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from: 坪井さん
2011年11月20日 22時45分33秒
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「坪井」地名を見る会の打ち合わせ
船橋地名研究会の11/27第46回地名を見る会は坪井です。今日、いっしょに案内人を務める岩佐さんとコースの打ち合わせをしました。何度か坪井のれきし案内
船橋地名研究会の11/27第46回地名を見る会は坪井です。今日、いっしょに案内人を務める岩佐さんとコースの打ち合わせをしました。何度か坪井のれきし案内人(のアシスタント)をしましたが、二百三高地の永久保塁、酒山砦を案内するのは初めてなので楽しみです。あんばさまも案内できそうです。
打ち合わせは獅子舞の話となり、踊る時の「口上」を知りたいと依頼しました。節回しを書いたノートはあるそうです。分るといいのですが・・・。-
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from: 坪井さん
2011年11月30日 21時40分01秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:おもしろかったですね!!」滝口さんへ岩佐さんの話では、坊屋敷は侍の館だそうです。確かに坊主は金持ちになって大きな屋敷を
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from: Greenさん
2011年11月23日 22時39分13秒
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坪井対象の超ローカルwebサイトを作ってみました
こんばんわ。私からも一つ宣伝をさせて下さい。最近、NameCardにも書き込んだのですが、坪井のwebサイトを作りました。以下のタイトルの通り、千葉県
こんばんわ。
私からも一つ宣伝をさせて下さい。
最近、Name Cardにも書き込んだのですが、坪井のwebサイトを作りました。
以下のタイトルの通り、千葉県でも船橋市でもなく、坪井地区近辺だけの超ローカルサイトでございます。
坪井の空から http://tuboi.yu-yake.com/
もう、これは同じ船橋市民の方でも、へっ?と思うような短/狭視眼的サイトでしょうね。(^▽^)
こんなサイトがあってもいいかな、と思っていただけますと嬉しいです。
一応、坪井の歴史(的)な記事、地元カレンダー、ひたすら「坪井の空」を撮った写真館、ちょっとしたニュースなどなど・・・。
最近できたばかりの住宅が群れていますが、そこに越してきた方々が「ホー、そうですか!」と感じてくれればおもしろいかなぁと思っています。
歴史(的)な記事と申しましても、土器時代の話から、ほんの20年程度前の話まで幅があります。
ネタを集められませんので、すぐに底が見えてしまうかもしれないところは、ご愛敬です。
書籍なども調べて編集していたのですが、「坪井歴史散歩」講演会を拝聴して、おもしろい!と記載内容を追加したりしていました。
先生方の書籍も引用させていただいていますが、理解が曲がっているかも知れません(笑)。
キッカケは源七山遺跡調査の様子を見ていて、時の流れ、浪漫のようなものを感じたことでしょうか。アハ!
記録を見ますと、作り始めてから2年弱です。
内容的に軽薄ではつまらんという事情もあり、これまで黙って少しずつですがネタを積み上げてきました。
今後も焦らず、少しずつページを増やしていく予定です。
ま、皆さん、興味本位で結構ですので軽くお目通し下さいませ。m(_ _)m-
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坪井、
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from: 坪井さん
2011年11月18日 22時50分34秒
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獅子舞Ⅵ 越後獅子
角兵衛獅子は、水害が多く生活が成り立たない越後の月潟村で、水戸浪士角兵衛が子供に獅子舞を教えて、農閑期に諸方勧進させたのが
<font size="3"> 角兵衛獅子は、水害が多く生活が成り立たない越後の月潟村で、水戸浪士角兵衛が子供に獅子舞を教えて、農閑期に諸方勧進させたのが元祖といわれる。
鶏毛をうえたる木獅子を被り、頭に羯鼓をかけ、笛を吹いて舞踊する越後獅子、上総獅子なんどと云えり(飛州志)。親方が太鼓を打ち、笛役一人、4,5歳から12,3歳の子獅子2,3人が一組となって諸国を渡り歩く。太鼓に合わせて「そっくり返り」「片手返り」「蟹の横ばい」などの一人芸や「淀の川瀬の水車」などの二人芸を演じた。十余組の角兵衛獅子が江戸の家々を門付けしていたという
