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  • from: 坪井さん

    2010年01月29日 06時25分08秒

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    石の旅 相模の国

    相模の国を訪ねた。この国では、武士の墓石は、富士箱根の造山活動で造られた安山岩を用い、庶民の信仰の対象である地蔵や庚申塔は


    <font size="3"> 相模の国を訪ねた。この国では、武士の墓石は、富士箱根の造山活動で造られた安山岩を用い、庶民の信仰の対象である地蔵や庚申塔は、加工のしやすさから丹沢の七沢石で彫られた。石切り場は丹沢と富士・箱根にあり、加工所は七沢下流の厚木にあった。
     平塚博物館が出版した本「街の中の石材」は、市内の石仏を小松石、根府川石などと石材で分類している。貴重な本である。博物館ではボランティアの案内人が親切に説明してくれた。
    昔の技術では、小松石は硬くて彫りが難しいため、庚申塔などの石仏には、粘りがあって細工しやすい七沢石を使用したと石を見ながら教えていただいた。
     七沢の石切丁場には、信州高遠の石工が出稼ぎに来て、石を切り出し彫った。高遠藩は、現在の新宿御苑に屋敷を構え、内藤新宿を発展させた。内藤清成は、江戸開府の功により徳川家康からこの地に20万坪を超える広大な屋敷地を拝領したと誉れ高いが、石工の世界では別である。
     石工集団がいたといわれる厚木市の博物館に行く。厚木市の博物館が出版した本には、七沢石工の話があった。
     お国である信州高遠では、藩の過酷な年貢の取立てに苦しんだ。飢饉の時は数千人が諸国に散ったという。石工たちは五人組という共同責任の制度により石切目付に監視され、農閑期は七沢の石切丁場に出稼ぎに、農繁期には帰村し田畑を耕した。年貢のほか運上金も取り立てられた。七沢石は、石工たちの血がにじんだかのような、赤い礫岩を含む凝灰岩である。明治時代には戦死者の墓石や石臼として遠く北海道にも販売され、大正9年頃が最盛期であった。
     現存する七沢石の庚申塔を訪ね、平塚の不動院に行った。平塚博物館発行の本にある七沢石の庚申塔を見たいとお願いしたところ、住職さんは親切に境内を案内してくれた。赤い石仏には元禄13年の崩れかけた文字、正に高遠藩の時代の出稼ぎ石工の作である。
     縁側に座り、奥様のお茶を頂く。枝垂れ桜に囲まれた寺の写真を見せていただきながら、この美しい景色がいつまでも続くよう祈った。(写真は上2枚が不動院、他は市内寺院石仏)

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年01月21日 20時32分21秒

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    石の旅 鋸山

    千葉は石なし県と言われる。いや、火山なし県と言ったほうがいいだろう。火山がなく、産するのは砂岩だけである。富津の石切場を訪

    <font size="3"> 千葉は石なし県と言われる。いや、火山なし県と言ったほうがいいだろう。火山がなく、産するのは砂岩だけである。富津の石切場を訪ね、現場を案内していただいた。
     大型機械で掘削の真っ最中であり、羽田空港の埋め立て用に使われているという。堆積層が横から圧縮され、山状の層や、上下反対になるほど褶曲している層があり、一つの山の斜面でも、硬い岩、手でも崩れそうな塊、砂などいろいろな石があった。会社の方から、「火山で作られる安山岩などと違って、砂が堆積して圧力を掛けられただけで、いわゆる火入れされていないから岩ももろい」と教えて頂いた。
     鋸山へ行く。若い頃来た時は退屈であった山も、石探しというテーマを持った今は、どれもが新鮮で感動を覚える。海岸から見える鋸山付近の地層は、海底で堆積した礫が幾重にも重なっており、均一な部分が少ない。
     石切場に行く。石切場の断面は、礫が含まれていて風化による凹凸が大きく、堆積岩である砂岩の特質が見受けられる。風蝕による奇岩雪洞に鎮座する千五百羅漢。資料によると、上総桜井の名工大野甚五郎が、安永8年から寛政10年の21年間、門弟27名とともに生涯をかけて刻んだものであり、その石は海を越えて伊豆から運ばれたとある。羅漢の石材は小松石特有の濃鼠色のものが多いが、赤褐色の石仏もあった。坪井の庚申塔と同じである。
     石像の顔のしわなど一つひとつの細かい描写に見とれてしまう。「あ、あの人に似ている。」町内の知り合いの方が岩の間から次々と話しかけてくる。いいなと思う羅漢の表情は、自分の今の気持ちを表しているのかもしれない。顔のない羅漢群は、廃物希釈運動によるものだそうな。人間の愚かさを責められて辛くなる。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年01月15日 05時35分17秒

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    石の旅 関東の石材

    関東の筑波・加波・足尾の三山は、良質な花崗岩を産出する。真壁石は有名である。常陸の国では、宋国に技術系譜を引く大蔵派を師匠


    <font size="3"> 関東の筑波・加波・足尾の三山は、良質な花崗岩を産出する。真壁石は有名である。常陸の国では、宋国に技術系譜を引く大蔵派を師匠とする石工が、堅牢で技術を要する花崗岩を用いて、室町時代から五輪塔などの石仏を彫った。
     板碑は、秩父長瀞の緑泥片岩である。坪井の村でも発掘されており、村が室町より続く証とされている。長瀞の採掘場で中世の加工所が見つかった。採掘場で荒加工まで行ってから、商品として流通し、需要地で仕上げ加工したとされている。
     戦国時代になると、軟質で耐久性のない砂岩で石仏が彫られるようになる。銚子や飯岡町にある凝灰岩質砂岩の銚子石である。西は千葉県山武町、東は霞ヶ浦一帯まで流通した。
     千葉の漁師の先祖は紀州人が多い。僧侶もまた、彼らと共に関西からきて、地蔵信仰や観音信仰を広めた。この僧侶の布教範囲に、銚子石の石仏が広まった。
     しかし、真壁石も銚子石も江戸には来なかった。石材の選択は、製品に向く材質によるのであるが、水運による物流の範囲や商圏という壁があったのであろう。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年01月09日 21時05分00秒

