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  • from: 坪井さん

    2010年10月29日 19時00分59秒

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    高藤内藤家3 譜代に学ぶ

    内藤家は現在も内藤町にある。ご近所の武英雄氏の著書「内藤新宿昭和史」によると、回覧板を内藤家に届けると、「ご用は殿様ですか


    <font size="3">  内藤家は現在も内藤町にある。ご近所の武英雄氏の著書「内藤新宿昭和史」によると、回覧板を内藤家に届けると、「ご用は殿様ですか若様ですか。」と執事に尋ねられたそうな。 殿様は頼博氏、若様は当時学習院初等科に通っていた頼誼氏のことである。その内藤頼誼氏にお話を聞いた。

     「学習院幼稚園で新宿御苑に遠足に行きましたが、その時は御苑が自分の先祖の庭とは知りませんでした。明治39年、日露戦争の戦勝記念祝賀を兼ねた御苑の開苑式が行われ、この頃、当家は御苑内から隣地に転居しました。広大な旧武家屋敷が軍事施設となる中、この地が庭園として残ったのは、明治政府の西欧視察団が西欧宮殿の庭園を見て、外交の場として庭園の重要性を認識したのでしょう。
     日本のパレスガーデンとなり、東京大空襲では、多くの命を御苑の樹木が守りました。内藤町の住人には、宇垣陸軍大臣、三遊亭金馬師匠、牧野虎雄画伯などがおり、内藤家の家政を処理する執事二人の家もありました。
     廃藩置県の時、藩主は家来の身の振り方を心配し、仕事や資金などに尽力、藩主が東京に旅立つ時、多くの家来、領民が見送りに出たそうです。戦前まで、年1回、旧藩の会合が行われるなど、その関係は続いておりました。
     藩主の英断で創立した藩校進徳館は、後の県内の教育者を多く育て、教育県長野の基礎を作りました。その中に、東京音楽学校(現東京芸大)初代校長伊澤修ニもおり、今でも東京芸大の4年生は高遠で音楽祭、高校生との交流を行っています。」

     高遠藩は、ひたすら領国大事の藩ではない。家康公以来、徳川譜代として幕府のお務めを第一としつつ、波乱の時代を力強く生き抜いた。今の時代こそ、地方藩の派手な戦争史だけでなく、このような徳川譜代の働きに学ぶべきことがあるのではないだろうか。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年10月23日 03時11分27秒

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    高藤内藤家 2 七沢石

    高遠藩内藤家は譜代大名として、常に歴史の表舞台にあった。江戸城ニの丸普請、大奥女中絵島流刑地、幕末の天狗党騒動、長州征伐出


    <font size="3"> 高遠藩内藤家は譜代大名として、常に歴史の表舞台にあった。江戸城ニの丸普請、大奥女中絵島流刑地、幕末の天狗党騒動、長州征伐出兵、越後・会津戦争。藩の財政はひっ迫し、商人や家臣から借財を重ねた。文政9年の藩の年間予算は9,473両、うち江戸入用3,885両、高遠費用800両、借金返済1,004両という。平成22年度環境省の新宿御苑予算は10億円。内、緑地整備費が2億4千万円と、現在でもその負担は大きい。御用金上納をめぐる村々の騒動、天明・天保の大飢饉では行き倒れや村を捨てた民も少なからずいた。平地の少ない信州山間の小藩は、それでも幕末まで高遠を治め通した。 
     領地においては、教育や殖産興業に熱心であり、薬草採取や絹織物作りも行った。農閑期には百姓を丹沢の七沢に出稼ぎに出し、石切りをさせた。厚木市文化財報告書によると、藩は運上金を取り立て、石切目付、五人組制度の連帯責任により厳しく監視させたとある。それでも、村の壮年者の半数が専業の石切職人となった地区もあり、その石仏、墓石は関東一円に、大正期には石臼が北海道にまで広まった。藩の殖産興業策あればこそであろう。



