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from: 生成門さん
2010年04月30日 19時13分30秒
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奇人変人の立つ位置
奇人変人の立つ位置
<プラトンとの共振>
脳には、意識を発生させるイデア知性があり、それは複素関数が表現される複素平面であり、意識のプレートテクトニクス(空のダイナミズム=場)そのものだといいました。
更に、実空が意識の作用であり、自我を生み、虚空が無意識の作用であり、無自我を生むと言いました。このことを三次元サイドから言いますと、自我が反共振的なパラノ思考=二分法的な態度を選択させ、無我が共振的なスキゾ思考=即非的な態度(ああでもあり、こうでもある、ああでもないこうでもない)を選択させるでしょう。
ここで最も重要なことは、空のダイナミズムには、脱魂(次元化)・入魂(現象化)があり、現象化の段階では対称性が破れるというということです。更に、陰陽のサイクルがあります。陰陽のサイクルとは、陽が強くなった後、次第に弱まって、陰が強くなるということです。サイクルの期間は現象によって異なります。
現在の私達の選択は二分法というパラノ思考や態度が主流になっていて、それが温暖化をもたらしていることを確認してきました。意識のプレートテクトニクスの場では、自我が主流となっているのですが、陰陽のサイクルを待てば、いずれは、無我の力が強まってくるのではないかと思われます。しかし、それを待っていたのでは、人類が滅びてしまうのです。
ですから、三次元サイドから空のダイナミズムに働きかけて、いかにしてパラノドライブを弱めるのかという方策が必要なのです。そのためには、疫病のパンデミックスに対処する様な二分的な方法では立ち向かえないことは、これまで現実が示すように明白になっています。
対処すべき敵はパラノパンデミックスなのです。これに立ち向かうには、パラノでは元の木阿弥になるだけなのです。
パラノ思考と対峙するためには、その思考の本質を知らなければならないのです。その本質が、科学的な枠組みや社会の常識を作っているのであり、それの根本は、自分を特権的立場、つまり、自分を蚊帳の外に置くということです。
パラノ思考と対峙するということの意味は、この態度を変えるということなのです。これが難物だと言うことです。ですから、しっかりとその敵を研究しておきましょう。
これまでの科学や政治や俗的人間の態度は、見るもの・・・見られるものという二分的な構図を設定して、見る者の位置を特権としてきたことです。見るものは蚊帳の外において、見られるものを支配してきたということです。その典型が科学であり、政治なのです。政治ということを、政治家だけの世界と思ってはなりません。政治というのは欲望のコントロールです。欲しい物があったときに、どのように振舞うのかを決めるのが政治なのです。
二分的なやり方というのは、善悪や正義と不正義という基準に従うと言うことです。基準に従うということは戦うと言うことです。これが政治です。
政治とは、力を行使するという意思であり、パラノドライブをかけると言うことなのです。ですから、政治とは特別な世界という意味ではなく、家庭でも、職場でも、学校でも、人間がいる場なら、いや生物がいる場なら、どこでもあることなのです。
パラノドライブとは、見るものと見られるものという二分から始まって、全ての対象を二分して、価値によって、つまり、好き嫌いによって選択すると言い換えることが出来るでしょう。これは私達の日常の態度なのです。ですから、パラノドライブを弱めることが如何に困難化かが予想できるでしょう。
パラノドライブを弱める一番の方法は芸術家や奇人変人の思考方法を取り入れることです。彼らの思考には、見るもの・・・見られるものという二分的な構図を無視して、見る者の位置を特権としないことに特徴があります。
つまり、見られるものの中に「自己を含む」ということです。実は、この「自己を含む」という態度は、特別な位置に身を置くということではありません。私達の場合でも、無我夢中の時などは、そのような位置に自然となっているのです。ただ、そういう位置があることを、普段は忘れているだけであり、政治的な場面でも、本音と建前という形で、やりくりしているだけなのです。この当たりにパラノドライブを弱めるヒントが隠されているかもしれません。
「自己を含む」態度は、見るものを蚊帳の外に置かないことであり、見られるものに中に溶け込むということです。腹を割って本音で話そうと言うときの態度です。その典型が芸術であり、本音人間の思考なのです。
どちらも、見るものは見られるものを二分せず、価値によって選択せず、真理を持って対処するのです。これが簡単な耀で難しいのは、日常においては本音が出せないことが多いからです。
「自己を含む」という位置に立つということは本音で立ち向かうと言うことであり、そうなると、社会では問題視されるでしょう。それで、諺では「天に唾」と言って諌めているのです。自分勝手に、他を批判したりすると、相手から「それなら自分自身はどうか」などと攻撃されてしまいます。つまり、ブーメランのように帰ってきてしまうということです。大人になるということは、それを知っているということです。村八分にされないために、長いものに巻かれると言う態度を選択して、言いたいこともとも言えずに、優柔不断になるのです。
このブーメランを自己言及のパラドックスというのですが、本音と建前を使い分けて、何とかやりくりしているのが俗人の態度なのです。このような一時凌ぎが、大人の解決方法なのですが、真に、解決しているとは言えないのです。
では、真の解決とはなんでしょうでしょうか。それが、脱二分化、脱パラノ、脱反共振的な態度だということです。もっと言えば、科学的芸術の態度、芸術的科学の態度であり、宇宙人的センスを持った政治家であり、奇人変人的俗人と言うことです。
このような人間は身近なところでは、見たことがないでしょう。そんな人間は、見たこともないキメラですから、いたとしても、見つからないようにヒッソリと暮らしていることでしょう。