東北を回っていた渡辺寅之肋の話。稲刈り間近な頃に月潟村を出発し、弥彦神社を参拝して各組に分かれて村々を門付けして回る。越後を離れ、山形を回るころは冬となり、秋田あたりで正月を迎えた。日暮れの前に村につけず、雪深い夜道をさまよう。巡業で子供を連れ歩くには親方も若すぎた。辛い旅の果てに子供は皆無表情になったという。村に着くと部落長と話し、泊まる家が決められた。家々を一人芸で回った後、集まって組み芸をして見物料を取った。新春は書き入れ時。青森、南部を経て仙台で稼ぎ、雪解けの頃に福島を抜けて会津に入り月潟に帰る。田植えを済ませて6月の地蔵尊の祭りを待った。越後獅子は、次第に農家の副業から専業となり曲芸化していった。江戸でも他の大道芸、門付芸と同様に、越後獅子は庶民に親しまれた。
獅子の子は、成長すると骨が硬くなり芸ができなくなるため、常に小さい子を探さなければならなかった。親方は巡業しながら親に捨てられた可哀そうな子を探した。地方より江戸の貧民街の方がよく見つかったという。可愛い子供の曲芸として諸外国へも紹介された越後獅子も、明治半ばになると子供は獅子の子といっていじめられ、児童虐待であるとして親方を見る世間の目が冷たくなった。義務教育の実施、禁止令の発布などで、越後獅子は急速に衰退し、明治末年に月潟村から完全に姿を消した。
*逆立ちする子供たち(阿久根巖)-
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from: 坪井さん
2011年11月13日 06時52分21秒
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獅子舞 Ⅴ
越後獅子は童が演じる大道芸。しま模様のもんぺと鶏の羽根の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた子供が踊る。江戸に来たのは宝暦5年
<font size="3"> 越後獅子は童が演じる大道芸。しま模様のもんぺと鶏の羽根の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた子供が踊る。江戸に来たのは宝暦5年のことで、諸侯へ召し出されて獅子舞を演じた。
親方が角兵衛であったことから角兵衛獅子と呼ばれたそうな。
三匹獅子舞の起源は関東各地に巻物が残っている。千葉県に関係するものとしては、埼玉県秩父郡浦上村昌安寺所蔵の「大日本獅子舞之由来」がある。
鎌倉時代、酒宴盛んな帝城の紫震殿の大庭に三つの獅子頭が落ちた。神勅いわく、これは天竺に住む獅子と言う猛獣の頭であり、聖人出世のときにまれにでるもの。これからのちの祭礼は、この頭をもって獅子のよう舞い天下泰平、四民栄昌の祭りとするよう鎌倉幕府に勅が下った。幕府は下総国の角兵衛に命じた。角兵衛は、弟角内、息子角助を連れ、三人で参内して踊り、のちに三人とも一流づつ舞い出し世に広めた。仏師に彫らせたこの獅子頭は後嵯峨天皇から五位の官に任ぜられたという。
*獅子の民族(古野清人)-
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from: 坪井さん
2011年11月08日 02時04分56秒
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獅子舞 Ⅳ
坪井では9月1日が獅子舞であった。学校を下がった15歳くらいから若い衆に入り40歳になると抜ける。獅子舞は跡取りの長男だけ
<font size="3"> 坪井では9月1日が獅子舞であった。学校を下がった15歳くらいから若い衆に入り40歳になると抜ける。獅子舞は跡取りの長男だけがやり、次男三男は花笠持ちの役だけ。婿にも踊らせなかった。村に定着する者以外が踊りを覚え、踊りが村から流出するのを防ぐためであった。どの村でもこうして閉鎖的に伝承され、個性化されて行った。
にもかかわらず、三匹獅子舞として分類できるほど全国的に共通することが多い。仙台藩、南部藩で踊られる鹿踊もまた太鼓をたたきながら一人立ちで踊る。これも三匹獅子舞の仲間であろう。
伊勢大神楽師は神楽として二人立ちの獅子舞を全国に広めた。とすると三匹獅子舞を広めたのはだれか。そのルーツを書いた書籍にはまだ出会えない。
三匹獅子舞は、農村の共同体が祭る土地の守り神である産土型神社で行われている。この祭りによそ者は入れない。坪井の古来からの祭りに新住民は参加できない。それは閉鎖的というより祭りが農耕儀礼だからである。
埋立地であった江戸下町はよそ者だらけの商工民の町であり、彼らに豊作を祈る産土型神社はなく、稲荷神社や八幡神社などの勧請型神社が好まれた。農家のない江戸下町では最初から豊作祈願の三匹獅子舞がなかったのであろう。
*写真:平岡鳥見神社三匹獅子舞(房総の歳時記)-
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from: 宗吾台さん
2011年12月01日 14時59分04秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:おもしろかったですね!!」そのあたりは畑であったのでしょうが、見る人が見ると屋敷の跡として考えたそうです。階段状