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    コメント:江戸城 維新前後

    慶応3年(1867)フェリックス・ベアドが愛宕山から撮影した江戸は、大名屋敷が整然と建ちならぶ大都市であった。明治維新により、江戸城から徳川一族が去り

     慶応3年(1867)フェリックス・ベアドが愛宕山から撮影した江戸は、大名屋敷が整然と建ちならぶ大都市であった。
     明治維新により、江戸城から徳川一族が去り、諸大名が次々と国許に引き揚げると、大名屋敷が大半であった江戸の町並みは多くが無人となり荒れ果てて行った。明治政府の制度御用掛蜷川式胤は江戸城の荒廃を嘆き、明治4年(1871)、江戸城の写真撮影を申し出た。中段写真の天主台は荒れ放題であり、政情不安で江戸城の整備までは手が回らぬ時代であったことを示している。
     人は石垣、人は城。江戸は維新の戦火を免れたが、人が去ると、城も町も滅んだ。
     下段の江戸城本丸の庭の写真では、石垣の修復工事が中断されたのか石垣用の石が積まれている。施主がいなくなった石の行方など、語られることもない出来事であったであろう。


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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年01月08日 05時31分41秒

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    石の旅 江戸城

    江戸城へ行く。江戸城は白壁が引き立つ濃鼠色の石垣である。赤茶や灰色の巨大な花崗岩からなる大坂城とは対照的である。重々しく堀

    <font size="3"> 江戸城へ行く。
     江戸城は白壁が引き立つ濃鼠色の石垣である。赤茶や灰色の巨大な花崗岩からなる大坂城とは対照的である。重々しく堀の水面から立ち上がる黒い石垣は、正に要塞の力強さを感じさせる。
     石垣の上段には大地震の修復時のものか薄茶の石が点在するが、下段の石のほとんどは濃鼠色の小松石で積まれている。同じ岩肌で茶褐色の石や江戸の大火で焼け出されたかのように赤黒い石もある。
     坪井の村も明治の大火があった。江戸期の赤褐色の庚申塔は明治の大火で焼け出されたのか。



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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年01月01日 00時23分14秒

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    石の旅 あけましておめでとうございます

    あけましておめでとうございます。


    </font><font size="3"><font color="#ff0000">あけましておめでとうございます。<font color="#2e8b57">
     昨年のれきしさんぽは、黄金艦隊、遊郭、庚申塔の石材探しなどをテーマとしてさんぽしました。
     坪井にあった「泥めんこ」のルーツを調べ始めたのがきっかけですが、途中で出あうテーマが奥深く、なかなか先に進みません。ま、それが「さんぽ」というものとご容赦いただき、しばし石の旅にお付き合いください。
     お正月は、船橋地名を語る会会報50号記念号に投稿した「石の旅」を分割掲載します。本年もよろしくお願いいたします。<font color="#000000">

    庚申塔の石
     石は、昔からここにあり、永遠にあるとして信仰の対象とされる。さもなくば、動かぬものとして、存在すら意識されず、ましてその物流など気にも留められない。庭に敷いた砂利が荒川系か相模川系かなどとこだわる人はいないであろう。この話は、そのような意識されない石の産地探しの話しである。
     船橋周辺は石仏が多い。村の辻々には道標や庚申塔が建ち、墓地には真新しい御影石の墓石の隣に、先祖の苔むした光背石が並ぶ。坪井では、村の入り口であったところに、7つの庚申塔が並んでいる。
     この庚申塔は年代により色が違う。享保14年以降の笠付の庚申塔三基は赤く(<font color="#db7093">■<font color="#000000">)、他の角柱は石が青い(<font color="#8fbc8f">■<font color="#000000">)。この色が違う謎を解きたいと、石のルーツを訪ねる旅を思い立った。
     石は旧石器時代から全国的に流通していた。以前、千葉県文化財センターの主任研究員の方から船橋日大前駅周辺の源七山遺跡のお話を聞いた。坪井で発掘されたヤジリの石材は信州産の黒曜石であるが、信州の狩人が坪井に来たのではなく、旧石器時代にも石の物流があり、多くの人の手を経て船橋に来たのだそうな。坪井の庚申塔も付近にあった石を刻んだのではなく、はるか遠い地より運ばれて来たのかもしれない。
     庚申塔の石材、物流を知りたいと思い、遺跡石塔研究会の方に尋ねた。「庚申塔の石材は伊豆の小松石。江戸城の石垣を造った余り石で彫られたようです。」
     江戸城や内堀、外堀の石垣を造るために、多くの石工集団が江戸に集められた。加藤清正など西の大名が競って伊豆に石丁場を作り、三千艘の石舟で江戸に石を運んだ。江戸城が完成した後も、外堀増築、修復のため石工集団は必要とされ、職業集団として江戸に留めるための仕事が必要であった。幸い、伊豆の余り石は十分にあった。石工は余り石で既製の墓石や石仏を量産し、関東一円に出荷、廉価販売した。今の内神田二丁目鎌倉橋あたりや荒川河岸などに丁場があったといわれる。

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    坪井