しかし、それが突然、私達の目の前に現れることがあります。「雪男現れる」などと一大ニュースになったりします。そこまでいかなくて、奇人変人の類で、紹介されることもあるでしょう。パラノドライブとは資本の論理ですので、あらゆるゲテモノを記号化して、消費してしまうという特徴があるのです。
その一大ニュースを取り上げて見ましょう。それがこれまでも何度となく紹介してきた、量子力学が到達した結論「波のような粒子」です。これが現れた衝撃は、パラノドライブ=資本の論理=ゲテモノを記号化=消費というメカニズムではすまないインパクトを持っているということです。
奇人変人がテレビで紹介されて、笑いを誘っているうちは、すぐに忘れられてしまうのですが、奇人変人が、人類が滅びた後に栄える人類であるということになると、笑って済ますことなど出来ないでしょう。
それと同じか、それ以上のインパクトをもって現れたのが「波のような粒子」という事態なのです。「波のような粒子」を受け入れるということは、日常の思考=二分化を否定することなのです。否定しないまでも、共存するということです。
人間社会で言えば、建前人間が本音で物を言う割合を反転させるくらいのことなのです。
このことを、四次元能では、「四次元脳を持った三次元人間になること、或いは、三次元脳と四次元脳を調和させることがシムダンスをする目的であり、シムハンターがシムピープルになることでしょう。」といってきました。
奇人変人=シムピープルでは、イメージが悪いので、シムピープル=悟りを開いた人=脱二分化思考・即非的思考のできる人=仏ということにしておきましょう。
さて、ようやく、シムピープルの立つ位置をどのように、設定するかというところまできました。
実は、その答えは既に出ています。それが複素平面です。複素平面が、立つ位置の問題を解消する考え方=脱二分的思考であるとは、詳しくは述べてきませんでしたが、そろそろ、取り掛かることにします。
その前に、二分的思考の本家の科学者・政治家と脱二分的思考の本家の芸術家・本音人間の立つ位置の違いを纏めておきましょう。
科学の態度
見るもの→見られるもの(-・・・・+)
電気工学は、電気特性を支配して家電を作る。
政治の態度
見るもの→見られるもの(左・・・・右)
政治は、利害特性を支配して国家、家庭、学校を導く。
俗人の態度
見るもの→見られるもの(損・・・・得)
俗人は、損得勘定を計算して人生を渡る。
芸術家の態度
見るもの⇔見られるもの(美⇔醜)
芸術家は、利害特性を無視して芸術を表現する。
奇人変人の態度=本音人間
見るもの⇔見られるもの(善⇔悪)
奇人変人は、俗世世間の価値を無視してわが道を行く。
これらのそれぞれの態度=立つ位置を融合すれば、科学的芸術の態度、芸術的科学の態度、宇宙人的センスを持った政治家、奇人変人的俗人、つまり、シムピープルの立つ位置となるのです。
そういうことなのですが、では、どのように融合を図るのでしょうか。実現性のない、空理空論になってしまわないという保証はどこにあるのでしょうか。それを保証するのが宇宙の法則であり、虚軸を組み込んだ複素平面の「空のダイナミズム」なのです。
空理空論にならないことを保証するのが「虚と空」であるとは皮肉なものです。虚空とは、むなしい、意味のない、うつろなという意味ですから、全く、困ったものです。しかし、仏教では虚空蔵菩薩というシムハンター(悟りを求める修行者=菩薩)がいて、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味があります。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されているのです。まさに、三次元の利益を超えたところに、真の利益があるというのですから、虚空という概念もまんざらではないようです。
それでは、奇人変人の立つ位置が、虚軸を組み込んだ複素平面であり、彼らの思考が「空のダイナミズム」=意識のプレートニクス=パラノとスキゾの鬩ぎ合い=二分思考と非二分思考の戦い=即非的カオスによっていることを説明することにしましょう。-
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from: 生成門さん
2010年04月30日 18時31分59秒
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浄土の実現はできるのか
浄土の実現はできるのか
<プラトンとの共振>
「二分する」を捨てるということは、科学者という立場を捨てることになるということです。「二分しない」という思考を科学に取り入れるということは、トンデモのレッテルを貼られることになるでしょう。それでは科学者として生きていけなくなるでしょう。科学者だけの問題ではありません。俗人である私達の問題でもあります。
例えば、村には村独自の仕来たりや風習があります。それに従わなければ、村八分にされるでしょう。自=村人、他=変人という二分が出来たのです。自他反共振=村八分という選択も出来たのです。村を企業や組織、国家村八分を差別、除外と言い換えれば、何でも当てはあまるでしょう。
何故、戦争=喧嘩がなくならないのかという疑問には、二分法では決して答えが見つからないと同じく、このような村八分現象をいくら社会学的に分析しても、答えが見つからないのです。
それでも、二分的な思考から離れるということは容易ではありません。脱二分的な思考とは、主観的と客観的な態度を同時に取れ、科学者であると同時に芸術家であれ、政治家であると同時に宇宙人であれ、と言っているようなものだからです。
経営の現場で同じことが言えます。科学的な経営者でなければ、通用しないのが現代企業の常識です。今時、神棚を祭って、お祈りをする経営者などいないでしょう。
しかし、脱二分的な思考が難しい、手の届かないものだといって云っていたのでは話が先に進みません。そこで、少しでも、脱二分的な思考に近い例を探して見ましょう。そこからヒントが生まれるかもしれません。
