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from: 生成門さん
2009年02月28日 23時01分48秒
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イデア・イメージ・ビジョン
イデア・イメージ・ビジョン
<補完共振>
クラインの壷を装着するだけでは三次元脳から四次元脳には簡単には反転しないでしょう。それは複素平面の実と虚が交叉する特異点は、二重構造となっており、自他共振と反共振の力が鬩ぎあっていて、-1への力がより強く働いているからです。以下、自他共振についての展開はPS理論を参考にしています。
http://ameblo.jp/renshi/theme18-10002674224.html#main
自然界では+1(他の肯定=共振)への偏向が多いようですが、人間界はどういうわけか、-1(他の否定=反共振)への偏向が強いようです。その理由は、原生人が光の誘惑に負けたことにあります。当初、森を追われた原生人は止む無く狩猟生活をしていたのですが、あるところで農耕生活に切り替えたところから、すべての災いが始まったのでした。狩猟生活というのは、環境との共生的な生き方を本分とします。環境には逆らえないのです。場所と共に生きるのです。ですから、述語的な生き様になる訳です。
しかし、農耕生活は環境と対峙するのです。環境は恵みをもたらす場所ですが、何時もいいときばかりではありません。時に、牙をむき災いをもたらします。洪水、日照り、火事、地震、津波など様々です。原生人は自然災害に対しては、ただ逃げるか、恐れるかしかなったでしょう。しかし、光の使者がやってきて、環境と対峙・対決する方法=他の否定=自我の確立を教えてくれたのです。こうした-1への偏向についてのメカニズムは、PS理論を使うと簡単に説明できるのです。
何よりも先立ってイデア=虚エネルギーがあり、それが交叉点=特異点で、即非状態で二重化(+i)*(-i)・(+i)*-(-i)されており、共振と反共振に分岐して、実軸に現象化するのです。自他共振エネルギーが勝てば(+i)*(-i)⇒1、反共振が勝てば(+i)*-(-i)⇒-1と偏向します。農耕スタイルに変更して以来、人類は反共振が勝ち続けてきました。
反共振が勝つのは、(+i)→(-i)が(+i)→-(-i)となって⇒-1となるからです。+i を自己、(-i) を自己内他者とすれば、自己内他者を否定するということは、外部の他=環境=場所をも否定してしまうのです。このメカニズムは場所的・述語的・四次元脳人間からの逃走劇を演ずることを意味しているのです。場所を地として、自分を柄(主体)とすれば、場所的人間は、地と柄の区別がない、無我の人間だったのです。ミミズが場所的生物だというのは分かりやすいでしょう。ミミズは環境と一体なのですから。しかし、人間は、その地から柄を浮き彫りにしたのです。ここには自他の対峙関係があり、その結果、柄が地の中から飛び出したのです。そして、もともとの自分の棲みかであった場所は忘れてしまったかのようです。まるで、絵の中からキャラクターが飛び出してきたかのようです。
これが主体の確立の瞬間であり、主体とは主語ですから自我の確立へと繋がったのであり、自我から近代的自我へ、文明化、近代化という大きな筋書きがあり、四次元脳人間から三次元脳人間への次元低下を演じてきた人間のドラマなのです。
四次元能は、その逆のドラマ、即ち、三次元脳人間から四次元脳人間への次元昇華を演じる生成の舞なのです。それには(+i)→-(-i)を閉じ込めなければなりません。四次元能は自他反共振エネルギーを封じ込め、それに打ち勝つだけの自他共振エネルギーを増幅させること、その臨床的実践に取り組んでいるのです。
その成功の唯一の手掛かりは、空の二重構造、(+i)*-(-i) (+i)*(-i)にあります。人間は(+i)*-(-i)⇒-1に偏向しているといっても、(+i)*(-i)の即非状態が消滅したのではありません。潜在しているだけなのです。ですから、四次元脳を復活させるには潜在している(+i)*(-i)を顕在化させればよいのです。そのための臨床的実践が、4レベルの右脳活性化であり、i禅の瞑想=明晰夢であり、クラインの壷の組み込みなのです。
クラインの壷と複素平面は述語的には同じ構造なので、複素平面を理解すれば、クラインの壷は不要に思えるのですが、そうはいかないのです。複素平面については、PS理論を理解すれば何とか応用が可能です。しかし、大事なことは、4レベルの右脳活性化です。感情の共鳴や四次元の空間認識の内在(脳に叩き込む)が求められるのです。
(+i)*-(-i)⇒-1に偏向しているのは、左脳優位、自我の他者否定の頑固さであり、その自我が自己内他者=右脳を否定・抑圧しているからなのです。脳内の戦いは、只今は、左脳が勝っており、右脳は敗者であり、日陰の追いやられているのであり、その結果として、主語論理の一神教、物質文明が世界を席捲するようになったのです。ですから、否定され続けてきて劣化した右脳を復活・活性化させることが目下のところの四次元能の課題なのです。
この復活劇には、4レベルの右脳の活性化ですが、絵画鑑賞や良い音楽を聴くことも大事ですが、なんといっても無視できないのは四次元の空間認識です。空間認識は、動物や人間だけでなく、植物でも空間を認識しています。その認識の源泉はイデアの力によるのです。イデアの力は二重化された空{(i)*-(-i)・(i)*(-i)}を媒介して分岐して現象化するので、左辺に偏向しやすい人間は三次元の空間認識が得意なのです。動物や植物の空間認識が、三次元なのかどうかは不明です。もしかしたら、四次元認識なのかもしれません。その根拠は自他共振だからです。人間も自他共振になれば、四次元認識は簡単に得られるでしょう。それには虚のエネルギーをどうコントロールするのかがポイントとなります。
ただし、イデアをコントロールすることは出来ません。しかし、空を媒介すれば、(i)*-(-i)を (i)*(-i)にドライブをかけることは出来ます。それを可能にするのが、四次元イメージを駆使したi禅の瞑想なのです。i禅の瞑想とは明晰夢を見ることですが、それには、A悟の実践で四次元イメージをしっかりと脳に叩き込んで、4レベルの右脳を復活・活性化させておいて明晰夢を見ることです。
瞑想=明晰夢のアウトプットとは何でしょうか。四次元イメージが何に変わるのでしょうか。それは、例えば、アッハ(閃き)という現象です。ビジョン、予知夢と言ってもいいでしょう。ビジョンとは、無理難題を抱えているときの明確な暗黙的な非言語的な未来への指針・回答です。正夢を見たなどと言いますが、これもビジョンなのです。ですから、明晰夢とはビジョン・正夢・予知夢・閃きと言ったような無意識からのメッセージなのです。ここまできたらビジョンを「悟り」とも言っても良いでしょう。
これでイデア→イメージ→ビジョンという連結が出来ました。四次元能は四次元のビジョン(悟り)を得るために、イデアの力を利用します。つまり、イデアエネルギーを+1に偏向させるために、クラインの壷という四次元のイメージを脳に叩き込むのです。そのために脳に叩き込むという「脳の中の能」を臨床的に実践しているところなのです。しかし、脳に叩き込む前にすることがあります。その具体的な実践が、クラインの壷という四次元のイメージを掴むということです。
四次元のイメージを掴むためには空間認識能力を高めなければなりません。どうすれば、空間認識能力は高められるのでしょうか。それには、キュービックスや積み木とかレゴで遊ぶのもいいでしょう。http://eigobon.weblogs.jp/csclub/2008/10/post-9006.html
http://www6.wind.ne.jp/lazuli/cubicus.html
積み木など子供の遊びではないかと思うなら、かなり右脳が劣化していると言うことです。子供には戻れないというなら、私達は如何に右脳が劣化しているかを実感してみましょう。先ず、幾何学図形といえば、直角三角形でしょう。有名なピタゴラスの定理は知っていますね。直角三角形の 3辺の長さの関係を表す等式です。斜めに線(c)の二乗=面積は、縦横の線(a,b)の二乗=面積の和に等しい(c*2=a*2+b*2)というものです。即ち、C=A+Bです。
どうですか。直感的に理解できましたか。
答えはこちらを参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
なかなか難しいものです。クラインの壷となると、もっと難しくなります。クラインの壷は位相幾何学(トポロジー)の図形です。そこで、やわらかいと幾何学と言われる位相幾何学を理解しておきましょう。トポロジーでは、ドーナツ(円環)と取っ手のついたコップは同一視されるのです。このような同一視はこれまで何度も述べてきたイデア的同一視・述語的同一視と同じパターンです。位相幾何学における述語的同一視する述語とは「連続的な変形」です。
「連続的な変形」をすれば、ドーナツを取っ手のついたコップにすることができ、その逆もできるのです。では頭の体操です。実践してみましょう。
コーヒーカップを用意してください。想像を逞しくして、自在に変形して、ドーナツにしてみましょう。コーヒーカップを引っ張ったり、縮めたり、曲げたり、捻じってたり、引き伸ばしたり、そのほかどのように変形しても結構です。ただし、ちぎったり、ちがう点をいっしょにする、などのことはしないでください。
どんなに変形しても、不変に保たれることが、コーヒーカップとドーナツを述語的に同一視(同じ)する条件なのです。
如何でしょうか。ドーナツの形への移し変えができましたか。答えはこちらです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E7%9B%B8%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6
これはマジックではありません。二つの図形(コーヒーカップとドーナツ)は、変形(述語的に)しても、区別されないのです。この図形はまだ三次元の図です。
ですから、実際に作れます。しかし、クラインの壷は作ることができないので厄介です。
では、クラインの壷にいきましょう。クラインの壷は四次元の図形であり、実際につくることができません。想像するしかありません。想像して作成した図を見ておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%BA
下図を引用しました。
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http://www2.neweb.ne.jp/wc/morikawa/sya.html
下図を引用しました。
―――
http://www.c-player.com/ac99328/message/200805
下図を引用しました。
―――
http://www11.plala.or.jp/nayama/ohnoklein/10genka2.htm
下図を引用しました。
―――
これらの図はこれまでも何度も出てきましたが、それは頭に叩き込むためでもあります。クラインの壷といってもいろいろな形があるのですが、基本は内外が反転しているということです。例えば、箱の中身を、蓋を開けずに取り出すことが可能であれば、それは四次元ということになります。
最後の例では、内部が透けていて分かりやすいですが、これが本当に四次元なのでしょうか。底の穴から入って行くと内部に入ることが出来ます。その後、内部の管を伝わって、横の穴から出てくると、そこが外になっています。確かに内外反転しています。実際の作り方まで紹介されていますが、これが真の四次元のクラインの壷でしょうか。作り方を良く見てください。横に穴を開けたり、切ったり張ったりしています。「連続的な変形」にはなっていません。ですから、これは真の四次元とは言えません。しかし、クラインの壷の肝心なところは、内外反転することですから、それを満足している点では、四次元をイメージする上で、大変に有効でしょう。同じように、裏表を反転させる二次元のメビウスの帯で想像してみましょう。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/mebius/mebius.htm
下図を引用しました。
―――
このメビウスの帯は裏表が反転しています。ただ、これも平面の帯の端と端を接着していますので、「ちがう点をいっしょにしない」というトポロジーの条件に反しています。つまり、他の図形から「連続的な変形」だけではメビウスの帯を作るということはできないということです。いずれにしても、裏表の反転のイメージは理解できるでしょう。
さて、位相幾何学を使って反転空間をイメージする頭の体操をしました。この作業は意識的且つ無意識的ですが、実は、実(外)と虚(内)を交叉させる作業をしているのです。つまり、複素平面を駆使しているのです。三次元で実(脳の外)のイメージを掴み(A悟)、脳内で反転させて、虚の瞑想(C悟)をしているのです。その結果、実のビジョンとして表現(D悟)しているのです。これを繰り返せば、複素平面を実践したことになります。つまり、四次元脳を実践したことになります。これがi禅のACD悟サイクルです。
脳内で反転させて、虚の瞑想(C悟)を作るプロセスは、明晰夢を見ているのと同じプロセスであり、右脳を駆使しているということです。そして、これが四次元脳への入り口なのです。-
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2009年02月27日 19時09分39秒
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隠喩は反転エネルギーの増幅
隠喩は反転エネルギーの増幅
<補完共振>
虚と実からなる四次元世界を表象するために複素平面を導入しました。虚実を交叉させ、その交叉点を特異点=空=即非状態として、虚実が反転する構造と意味と働きを持たせたのでした。しかし、平面の交叉がどうして虚実反転になるのかのイメージは掴めないでしょう。もう少しイメージを膨らませましょう。そこで、複素平面を丸めて円を作りましょう。この円を回転させて球にします。この球を二つに捻り、反転させ、両端を繋ぎます。一つを実空間、他方を虚空間とします。これが四次元世界を表象するもう一つの形=クラインの壷です。今後、複素平面が出てきたらクラインの壷を想起して、クラインの壷が出てきたら複素平面を想起しましょう。複素平面とクラインの壷を述語的(実虚・反転・空)に同一視するのです。
