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from: 坪井さん
2010年09月26日 11時48分07秒
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四谷の町鳶 2
享保4年、徳川幕府8代将軍徳川吉宗の時代、時の町奉行大岡越前の守吉相の唱導で「いろは四十八組」の町火消しが江戸に誕生し、翌
<font size="3"> 享保4年、徳川幕府8代将軍徳川吉宗の時代、時の町奉行大岡越前の守吉相の唱導で「いろは四十八組」の町火消しが江戸に誕生し、翌年には本所・深川に南、北、中の16組が生まれた。町屋を守る定火消し、武家屋敷を守る大名火消しの常備軍は、町人長屋は管轄外。江戸の町は江戸の町人の手で護るとして、自衛、自治組織が作られ、鳶衆による義勇消防団が幾多の猛火と戦った。
延焼防止のための破壊消防だけ、捨て身の沈火方法は大火のつど多くの犠牲を出した。幕末には浅草の組頭新門辰五郎が徳川慶喜に請われ、京に子分を連れていき、二条城の警護にあたった。鳥羽伏見の戦いなどで多くが命を落とすも、慶喜が大阪城に置き去りにした家康以来の金扇の大馬印を陸路持ち帰り、名をはせた。
戦時下の防空消防強化策として昭和14年警防団が結成され消防の仕事は、町鳶の仕事ではなくなった。この年、江戸消防記念会が発足し、町火消しの組織は、正月の出初式の梯子乗りなど江戸文化の伝統を継承する組織となった。記念会の大きな行事としては、1月6日東京消防出初式、5月25目浅草の浅草寺での消防殉識者慰霊祭があり、準会員を合む総勢800人で行われている。
四谷消防署9階にある消防記念会を訪ねる。NHKなどから海外向け番組の取材申し込みも多い。木遣りや梯子乗りなど記念会の活動は公共的な江戸文化を今に残すものとして貴重であり、四谷はその伝統を支える町である。
<font size="2">* 広小路という道路は全国にある。広いのか狭いのかはっきりさせてほしい名前である。千葉市の猪鼻公園前など地方都市のお城の周りに多い。町屋の火災から守るため、小路を広げたことからこの名がついたそうな。-
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坪井、
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from: 坪井さん
2010年09月18日 21時28分17秒
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四谷の町鳶
四谷では、祭りになると、半纏姿の鳶衆が町の飾りつけをする。須賀神社の飾りつけ、神社の境内に保管してある各町会の神輿の組み立
<font size="3">四谷では、祭りになると、半纏姿の鳶衆が町の飾りつけをする。
須賀神社の飾りつけ、神社の境内に保管してある各町会の神輿の組み立て、家々にヌキウチという堤燈飾りをする粋な鳶の姿を見かける。正月には門松など松飾りで街を飾り、消防の出初式では梯子乗りを披露する町のイベント担当である。
商店会も全国チェーンやコンビニが多くなった昨今、新宿通り、荒木町、しんみち通りなど大通りから路地の店々まで一斉に松飾りを飾る景色は、今や四谷ならではの江戸風情であろう。彼らは高層ビルの建築現場の鳶とは異なり、町鳶といって、祭りや火消しなど町のために働いてきた、江戸の町お抱えの鳶衆である。
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坪井、
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from: 坪井さん
2010年09月11日 22時22分58秒
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坪井の苗字
旧坪井村の地区(本村)は齊藤さんか岩佐さんがほとんどである。毎年、消防団が、自治連合会に挨拶に来られるが、この村の2世たち
<font size="3"> 旧坪井村の地区(本村)は齊藤さんか岩佐さんがほとんどである。毎年、消防団が、自治連合会に挨拶に来られるが、この村の2世たちの自己紹介は「岩佐です。」「齊藤です。」「岩佐です。」 ??? 家の場所や親の名前も言ってくれないと何処の誰だか分らない。村の中では今も屋号で呼び合う理由はこういうことかと実感。