脱二分的な思考=直感+論理と考えて見ましょう。例えば、直感的に優れた経営者であれば、二分的構図を持ちながらも、それから離れた態度をとっている人がいないわけではありません。プロのスポーツ選手は、直感と科学的訓練がなければ大成しないでしょう。
脱二分的な思考=客観+主観と考えて見ましょう。私達、一般人でも、主観的と客観的な態度を同時にとることはあります。それは、どんなときでしょうか。それは、感激したときや危機に陥ったときです。無我夢中のときには、無意識に事を行っています。主観的と客観的な態度を超越しているのです。危機に陥ったときでも、がむしゃらに対処しているときでも、冷静な自分がいること気づくことがあります。
脱二分的な思考=科学+芸術と考えて見ましょう。科学者であると同時に芸術家でもある人は沢山いるでしょう。万能の天才と言われたレオナルド・ダ・ヴィンチはその典型でしょう。
脱二分的な思考=政治+宇宙と考えて見ましょう。政治家であると同時に宇宙人という日本の政治家が現れたようですが、どうも、遊びの範囲(揶揄)で言っているようですので、現実には存在しないようです。
政治家は国の利益代表者であり、地域や集団の代表者ですから、曖昧では成立たないのであって、右か左をはっきりさせなければならない宿命を持っています。一時的には曖昧な態度も、許されますが、切羽詰ってくるとそうは行きません。まして、宇宙人=平和=利益を求めない人などという比喩は通じないのです。
ガンジーは無抵抗主義で理想を貫いたわけですが、それが成功して理想社会が出来たわけではありません。ダビンチでも、完全同時に科学者・芸術家だったのではないのであって、ある時は科学者であり、あるときには同時に芸術家だったのでしょう。それを、後世の人が、科学者でもあり芸術家でもある万能の人と持ち上げて言っているだけでしょう。
脱二分的な思考を相反するものの共立と考えたわけですが、どうも難しいようです。何故、両立が難しいのでしょうか。何故、意識を科学することが難しいのでしょうか。
それに答えるためには、宇宙の法則を知らなければならないのです。私達の世界が、何故、対称性できているのかを知ることです。例えば、電気には、何故、プラスとマイナスがあり、人間には、何故、男と女がいるのかです。
自然界には中間的なものが、かなり、存在していますが、人間の場合には、まれにしかいません。生物には、雌雄同体という中間態が存在していますが、それらは主流の生物ではありません。一体、何故なのでしょうか。ミクロの世界では、対称性が破れるという現象もありますが、物質にはその反物質があることが基本です。何故、中間的な状態が基本ではないのでしょうか。
これに明確に答えられれば、シムダンスの探検は終りであり、四次元能の幕は降ります。その答えを探すために、四次元能はシムダンス等方法を用いて、共振の旅を続けているのです。その鍵は「意識のプレートテクトニクス」=空のダイナミックス=イデア的知性と「即非共振」なのです。
「意識のプレートテクトニクス」とは、これまで言ってきた「空のダイナミズム」のことであり、共振とは、空のダイナミズムを、要約した概念「即非」なのです。「即非」とは、相反するものの完全同時存在という意味です。科学者・芸術家が一人の人間に完全同時に存在する状態をいうのです。
しかし、それは、有り得ないことなのです。ですから、この世では、宇宙人ではない政治家しかいないのです。宇宙人であると同時に政治家である人なんて存在できないのです。即非的な人とは、中間態であるということです。性同一性障害者は中間態のようなものなのです。
性同一性障害者は理想的な人間ではないのが、この三次元の世界の常識ですが、即非状態を理想とするなら、性同一性障害者は理想ということになります。
空のダイナミクスというのは、宇宙の法則なのですが、それによると、基本は対称性です。三次元では、その対称性が二項(±、オスメス)として分離して現象化するのです。その対称性が破れて現れることがありますが、あくまで基本は対称なのです。その対称性を与えているのが四次元のイデアの対称性=陰陽にイデアであり、三次元はそのイデアの影であり、その影を作っているのが空なのです。
政治的な話をすると、長くなるのですが、簡単に言いますと、政治とは対称性が破れる現象です。つまり、政治とは、利害が対立して、分裂するのですが、共振=調和することはなく、どちらかが強くなるという反共振のゲームなのです。
全てが平和=共振になるというのが理想ですが、それは、地球が政治的中立で覆われるということです。政治的中立とは即非ですから、性同一性障害者と同じ、雌雄同体というような中間的な形が理想国家ということになります。しかし、中間的という形は、それが理想であっても、現実には、政治的対立が続くのです。
それを分かりやすい例で言いますと、人間関係も政治ですから、即非という態度が如何に難しいかが分かるでしょう。
例えば、政治的中立とは、曖昧な態度をとると言うことです。優柔不断、決断できない、玉石混合、フンギリがつかないなどという態度は全て、即非の状態であるということです。このような即非の態度を取ることは、世間では長くは通用しません。だらしない人、弱い人というレッテルを貼られてしまい、経営者なら失格の烙印を押されるでしょう。政治家なら尚更のことです。そんな結婚相手ならすぐに別れるでしょう。
ということで、即非の態度とは、「である」と「ではない」の相反する状態が完全同時に同居するという立場に立つということです。そのような位置にいることは、三次元の俗世界では、居場所のない、存在が困難な態度となるでしょう。
お互いの違いを認めて、平和に暮らしたいと思う心は誰で持っているのですが、それが、世界平和主義の運動をしようとすると、ままならない現実が突きつけられるでしょう。
イデア的知性が、意識を自我をして二分的思考を選択させているということを知らないで、意識変革をすれば、平和がたらされると思っていることに、落とし穴があるのです。
意識が現象化するというのは、宇宙の法則である対称性に依拠しているのです。ですから、虚(陰・陽イデア)が先ずあり、それが、現象化したときに、実(陰陽)が対立して現象化するのです。区別(陰陽)があっても、共振すれば、平和が訪れるのですが、政治的な人間社会に於いては、欲が絡むので、なかなか共振できないのが現実なのです。ですから、世界平和は容易には実現できないのです。