複素平面の虚軸に位置するイデア空間は即非構造の空(+i)*(-i)を媒介にして三次元空間と時間(主語的世界)から四次元時空(述語的世界)へ反転させる力があることを悟りの方程式=自他共振{(+i)*(-i)⇒+1}で示しました。イデア→空→-1実軸の三次元現象(主語的世界)から、イデア→空→+1実軸の四次元時空認識の現象(述語的世界)というプロセスには、虚エネルギー→虚実混合エネルギー→現象化というエネルギープロセスがあります。エネルギーを欲望、感情に置き換えてもいいでしょう。空は自他共振 (+i)*(-i)と自他反共振(+i)*-(-i)の二重構造となっており、エネルギーの強弱によって生起する分岐の構造があります。
自他反共振(+i)*-(-i)⇒-1の三次元空間現象=自我=左脳優位=主語的世界=三次元(脳)人間=物質中心の文明社会
か
自他共振(+i)*(-i)⇒+1現象
四次元時空の認識
=無我=右脳優位=述語世界=精神優位の新文明社会
となるかの分岐があります。
-1の実軸上の日常世界=自我人間から四次元を認識できる人間=四次元(脳)人間=悟り人間に変身するためには、自他共振が決め手となります。他を肯定する感動共鳴という心の作用が必要なのです。そのためにも右脳の活性化が必要なのです。右脳の活性化には、四段階の活性レベルがあります。一レベルとは、所謂、右脳開発ビジネスなどで取上げられている諸方法による活性化です。二レベルとは、選好的音楽・絵画鑑賞です。三レベルとは宗教的瞑想です。四レベルとは、四次元イメージを喚起する隠喩的検索後の明晰夢=隠喩的瞑想です。
四次元能における右脳の活性化は四レベルの隠喩的瞑想を主とします。ここでの瞑想とは明晰夢であり、これをi禅といいます。何故i禅に於いて、複素平面とクラインの壷による思考(A悟の実践)を行なってからC悟の実践=明晰夢=隠喩的瞑想をすることが必要であることは既に述べた通りです。「i禅は検索上手」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100078752773
四レベルの四次元イメージを喚起する隠喩的検索とその後の明晰夢=隠喩的瞑想によって、自他反共振(+i)*-(-i)⇒-1の力より自他共振(+i)*(-i)⇒1の力が勝って、四次元脳になるという訳です。
ここで最も肝腎なのが悟りの方程式であり、自他反共振(+i)*-(-i)⇒-1の力より自他共振(+i)*(-i)⇒1が歴然と上回ることです。そのためには自他共振を増幅させることです。そのためにはi禅に於けるACD悟サイクルなのですが、ここまでは、A悟(四次元能ブログの理解と検索)→C悟=明晰夢しか説明していません。ACD悟サイクルはいずれ説明します。
A悟(四次元能ブログの理解と検索)→C悟(明晰夢)の実践の目指すところは、四次元脳=クラインの壷の組み込みです。クラインの壷の組み込みは、自他共振の増幅によって為されるのです。悟りの方程式は、PS理論の自己認識方程式を参照しています。以下を参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/theme18-10002674224.html#main
自他共振を増幅するには、悟り=述語論理思考=非常の思考を強化することであり、因果を断ち切り、空(+i)*(-i)を認識するということです。そのためのi禅なのです。具体的な方法は非日常的感覚=クラインの壷ですから、脱パラノ=隠喩(例えば何々のようだ)的な思考を取り入れることです。蔵本由紀氏はその著書「非線形科学」の中で、隠喩の重要性を指摘しています。四次元能らしく解釈してみましょう。「主語=自=柄」から「述語=他=地」を見るのではなく、「地」のほうを述語的世界として広くとって、そこから逆に「主語」を発見するのです。その発見は、隠喩的思考こそが、新たな世界を導くための有効な編集的アプローチであると述べているのです。
この説に勇気をもらって続けましょう。
クラインの壷という隠喩から、四次元世界を導くことが出来るのではないかと思うのです。道元のテキストをよくよく見ていくと、悟りを得るには隠喩から入れといっているように思えるのです。音から入れともいいます。観音と隠喩は右脳への接続チャンネルなのかもしれないのです。能でも能楽というくらい音楽を重視しています。隠喩への着目は述語的=四次元であると仮設したことから見えてきたことなのです。道元のテキストは隠喩のオンパレードなのです。例えば、「悟りとは月である」といいます。それは丸いという述語的同一性から言っているのでしょう。丸いとは循環です。対立の解消です。無です。対生成・対消滅です。隠喩を使って思考することは更右脳優位にシフトさせるということです。
何故、隠喩が右脳優位にするのでしょうか。隠喩は述語的ですから、「花のように美しい」となれば、「あなたは花」になります。それは即非関係になるわけです。隠喩は、「あなたは花」という自他共振のエネルギー、つまり、自(あなた自身)と他(花)の感動・感銘・共鳴エネルギーを増幅させるのです。もちろん言葉を使うのですから左脳も関与しているでしょうが、少なくとも、自他反共振よりは強い力=(+i)*(-i)⇒1が働き、右脳優位にするのです。
感動・感銘・共鳴エネルギーを増幅させる隠喩の特性として述語的共通性によって思考をずらしていくことと関係するのです。例えば、私達はあだ名を付けたがります。何故あだ名を付けたがるのでしょうか。それには二つの理由があります。一つは支配欲からです。もう一つは支配欲からの逸脱です。要するにあだ名をつけるという行為は人間関係の編集なのです。編集とは意識の組み替えです。ですから編集は脳の編集なのです。そういうことから支配欲によるあだ名は主語的編集であり、逸脱は述語的編集となるのです。この主語的編集こそが、反感動・反感銘・反共鳴エネルギーを増幅させる換喩の特性なのです。一方、この述語的編集こそが、感動・感銘・共鳴エネルギーを増幅させる隠喩の特性なのです。
主語的編集は三次元脳への低下(-1)、述語的編集は四次元脳への昇華(+1)ということになるのです。あだ名として白雪姫とつけるは「白い」という述語を強調して、あだ名の主体を逸脱させる狙いがあります。主体が解体編集されるのです。逸脱して困るのは富みを所有しているもの、既得権を有しているもの、支配しているもの、権威をもっているものです。それは自我という城が崩壊するからです。主語的編集は地上の失楽園行き、述語的編集は地上の楽園行きなのです。
能が廃れたのは主体が解体されると困る力によって封じ込められたからです。世阿弥が島流しにされたのも、そこに原因があると思うのです。自己認識=悟りは逸脱がキーワードなのです。主語と述語的編集の比較を参照してください。
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2009年02月27日 16時59分28秒
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三次元脳と四次元脳(3)
三次元脳と四次元脳(3)
<補完共振>
イデアによって現象化される世界は、実軸と虚軸の四次元の複素平面で表現されます。実軸-1には四次元虚空間を認めない三次元に次元低下した自我人間がいます。一方、実軸+1には、四次元に次元昇華した四次元(脳)人間がいます。「いる」というより自己覚醒して昇華すれば配置されるということです。この実と虚、-1と+1の間には埋めようのない裂け目があります。原点で交叉していますが、ここは特異点(裂け目・割れ目)であり、繋がっているようであり、繋がっていないのです。原点は二重構造になっており、PS理論では虚から実への反転することを強調してメディアポイントと呼んでいます。メディアポイントとは、色即是空・空即是色の仏教の空であり、カオスポイントであり、生成卵なのです。実と虚の間には水と油以上の断絶があるのです。その断絶した実と虚が交叉すると、この特異点で虚から実に反転して、三次元と四次元の精神的物質的現象が現れるのです。つまり、現象化させる見えない虚の力=虚エネルギーがあるのです。その現象化の仕組みは、どのようなものなのでしょうか。実と虚の関係はどのようにして生まれるのでしょうか。
断絶していながら、繋がっているというような特異点の即非関係は実軸-1の三次元には見出すことが出来ません。ですから、三次元(脳)人間には即非関係を認識できないのです。四次元人間はどうでしょうか。四次元(脳)人間は、四次元そのものが即非的ですから、即非関係を認識できるのは当然です。四次元(脳)人間はどのようにそれを認識するのでしょうか。それを理解するには虚と実の原点=交叉点=特異点の構造と意味と働きを説明しなければならないでしょう。
三次元の交叉点をイメージしてください。二次元の平面交叉点は、流れがスムーズではありません。特異点だからです。特異点は空間を切断するのです。ところが立体交差点では、この流れがスムーズになります。南北から東西への方向変換はスムーズに行われます。しかし、上空から見ると交叉していますから空間は切断されています。つまり即非関係にあります。この特異点は三次元ですから、四次元の複素平面の交叉とは違います。
それでは、複素平面の交叉点の解明に取り掛かりましょう。複素平面の虚軸と実軸には対称性があるということです。虚は陰陽(天地でもいいでしょう)として、陰=i、陽=-iとします。実軸は+1、-1です。この交叉点には二つの関係があります。一つは陽*陰であり、PS理論では(i)*(-i)と表現します。もう一つは陽*-陰であり、(i)*-(-i) と表現します。*は特異点です。陽*陰は即非でありながら、共生・共振しています。-陰の-は否定を意味します。陽*-陰は陽*陽ですから、即非がなくなり、対称性が破れます。陽*-陰と陽*-陰からどのように現象化へ進むのでしょうか。何故、対称性が破れるのでしょうか。
この謎を解くには虚の意味を理解しなければなりません。基本は「虚数iは二乗すると実数になる」ということです。iは想像上の数字であり、√-1=iとしています。√-1=iの二乗は√-1=i×√-1=iですから=-1です。従って、(i)*(-i)=1、(i)*-(-i)=-1となります。これで虚と実が結ばれたことになります。後は、(i)*(-i)=1、(i)*-(-i)=-1の意味づけです。虚はイデアであるといいました。イデアは現象化の力です。力とはエネルギーです。三次元のエネルギーではなく、虚のエネルギーです。虚の陰陽のエネルギーが、(i)*(-i)と(i)*-(-i)の混沌的状態=空になり、やがて何らかのきっかけで揺らぎが生じて活性状態となり、分岐して-1か+1になります。この活性状態から現象化のプロセスには、そこへ向かうという方向性が必要です。これもまた虚の特性です。このような虚のエネルギーのダイナミックな運動は、(i)*(-i)=1、(i)*-(-i)=-1では表しきれません。即非からの現象へのプロセスですから四次元的生成といいます。この生成には、三次元=自我と四次元=自己に分岐します。力だけでなく方向(志向性)があります。志向性とは、自が他に向かうということです。(i)*(-i) ・(i)*-(-i)がその意味です。このどちらに傾くかで分岐が決まります。分岐を式で表せば、(i)*(-i)⇒+1、(i)*-(-i) ⇒-1となります。これが現象化の意味です。-1が三次元脳をもった人間の三次元の世界の現象化であり、+1が四次元脳をもった人間の実軸上の四次元の世界の現象化です。
三次元脳をもった人間特性(-1の現象)
・ 左脳が優位のパラノ気質であり
・ 自我が優位の、言語人間であり
・ 主語論理によって世界を理解し
・ 四次元の虚を認めず
・ 他を否定し
・ 自他反共振で、分裂しており
・ 反動として、神秘主義に傾注し
・ 物質文明を形成し
・ それによって、他=環境を破壊し
・ 苦の中に生きています。
四次元脳をもった人間の特性(+1の現象)
・ 右脳が優位のスキゾ気質であり
・ 無我が優位の、イメージ人間であり
・ 述語論理によって世界を理解し
・ 四次元の虚を認め
・ 他を肯定し
・ 自他共振で即非状態を維持しており
・ 反動的ではなく、精神主義に傾注し
・ 精神文明を形成し
・ それによって、他=環境と共生し
・ 悟の中に生きています。
虚から実への現象化(その逆)の説明は、まだ不十分ですが、今後具体的事例で説明することにしましょう。
さて、再び次元の問題です。実軸-1の現象は三次元(脳)人間とその人間が認識する世界、主に物質世界、物質中心の文明社会、ニュートン的・科学的世界、それに私達の悩める俗世界です。実軸+1は四次元(脳)人間とその人間が認識する世界、主に、精神世界、精神中心の文明、アインシュタイン的・相対性・量子論的世界、それに私達の目指す悟りの世界です。
ニュートン的世界の三次元空間と時間では、次元の中に時間を認めませんでした。アインシュタインの時空では四次元時空としました。三次元空間に時間を入れると、三次元脳人間、四次元脳人間はそれぞれ、四次元脳人間、五次元脳人間としなければなりません。更に、四次元時空と四次元虚空間の四次元の区別が付きません。これをどう考えたら良いのでしょうか。四次元(脳)人間とは、四次元虚空間を認め、四次元時空の認識を持った人間であり、自他共振した悟り人間です。つまり、四次元脳の四次元は、イデアの力を認め、自他共振させることで、生成される認識が時空一体化ですから、虚の四次元性に由来があります。虚から実への現象化の力学は、時間と空間の分離と時空一体化に分岐します。その分岐は自他共振と反共振エネルギーの鬩ぎ合いによってどちらかになります。ここで自他の自が空間意識であり、他は時間意識とします。自他反共振すれば、空間意識と時間意識が分離を意味するのです。自他共振すれば、時空一体化になります。
自=空間意識→→→→他=時間意識
自他反共振 (i)*-(-i) ⇒-1
自他共振 (i)*(-i) ⇒+1
現象化-1 +1
空間と時間の分離 時空一体化
虚から実への現象化の仕組みと三次元空間と四次元時空の区別が明確になったので、後は「時間をどう扱うか」の問題だけが残りました。三次元空間と時間を合わせた世界を四次元にしないのは、何となく、こじつけのような気がします。虚空間を認めれば、それで四次元なのですから、現象化した人間が四次元(脳)人間というのが、本来の人間のあり方なのです。それが、自他反共振 (i)*-(-i) ⇒-1という力学=光の陰謀によって、時間と空間が分離した三次元脳人間になってしまったのでした。これを四次元と看做すのは、擬似四次元であるとも言いました。
この論理の展開には、もう少し、説明が必要でしょう。植物の例で示したように、空間と時間が別々に存在するということの方が非現実的なのです。アオイは朝になるまでどうやってその時間経過を知るのでしょうか。太陽がないのですから光は関係しません。暗闇を計測しているとすれば辻褄が合います。いずれにしても、アサイが時間を認識するのは、その場所の有様に関係するということです。ここには自他共振する(i)*(-i) ⇒+1の場所があります。
