◆現存する七沢石の庚申塔を訪ね、平塚の不動院に行った。平塚博物館発行の本にある七沢石の庚申塔を見たいとお願いしたところ、住職さんは親切に境内を案内してくれた。赤い石仏には元禄13年の崩れかけた文字、正に高遠藩の時代の出稼ぎ石工の作である。縁側に座り、奥様のお茶を頂く。枝垂れ桜に囲まれた寺の写真を見せていただきながら、この美しい景色がいつまでも続くよう祈った。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年11月01日 20時52分05秒

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    石の旅 房総・相模の国

    関東の筑波・加波・足尾の三山は、良質な花崗岩を産出する。真壁石は有名である。常陸の国では、宋国に技術系譜を引く大蔵派を師匠とする石工が、堅牢で技術を要


    関東の筑波・加波・足尾の三山は、良質な花崗岩を産出する。真壁石は有名である。常陸の国では、宋国に技術系譜を引く大蔵派を師匠とする石工が、堅牢で技術を要する花崗岩を用いて、室町時代から五輪塔などの石仏を彫った◆戦国時代になると、軟質で耐久性のない砂岩で石仏が彫られるようになる。銚子や飯岡町にある凝灰岩質砂岩の銚子石である。西は千葉県山武町、東は霞ヶ浦一帯まで流通した。千葉の漁師の先祖は紀州人が多い。宝暦4年には、銚子に隣接する外川浦の網方商人225人中205人が紀州出身者であったという。僧侶もまた、彼らと共に関西からきて、地蔵信仰や観音信仰を広めた。この僧侶の布教範囲に、銚子石の石仏が広まった。真壁石も銚子石も江戸には来なかった。石材の選択は、製品に向く材質によるのであるが、水運というコストと石工集団の技術という要因にもよる◆相模の国では、武士の墓石は、富士箱根の造山活動で造られた安山岩を用い、庶民の信仰の対象である地蔵や庚申塔は、加工のしやすさから丹沢の七沢石で彫られた◆平塚博物館が出版した本「街の中の石材」は、市内の石仏を小松石、根府川石などと石材で分類している。博物館の案内人が親切に説明してくれた。昔の技術では、小松石は硬くて彫りが難しい。庚申塔などの石仏には、粘りがあって細工しやすい七沢石を使用したそうな。船橋市にある庚申塔の石材探しの旅の始まりである。[写真:平塚博物館]

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