苗字は、武士がその所有権を明確にするため、所領の名称を苗字とした。ゆえに苗字のルーツは地名が多い。開墾した新田の庄の新田義貞。千葉に来てその地名を名乗った千葉氏。
豊島清元三男清重は下総郡葛西庄に来て葛西姓を名乗った。その領地は、東京に南葛飾郡(葛飾、葛西など)、埼玉県北葛飾郡、中葛飾郡、千葉県東葛飾郡、茨城県西葛飾郡と葛の字が付く広大な領地である。
上総一族の匝瑳常広の五男宗光は紀伊国湯浅郷湯浅家の養子となり地頭となった。その二男宗影は下総国匝瑳郡の地頭となり下総湯浅氏の祖となった。
明治三年(1870年)九月一九日の平民苗字許可令、明治八年(1875年)二月一三日の平民苗字必称義務令により国民全部が苗字を付けた。多くが本家筋と同じ苗字を付けた。それが坪井では岩佐と齊藤の二つであった。
江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主などだけが苗字を名乗ることを許された。ということは、他の者は先祖伝来の苗字を持っていても使うことを許されなかったという言い方もできる。
船橋の海神では御代川、田久保、矢作の苗字が多い。御代川はヤマトタケル関東上陸のとき海神の遠浅の砂浜に流れる澪(ミオ)を案内した漁師が賜り、他の姓も同様にその時の褒美として賜った姓と地元の方から聞いた。漁師や農民の姓が今に残るということは、その時代に士分となったからか、江戸時代は公的に使えなかったが姓は脈々と存在していたのか。
元来、生まれた本家に二男三男として住んでいたころは、苗字があったのに、分家したとたんに苗字を呼ばれなくなるというのは不自然である。公的な文書に苗字が残っていないだけで、二男、三男といえども苗字は持っており、明治になって新たに名乗ったのではなく、先祖伝来の苗字を届けただけなのであろう。-
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from: 坪井さん
2010年09月04日 16時18分36秒
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石の旅 縄文時代
船橋市には、高根木戸、薬円台、飯山満などに縄文遺跡が数多く発見されている。八千代市も縄文時代の遺跡が多い。その中で、坪井の
<font size="3"> 船橋市には、高根木戸、薬円台、飯山満などに縄文遺跡が数多く発見されている。八千代市も縄文時代の遺跡が多い。その中で、坪井の源七山遺跡は旧石器時代からの遺跡である。地層に居住跡はなく、ここは狩猟場であった。
源七山の縄文時代の地層からは、居住跡の竪穴状遺構が見つかる。縄文とは土器に付けた縄目の模様で、装飾のためというより、気泡をつぶし水漏れを防ぐためであった。弥生時代と異なり、野焼きで低温であったための工夫だそうな。
器を使って食べるのは人間だけである。器を使ってこそ煮炊きができ、細かな穀物を食べることができる。穀物は保存もきく。人間も、ナウマン像狩りなど狩猟で生きていた頃は、捕捉できる獲物の量に限界があり、人口が増えることはなかった。土器で煮炊きすることにより食べられるものが増え、人間は増えた。人類にとって土器の発明の意義は大きい。
ただし、煮炊きに必要なものがある。エスキモーは生肉を食べるので別に塩分をとらないが、もっぱら穀物などを食する様になると別途塩分が必要となる。その塩分と味付けの元が干し貝であり、その生産地が貝塚となった。
千葉市に加曾利貝塚がある。広大な貝塚であるが、千葉市の原住民が特に貝が大好きだったという訳ではない。ここは商品としての干し貝の生産工場であった。それを石製品と物々交換した。源七山遺跡でも石斧、ヤジリなどが見つかる。東葛郡では産しない砂岩、チャート、安山岩、黒曜石などの石は長い旅の果てにこの地に着いた。
人間はやがて海水から塩を作る製塩法を開発する。干し貝より安価で保存がきく塩が生産できるようになると、加曾利などの貝工場は閉鎖され、物流の街道も新たな塩の道へと移ることになる。-
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