人間の場合でも心身脱落や三昧という心理は時空一体のことを示しています。ここにも自他共振する(i)*(-i) ⇒+1の場所があります。ティトムとの共振でも述べたように、宇宙空間の状況によっては時間が止まったり、間伸びしたりもします。空間がなくなることはないでしょうが、時間がなくなる空間はあるのです。無時間なのに次元というのは不適切でしょう。又、時空が一体であるものを別々の次元とするのも不適切でしょう。どんな自他共振する(i)*(-i) ⇒+1の場所では、時間と空間は一体であり、固有の時空なのです。全宇宙に普遍的な絶対基準ではないのです。しかも、時間は光の連れ子なのです。「文明は交替するか」を参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100077632305
以下引用しました。
時間はヘリウムによって空間が閉じられた時から始まったと述べました。その時にその天体の固有の時間がスタートしたのです。何を言いたいのかといいますと、宇宙には絶対基準となる時間はないということなのです。天体が誕生すると、そこから、ジェットが噴出したときに全方位に向かって光が発射されます。そのときに時間も連れていきます。時間は光の連れ子なのです。絶対時間の代用としてこの光の時間を使っているとも言えます。現在までに確認されている宇宙でもっとも長く刻んだ時間はクエーサーという天体の137億年という時間です。その一部の光は地球へのミッション(光思考の普及)を持って進んできました。光はその性格から真直ぐ進みたかったのですが、行く手には多くの誘惑が待っていたのでしょう。酒を飲んだ酔っ払いのように千鳥足で進んできました。そして地球に辿り着いたときはよれよれだったのです。それでも地球では大歓迎されました。そして、これまでの光はすべて、そのミッション(光思考)を果してきました。光は人間の脳を直線的思考へ偏向させることによって線型化、次元降下、文明の繁栄、自我の拡大に成功したのです。ところが余りにも、物質文明が発達した地球では、温暖化が進み過ぎて人類の危機さえ叫ばれているのです。
―――
時間を次元とするのは、三次元人間の認識であり、この地球に縛られた狭い視点の結果なのです。イデアから現象化した様々な要素があります。それらのイデアを次元にはカウントしていないのですから、イデアから生成された時間も、次元にはカウントしなくても良いでしょう。このテーマ終わり。-
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2009年02月27日 16時58分21秒
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三次元脳と四次元脳(2)
三次元脳と四次元脳(2)
<補完共振>
空間の認識は、重力と光によって影響を受けます。その認識能力は動物・植物・人間によって違いますが、いずれにしても、空間は認識されるものであるということから、それは遺伝子=意識現象だということです。しかもその意識現象の背後に「見えない力=イデア」があるということです。つまり、空間を三次元として、或いは、四次元として認識させるのはイデアだということです。では、認識の奥の院に迫ってみましょう。
私達は、日常的世界観=ニュートンの世界観をもって「三次元+時間」の世界に住んでいると思っています。しかし、それは錯覚であり、光の陰謀によって貶められた世界観です。むしろ、四次元時空の世界の方が、より現実的な生の時空なのです。それはアインシュタインが、光の振る舞いから導いたのですが、私達はそれが余りにも、自我的な生活実感との釣り合いが取れないので、日常的世界観とはなりにくいのです。真の光を見なければ、現実的な生の時空とはなりにくいのです。それに比べて、植物は真の光を見ているようです。光と共に生きる植物を観察すれば、それが正しいことを実感できるでしょう。
では、植物は時間の認識をどのようにしているのでしょうか。人間の場合、時間に対する意識=認識(無意識)は初めからあるわけではありません。何となく物心が付いたころに、空間と同時に時間というものを無意識的に意識します。この時間認識の仕組みは不明ですが、イデアが関係していることは間違いありません。それを推測するために、植物を観察してみましょう。
向日葵が太陽に動きに合わせて向きを変えるというのはそこに時間が関係しているということです。上で引用したアオイの葉の例で、日の出を待っている様子は、まるで意識してそうしているかのようです。そこには生の時空=24時間周期のリズムがあるのでしょう。動物にも体内時計があります。このように、空間の認識の傍にはいつも時間が寄り添っているのです。生命は生の時空=場所という固有の空間と時間と共に生きているのです。時空場にはリズムを生む力があり、時空という認識を生む力があるということです。これをイデアと呼んでその力の正体を探ろうというわけです。
時空は生きている場所の認識です。場所という固有の性質(生きるためのもろもろの条件=温度、文化など)が、時空認識にその特性を与えるのです。脳という場では、主観という生体時間を生み出すのです。この時空認識は無意識的な認識であり、イデアによる現象化なのです。
この発想を更に拡大してみましょう。人間は言葉を知り、それを駆使して、他人とのコミュニケーションを介して様々なことを知るようになります。これらすべては意識的現象(例えば文化、生活)です。意識的現象でないものはないといっても過言ではありません。はっきりしていることは、経済や社会的な活動に渡る意識的な現象があるということです。それらの意識現象は言語によって媒介されますが、言語能力の獲得は無意識的な現象です。従って、人間の意識的現象のすべてには、イデアが背後にあるといっても良いでしょう。
意識的現象の「背後にある力=イデア」を感じるということがあるでしょうか。「神がかり」などという場合はどうでしょうか。人間は、昔から、見えるものだけが、この世の世界ではないということを感じていました。それが神話や宗教、お祭りとなって今でも私達に影響を与えているでしょう。ただ、残念なことに、予知や神秘は日常の世界では席を与えられておらず、非日常的なものとして疎んじられています。しかし、温暖化防止をまじめに考えていくと、どうしても非日常的なものとして疎んじられている見えない力を表に出してこなければならなくなってきたのです。それがこれまでの四次元能のシナリオでした。そしていよいよ四次元という世界に飛び込もうとしている直前のところまで来たのです。
「次元が違う」というのは、まるで異質な世界という意味があります。四次元の世界は非日常の世界ですから、意識の有り様がまるで違います。ですから、三次元の世界に時間を加えるだけでは、四次元とは言わないのです。真正の四次元の世界では、それで十分に異質な世界なのです。しかし、異質な世界であるからといって、いたずらに高い次元を持ち出すこともしたくないのです。そこで、基本となる次元について、再び復習しておこうというわけで、このテーマで話を続けています。
「すべてが現象である」として、その背後には「見えない力」が働いているといいました。ケインズ経済の「見えざる手」とどう違うのでしょうか。見えざる手というのは需給のバランスが、市場経済の下では勝手に働くという理論ですが、これは現象の背後というよりは、「冬が終われば春が来る」といったような現象の因果的リレーです。「見えない力」とは現象を生み出す大元のことですから、現象内の、一見して見えない出来事とは区別しておかなければなりません。「見えない力」と「見えざる手」をどう区別すればよいのでしょうか。
私達が認識している世界は、物質と精神の世界に大きく二分できます。物質は空間という大きな入れ物の中にあり、時々刻々変化しますから、時間というものを付帯します。これがニュートンの世界です。しかし、既に述べましたように、空間も時間も認識された非物質的な概念です。つまり、認識とは意識(無意識も含む)であり、現象ですから、三次元世界=物質世界といえども精神世界に属します。物質が精神だということはどうしたことでしょう。論理が可笑しくなってきました。いいたいことは、物質といっても、それを認識しなければ、何もありません。仮にあるとしても、「ある」と想像するしかありません。想像して始めてそれが現象として現れるのですから、これも非物質的となってしまします。
物質を三次元空間として、精神=非物質を四次元空間とすれば、次元とは異質な世界であるとする考えにぴったりなのです。では、現象とその背後の力=イデアを四次元空間とすることで、次元の問題は解決できるのでしょうか。現象化には、物質化と精神化があるというのは、ニュートンとアインシュタインの違いなのです。つまり、どちらも、認識の現象であり、物質化現象も突き詰めれば精神化現象だということです。ということは、すべての精神現象を生み出す「見えない力」があるということになります。異質な世界を次元とするという意味では、すべてが精神であるならば、三次元空間と時間で十分ということになってしまいます。「見えざる手」は、物質化現象のことなので、「見えない力」とはいわないのです。ただ、「見えざる手」を考えた、精神現象は「見えない力」になります。このように、物質現象は精神現象ですが、ニュートン的物質(精神)現象とアインシュタイン的精神現象では雲泥の差があります。その違いについては、後で考えるとして、そのどちらも「見えない力」=イデアによって生成されたということです。これで現象とイデアという大きな次元の括りができそうです。
イデア(見えない力)→→→→→→精神現象
ニュートン的物質(精神)現象
=三次元空間と時間=見えざる手
=三次元脳人間
アインシュタイン的物質(精神)現象
=四次元時空
=四次元脳人間
「見えない力」というこのような極めて特殊な事態を乗り越えるためには、私達に出来ることは、先人の知恵を参照することです。見えないが現象化させる力があるとしたのは、シャーマニズムや色即是空の仏教です。その他の宗教や神秘主義は「見えない力」があることを主張してきたのです。それと同じ事を言い出したのは神秘主義とは正反対の科学の先端分野における量子論の世界観です。この分野が踏み込んだのは、対称性(すべての物質には陰陽がある)や非局所性(いくら遠くても陰陽は保たれる)という考え方であり、それは「見えない力」を前提にしているのです。ただ、量子論がイデア論を取り込んでいるわけではありません。
四次元能は、量子論より一歩先んじて、イデアの考え方を取り込んでいこうとしています。ただ、どう取り込むのかで大きな次元の壁にぶつかっています。既にイデアを取り込んで、世界の解釈をしているのですが、その説明はまだまだ稚拙です。ここに来て、より明確にする必要に迫られてきました。
「次元が違う」というのは、まるで異質な世界という意味があるといいましたが、四次元能にイデアの考え方を取り込むことは、まさにそういうことです。量子論にしてもイデアは取り込んでいないですし、アインシュタインが聞いたら目を白黒させることでしょう。しかし、アインシュタインもびっくりする方法があります。それが複素平面を導入するという離れ業なのです。複素平面というのは、量子論ではおなじみであり、これなくしては、論そのものが成り立ちません。複素平面は、光のように粒子であり波であるような全く異質な性質を同居させている即非状態を扱うのに素晴らしい武器となるのです。
複素平面というのは、実と虚という交じり合うことのない、異質な世界、即ち、二つの軸を同時に扱うことに出来る平面です。この実軸に現象化空間を配当して、見えない力を持つ背後空間を虚軸に配当します。これによってニュートンとアインシュタインとイデアを、神秘主義と科学を対等に扱うことが出来るのです。そして、すべての森羅万象をスマートに説明できるのです。これらの考え方はPS理論を参考にしています。詳しくは下記を参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/archive1-200902.html
私達は生きているこの世界には、意識化された空間とその中に収納される意識化された物質現象と空間に付帯する意識化された時間、及び、人間の精神的現象とがあります。ここで空間とは三次元です。この軸は物質と精神の現象化世界であり、実軸とします。この実軸で生きているのは私達ですが、多くは三次元人間であり、僅かですが四次元人間(仏)がいます。
実軸に対して、「見えない力=イデア」がある虚の軸を虚次元=虚空間とします。この虚空間と三次元空間を加えて四次元複素平面ということにします。ところで、既に、日常的な世界観を作り出したニュートン的世界観は三次元空間と時間を基礎にしているのですが、次元数だけから言えば四次元です。しかし、これを四次元というには抵抗があります。四次元というのは、私達の常識的世界観とは違う世界だからです。ですから、三次元としました。単に四次元として、更にここでのイデアの虚空間を加えて、四次元イメージさえ掴めていないのに、いたずらに五次元にはしたくはないという思いもあります。
いずれにしても、実軸には、ニュートンの三次元現象世界観とアインシュタインの四次元時空を現象世界観が同時に存在することになります。これでは、実軸の三次元空間と四次元時空の同時存在、それと虚空間との四次元虚空間との関係が混乱してしまいます。整理してみましょう。
三次元空間と時間=三次元実軸=日常世界=三次元人間=ニュートンの世界
四次元時空=三次元実軸=精神的主観の世界=アインシュタインの相対性の世界
三次元空間と時間とイデア空間=四次元虚空間と時間=複素平面の世界
四次元時空とイデア虚空間=五次元=複素平面の世界
このように次元について空間と時間及び虚の認識に仕方によって、三次元、四次元、五次元になり、複雑になってしまいました。とりあえず空間認識に限定して、人間がこの複素平面にどのように配置されるのかを考えてみましょう。虚次元を認めない人間を三次元人間としましたが、それはPS理論の自我方程式から-1に配置されます。虚空間=虚次元を認める人間は、+1に配置されますので四次元人間と表現できます。四次元能では、この四次元人間を、アインシュタイン世界=四次元脳を持った人間とします。そして、ニュートン世界=三次元人間を、三次元脳を持った人間といいます。この異なった人間が複素平面の実軸上に配置されるというのが、四次元能の謎解きの鍵なのです。
四次元能は、三次元脳から四次元脳への変身を遂げることを目的としています。そこで究明しなければならないのは、イデアの力がこの現象化(三次元脳・四次元脳)に対して、どのように働いているかということです。イデアがダイレクトに現象化するのではないでしょう。媒介するものがあります。そのことを複素平面で示してみましょう。複素平面は実と虚が交叉していますが、そこには交叉点があります。つまり原点です。この原点が重要な意味を持っています。この原点の構造、意味、働きを解明すれば、四次元能は終幕となるでしょう。