共振するには、完全調和しなければ無理なのです。完全調和とは、±がバランスすることです。しかし、オスメスがバランスしないように、利害関係はバランスしないのです。
宇宙では対称性が原則ですが、実は、私達の小宇宙では物質世界のみが優勢となっています。反物質がないのです。宇宙は巨大ですから、宇宙のどこかにあるのでしょうが、まだ、出会っていないのです。もし、出会ったとしたら大変なことになります。完全調和、即非が生まれるのです。対立の消滅です。つまり、私達の宇宙の消滅なのです。
同じように、人間社会も完全調和、即非が生まれるなら、利害がなくなって、曖昧な態度の優柔不断、決断できない、玉石混合、フンギリがつかない人ばっかりになって、穏やかで、争いはなくなり、平和になるでしょう。しかし、現実はそういうことにはならなくて、天気のように、いつも高気圧と低気圧がせめぎあって、対立して、嵐や雨を起こして、それが治まって、しばらくはいい天気が続いたと思ったら、また、次の不安定な天気が来るのです。
それでも、私達は共振的即非を求めて、完全調和を求めて行きたいのです。それには、曖昧、優柔不断、決断できない、玉石混合、フンギリのつかない人が持っている本質は、即非であるというように態度の評価を改めなければならないのです。曖昧なのは偏らない心を持っているからであり、玉石混合になるのはハードソフト的しなやかさを兼ね備えているからであり、そのような人を無位の真人と呼ぶことにしたいのです。
そのような人間を多く輩出するためには、意識のプレートテクトニクスを、空のダイナミズムを学んで共振しなければならないのでしょう。
空のダイナミズムを学ぶということは、即非を理想とする場所=桃源郷に行くことであり、それが空とのシムダンスなのです。ガンジーでも成し得なかった世界平和、仏教でも成し得なかった浄土が果たして可能なのでしょうか。それは甘幻想なのでしょうか。
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2010年04月30日 17時13分21秒
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二分法的思考のパンデミック(世界流行)=パラノパンデミック
二分法的思考のパンデミック(世界流行)=パラノパンデミック
<プラトンとの共振>
量子力学の遭遇した「波のような粒子」という結末は、物質世界に対する客観的な態度、つまり、「見るもの・・・見られるもの」という二分的なやり方=世界を解釈する態度には限界があることを示しました。
しかし、その限界を超えることは、これまでの科学的な枠組みを否定することになるので、混沌としているのが量子力学の現状です。それが物質と精神の融和が何故、難しいのかということとも通じるのです。融和とは、物事を二分しないやり方ですが、それは、自他共振でもあるのですから、他を敵とするなら、敵の存在を認めるということですから、人類平和という意味でもあるでしょう。
人類平和という意味では、世界解釈に対する新たな第三の道を示唆するものです。
第一が二分法であり、第二がそれの反動ですが、いずれも二分法でしかありません。これらの二つは、人類平和を求めて絶えず入れ替わって戦争を繰り返してきました。戦争こそが平和の道だったのです。アメリカにとってテロと戦うことは正義ですが、その反動であるテロ側にとっても正義なのです。
しかし、まだ平和は達成できていません。所詮、それは幻だったのでしょう。それに対して、第三番目に出てくる態度がプラトン的・共振的・即非の思考方法です。
これらの三つの態度は、物事を見る視点、観点になり、物事を思考する方法や文化に現れるでしょう。
具体的に言えば、第一の態度の結果が物質科学や常識的な規律、管理のスタイルでしょう。第二が精神主義のオカルトや宗教です。そして、第三が科学と精神を融合した新たな芸術的科学と呼べる道です。
第一と第二の態度が、管理・支配や戦争を平和・繁栄の手段と考えるのに対して、第三の態度はガンジーのような無抵抗主義となるでしょう。環境を支配し開発すのが、前者とするなら、環境と共生しようとする態度は後者となるでしょう。
現実を見て見ましょう。世界は今、第一と第二の態度で侵犯されています。その結果が温暖化です。戦争を止めようと思っても簡単に止められないように、温暖化は止めようと思っても止まるものではありません。
第一・第二の態度を止めることも、第三の態度を選択することも困難なのです。その理由を明らかにすることが今回のテーマです。
第一・第二の態度を止めることが難しいのは、それ自体が問題視されていないからです。誰も、現在の態度が悪いとは思っていないでしょう。政治家にとって選挙に戦って当選することが、正しいのですから、それを否定するようなことをすれば、存在意義がなくなってしまうでしょう。戦うことは、学校から人生のあらゆる場面で正しいことと教えているのですから、「態度を止める」必要がないのです。しかし、四次元能は、それを否定しているですから、第三の道を提示したところで、受け入れられる可能性は全くないということです。
それでも、シムダンスを続けるのが、それなりの理由があるのです。その理由は繰り返しになりますが、温暖化の元凶が、
第一と第二の態度にあるからです。そして、これをしつこく云うのは、時間がないからです。
仮に、温暖化の元凶が第一と第二の態度であると分かったとしても、第三の道を受け入れることは更に困難なのです。ですから、どうすれば、それを受け入れられるようにするかが課題となるのです。
子供に嫌いな食べ物を食べさせるのに、磨り潰したりして分からないようにして食べさせます。四次元能にはそれと同じような工夫がいるのでしょう。
それには、第三の道を会得することが、何故、難しいかを理解しておくことが必要でしょう。第三の道が難しい理由は、プラトンが指摘したように、宇宙の法則にはイデアの知性と関係しているからです。イデアの知性というのは、仏教の色即是空・空即是色のようなものです。
