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from: 坪井さん
2010年06月27日 18時21分28秒
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坪井の酒屋
船橋市史に寛文九年「下総国葛飾郡坪井村検地水帳」があり、案内人として岩佐治郎右衛門の名がある。元々の屋号は治郎右衛門だが、
<font size="3">船橋市史に寛文九年「下総国葛飾郡坪井村検地水帳」があり、案内人として岩佐治郎右衛門の名がある。元々の屋号は治郎右衛門だが、明治初期頃一時期に酒屋をした事から屋号が「酒屋」となった。
当家の石碑には「源往古河内の国より移り来たり…」とあった。鎌倉幕府を開く源頼朝も河内源氏の末裔である。河内源氏本拠地が羽曳野市壺井というのも興味深い。ご自宅には、切支丹禁令の高札や古文書などが今でも大切に保管されており、昔は刀もあったという。終戦後、茅葺屋根の葺き替えで萱を切るのにと職人に刀をあげたという逸話も。
安養寺の総代をしていたこともある岩佐の本家である。
<font size="2">*坪井川の上流はシミヅカといって湧き水が多く、タナゴ、ウナギ、シジミも取れましたよ。
家の向いの畑が向畑、その先の山をテント山、その先の地をオオケノ、坪井城のお堀のあたりはクボンヤ。テント山というのはおてんと様の山という意味で、夕日があたるととてもきれいでしたよ。
そう語るご子孫は、学校で滝口先生の授業を受けたそうな。ご記憶でしょうか。-
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from: 坪井さん
2010年06月19日 05時07分16秒
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小石川屎尿取扱所
かつて、水道橋と御茶ノ水の間の外堀に大きなコンクリート製の屎尿を溜める施設があり、各地から集められた屎尿はここで溜められ、
<font size="3"> かつて、水道橋と御茶ノ水の間の外堀に大きなコンクリート製の屎尿を溜める施設があり、各地から集められた屎尿はここで溜められ、肥船に積まれていたという。文京区誌にあった。小石川屎尿取扱所という。(右写真)
江戸、明治と、肥料としての価値に富む屎尿は、近郊農民などに売られ、野菜となって江戸の台所を支えた。江戸幕府が構築したリサイクルシステムにより、江戸は清潔な街となり、世界最大の百万都市を実現した。しかし、人口増加による排出量の増加は、供給過大を生み、大正9年8月、一転して都区内の汲取りはついに有料となった。売り物から処分費を払うものとなり、公共事業となった。
大八車やリヤカーで集められた屎尿は、外堀の取扱所からだるま船で海にでる。海洋投棄船に積み直しされ、外洋で投棄された。平成の時代に海洋投棄をしているのは世界で日本と韓国だけであったたため廃止された。廃止された年が、平成11年というのは驚きである。
今でもだるま船は隅田川で見かけることがある。処理場で処理された最後の最後のカスはやはり海洋投棄されているらしい。
全国各地で海洋投棄がされた時代、東京湾ではいわしの豊漁が続いた。沿岸では、魚を介した回虫の繁殖が問題となった。海洋投棄は外洋まで行ってから投棄するよう改められたが、外洋に着いてからの投棄時間を少なくするため、外洋に向かう途中で船底の栓を抜き投棄しながら走る船が後を立たず、海岸は打ちあげられたイチジク浣腸とコンドームが散乱。海水浴をする子供の最大の謎であった。
<font size="2"> *坪井の町会の人が、東京に通勤していた当時、総武線から毎日見ていたという屎尿取扱所のお話でした。-
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2010年06月11日 21時42分05秒
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市ヶ谷
甲武鉄道四谷トンネルの次には四番町トンネル、三番町トンネルが作られたという。外堀沿いは今は五番町であるが、明治時代の地図を
<font size="3">甲武鉄道四谷トンネルの次には四番町トンネル、三番町トンネルが作られたという。外堀沿いは今は五番町であるが、明治時代の地図を見るとそこは土手三番町であった。中央線が地下に潜り、総武線と交差し、内側になるところだ。
そして市谷見付に着く。この地も地名は市谷で駅の名前は市ヶ谷である。大正12年の関東大震災の復興に取り組んだ東京市長後藤新平は、「明治通り」「大正通り」「昭和通り」を計画したが、「大正通り」は市谷の陸軍の反対で中止、その道路は名前を靖国通りと変えた。
靖国通りの九段坂は、とても急勾配で大八車は登ることができず、駄賃を貰って大八車を押す軽子がたくさん待ち構えていた。新宿の立志伝中の人物飯塚正兵衛も、神田で仕入れた野菜を積んで四谷に帰る途中この坂を登った。一人で歯を食い縛って登った坂も、やがて二人の軽子を雇うほど荷が増えたそうな。-
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2010年06月05日 23時41分47秒
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四谷トンネル
JRよつやの駅は四ツ谷駅。地下鉄丸の内線では四谷三丁目駅の次は四ツ谷駅である。地名は四谷である。四谷怪談というように江戸時
<font size="3">JRよつやの駅は四ツ谷駅。地下鉄丸の内線では四谷三丁目駅の次は四ツ谷駅である。地名は四谷である。四谷怪談というように江戸時代から四谷である。JRの駅名を四ツ谷とツをつけたのは旧鉄道省が犯人のようだ。それを尊重し、丸の内線も南北線も駅名は四ツ谷駅である。
甲武鉄道はこの四ツ谷駅にトンネルを作った。大きな四谷見付橋の下にトンネル? いや見付橋は四谷見付の隣に大正8年に架設された。四谷見付の通りは土橋、つまり橋ではなく、土手の道であった。ゆえにトンネルが造られた。この四谷トンネルに兜の飾りがあった。鉄道博物館に写真が展示されている。西側を兜の正面とし、東側には後から見た兜の飾りがあったという。関東の会社ならではである。-
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