続く。-
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2009年02月27日 16時56分31秒
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三次元脳と四次元脳(1)
三次元脳と四次元脳(1)
<補完共振>
シムダンスとは「脳の中の能」であるといいました。能にはその舞のパフォーマンス効果を最大に発揮させるための奥義「秘すれば花」があります。能には見る人に面白いと思わせる心の編集術があるのです。そのポイントは、序破急のリズム、幽玄の美であり、緊張感の創出、死の世界などがその特徴です。「おくりびと」がアカデミー賞を受賞しましたが、この奥義を秘めていると思われます。四次元能にとっての「秘すれば花」とは、光の陰謀よって隠蔽された四次元脳を再生する脳の編集のことです。四次元能とは隠蔽された四次元脳を露出させる生成の舞いなのです。
四次元脳という場合、その次元の意味について確認しておかなければならないでしょう。次元とは、数学や計算機においては、任意の空間の広がりをあらわす要素です。自然科学においては、物理的な要素を言います。この次元の考えを転用して、質の違いやかけはなれていることを「世界が違う」=「次元が違う」ともいいます。四次元能では、物理的な時間と空間を次元の基礎にしますが、質の違いやかけはなれている世界も扱うので、転用した次元の考えを取り入れます。
物理的な次元とは、私達の日常的な物質世界のことです。私達は左右・前後・奥行きという三つ方向に広がりをもった空間の中で物質的に生きています。これを三次元空間といいます。しかし、私達は生まれ死ぬ時間的存在でもあり、死んだら単なる物質と化しますが、生きている時は精神を持って生きています。死後の世界や精霊などを考えるのが人間であり、物理的次元だけでは表現できないのが人間なのです。私達は三次元空間という入れ物の中で生きている時間的な存在ですが、一方、非物質的な存在でもあるのです。これだけですでに三次元空間をはみ出してしまいます。
先ず、時間のことですが、これは一般に次元と考えられています。時間は一方向的な流れであり、ニュートンの世界では空間と時間は相互に独立な関係として考えられています。時間と空間は宇宙のどこでも絶対の物指なのです。このような世界観が私達の常識です。三次元空間と時間で構成される世界が私達の生きている現実の世界=日常の世界なのです。この世界では次元の数だけでみれば、空間+時間で四次元ということになります。ただ、通俗的には、空間だけに限定して三次元の世界としています。
この問題を解決したのがアインシュタインです。アインシュタインの世界は相対性理論ですが、ここで時間と空間は一体(時空)として扱われます。時間と空間が一体とはどういうことでしょうか。宇宙には重力があり、空間が歪んでいます。歪んだ空間を光が通過すると曲がります。そうすると時間が遅れるのです。これによって、時間と空間が相互に独立な関係として考えられているニュートンの世界は否定されるのです。宇宙では常識的日常が否定されるのです。それは天文学的宇宙物理の世界であり、ミクロな素粒子の世界のことです。常識的な日常世界では、なんら影響がないように思われます。実際に私達は、時計によって生活しています。時間の遅れなど、電池がなくなってきたときぐらいで、全く気にしてはいません。ですが、アインシュタインの時空世界が、実は私達のもっともな意味のある世界にあることを実感することがあります。それが「脳の中の出来事」です。私達は夢中になると時間を忘れます。このときの心理状態がアインシュタインの時空世界なのです。主観的な時間なのです。ニュートンの世界は客観的な時間と空間です。アインシュタインの時空世界は物理の世界なのですから、主観的な時間ではないはずなのですが、このような矛盾はどうしたことでしょうか。時間と空間は絶対ではないということだけに着目すれば、脳の中は一つの宇宙ですから、独自の時空間であるとすれば、アインシュタインの時空世界であるといえるでしょう。このような時空は三次元空間ではありませんので、四次元時空といいます。この世界観はいずれ、四次元脳=悟りの基本となりますので覚えておきましょう。
ニュートンの時間と空間は、次元数だけから言えば四次元なのですが、三次元空間として四次元に昇格させませんでした。
一方、アインシュタインの時空世界は、四次元時空としました。これらの二つの違いは時空一体か、分離の違いであるともいいました。この空間・時間と時空の違いはどうして生まれるしょうか。
私達が世界をどう見るのかということを考えてみましょう。私達が空間という入れ物の中に住んでいることを私達はどうして知るのでしょうか。私達が、自分が空間の中に閉じ込められていることを知るのは、この世に生まれてからしばらくしてからです。胎児の段階では、やはり胎内に閉じ込められているのですが、それを知ってはいないでしょう。無意識には知っているといえるかもしれません。意識的か無意識かの違いがありますが、ここではその区別をしないことにします。新生児は直ぐに目を開けます。そして、目の前に外界が広がっていることを「知る」のですが、それが視野です。視野は網膜に限定されており、その見える範囲は前(後)、右左です。新生児の段階では、まだ奥行きのない丸い平面でしょう。ともかくも、私達の空間の認識は二次元平面から始まるのです。やがて、奥行きという認識が生まれるでしょう。奥行きは生で見える外界の姿ではなく、裏を想像するという能力が発揮されることで生成(認識)される立方体の空間です。ですから、知能の発達が必要とされるのです。こうして三次元空間が認識されることになります。空間というのは、認識によって生まれるのですから、三次元空間が絶対的な正しい宇宙空間だということではありません。絶対的な正しい宇宙空間だというニュートンの世界も、それは又一つの認識であるに過ぎません。
いずれにしても、空間という認識が生まれるのですが、それはどこから、どんな力によって生まれるのでしょうか。幼児は足腰がしっかりすると、ハイハイからヨチヨチ歩きを始めますが、それは無意識の行動です。これは遺伝子に「歩く」というプログラムがあるということを意味しています。しかし、歩く前に奥行きが認識できていなければならないと思います。母親がそこに居るという距離感=奥行きがなければ、そこに行くという意思は出てこないでしょう。学習によって覚えるという説もありますが、すべての幼児が歩くのですから、遺伝子説が正しいでしょう。馬は生まれて直ぐに歩き出します。そうなると、奥行きも遺伝子によるということになります。これは空間認識の遺伝子説です。では、空間認識の仕組みはどうなっているのかということになります。この答えは遺伝子に方向音痴の研究から推測されます。以下を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mainiti_2005/e/a0310102f5520c4a9c3e8391db24dfc9
以下、編集的引用です。
岡本理化学研究所がこのほど方向音痴の特定遺伝子を発見したと同社のホーム・ページで発表した。この発見により世界三大難病のひとつ「方向音痴」に遺伝子治療の道が開かれることになった。
同ホーム・ページによれば、今回発見された遺伝子(非GPSDNA)がある特定条件下で脳の空間認識を司る部位に干渉し、本来の機能を抑制する働きがあることが分かった。この遺伝子は徘徊性があり、気ままに放浪するためこれまで発見が非常に困難だった。
今回唯一発見されたこの遺伝子を使ったマウス実験では、塩基配列に非GPSDNAを付加してマウスのゲノムに挿入した。この操作により帰巣訓練を行ったマウスは方向音痴となり、屋外に放したところまたたく間に姿を消し、二度と巣に戻ってこなくなったという。岡本理化学研究所はただちに警察に捜索願を出すとともに、ホーム・ページ上で「うちのマウス知りませんか?」の広告を掲載し、このマウスの行方を追っている。
―――
植物にも空間認識はあるのでしょうか。多くの植物は成長するにつれて地上に伸びていくのですが、まるで空間を認識しているように見えます。「植物が上下に伸びるのは何故か」を参照してください。http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/12/1206b.htm
以下編集的引用しました。
植物は何故真っ直ぐ上と下へ伸びるのでしょうか。その答えは"重力"です。植物の根や茎は,重力に対して大層敏感です。私達が、生長している植物をどのように植えても、2、3時間後に間違いなく根は真っ直ぐ下を,茎は真っ直ぐ上を向きます。この現象は「屈地性」と呼ばれます。これは文字どおり,地面に向かって曲がることを意味します。この屈地性が重力に対する反応であることは,いろいろの実験で証明できます。
まず第一に、種子を播き,真っ暗な処で発芽させますと、根は下に伸び、茎は上を向いています。この植物を抜き取り、今度は逆さに植え替えると、極短時間に根や茎は元通りになります。これは光がなくても起こる現象で、光は関係していないことが分かります。従って、重力についてだけ考えればよいのです。
次に、水平軸の周りをゆっくり回転するテーブルに、この植物を固定しますと、違った結果になります。この場合、植物に働く力は一方向からだけでなく、力はあるときには上の方に、あるときは下の方に働きます。そのため、植物は一定の方向へ生長するのに必要な、絶え間ない刺激を受けることができません。結局、このような回転台に置かれた植物は自分自身を調節することができず,置かれたときの向きのまま根や茎を伸ばして行きます。このことを更にはっきり証明するために,回転台をもっと速く回すと、遠心力が働いて植物を台の中心から遠ざけようとします。こうして置くと、やがて植物は遠心力に反応して根を外側に、茎を中心に向けて伸ばすようになります。
しかし、植物がどんどん生長し始め、芽が土を破って外に顔を出すと、光がその後の生長にとって大切な要因となります。多くの植物の茎は光に惹かれます。この性質を利用し、植物を横に生長させることができます。それには、横の一方向からだけ光が入ってくるようにした温室に植物を置けばよい。光に対するこのような反応を屈光性と言います。これもまた、いろいろな植物やその部分にみられる興味深い反応です。例えばある種の植物の根は光に反応し、それから遠ざかるように伸びて行くが、他の多くの植物にはそのような影響はみられません。また、ある種の植物の葉は、光に対し
非常にはっきりした反応を示し、それを最大限に受けようとして、光線に直角になるように葉の向きを変えます。またある種の花は太陽に真っ直ぐ向くように顔を持ち上げるので,太陽が進むにつれて,空中で弧を描きながら太陽を追います。アオイの葉も同じことをします。途中に木の枝や何かが突き出ていて太陽を遮ると、葉の向きは其処で止まります。
しかし再び太陽が顔を出すと、直ぐその方向へ向き直ります。太陽が地平線に沈んでしまうと、アオイの葉は全部ぐるりと向きを変え、それから十数時間後の日の出を迎えるため東を向きます。彼等は恰も頭脳を持っていて、勿論そんな筈は無い訳ですが、それが、どちらから太陽が顔を出すかを教えているように見えます。恐らくは,植物によくある24時間周期のリズムのほんの一例でしょう。植物のいろいろの部分、特に根の生長は屈地性や屈光性のほか,水や養分の存在にも影響されます。水や鉱物質やその両方に富んだ地層があると,植物の根はその層へ群がるように伸びて行きます。
では,植物は光や重力に反応するとき,どのようにその向きを変えるのでしょうか。多くの場合、この運動は茎の生長を不均一なものにします。即ち茎の一方が反対側より早く伸び、茎を曲げます。今ではオーキシン(植物の伸長ホルモン)が生長の一番大切な要素であることが分かっており,重力や光がオーキシンに影響を及ぼしていることは明らかです。オーキシンそのものは重力や光では変化しないが、それが茎や根の先端で生産され、其処から移動するとき、非常に強い影響を受けます。例えば,植物が真っ直ぐ伸びていないと、重力は大部分のオーキシンを茎の下側に集め、其処を流れるようにします。こうして下側の生長が刺激され、茎は再び真っ直ぐになります。また,光はオーキシンを遠ざけます。そのため、うっかり向きを間違えて置いた窓際の植物や,倒木のため光を遮られた森林の下では,光源から遠ざけられた側の茎がオーキシンを沢山受け取ります。そして細胞の生長はその側の方が活発になり、茎は再び光に向かって生長するようになります。このような事実から,植物の屈光性はオーキシンで説明できます。しかし,何故光がオーキシンを押しやるかは,まだ科学者にも分かっていません。
―――
この説明にあるように、植物にも「空間を認識する能力がある」ということです。その空間を認識する能力はどこにあるのでしょうか。それはオーキシンであり、その元は遺伝子であるでしょう。結論的に言えば、動物にしても、植物にしても、人間にしても空間の認識は、光と重力と遺伝子が関係しているということです。
遺伝子のどこにその力があるのでしょうか。それは現時点では不明であり、これより先は自力では行けません。そこでナビゲータに教えを請うことにしましょう。ナビゲータとはプラトンです。プラトンは、現象に背後にイデアという力があると教えてくれます。イデアについては下記を参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96
以下、編集的引用です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、感覚的事物はその影であるとします。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのが私達人間の住む現実界です。
例えば、現実の世界に、円形をした物はたくさん存在しますが、いずれも完全な円ではないし円そのものでもありません。しかし、これらの円の背後には永遠不変で、完璧、かつ抽象的な円のひな型であるイデアがあるとします。また、人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しており、個別の花に「美」のイデアが分有されているからです。ソクラテスとアリストテレスは違う存在であるが、共に「人間」のイデアを分有しているのです。
人間の持つ感覚は不完全であるため、五感によってイデアを捉えることは出来ません。プラトンは、理性で認識することによってのみ、イデアに至ることが出来ると考えました。イデアが実在する、と考える点で観念論 (idealism) 、実念論(実在論) (realism) の系譜に属します。
―――