色即是空・空即是色は東洋の知恵ですが、その東洋人でさえ、これを理解できていないのですから、まして、西洋人に理解しろといっても、始めから受け付けないでしょう。そこで、同じ西洋のプラトンを登場させようというわけです。プラトンのイデア論が、哲学の分野では正当に評価されているのですが、それが他の学問に特に、科学とはアンチテーゼとなっているのですから、受け入れられるはずがないのです。水と油なのです。
四次元能では、プラトンの世界解釈を次のように解釈しています。プラトンの世界解釈とは宇宙の法則があるということです。宇宙の法則とは、全ての森羅万象は、イデア的な対称性(陰陽)があり、それが現象を生成し消滅させるエネルギーの流れであるということです。イデア対称性には、虚の陰陽イデアがあり、それが空を介して実の陰陽の現象となると考えています。
実と虚の間には、不連続という壁がありますが、その不連続は反転によって乗り越えることが出来ます。反転とは虚が実になり、実が虚になるということです。虚には虚のイデアエネルギーがあり、この反転により現象化させる仕組みがあるのです。この反転の仕組みをイデアの知性と呼んでいます。
こうした前提を踏まえて、第三の道を会得することが、非常に難しいことを説明していきます。
先ず、イデアの知性を認めれば、今日の科学的な二分法を基本とする枠組みを否定することになるということです。正確には否定するというより、自他・陰陽を互いに共振させるのですから、共存であり、包み込むという態度になるでしょう。単なる否定では、二分法と同じ反動に陥ってしまうでしょう。
反動とは文明はだめだから、自然に帰れ(ルソー主義)など極端か極端に走ることになるような態度の変更です。それでは第二の態度と同じことになってしまします。いずれにしても、イデアを認めることは、「である」と「ではない」を同時に認めるという態度です。それを即非といいますが、これが、第三に態度の基本であることを忘れないようにしましょう。
第一の態度は自他反共振=他の否定、第二が自他反共振=他者肯定、自己否定ですから、第三の態度は自他共振=自他肯定です。第一の態度の典型的な例としては、戦争状態にある敵との関係です。これは相手を肯定するなどということは、有り得ません。戦争相手を許すことですから、国益中心からずれてしまうのです。仮にあっても、休戦であり、同盟です。いずれも、相手を対等と認めたわけではありません。第二の態度は、反動なので、自己を否定して、相手を肯定することであり、日本が戦争に負けたときの態度と考えれば分かりやすいでしょう。
戦争においては、負けない限り、自己否定など有り得ないのであって、まして、戦っていないのに敵を肯定することなど有り得ないことなのです。戦争においては、第一の選択しかないのであって、第二の選択は負けた側に選択なのです。戦争を回避するには、外交的に話し合いしかないわけですが、その場合でも、第一の選択しかないのです。真の平和を目指すのなら、第三の道しかないのですが、それは、理想論であって、現実ではないのです。ガンジーの無抵抗主義がどうなったかを知ればよく分かるでしょう。
戦争はいやだが、不利益もいやだというなら、妥協しかありません。妥協には、やはり、勝ち負けがあります。どこまでいっても、第三の道は選択できないというジレンマが付きまとうのです。このジレンマを解決することは、国のリーダーには、絶対に出来ないといってよいでしょう。
分かりやすし例として戦争を取り上げましたが、戦争を「利害を求める戦い」、つまり、自他反共振の競争的戦いと解釈すれば、規模の違いはあっても、日常的ないざこざ、喧嘩、予算の分捕り、市場の獲得、顧客の獲得、世渡り、受験などあらゆる場面において良くあることです。
事件というのは、全てが自他反共振モデルであると云ってよいでしょう。もし、誰でも、第三の道を会得することが、簡単であるならば事件などは起きないはずです。現実に多くの事件が起きているのは、共振的な態度をとることが、如何に難しいかを実証しているようなものです。
第一の態度をとり続けていけば、必ず、最後には平和・理想が実現できるという信念が、自他反共振の態度をとる根拠なのですが、温暖化という最後通牒が突きつけられた今となっては、その神話は崩壊しつつあるのです。
さて、四次元能では、そのジレンマをどのようにして乗り越えようとしてするのでしょうか。四次元能では、仏教の即非を取り入れ、プラトンのイデア論によって、第三の道の困難さを乗り超えようとしています。量子力学が「波のような粒子」を受け入れたように、二分法によって分離した自他を同時に受け入れるという「即非」態度です。
これに、ティトムとの共振で示した非周期彗星の帰還や銀河の回転曲線問題を解決したように、もう一つの空間を認めるというアプローチ(作戦・戦略)を加えて、第三の道の困難さを乗り超えようとしています。
二分法を頭から否定しないで、受け入れるということは、即非の状態を認めることです。即非を認めるなら、真空は無ではなく陰陽の状態が同時にあることであり、言い換えれば、陰陽エネルギーがあることを認めることです。もう一つの空間を認めるということは、エネルギーの供給源を、この世ではない別のところに認めるということになるでしょう。その上で、二分法の世界と真空とエネルギーとそのエネルギーの源泉ともう一つの空間という関連を、全て有機的に結びつけることです。
態度や作戦や戦略というと、二分法のまかり通る三次元の世界のやり方ですが、それも今は三次元にしか住んでいない私達の宿命です。もう少し後になれば、科学と芸術の融合させた芸術的戦略などいった方法を提示できるかもしれません。
芸術的戦略とまではいきませんが、当面は、全て有機的に結びつけることを可能とさせるのが複素平面なのです。複素平面の基本は、虚軸と実軸を交差させることですから、実軸を二分法が現れる空間、つまり、三次元空間に配置して、虚軸をもう一つ空間に配置すれば四次元空間が完成します。
ここでプラトンを登場させます。プラトンは現象の背後に本質があると言ったのですが、その本質はイデアのことですので、このイデアを三次元と真空とエネルギーを繋ぐ重要な役割を担わせれば、複素空間をプラトン空間とすることが出来ます。