    <font size="2">平塚不動院 七沢石庚申塔(元禄13年)ご住職と
    * 七沢石は火山礫まじりの丹沢の凝灰岩で、やわらかいため加工がしやすいと石材にされた。100年以上経ち、字が風化して消えかかっている赤い石仏。この凝灰岩が海を渡り房総半島に堆積隆起し房州石となる。石調べの旅の先には高藤との出会いがあった。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年10月16日 22時07分30秒

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    高藤内藤家 1 緑の衛兵

    新宿の地名は、江戸四宿といわれた内藤新宿に由来する。新宿区内藤町は大部分が新宿御苑であり、内藤清成が拝領した高遠藩下屋敷の


    <font size="3"> 新宿の地名は、江戸四宿といわれた内藤新宿に由来する。新宿区内藤町は大部分が新宿御苑であり、内藤清成が拝領した高遠藩下屋敷の地である。新宿歴史博物館「内藤清成と高遠藤内藤家展」の冊子に第17代当主内藤頼誼翁の論稿「わたしの先祖」があった。
    「鷹狩りに来た家康から、馬を乗り回した範囲の土地をすべて与えると告げられた清成が愛馬を駆って南は千駄ケ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を一気に乗り回し、家康のもとに駆け戻った直後、馬が息絶えたという話は後世に広く伝えられた。清成から六代目の内藤清枚が高遠藩三万三千石の藩主となったのは元禄四年、以後明治四年の廃藩置県まで8代・180年の藩政が続いた。」
     共に秀忠の傅役(もりやく)を務め、共に関東総奉行となって幕政に重きを為した青山忠成にも、馬を乗り回して家康から原宿、渋谷、青山に広大な屋敷を賜ったといわれる伝説がある。
     この二人の屋敷跡は、今も江戸城を守る緑の衛兵である。

    <font size="2">  * 写真は新宿区内藤町にある多武峯内藤神社の駿馬塚

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年10月09日 20時54分16秒

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    四谷の鳶 4

    火消しの頭、新門辰五郎が石川島の寄場に服役中、本郷から出火した火事は、寄場まで類焼しそうな大火事になった。辰五郎は、囚人の


     <font size="3">火消しの頭、新門辰五郎が石川島の寄場に服役中、本郷から出火した火事は、寄場まで類焼しそうな大火事になった。辰五郎は、囚人の解き放ちを牢役人へ進言し、小金井無宿の小次郎と二人で油倉の目留めをして危うく類焼を免れた。二人の活躍は諸役人を驚かせ、特赦として自由の身となった。その後、新門辰五郎は抜擢されて一橋慶喜の警護に活躍、小次郎は三多摩で三千人の大親分になった。
     四谷の火消しの区域は大木戸まで。
     大木戸から先は内藤新宿、新宿遊郭を縄張りにした博徒は小金井小次郎である。兄弟分の二人は、新宿通りの大木戸で縄張りを分け合っていた。



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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年10月02日 21時26分05秒

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    四ツ谷の鳶 3

    四谷は第三区四番組(旧く組)に属する。副組頭の松金さんに会いし、お話を聞いた。「普段は、建築現場の基礎や足場組み、解体工事


    <font size="3"> 四谷は第三区四番組(旧 く組)に属する。副組頭の松金さんに会いし、お話を聞いた。
     「普段は、建築現場の基礎や足場組み、解体工事などをしています。自分で3代目。先代が戦地から帰還した時は、一面の焼け野原になった新宿を見て、仕事はたくさんあるぞって言っていました。
     当時は新宿東口の尾津組や南口の和田組など的屋からヤミ市のマーケット建築を請負いました。警察が機能しておらず、三国人に建築現場を襲撃されると噂が流れ、組が警備を強化するなど物騒な時代でした。
     今は建物がほとんどビルになり、都会での町鳶の仕事はずいぶんと少なくなりました。四谷の町鳶は、今は20人くらい。心に残る先代の言葉ですか?「見て覚えろ!」と言われるだけで、口で教わった事なんかありませんよ。」
     高層ビルの東京で、江戸との出会いは難しい。しかし、この四谷で、江戸文化を継承する町鳶の世界との出会いがあった。 *写真提供(社)江戸消防記念会

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    坪井