イデアは見えないのですから神秘的観念や心霊もイデアといっても良いでしょう。このイデアは少なくとも科学では扱わない領域です。隠喩的に言えば、遺伝子のように生命をデザインする「何か」です。ところが、遺伝子も、最近では、人間のすべてのDNAが解読されましたから、神秘的なものではなくなりました。これでイデア=遺伝子とすることで、背後の力の正体が何かという問題が解決されたわけではありません。その遺伝子を現象化したものは何かという別の問題に摩り替わっただけなのです。真のイデアはその背後にあるものとなっただけなのです。ともかく現象化させる「何か」があるというわけです。それでも、その「何か」を現象面の因果だけで説明しようとするのが科学です。結局、科学は「何故」に答えられないのですから、限界があるということになります。上で述べたように、「何か」とは「何か」としつこく最終の答えを求めてようとする限りがない意識があります。こうした問いは無限後退となり、終わりのないジレンマに陥ってしまいます。この無限後退を終わらせたいのです。それがプラトンを頼りにした理由なのです。この無限後退を断ち切るために「見えない力」を想定して、その真の世界の成り立ちの奥の院に迫ってみようというわけです。
続く。-
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2009年02月11日 19時30分42秒
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i禅は検索上手
i禅は検索上手
<補完共振>
A悟の実践=述語的検索によって、脳はかなりカッカしているでしょう。この状態でベッドに入ります。なかなか眠れません。右脳が活性化しているからです。左脳はややお休みです。右脳は疲れ知らずといいますか、昼間、インターネット検索した情報に基づいて、盛んに脳内検索しています。検索しながら思考もしています。朝になり目が覚めた時に劇的変化が現れています。悟りの理解できているのです。aha!の瞬間です。(+i)*-(-i)⇒-1の力に逆らって(+i)*(-i)⇒+1が勝利した瞬間です。述語的検索の勝利は、述語的インターネット検索から明晰夢に直結(A悟→C悟)したということなのです。インターネットが脳の延長であると言ったのはこのことなのです。ミンデルは明晰夢を24時間働かせよといいましたが、それは確かにインターネットで検索している時でも働いていました。しかし、レム催眠時の明晰夢は強力です。ある意味では(A→C)が一体となった状態を明晰夢と言った方がいいかもしれません。しかし、まだ先がありますので、ここではC悟の瞑想を明晰夢としておきます。
A悟の検索と思索に続く、C悟りの瞑想=明晰夢における検索と思索が四次元能のi禅における瞑想術なのです。とりわけインターネット検索は明晰夢に計り知れない効果を与えてくれます。ですから、瞑想とは検索と極論しても言い過ぎではないでしょう。i禅の後半は、(+i)*(-i)⇒+1を確実にするために、理解できたことを表現するというC悟→D悟りの実践があります。ここでも検索は重要となってきます。説明は別の機会にします。
(+i)*(-i)⇒+1が実現した瞬間は、小さな悟りですが、四次元脳の生成の瞬間でもあります。ですから、明晰夢に直結(A→C)する検索は能の「秘すれば花」です。検索は四次元能のi禅における瞑想術であり、その極意は「検索の仕方」ということになるでしょう。トレジャーハンティングでも、ただ、探し物をしないのと同じように誰でも無闇には検索はしないでしょう。もっと検索の旨いやり方があるのでしょうか。
インターネット検索が明晰夢に計り知れない効果を与える取って置きの検索方法を披露しましょう。検索するということは、何らかの目的、考え方をもって検索をするでしょう。地図検索する場合でも、行きたいところがあるからでしょう。レストランを探すならば、食べたい物とか、価格、地域などという条件をキーにするでしょう。これは既に、述語的検索をしているということです。食べたい物とか価格、地域は述語であり、述語によって限定された(絞り込まれた)レストラン(主語)が現れるということです。ということは述語的検索をすれば、悟りが得られるというのでしょうか。悟りがそんなに簡単に手に入るのならば、苦はないのですが、それがそうでないから問題なのです。一度、そのレストランを知ってしまうと、もう検索は必要がなくなるでしょう。経験と知識による既成観念で縛られた三次元脳になるのです。要するに経験が悟りを必要なくさせるのです。起業当初は溌溂としていた企業が、いつしかマンネリ化して硬直化するのですが、それも同様の現象でしょう。いつでも(+i)*(-i)⇒+1 の背後には(+i)*-(-i)⇒-1が忍び寄ってくるのです。
(+i)*-(-i)⇒-1を寄せ付けないためには、四次元能のインターネット検索においても、最初の「地図検索」の時のような、初デートの気分、つまり「初心忘れるべからず」なのです。どのようにすれば、そんなことが出来るのでしょうか。
レストラン探しの場合は、レストランはあるものの中から探すのであって実体があります。それに対して、悟り探しはそうは行きません。どこかに悟りの実体があるわけではありません。ですから実体のないものを探すという意味で探検とか探求に似ています。簡単には結論がでないのです。芸術家が作品を作るようなものです。四次元能をトレジャーハンティングなどという言い方をするのも、そのことの表明なのです。
従って、i禅で悟りを求めるというのは芸術家や冒険家、探検家と同じ態度で臨まなければならないのです。具体的には、科学者がそうするように仮説を立てることです。悟りから四次元脳への掛け橋となる述語的仮説を設定することが、i禅における検索の前提となります。
では、何故、悟りを四次元脳に繋ぐために述語的仮説を設定するのでしょうか。四次元能では「四次元脳と悟りは同じである」と期待してシムダンスを舞っています。この期待を仮説に置き換えてみましょう。冒険とか探求というのは往々にして期待が述語的仮説になるのです。例えば、エジプトのピラミッドの意味を探すという場合、ピラミッドは王の墓だというのが定説となっていますが、ある探検家が「ピラミッドは農民たちのための失業対策」だという説を立てたとします。そこには探険家の期待があると思います。もちろん、ただの期待ではありません。推論に裏付けされた上の期待です。
期待というのが気に入らなければ、見通し、予感と言っても良いでしょう。いずれにしても、それが探検に向かわせる原動力=述語的仮説なのです。
それでは、こちらも四次元能の述語的仮説を立てる実践をしてみましょう。「四次元脳とはXである」「悟りはXである」とします。Xは述語です。これから「四次元脳は悟りである」となるのが述語論理です。ただし、この場合、Xは未知なので、「四次元脳は悟りである」は述語的仮説となります。検索と思索によって、四次元脳と悟りをそれぞれ特徴づける述語が無数にある述語の中から隠喩的に選ばれます。隠喩的とは似た物同士を結び付ける思考です。それらを比較して似たもの選んで、四次元脳と悟りが同一視できるように括ります。隠喩的とは述語的なのです。こうして選ばれたものがXなのです。このXの隠喩的共通性によって「四次元脳=悟り」となりました。
この例で示したのは、悟りから四次元脳への掛け橋となる述語的仮説を設定することが、i禅における検索の前提となることでした。ここにきて、それは隠喩的であるということになりました。隠喩的、述語的な仮説を立てて実践した結果、捜し求めた述語とは、例えば、悟りの精神であり、仏教的宇宙観(taste=感性)であり、即非的無我、無常、無自性の色即是空などの述語でした。四次元的な述語は時間のスクランブル、時空の歪み、時間回廊、因果の切断などでした。これらを括るとすっぽりと四次元脳と悟りが呉越同舟になりました。こうして今も四次元能は進んでいるのです。
この例で示した悟りと四次元脳を繋ぐ隠喩的、述語的仮説はどのように選択されたのでしょうか。言うまでもなく「四次元脳は悟りである」という期待があり、それを直感的仮説としたのです。「四次元脳とはこうである」「悟りとはこうである」という定義があって、それらを主語論理的に検証しているわけではありません。直感的仮説がまずあって、それによって検索領域を特定して、編集しているのですから、何時も成功するとは限りません。宝探しと同じです。やってみなければわからないのです。検索する領域とは、悟りの場、四次元脳の場であり、脳とインターネットが繋がる拡張場なのです。(teamのe:environment=場)拡張場とはインターネットを媒体にした(teamのm:media=媒体)無尽蔵の述語の関連データベースです。ここまでがA悟の実践です。
そして次にC悟の実践=瞑想=明晰夢に入ります。この述語データベースから検索された四次元脳の述語と悟りの述語は明晰夢の中で、右脳を最大限に刺激するでしょう。つまり、それぞれの隠喩的述語的特性が相互作用して、四次元脳と悟りが脳の中で繋がっていくでしょう。A悟りの実践でも、かなり左脳の支配されている状態から右脳優位に反転しているのですが、この明晰夢によって更に一段と反転を加速させるでしょう。それ故にi禅を反転酵素というわけです。これが反転技術(teamのa:art=advanced resourse & reversing technology=先進の資源・反転テクノロジー)なのです。反転技術とは、三次元脳(主語的世界)を四次元脳(述語的世界)にシフトする力であり、その反転の核になるのが、隠喩的・述語的検索なのです。隠喩的、述語的瞑想=明晰夢なのです。(metphor=隠喩)これが四次元脳へ反転(∫)するための隠喩的編集的アプローチなのです。隠喩とは「のようだ」という関連づけるものです。異質なもの同士を結びつけるマッジクが隠喩なのです。松岡正剛氏は蔵本由紀氏の「非線形科学」の紹介で隠喩の重要性を紹介しています。下記を参照してください。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1225.html
以下引用しました。
本書の最後には、述語的自然学の可能性についてふれられている。いわば、「不変なもの」を通して「変わっていくこと」を求めるのではなく、「変わっていくこと」のほうを述語的世界として広くとって、そこから逆に「不変なもの」を新たに見いだそうという科学の可能性をのべたくだりだ。こうして蔵本さんは、最後の最後になって次のような示唆深いことをのべて、本書をおえる。比喩や暗喩のはたらきこそ、新たな科学像を導くための有効な方法ではないかという示唆だ。これは、まさに“編集的科学”の予兆を感じさせるものだった。
―――
蔵本由紀氏は著著の中で『メタファは、具体的事実を説明するための実体的モデルとは異なり、個別現象の中に自然が潜ませているある普遍的な「仕掛け」を見ようとするのである。したがって、実体的なモデルが確立した後でも、メタファの存在理由は大いにある』といっていますので、比喩や暗喩というのは隠喩(メタファ)と解釈しても良いでしょう。
比喩とは直喩、隠喩、換喩、提喩を指していますが、直喩、暗喩というのは隠喩と同じ述語的カテゴリーであり、換喩、提喩は主語的カテゴリーです。ですから、述語的という場合は、隠喩を代表させます。更なる隠喩のパワーについては、別の機会に述べることにします。
インターネット禅は禅のA悟→C悟→D悟というクラインの壷をインターネットと脳を接続して延長しました。その反転する力を明晰夢という瞑想によって示しましたが、まだ、それは半分しか説明していません。C悟→D悟が残っているからです。
それは後に回すことにして、ともかくも虚実反転のクラインの壷によって、イデアが空を媒介にして三次元(主語的世界)から四次元(述語的世界)へ反転させることを、自他共振{(+i)*(-i)⇒+1}で示しました。また、何故、隠喩的検索、隠喩的瞑想なのかも示しました。更に、何故禅がクラインの壷なのかも説明しました。世阿弥を持ち出したのですが、結局、反転のエネルギーは検索上手になることで生まれることになったようです。それが花の極意です。禅とは検索上手の花だったのです。いずれにしても禅は四次元脳へ変身するために通らなければならない道だったのです。-
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2009年02月11日 19時23分24秒
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述語的検索の実践
述語的検索の実践
<補完共振>
脳の中に能舞台を設定して、四次元脳へ変身させるのが、四次元能のシナリオですが、この能舞台の設定というアイディアは、免疫学者である多田富雄氏著の「脳の中の能舞台」からヒントを得ました。「現代の視線に耐え生き延びる」を参照してください。
http://fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2007/04/post_1283.php
この考え方は、シム方程式でも使えそうです。自分の脳で能を演じて自分で見るのです。脳で能を演じて自分で見るというのは瞑想=明晰夢のことと解釈できます。もう一度、四次元脳を生成させるシム方程式の能(シムダンス)を見ておきましょう。シム方程式が汎脚本であると述べました。
∫t{(+i)*(-i)⇒=1}/4d,g→V
{(+i)*(-i)⇒+1}は、虚実反転のクラインの壷によって、イデアが空を媒介にして現象化されるプロセスを示しています。このプロセスには、根源の力=イデアが関与しており、それを引き出すのが明晰夢です。明晰夢とは夢という名前が付いていますが、24時間休みなく働いているのです。この明晰夢を積極的に活用して四次元脳=悟りを得る仕組みがインターネット禅なのです。
その解決方法がシム方程式によって示されています。しかし、方程式なので解かなければなりません。どのように、解くか=解釈するかで、地上の楽園に行くか、失楽園に行くかが決まります。既に私達は失楽園に居る身分ですから、地上の楽園の方に行くしかありません。ただ、その道が険しいだけです。でも安心してください。天才ナビゲーター達が道案内してくれます。
では、能の舞台に行きましょう。能が演じられている舞台は脳です。この脳にはインターネットが接続されています。インターネットは能舞台の延長なのです。インターネットを舞台とするi禅は、瞑想=明晰夢(C悟)を核としてブログ実践=A・D悟の実践とリンクしながらサイクルしますので、i禅の事始めはA→Cからとなります。C悟の悟りを得るには瞑想しなければなりませんが、i禅では明晰夢がそれを代行します。明晰夢を有効にするには、脳を活性化させることが必要です。それには酵素が必要だということです。i禅そのものが酵素なのですが、その酵素反応は、悟りの方程式(+i)*(-i)⇒+1によって示されています。更に、この式を解かなければなりません。(+i)*(-i)は即非状態ですが、これを自他共振させれば⇒+1となり、めでたく悟り=四次元脳の完成です。