虚軸をイデア軸として、この空間にはイデアエネルギーがあり、それが源泉となって、実軸に供給されるというダイナミックな仕組みを作ることが出来るのです。
その場合、虚軸と実軸は文字通り不連続ですから、この不連続の壁を乗り越える工夫が必要です。この不連続というのは、三次元的な非連続とは違って、物質と精神といった違いですから、切ったり張ったりして繋げるようなものではありません。そこで、虚と実のアクロバット的な反転という仕掛けが必要になってくるのです。
しかし、このような反転は、複素平面という仕掛けで簡単にできてしまうのです。複素平面は、実軸と虚軸が交差していますが、この交差する点が、反転をする重要な点となってくるのです。この点は単なる点ではなく、構造を持って点であり、特異な点です。これを空と呼んで、虚のエネルギーを実エネルギーに反転する媒体としての役割を持たせることにしたのです。つまり、真空の場です。
これで、このイデアを三次元と真空とエネルギーをすべて繋ぐ複素空間=プラトン空間ができました。あとはこれを、どう解釈して利用するかです。特に空については、空のダイナミズムという仕組みがあり、これによって、三次元現象と虚の関係を矛盾なく説明が出来るのです。
こうしてイデアを認めることで、複素平面的な世界の解釈が可能となったのです。この解釈に慣れれば、物質と精神の融合は簡単に図れるでしょうし、二分的な態度が如何に、偏った態度であるかを理解できるでしょう。
もし、イデアの世界を認めれば、イデア科学、イデア量子力学が生まれることでしょう。しかし、それは現代の科学的枠組みでは、「意識科学」と言うようなものですから、トンデモ科学となるでしょう。そのようなものを、そう簡単に認めることが出来るでしょうか。それは、占いを科学に持ち込むようなものですから、出来ない相談でしょう。
ところが、量子力学では、占いにも似た確率的な存在を認めているのです。これを不確定性の原理と言っています。量子力学は、二分的な態度の結果、占いを持ち込んでしまうという矛盾に陥ってしまっているのです。
この矛盾から逃れるには、二分的な態度を止めればよいことなのですが、それが簡単ではないのです。では、どうすれば、占いではないイデアの世界を認め、イデアの科学を構築することが出来るのでしょうか。
そのような事情は、私達の日常生活においても同じことが言えるでしょう。未来の不安があるのは、未来が不確定だからです。その不安から逃れるために、占いに頼るのです。占いなんかに頼らないと言う自信家の人でも計画は立てるでしょう。その計画は立派な科学的な手法のように見えても実は占いと同じなのです。占いは当たるも八卦ですが、計画だってその通りになったことがあるでしょうか。国の計画がその通りにいったことがあるでしょうか。900億円になろうとしているという借金がどうして出来たのでしょうか。計画とは占いのようなものなのです。どちらも未来に対して安心を保証するためにすることなのですから。
もし、イデアの世界を認めるなら、イデアの力によって、占いや計画とは異なる方法で未来を確定することが出来るでしょう。もし、イデアの世界を認めるなら、未来は、現在から遅れてやってくるのではなく、未来から現在にやってくるのです。
もし、イデアの知性を認めるなら、私達の閉塞した日常から脱却することも可能になるでしょう。
すでに、四次元能では、脳が複素平面という空のダイナミズムが活躍する場であり、裏ではイデアという知性が働いていると言いました。
私達は、日常生活においても、常識的な態度=客観的な態度=「見るもの・・・見られるもの」=二分するやり方を絶対と信じてきました。それを信じるのは、対象=見られるものを自分=見るものから分離することで、対象を支配できると思ったからです。
つまり、自分の未来を自分と分離して、支配できると思ったのです。自分を自分から分離するなんてことは幻想だったのですが、それが正しい方法だと信じてきたのです。それを信じてきた根拠が「未は不確定」だということだったのです。そして、その結果が占いや計画に頼ることになったのです。このことと量子力学の科学的態度=「確率を持ち込む」ことは、全く同じことなのです。
もし、このイデアの世界を認めるなら、もはや、二分するやり方以外の態度はないと考えることは全くないのです。
というのは、「二分する」ということ自体が空のダイナミズムの反共振という作用なのです。私達は「二分する」という態度が、人間が独自に掴んだ知恵のようなものと思っていますが、そうではないのです。それは宇宙の法則であり、イデアの力なのです。しかし、イデアの力は、空のダイナミズムによって、反共振=二分すると同時に、共振=二分しないという態度も主体的に選択していると思っているかもしれませんが、そうではないのです。イデアの知性があって、それが選択させているのです。
科学が、何故、二分的なやり方を採用することになったのかということです。それは、自我の発達とも関係があるのです。自我はイデアによって生成されたのであって、進化したかのように見えるだけなのです。
要するに、二分するというのは「空」の作用であり、自他を区別することが、自我の作用として、三次元の現象となったのです。それを私達は認識する能力といっているのですが、その能力の源泉が、空にあることを認めなければ話が前に進まないのです。
心理学的には自他を区別する能力は自我ということになりますが、その自我は発生したことになっています。その自我がどのように発達してきたのかを明らかにするためには、進化論の範疇になるでしょう。でも、進化論でも、その根源は明らかにすることが出来ないのです。遺伝子レベルで止まってしまうのです。
四次元能では、自我は空の作用であると考えています。意識の作用は「空」であるのですから、自我は「空」にあるというのは、四次元脳の文脈では当たり前なのです。
いずれにしても、自我が発生したことで、人間は、自と他を区別できるようになりました。この能力は、免疫系の自己と非自己を区別する能力とも合い通じるところです。非自己を敵と看做してやっつけることで、自己が生き延びるのですが、これと同じように、人間のレベルでも、自が他を否定することになるのです。これが、認識の基本、自他の区別=二分法となり、見るもの=自が見られるもの=他の区別、その他、あらゆる事物の区別、例えば、善悪、遠近、上下等の区別となったのです。これが文明を発達させる大きな力となったのですが、一方で、温暖化をもたらした元凶でもあったのです。