自他共振させるためには、A悟→C悟という実践のサイクルがありますから、C悟=明晰夢=瞑想を実践する前に、脳を活性化させて置かなければならないのです。それがA悟における即非思考=空(+i)*(-i)の実践です。(+i)*(-i)の(+i)は自であり、(-i)は他です。自分であり自分ではないものを共生*=即非させるということです。こんな言い方は難しいのですが、簡単に言ってしまえば夫婦和合=愛です。この様な心理状態をインターネットで実践するのです。その具体的な方法が述語的検索です。
この述語的検索がi禅ではA悟の実践であり、C悟のための瞑想=明晰夢に直結(A→C)するのです。何故、述語的検索がA悟の実践になるのでしょうか。
四次元能ブログに参加したとしましょう。当然、四次元能を理解(A悟)しようとして、質問をしたり、自分で他のブログやHPを検索するでしょう。検索は、何かを調べるためです。関連するテキスト、イメージを探すわけです。例えば「悟り」という言葉の意味が不明だとしましょう。それは「悟りとは何か」という質問になるでしょう。そうすることで様々な悟りに対する知識が得られるでしょう。しかし、知識が増えても悟りが何かということは分からないままです。こういう状態を主語同一性=反復といいます。悟り=n1=n2=n3=n4=・・・なのです。悟りという言葉を別の言葉で置き換えただけなのです。これが俗世界の常識なのです。科学の世界も同様です。ところが禅の世界ではこの主語論理の世界から必死になって逃れようとします。ですから、「言葉を用いるな」「只管座禅せよ」「考えよ。考えるな」とかの不思議な言い回しとなるのです。「言葉を用いるな」といいながら、結構、言葉を用いているのです。主語論理から逃れるといいながら、矛盾しているのです。それを逆手にとって、それを認めてしまうのです。つまり、即非状態になるとか、絶対矛盾的自己同一というわけです。何かだまされたみたいですが、とにかく、この呪文のような概念を知って、ある程度理解が進んだ気になります。「考えよ。考えるな」という矛盾した言い回しも、「左脳で考えるな。右脳で感じよ。」と言った具合に解釈できるようになります。これが程度の差こそあれ、A悟なのです。その他に、ずいぶんと検索をしたでしょう。例えば「悟る。悟らない」というのは述語ですから、これで検索するというのは無意識に述語検索をしているのです。「悟る。悟らない」とういう語をキーにして、検索しているという実践がすでに、無意識には明晰夢を実践しているのです。「悟る。悟らない」=右脳・左脳=スキゾ・パラノ=西洋・東洋=物質・精神という具合に展開していくでしょう。この様な横への展開が述語思考の特徴であり、人間の、いや、生物の生きる場の構造なのです。悟りの構造は既に示しましたので、ここでは、その背景にある生物の基本的認識の構造が述語的同一性であることを示します。
生物は生きるために、最低限の「食べられる物・食べられない物」という区別をします。決して、これは魚だから食べられるなどと判断しているわけではありません。直感的にイメージ的に腐った物と新鮮な物を判断しているのです。食べられる物であれば、それは何でもいいのです。食べられる物という括りでは皆同じなのです。これを述語的同一性といいます。その判断は、場所の様子に関係して意味づけられるのです。動物のテリトリー本能や性本能、帰趨本能は場所的述語的特性の表れなのです。ですから、述語的同一性は場所的同一性でもあるのです。このような思考を場所の論理とか述語論理というのです。「悟りを得る」とは、自我によって主語論理で生きているかのような錯覚を持ってしまった人間から、本来持っている述語論理を自覚した本当の人間=仏になることを意味するのです。
「悟る。悟らない」とういう語をキーにして、自我・無我、左脳・右脳、スキゾ・パラノ、主語・述語、西洋・東洋、一神教・多神教、科学・芸術、物質・精神などと区別しているのですから、「食べられる物・食べられない物」という区別と同じことをしているということになります。
ですから、述語的検索しているというこの実践こそが、述語論理によって無意識に悟りの実践をしているということなのです。つまり、既に、明晰夢を実践しているということなのです。ミンデルの言う24時間ドリーミングという、根源の力を働かせるということを無意識に実践しているのです。もっと言えば、悟りの方程式(+i)*(-i)⇒+1を実践しているということなのです。インターネットにはそういう力があるともいえるのです。根源の力を引き出す力があるといった方が、より正確でしょう。
しかし、このインターネット検索の実践だけでは、まだ、悟りとしては不完全なのです。原生人に戻ったに過ぎません。私達の内面には、悟りの方程式(+i)*(-i)⇒+1と反対の力が働いているのです。それは、自我の方程式(+i)*-(-i)⇒-1です。この力によって、元の木阿弥にされてしまうのです。ですから、この力に対抗しなければならないのです。このメカニズムについては、下記の「地上の失楽園」で述べました。参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100078301540
元の木阿弥にならないために、先に話を続けましょう。「悟り」を述語として、その主語を捜し求めるところまではいいでしょうか。悟れるものであれば、運動であれ、座禅であれ、ヨガであれ、明晰夢であれ、何でもいいのです。述語的同一性の基づくものならばなんでもありです。こうして関心の赴くままにそれに相応しいものを見つけに検索していくのでしょう。どんどん、悟りから逸脱していくでしょう。悟りとは何かというような主語論理からは逸脱して、悟りと「同じもの」はないかといった方向に逸脱するでしょう。ピカソやシュルリアリズムに行き着くかもしれません。述語的思考は逸脱せざるを得ないのです。述語がベースですから、どこに行くか分からないのです。それでも、悟りに関心があれば、述語的に同じようなブログを発見するでしょう。この「同じ」というのは述語的同一性のことです。こうして述語的な世界=場から、何となく悟りの共通の実体が露出してきます。それが悟りのイメージです。まだイメージですから、悟りという述語が明確になったわけではありません。まして、「この魚は食べられる」などと主張できるほど、主語が述語を支配したわけではありません。まだぼんやりとしているでしょう。
このような検索と思索を繰り返して、夜になり床につきます。脳はかなりカッカしているでしょう。悟りとはなにか。どんなイメージなのかと悶々としているでしょう。そのようにして眠りに入ります。なかなか眠れません。右脳が活性化しているのです。左脳はややお休みです。右脳は疲れ知らずといいますか、昼間、インターネット検索した情報に基づいて、盛んに脳内検索しています。検索しながら思考もしています。そうしているうちに眠りにつきます。そして朝になり目が覚めます。するとどうでしょう。四次元能ブログの言っている「悟り」が理解できているではありませんか。aha!の瞬間です。(+i)*-(-i)⇒-1の力に逆らって(+i)*(-i)⇒+1が勝利した瞬間です。-
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2009年02月11日 19時18分40秒
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明晰夢は24時間稼動
明晰夢は24時間稼動
<補完共振>
四次元能のシムダンスはシムハンター自身にクラインの壷を装填し、四次元脳に変身させる仕組み能、宇宙精神を探索するファンタジック能です。この能を完成するには主語論理を封じ込め、右脳優位に転換し、自我を解体し、地上の失楽園から地上の楽園にシフトしなければなりません。
そのためには述語的思考を得意とするインターネット禅を使って瞑想=明晰夢を支援しなければなりません。「述語で繋がる世界」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100076550110
インターネットは三次元から四次元に変身させる反転酵素なのです。インターネット禅の最大の特徴は述語思考を可能にする反転酵素=クラインの壷の高速回転にあります。インターネット禅(i禅)は反転酵素の力でA悟C悟D悟のサイクルを高速で回転させますが、その仕組みは、C悟が核となり、A(四次元能コンテンツのブログ理解)→C(瞑想=明晰夢)、C(瞑想=明晰夢)→D(四次元ブログへの表現)というサイクルであり、内外反転するクラインの壷となっています。i禅では座禅瞑想をしません。その代わりに明晰夢という現代版の瞑想をします。言ってみれば、四次元能は四次元脳になるために禅の瞑想(C悟)を明晰夢に、禅の修業(A・D悟)をインターネットに置換したと言えるでしょう。
その中でも、現代版の瞑想として位置づける明晰夢はトンデモない発見です。明晰夢とは、夢という名称が付いていますが夢などではないのです。明晰夢は最近の脳科学が明らかにした脳の働きですが、神秘主義というところの様々な不思議現象は、明晰夢の働きを意味しているのではないでしょうか。また、奇跡を起こしてとされる出来事なども、これを使っていたのではないでしょうか。夢といえば、フロイトやユングが言うような無意識の夢を指すと思っていたのですが、明晰夢とはもはや、そのような夢ではなく、れっきとした意識状態にある思考なのです。私達が無意識にやってしまうという振る舞いは、かなり明晰夢的意識行動なのです。無意識と意識の中間にあるといったほうが正しいかもしれません。
プロセス指向心理学の創設者であるミンデルは明晰夢をドリーミングという概念と関連づけて紹介しています。彼は「ドリーミング」とは「寝ている時に見る夢」のことを言っていないのです。「ドリーミング」とは「根源的な力」「タオ」ユングの「セルフ」に近いものです。つまり全てのことに影響を及ぼすとんでもない「力」がドリーミングなのです。このドリーミングという力のシグナルに「明晰になりなさい」というのです。しかも四六時中=24時間と言うのがミンデルの主張するところです。
このドリーミングを、虚を実に現象化させる力=空と解釈すれば、悟りの方程式(i)*(-i) ⇒1がそのまま当てはまります。
イデアのエネルギーが即非状態(i)*(-i) にあるのですが、何かのきっかけで、揺らぎが発生して(i)*(-i) ⇒1となるわけです。揺らぎを起こす何かのきっかけというのが、インターネット禅ということです。
明晰夢は無意識的な夢ではないということは間違いありません。脳はレム催眠時の思考であり、活性常態にあるのです。ですから、自らの四次元ブログを持ち、四次元能を通じて四次元について検索して、四次元についての理解を深め、自分の四次元についてのどう理解(A悟)したかを示し、C悟としての瞑想=明晰夢で思索を深め、その内容を表現(D悟)するのです。これがクラインの壷を内蔵したインターネット禅の仕組みです。
A悟のための四次元ブログは、主語無しの即非状態(自他共振)で満たされていなければなりません。四次元能のブログはインターネットがweb2.0時代になって、ますます、一段と即非の凄みを増してくるでしょう。凄みとは検索等による逸脱のしやすさです。左脳は逸脱を嫌いますが、検索は右脳と親和性が良いので、インターネット禅は多重層的(ハイパーリンク)に述語的編集装置(他の文脈に瞬間移動できる)で接続された状態になります。(隠喩的引用が多いのはその例です)
四次元脳を生成するには、インターネットの多重層型の述語的編集装置を最大に利用しなければなりません。そのために、インターネットを脳の延長としてクラインの壷に組み込みました。舞台装置は整ったので、後はどうすれば四次元脳に変身できるのかというシムダンスの舞いそのものになってきました。そこで、またシム方程式です。この式を解けば四次元脳を生成させることができるでしょう。
∫t{(+i)*(-i)⇒+1}/4d,g→V
四次元脳へ変身するためにこのシム方程式をどのように解くかです。シム方程式はシムダンスをする汎脚本です。具体化はその場の状況に応じて編集しなければならないのですが、どう編集したらよいのでしょうか。こういうときは、シムダンスは四次元脳の生成の舞いですから述語思考で考えてみることです。生成の舞いという述語によって、能との共通性を考えてみましょう。能もまた生成の舞いです。能は観客を四次元の世界、時間回廊に連れていくのです。
能といえば世阿弥ですが、彼は仏教的視点から逆説の美学や隠喩を駆使して観客を魅了(無我の境地)する難題に取り組んだのです。ですから、シムダンスとは四次元能なのです。シムダンスが四次元脳を生成する能ならば、シム方程式は、四次元能の汎脚本です。世阿弥の風姿花伝(シムテクノロジー=四次元脳への変身術)に相当するでしょう。個々のシムハンターの脚本をも生み出す生成の舞いの奥義なのです。シム方程式の骨格、つまり、∫t{(+i)*(-i)⇒=1}/4d,g→Vについては、既に述べた通りです。簡単にレビューすれば、悟り(V)とは四次元意識=悟りのことであり、それを獲得するためには、クラインの壷を脳に組み込み、生成原理(g)と複素平面(4d)を駆使して、自他共振 (+i)*(-i)⇒+1するように、脳を編集(∫)することです。その最も強力な武器がインターネットを利用することです。
世阿弥の風姿花伝は「秘すれば花」といいます。花という隠喩を使って悟り生成の美を伝えているのです。「秘す」ということですから、悟りの秘訣を「種あかし」してはならないというのです。しかし、現代のマジシャンでも、種あかしをして観客の関心をとっています。種あかしをしても、種が尽きなければ良いのでしょう。実際、世阿弥の風姿花伝は今では公になっています。それを知ったからといって、種が尽きることはないのです。花とはあらゆる物が生成される四次元のイデアであり、尽きることのない生成の泉「空」を媒介して、三次元の花になるのです。イデアの花は三次元の花として現象化するのです。現象化とは三次元脳で見れば「花が咲く」であり、四次元脳で見れば「咲いている花」ということです。「花が咲く」と「咲いている花」の違いが理解できれば、四次元能の真髄に近づいているということになります。「花が咲く」という理解は、花を対象化しているということです。見る自分と花が対立しているのです。科学者のように花を観察しているのです。責任のない評論家の態度です。「咲いている花」という理解は、花と自分が一体となっているということであり、感動しているということです。周りが見えていないということです。シム方程式は、悟りという花を対象として見るのではなく「咲いている花」としての悟りを自覚させるという四次元脳への変身のシナリオを提供するのです。それを簡単に表現すれば、自他共振 (+i)*(-i)⇒+1となるわけです。
シム方程式のtとはteamです。チームという隠喩です。モナドです。モナドは予定調和するのです。予定調和とは美の極限、つまりそれが花です。
さて、そのteamですが、これは、更に、t/e/a/mです。それぞれが花=イデアです。これらの花が述語的瞑想=明晰夢の鍵となります。能は、演ずるものと見るものという二元対立の舞台形式をとっているように見えますが、それはあくまで表面的です。世阿弥が苦労したのは二元対立の解消です。どのように一回限りの舞台で観客を満足(没頭)させるかです。仏教の自我解体の悟りにも通じるのです。
風姿花伝は、二元対立の解消の奥義を述べているのです。つまり、種明かしをしてしまうと能とは「脳の中に能」を作ることなのです。観客(他)と演ずる者(自)が自他共振によって、一体になるという意味では演劇的ですが、むしろ禅的な自我解体のドラマなのです。そのために脳を自我解体の舞台の場、意外性の生成場としたのです。そのために観客の脳を場にしたのです。しかし、現代の能は演劇化、形式化されてしまったように見えるのです。現代の演劇、映画では、顧客の関心を維持するといっても、自我の解体までは踏み込まないでしょう。見るものと見られるものという二元対立の構造を維持したままなのです。ですから現実的ストーリー性が重要視されるのであり、一体感をつくりだす表現力にこだわるのです。その表現とは換喩的(身の回りの喩え)、主語的同一性による展開が主となるのでしょう。それは反復であり、自我同一性の確認です。「水戸黄門」「相棒」しかりです。
シムダンスは、世阿弥の企てと同じように脳の中に能の舞台を作るのです。ただ、世阿弥との違いは、演ずるものと見るものという二元対立の図式はありません。能は初めから二元対立の図式があり、それを解消するために、観客の脳の中に侵入しなければならなかったのです。シムダンスでは、演ずるものと見るものの二元対立はありません。初めから演ずるものと見るものは自分です。しかし、演ずるものと見るものの二元対立はないからといって、世阿弥の苦労がなくなるわけではないのです。自分の中の自己と自我が問題なのです。自分の中で演ずるものと見るものが対立しているのです。この対立が最初からの問題だったのです。しかも、シムダンスを舞う現実の自分は左脳の優位のシムハンターです。この自分を右脳の優位の四次元脳に変身するというのが、そもそもの起点だったのです。-
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2009年02月10日 16時17分17秒
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インターネット禅はクラインの壷
インターネット禅はクラインの壷
<ティトムとの共振>
四次元脳になるためにクラインの壷を脳に組み込むことになりました。ただ、四次元に行くのには宇宙ステーションに観光気分では行かないのと同じように、四次元脳による四次元思考が生み出す四次元時空世界の体験には、事前に訓練が必要でしょう。身体的訓練というよりは思考訓練です。四次元と三次元の違い、四次元から見た三次元風景、四次元思考のウォーミングアップ、四次元世界へ入るための心構え等を説明しておく必要があるでしょう。今回の舞台は、「四次元へのチャレンジ」の続きです。
http://momloveu.com/titom-teller-j/index.files/Page330.htm
以下、編集的引用しました。
下の図「クラインの壷」は下記から引用しました。
http://www2.neweb.ne.jp/wc/morikawa/sya.html
―――
四次元は不思議な場所です。「永遠の今」「時空の歪み」「反転する内と外」「因果の消滅」「対称性」「対称性の破れ」「対生成と消滅」「虚と実」「因果の破綻」「無限のない天球」「述語的思考」などという三次元では見られない天球反転驚愕動地の世界です。
四次元宇宙には回転する天球があり、窓のないモナドがあり、内部では予定調和の生成消滅のダンスが繰り広げられているのです。この球には内部と外部が反転するクラインの壷が内蔵されていて、四次元ドラマ(生成消滅)が展開する第二の天動説の舞台があります。
ところが四次元ドラマが展開されるもう一つの舞台があります。その舞台とは宇宙精神のトレジャーハンティングを続けているシムダンスの四次元能です。四次元能はシムダンス(生成の舞)するシムハンターの脳の中の小宇宙のことです。シムダンスとはシムハンター自身にクラインの壷を装填し、四次元宇宙を見る四次元脳に変身させる仕組み能であり、宇宙精神を探索するファンタジック能といったところです。
四次元脳に変身させる仕組み能ですからシムハンター(悟りへの挑戦者)は出世魚のように名前が変るでしょう。先ずは現代人の後に来るべき人という意味で玄生人(始まりのに回帰する人)であり、最終的には悟りを得た人という意味でのシムピープル(自他共振する即非的述語優位人)です。
四次元脳への変身のためのクラインの壷は四次元をイメージするためのモデルですから、これを具体的な三次元のツールとして提供しなければなりません。それがインターネットを駆使する瞑想支援ツール「シムダイアグラム」です。
瞑想支援ツール「シムダイアグラム」(1)(2)(3)(4)(5)については下記を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100072470924
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100072470969
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100072557110
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100072626993
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100072627544
シムダイアグラムはまだ完成されたものではなく、シムダンスをやりながら、その体験を生かして手作りしているところです。早速シムハンターにその試作品を装着してもらったのですが、ipodの耳かけスタイルのヘッドセットを装着するのとは違い、違和感と抵抗を、感じたようです。またその使い勝手にも問題がありそうです。その様子を後ほど説明します。
今後、ツールは完成していくとして、シムハンターは四次元世界を体験する前に、このツールを使って自分のシムダンスで仮想体験をしなければならないでしょう。「シムダイアグラム」はクラインの壷をモデル化した四次元能の提供する瞑想支援ツールですが、何故、瞑想することがクラインの壷を脳に組み込むことになるのかを説明しなければならないでしょう。しかもシムダイアグラムはインターネットを駆使すると言いましたので、ますます、瞑想とインターネットとクラインの壷の関係が複雑になって、混乱していると思います。そこで少し整理しましょう。
瞑想というのは、「黙して語らず」であり、非言語的な状況を作り出すということです。言葉に依存するのが主語論理であり、これが自我の形成の第一歩なのです。四次元能は自我の解体を目論んでいるのですから、言語に依存しない述語論理が主である禅を取り入れるのは自然なことでしょう。主語論理に対峙するのは述語論理ですから、禅とは述語論理の世界に反転することを意味しているのです。
主語論理とは簡単に言えば、物=者=モノが主体となる思考です。先ずモノがあるのです。私の目の前に花があるのです。「花がきれい」というのは、花が主体であり、「きれい」という述語は、その花を説明しているのです。こんなことは当たり前のことなのですが、実はこの当たり前が自我という主体を生み、それを解体しなければならない事態になっているので、この当たり前とは何かということを吟味しなければならなくなっているのです。それには、言語の発生する以前の生きているということを考えなければならないのです。生きている生命にとっては言語がないのですから、これが食べ物なのか、敵なのかを区別するために、これは牛の肉だからとか、食べられるなどという判断をしているわけではありません。何であれ目の前にあるものが「食べられるか、食べられないか」を判断できれば良いのです。そこには牛の肉という主語はないのです。あるのは「食べられる」、「食べられない」という述語のみなのです。生きるということは、牛の肉も果物も「食べられる」、「食べられない」物という点では、みな同じであり、生きるためにはその程度の認識=述語的同一性で十分なのです。その述語的同一性が成り立つ大前提があります。それは場所です。どこにある物、どこにいる物なのかが、分かるということ、それが生きていく上で条件なのです。物だけがぽつんとあるわけではなく、周りの環境、匂い、温度その他のもろもろの条件があって始めて「食べられる」、「食べられない」ものの区別が出来るのです。ですから、述語的同一性とは場所的同一性なのです。先ず場所ありきなのです。私達は、言葉を操る知能的生物である前に、場所に限定された述語的生物だということを知らなければならないのです。場所に限定された述語的生物とは直感=イメージで動くのであり、場に依存して生きているのです。自と他=場が共振する関係であり右脳的生物なのです。ですから、三次元とは左脳=言語であり、四次元とは右脳¬=イメージの世界なのです。この次元の表現は誤解を生みそうなので正確に表現しておきましょう。この世界は基本的に四次元です。この世界には物質世界しかないと思えば、それは三次元世界だと思うことと同じなのです。人間自身は物質であると同時に、精神をもった生き物ですから、四次元生物ですが、左脳優位の人間は言語を駆使しているので、自分が四次元生物であることを、自覚できないでいるのです。自他反共感の三次元世界がこの世界の真の姿だと思っているのです。
右脳優位の人間は三次元世界を認めながらも、自分達の世界が四次元世界に含まれることを認識しており、それをイメージ的に直感して、自他共感して生きているのです。このように四次元と三次元の区別については、人間の認識の有り様によって変わってくるので注意しなければならないのです。この世界が人間の認識の有り様で変わることを理解するには複素平面で世界を表現することになれることです。複素平面は四次元を意味していますが、認識の有り様でいかようにも変わるダイナミックな性質を持っています。基本的には、実軸は三次元、虚軸は四次元目を意味しますが、人間に見えるのは実軸だけですから、認識の有り様を確認しなければならないのです。人間の場合、虚軸の±のエネルギーバランスによって、実軸への現象化が+、-に偏ったりします。大概は-の三次元人間として現象化します。稀に、+の四次元脳を持った人間として現象化することもありますが、それは芸術家など特別な人の場合です。この場合でも、見た目では、あくまで三次元人間と変わりません。しかし、内面では複素平面の+に位置される四次元の世界認識を持った三次元の人間だということです。ですからこの人を、四次元脳を持った四次元人間と言っても間違いではありません。
さて、四次元脳を持った四次元人間のことを四次元能ではシムピープルといいますが、禅では悟りを得た人=仏といいます。そのための修行が座禅瞑想であり、ACDの悟りの修行があります。それぞれの悟りのカテゴリーをA悟・C悟・D悟といいます。A悟とは禅の教えを理解した悟りであり、C悟とは座禅瞑想によって心身脱落した悟りであり、D悟とは、悟った内容を表現することです。ACDはそれぞれ相互作用があり、悟りの段階があります。いずれにしても瞑想による即非の思考=述語思考が基本です。
この禅の悟りの様式を現代的に発展深化させようとするのが四次元能の企てです。四次元能では瞑想としての座禅は行いません。四次元能では瞑想の方法として「明晰夢」を使います。明晰夢とは以下を参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%B0%E5%A4%A2
以下、編集して引用しました。
明晰夢は、脳内において思考・意識・長期記憶などに関わる前頭葉などが、海馬などと連携して、覚醒時に入力された情報を整理する前段階(夢)において、前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ、明晰夢の内容は見ている本人がある程度コントロールしたり、悪夢を自分に都合の良い内容(厳密に言えば無意識的な夢と意識的な想像の中間的な状態)に変えたり、思い描いた通りのことを(実現可能な範囲内で)覚醒時に体験したりすることが可能である。
―――
要するに、明晰夢とは、レム催眠時に於ける意識的脳活動であり、無意識の夢とは違うということです。明晰夢は脳を活性化してとこに突けば必ずやってくる意識です。何か気がかりなことがあると夜もまんじりとせずに、眠れない夜を過ごすことがあるでしょう。これをC悟のための瞑想として活用するのです。
悟りとは、主語論理=左脳優位=言語依存=自我から述語論理=右脳優位=直感の世界=無我に反転することを意味しています。果たして、瞑想しただけで、
簡単に反転するのでしょうか。それは難しいというのが答えです。ダルマ人形で有名な達磨大師は、9年間も座禅を組んで悟りに達したといいます。プロでさえ、こんなに時間がかかるのですから、一般人では悟りなんか期待できないでしょう。それでは温暖化も解決できません。
ではどうすればよいのでしょうか。そこで四次元能が満を持して導入するのがインターネット禅です。「インターネットは禅に代わる反転メディア」を参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073526302
「インターネットはトロイの木馬」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073567521
「インターネットは四次元(1)」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073563223
「インターネットは四次元(2)瞑想に何が必要か?」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073563548
「四次元反転酵素としてのi禅」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073570506
以下、編集して引用しました。