二分法の何が問題かということです。免疫系でも、自己を非自己と間違えて自己を攻撃してしまうことがあります。それが、人間に現れるのが自殺行為です。もっと大きなレベルでは、地球破壊でしょう。地球は自己なのですが、その自己を破壊しているのですから、まさに自殺行為です。こういうことが起きるのは、免疫系では免疫疾患と言いますが、自己を非自己と誤認識するからです。誤認識の原因は良く分かっていないようですが、ホルモン説や遺伝子異常などの説があります。
人間の場合、自己を非自己と間違えるということはどういうことでしょうか。人間を自己として環境を他として、区別します。それによって、人間は環境を支配しようとします。ところが、人間は他=環境に含まれています。支配している自分が支配されているのです。つまり、環境を破壊するということは、結局、自分を破壊しているのです。
この問題の本質は、自己と他を区別できないにもかかわらず、無理に区別して、支配しようとしたことに問題が起きたのです。環境問題は、戦争の問題と同じく、規模が小さな内は問題にならなかったのですが、今日のように地球規模となると、人間は他=環境に含まれているという事実は、事の重大さに気がついたときには手遅れ寸前だったというわけです。「天に唾」とはこのことだったのです。
免疫系の自己免疫疾患には、全身にわたる疾患と、特定の臓器だけが影響を受ける臓器特異的疾患があるように、その被害は格段の差があるでしょう。全身にわたる疾患とは命がなくなることです。同じように、自と他の区別が地球規模で浸透しなければ問題は起きなかったでしょう。
しかし、今や、二分法は世界的な規模で、蔓延してしまっているのです。ウイルス・パンデミック(世界流行)が恐ろしいものであることは、誰でもわかっているのですが、二分法的な思考のパンデミック(世界流行)=パラノパンデミックについては、殆-
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from: 生成門さん
2010年04月28日 19時46分18秒
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意識のプレートテクトニクス
意識のプレートテクトニクス
<プラトンとの共振>
意識は精神作用という、能動的な力を持ったものであり、脳という場で述語的に働くものです。意識の働く場所は空であると言いましたので、脳は空であるということも出来ます。その意識がどのように働くかは、「意識の科学」が存在しないのですから、空のダイナミズムによって、つまり、意識のプレートテクトニクスによって明らかにされるべきでしょう。
「意識の科学」がないのは、意識が物質的ではないために、科学の対象にならないからです。一方、心理学があるではないかという指摘が想定されますが、心理学が、果たして、意識を対象としているのでしょうか。
確かに、心理学は、意識を対象とする科学のように見えます。しかし、心理学の方法を見ると、心を対象としているように見えながら、○×式テストや心電図を分析しています。まるで、市場調査や地震探査のような態度です。
この立ち位置は、客観的な場所であり、科学に共通する位置です。つまり、外部という位置から、つまり、対象を見ているという人間自身を蚊帳の外に置いているのです。まるで見ていること自体を忘れているかのような特権的位置で、脳という概念化された物質を見ているのです。
このような態度や位置では、意識の作用を生のまま把握することはできないでしょう。仮に、「意識は自己を認識する」と言ったところで、どのように認識するのかという質問に置き換わるだけで、意識そのものを解明したことにはならないのです。
脳波を見ても、それは、意識の作用の残骸を見ているに過ぎないのです。メタファー的に言うなら地震災害の後を調べているようなものなのです。地震そのものを掴むには、地球の内部のプレートテクトニクス(岩盤の動き)を調べなければならないのです。同じように、脳を調べるなら、その内部のプレートテクトニクス(意識の動き)を調べなければならないのです。それには、ミクロの決死隊を脳内に送るか、内観するしか方法がないでしょう。どちらにしても、それらの方法は科学的方法とは言えないのです。
地球のプレートテクトニクスに相当するのが、意識のプレートテクトニクスですが、岩盤を相手にするように、脳を相手にすればよいのでしょか。もし、それで良ければ、科学的態度でも良いでしょうが、意識となるとそうは行かない事情があるのです。
意識を、対象を外から見る態度、つまり、対象をブラックボックス化して、まるで、脳を自動販売機のように扱う態度では意識を直接相手したことにはならないのです。意識を扱うということは必ず記号化=言語化して「意識とは〜である。」というように表現をするでしょう。ところが、言語という現象も、意識の作用なのですから、まるで、バナナの説明をするのに、バナナの絵を書いて説明するような堂々巡りになってしまうのです。
これでは意識の作用など到底把握することなどできないでしょう。赤いリンゴを認識する場合、どうして赤いと判断したのでしょう。どうしてそれをリンゴと断定したのでしょう。簡単な例を示して見ましょう。犬が条件反射で、赤いリンゴを見て涎をたらします。そこに意識があるでしょうか。あるとしたら、それはどのようにして、働いたのでしょうか。視覚からリンゴのイメージが入って、それをリンゴと判断したから、涎が出たと説明は出来るでしょう。これで、意識の作用を説明したことになるのでしょうか。認識が判断という言葉に置き換わっただけでないでしょうか。また、脳波を持ってきて、これが判断した瞬間であるといっても、何も事態が進展したわけではありません。
もし、そのような説明が意識を説明したことになるなら、人工的に意識を発生させられることが出来るはずです。今のところは成功していないようですので、科学的に意識を発生させることは出来ないとしておきましょう。