インターネットはパラノ社会に対する四次元性を持ったトロイの木馬であり、反転酵素であり、三次元世界の常識を破壊しようとしています。インターネットはその電子メディアと四次元性故に私達に無意識のうちに四次元の高速反転をもたらすのです。ですから、都合の良い四次元性酵素を選択して、四次元の反転を促せばいいのです。そのような四次元性酵素とは何でしょうか。インターネットを酵素反応の場とすれば、Yutubeバッファリングは一つの酵素です。このように考えれば無数の四次元の反転酵素が考えられるでしょう。既に、Webテクノロジー(ブログ、検索、リンクなど)が、それに該当するでしょう。しかし、なんと言っても大事な酵素を忘れてはなりません。インターネットが電子メディアであるならば、そのコンテンツがなければ役に立ちません。コンテンツの選択こそが四次元の毒性からリスクをテイクする四次元反転酵素なのです。それでは、どのようなコンテンツが四次元反転酵素なのでしょうか。それは言うまでもなく四次元コンテンツです。気候変動のようにそれが四次元現象であることを知らずに自我の餌食になって欲望のままに「それいけどんどん」のスタイルを貫くことは最も危険なことなのです。四次元コンテンツとは、四次元とは何かについての認識を得るための四次元反転酵素なのです。四次元能とは四次元反転酵素そのものなのです。
―――
インターネットのようなネットワークがどうして四次元なのでしょうか。また、ブログのようなコンテンツがどうして四次元なのでしょうか。これまでの話と違うような気がするでしょう。四次元というのは、虚実がクロスする複素平面、クラインの壷のように虚実が反転しなければならないはずです。人間の場合は虚=精神・実=身体があり、反転しますから、まさに四次元性があると言っても良いでしょう。ですから、三次元軸上の四次元人間といった言い方もできるのです。それでは、インターネットやブログコンテンツはどうでしょうか。普通の三次元の常識からすれば、それは無理な話でしょう。しかしそれでは、四次元能の幕を降ろさなければなりません。
それでは、お待たせしました。インターネット禅がどのように四次元脳になるために貢献するのか、クラインの壷がどのように脳に組み込まれるのかを示しましょう。禅においては、C悟が基本であり、その実践的方法が座禅瞑想です。その効果を上げるために、A・D悟の水準を高めようとします。A悟のためにはテキスト(経典)を読むことです。D悟のためには表現することです。自分がどのくらい悟ったのかを師に見てもらうのです。禅問答というのはその一つです。
ここに禅の最大の弱点、難問があります。それは内面の意識、述語の論理・即非の世界のことであり、科学ではないのですから、悟りをいくら言葉で理解したり、表現しようとも、検証のしようがありません。これで終わりという目標の設定が出来ないのです。C悟の内容をスクリーンに映し出すことは出来ないのですから、他人が確認のしようがないのです。そして第二の最大の問題は時間がかかりすぎるということです。この二つを解決しなければならないのです。
そこで、四次元能では禅の悟りの構造を、インターネットを駆使して実現しようと思ったのです。悟りを得るにはA悟→C悟→D悟→のサイクルがあります。A悟は外(テキスト)から内(理解)への方向、D悟は内(思考)から外(表現)への方向があります。A悟→C悟→D悟→のサイクルには、外内・内外の反転があります。これを外内=色即是空・内外=空即是色と置き換えても良いでしょう。C悟はその反転点であり、空であり、全体としてはクラインの壷です。問題はサイクルの速度です。この回転速度を上げたいと思います。そこで登場するのがインターネットと明晰夢というわけです。A悟→C悟→D悟→のサイクルをインターネットと明晰夢に置換します。A悟をブログからの理解、D悟をブログへの表現、C悟を明晰夢にするのです。インターネットは脳の延長ですから、A悟は外(ブログコンテンツ)から内(理解)への方向、D悟は内(思考)から外(ブログ表現=四次元コンテンツ)への方向があります。A悟→C悟→D悟→のサイクルには、外内・内外の反転があります。これを外内=色即是空・内外=空即是色と置き換えても良いでしょう。C悟=明晰夢はその反転点であり、空であり、全体としてはクラインの壷です。インターネットという電子メディアによって実現されたクラインの壷はその四次元性故に私達に無意識のうちに四次元の高速反転をもたらすのです。これでクラインの壷を脳の埋め込むという仕組みが出来ました。これで悟りを得るための時間の問題は解決したのですが、やはり検証が出来ないという点では禅と同じです。これは四次元人間が増えて、温暖化防止ができたら検証されたということにしましょう。-
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from: 生成門さん
2009年02月08日 15時47分08秒
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クラインの壷を脳に埋め込む
クラインの壷を脳に埋め込む
<ティトムとの共振>
クラインの壷は、四次元世界を見る鏡であるといいました。それなら脳にクラインの壷を埋め込んでしまったほうが手っ取り早いかもしれません。今回の舞台は「四次元へのチャレンジ 」の続きです。下記を参照してください。
http://momloveu.com/titom-teller-j/index.files/Page330.htm
以下、編集的引用です。
下の図は「クラインの壷」から引用しました。
http://www2.neweb.ne.jp/wc/morikawa/sya.html
―――
四次元能では、悟り=四次元時空意識と仮説して、非二元論的思考=即非思考=述語思考=場所の論理ができるための臨床的実践アプローチをします。その一つとしてクラインの壷を脳に埋め込むという作業があります。クラインの壷を脳に埋め込みに成功したら悟りを開いたと言っても良いでしょう。道元はクラインの壷を脳に埋め込む作業を座禅でやろうとしたのです。しかし、いきなり座禅ではなく、A悟・C悟を経由してD悟によって、自己の悟りの程度を示したのです。
道元が悟ったのかどうかを他人が知るすべはありません。悟りを獲得した人は、道元と同じくA悟・C悟を経由してD悟によって、自己の悟りの程度を示すしかないのです。悟りを開いたと言う人を捕まえて、疑い深い人が悟りを開いていないだろうといっても、確認する手立てはないのでしょう。嘘発見器ではどうでしょうか。
悟りイコール四次元の意識といっても主観的な意識です。これは科学ではありません。ですから客観的に検証はできないのです。しかし、それでは先に進めないでしょう。四次元能では、なんとか主観と客観を融合させたいのです。そのためにも道元のA悟=言語による理解・C悟=座禅による心身脱落、D悟=悟りの言語表現をした上で、そのコンテンツを客観化しなければならないのです。そこで四次元能では主観的な四次元時空の意識とティトムの客観的な四次元時空の認識を融合させるために道元の悟りの方法を拡張するのです。
その方法とはシム方程式による実践です。シム方程式は、シムダンス、シムダイアグラム、インターネット禅が含まれます。ただし、瞑想は必要です。そして、瞑想には述語思考の訓練が必要なのです。拡張された道元の悟りの方法とは以下の通りです。
A悟=ティトムと道元とのシムダンス
C悟=インターネット禅と述語的瞑想
D悟=ブログによるシムダイアグラム表現
これを< との共振>で臨床しているところです。この方法の基本はシム方程式です。シム方程式とは述語的編集という方法の実践ガイドです。シム方程式の前提は、以下の通りです。
・ 意識は脳の編集によって生成されます。
・ 編集とは情報の解釈です。
・ 編集には、述語的、主語的編集があります。
・ シム方程式は述語的編集を優位に進めます。
・ 悟りとは四次元時空の意識です。
・ クラインの壷は四次元時空です。
・ 四次元時空は脳の編集によって生成されます。
・ 四次元時空はクラインの壷の脳の組込みによって生成されます。
・ 述語的編集とは、即非の論理です。
・ 複素平面を駆使します。
このシム方程式によって四次元を編集するのです。この編集によって分離した時間と空間が融合されるでしょう。そのためにクラインの壷を持ち出したのですが、どのように組込むのかはまだ明らかにしてはいません。つまり、四次元時空と四次元意識について不明なことがあるのです。
すべての場所が四次元であるとして、クラインの壷は既に脳にあるのか、失われているのかです。それとも四次元という特別な場所があり、脳は特別な場所なのか、特別な場所であるならば、既に脳にあるのか、失われているのかです。又、特別な場所でないのか、もしそうならば、何をしなければならないのかです。これらが未だ不明なのです。とりあえずは、すべての場所が四次元であるとしましょう。ですから脳も四次元です。ただし、認識は四次元にも三次元にもなりうるとしましょう。この当たりの論理は、<PSとの共振>で明確にしていきます。それぞれのシムダンスには、独自のペースがあり、進み方が違いますので、互いに、遅れたり先に進んだりするでしょう。
人間の脳は四次元の場所なのです。しかし、光の誘惑によって三次元的意識に貶められているのです。歌を忘れたカナリア状態なのです。ですから四次元的意識を取り戻すためには手術が必要です。その手術がクラインの壷を脳に埋め込むということになるのです。クラインの壷を埋込むとは、即ち、非二元論的思考、つまり、シム方程式によって述語解釈できる右脳優位による意識を生成するということなのです。
さて、そうなると話は早いでしょう。要するに意識改革とは編集するということになるのですから、素直に時間を縦糸と空間を横糸にして織物を織るようにして意識を編集してみましょう。さすがに、仏教や禅や他の宗教でも、悟りとは意識の編集であるとは考えていなかったようです。編集とは言わずに修行であるといったのです。修行はヨーガに見られるように身体的なものに傾いたようです。その修行が荒行になったり、お経を唱えたりするような方法しか見出すことができなかったのも、脳についての科学がなかったのですから仕方がないだろうと思われます。
しかし、私達は科学の歩んできた道を参考にできます。科学と宗教は元々が一体だったのですが、光の誘惑があって分離したにすぎないのです。手術すれば立派に四次元意識が戻るのです。四次元意識が戻るとは、自我と無我、意識と無意識、左脳と右脳、主語と述語、等、森羅万象の色と空の分離が、色即是空となり解消するのです。確かに、仏教は色と空は一体であると警告はしてくれたのですが、このような編集によって一体感が戻るとは思い至らなかったのでしょう。神秘主義のウスペンスキーが四次元を含む高次元について興味深い考察をしているのですが、これについては「ターシャル・オルガヌム」を参照してください。
http://homepage1.nifty.com/pdo/linkto.htm
クラインの壷で四次元時空意識が戻るというヒントを与えてくれたのは、ハッブル望遠鏡のお陰です。そして突破口を量子論が開いてくれました。私達はもはや科学と宗教が分離されたままでいることに承服する必要はないのです。
科学は、その自己同一性を保つためにこれからも検証可能性を捨てることはないでしょうから、科学と宗教を媒介する科学的宗教、宗教的科学が必要でしょう。安易にファンタスティックな科学を推奨することは疑似科学、疑似宗教の台頭を許すというリスクがあるでしょう。しかし、それでも四次元へのチャレンジはしなければならないでしょう。
現代はインターネットのブログメディアの時代です。それらのリスクは防御できると思うのです。今、私達の問題は早急な意識の変革です。そのためには陰光との決別として陽光との再会を果たし、自我を解体して、自他共振の地上の楽園を到来させ、電子というスピード、電子への眼差し、そして編集というものの特殊性、普遍性、時代性に注目しなければならないのです。
ウィキペディア(Wikipedia) 、googleの検索、Web2.0の流れに代表されるように、編集という行為が脳の機能を支援してくれる時代なのです。もし、編集の天才だったといわれる空海と道元にインターネットというメディアを与えたらとんでもない編集をしてくれたと思うのです。
しかし、今ここにいない空海や道元を当てにはできません。私達は空海や道元の後に続くしかないのです。幸いにインターネット、ブログ、検索等、脳を編集するには都合の良い環境が揃いつつあります。道元は悟りの具体的方法を示していないのですが、それに替わって西田幾太郎が悪戦苦闘してくれたので、その後を辿れば何とか光明を発見できるのではないかと思うのです。またまた光頼みです。これはまずいことになりました。神頼みにならないように、しかし、真の光とは仲良くしましょう。
西田幾太郎は「私はスキゾである」(述語論理の得意なタイプ)とカミングアウトして、救われたのです。彼の悪戦苦闘のプロセスは、
出立ち A=A
踏み迷い A≠非A
知り覚え A=A、A=非A
還りゆく A≠A、A≠非A
です。詳しくは「起死回生の思考」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550
道元の場合、ただ座禅瞑想して時間の流れを切断して経歴せよといったのですが、この切断と経歴が実は大事な概念であり、四次元に繋がる述語的編集の本質をついています。道元は「山が歩く」というのです。歩くはずのない山が歩くというのですから、常識的な思考ではここでついていけなくなるのでしょう。しかし、四次元ならば何と云うことはないのです。即非的=述語的だとすれば当たり前のことなのです。ただ、道元はこれを述語的=即非的思考であるとは云っていません。まして四次元であるとも云っていないのです。それは思い巡らして自在に配列するのであるとしか云っていないのです。ですから方法論としては少し物足りないのです。多分、瞑想する時の仮説が抜けているのです。瞑想する時には、ただ座るのではなく、こういうことを瞑想しようとする思いがあるはずです。それが記述されていないのです。時代背景からして四次元も述語も編集という概念もなかったですから、これは仕方がないででしょう。まして、道元自身がスキゾタイプであるなとどは夢にも思っていなかったでしょうし、このような述語的思考の由来さえ想像していなかったでしょう。
道元のD悟(悟りの表現)としての現成公案は完成されたテキストです。苦渋の後がなくスマートです。ですから検証のしようがないのです。この当りは西田幾太郎の方が踏み迷いのプロセスを提示しているので、私達にとっては親切でありがたいことです。綺麗事だけでは、本質が見えてこないのです。西田幾太郎については別稿としたいと思います。
それではクラインの壷を脳に組込むためのインテグレーションに入ることにしましょう。既にティトムとのシムダンス、トレジャーハンティングは後半に入っており、これまでが前半の基礎編(オデッセイ)だとすれば、後半は実践編(テラ-)です。臨床的ですからかなり実験的です。
宇宙ステーションに観光気分では行かないのと同じように事前に訓練が必要でしょう。身体的訓練というよりは思考訓練です。四次元と三次元の違い、四次元から見た三次元風景、四次元思考のウォーミングアップ、四次元世界へ入るための心構え等を説明しておく必要があるでしょう。-
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