ただ、意識のような意識を発生させる全く異なる試みがあります。それは人工生命です。これの方法は、生命を観察し意識を分析して、そこから組み立てるのではなく、生物の進化を模擬するコンピュータ・プログラムを作って、意識を発生させる方法です。これが意識かどうかという問題はありますが、生命に似ていれば、意識と言えるかもしれません。もし、そのようなプログラムが意識に似ているとするならば、それはどのようなアルゴリズムなのでしょうか。簡単に言えば、マージャンや囲碁やチェスのゲームが意識を持っていると言えるかということです。
生命の知能の進化を考えれば、アメーバのような知能と比較してみましょう。知能の水準を度外視して、アメーバにも意識の原始的な形があると認めるなら、ゲームにも意識があるとしなければならないのではないでしょうか。それが、自然発生か人工的かという問題がありますが、少なくとも、外見からは意識があるように見えるのです。
人工的なものは本物の意識ではないと言う反論があるでしょう。しかし、そのプログラムやメカニズムを与えたものが人間であるということを含めて考えると、結局、人間の意識がどこからきているのかということに帰結してしまいます。
四次元能では、それを虚次元から来ていると考えています。虚次元にはイデアがあり、それが精神作用=イデア的知性となって、空を媒介して、三次元実軸に現象として現れると考えています。
脳は三次元の物質ですが、そこには、虚軸と空をもった複素平面が隠れており、そこで意識(の作用)が発生すると考えています。脳は意識の発生する場=複素平面=四次元空間であると言えるのです。更に言えば、あらゆる森羅万象、例えば、植物、動物、人間、聖なる形などには、イデア的知性=複素関数が潜んでいるのではないかということです。詳しくは「意識を発生させるアルゴリズム」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100085170751
以下、引用しました。
つまり、マンデルブローは自我的な知性(主語論理)とは別に、直感を働かせる関数的な知性(述語論理)が脳に潜在していることを示してくれたからです。四次元能はそれを更に踏み込んで、それが無意識であり、空であり、イデア的な知性ではないかというところまで行きついたのです。
マンデルブロー集合図には複素関数が使われています。複素平面が意識を生み出すと言ってきましたが、通常の関数は実関数であり、実数平面上に展開されるものです。
複素関数は複素平面上に展開されるのですから、複素関数が意識を生み出すと言っても良いでしょう。同じ述語でも、複素関数という述語は、生物の認識のような四次元的な特性を持っているのではないでしょうか。
複素関数は複素数を変数として持つ関数ですから、複素平面上に現れる様々な振る舞いということになるでしょう。複素平面とは四次元(空間)ですから、複素関数は四次元性(四次元らしさ)を表現するでしょう。直感などというのは
四次元性ですから複素関数で表現できるのではないかと思うのです。
―――
脳には、意識を発生させるイデア知性があり、それは複素関数が表現される複素平面であり、意識のプレートテクトニクス(空のダイナミズム=場)そのものだということです。
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from: 生成門さん
2010年04月28日 18時38分47秒
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概念としての魂とイデアとしての魂
概念としての魂とイデアとしての魂
<プラトンとの共振>
四次元能が主張する「世界は解釈である」を言い換えると「三次元世界の出来事は、すべては言語=意識現象である」と言えるでしょう。従って、意識現象は認識であり、言語化された「もの」はすべて複素平面上の実軸に於ける三次元の現象なのです。
感覚や感情も「痛い、美しい、心地よい」と言語化されて、初めて、認識されるのです。言語化以前の感覚はまだ無意識に「ある」として良いでしょう。複素平面上の実軸と虚軸の割り当ては、既に、「魂はどこに行った(1)」で済んでいますので確認しておきます。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082585608
以下、引用しました。
虚軸=イデア軸=虚空と陰陽がある
-i 虚空{i*-i, i*-(-i)} i
実軸=実空と±1がある
-1 実空{i*-i, i*-(-i)} +1
入魂=現象化=膨張反転=虚空を介して実になる
i*-(-i)⇒-1(反共振) i*-i⇒+11(共振)
脱魂=次元化=収縮反転=実が虚空になる
-1⇒i*-(-i) +1⇒i*-i
宇宙精神 空のダイナミズム
汎イデア精神 宇宙共通のイデア
個イデア精神 実体個別のイデア
汎心=汎魂 共同体の非物質的精神=文化=大和魂など
個心=個魂 個的実体の非物質的精神=個性精神
意識・気質・脳・文明・文化現象となる
意識現象 意識・無意識
気質現象 パラノ=アポロ><スキゾ=デォニッソス
脳現象 左脳・右脳
文化現象 パラノ=アポロ><スキゾ=デォニッソス
文明現象 パラノ=アポロ><スキゾ=デォニッソス
―――
「魂はどこに行った(2)」も参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082616596
以下、引用しました。
注意すべき第二の点は、現象化されるものの中には、物質に限らず精神(魂)も含まれるということです。虚軸を非物質的で測定できないもの、実軸を三次元の物質的で測定できるものとしましたので、魂や意識などは虚軸になるのが当然のように思えるのですが、実際の私達は、身体を持ち、精神も持っているという厄介な生物です。しかも、それらは現象したのです。
そこで無意識は空、意識は実軸としました。無意識も身体に依存しているといえば、現象化するのですから、意識と同じ扱いにすべきなのですが、ユングの集合意識にあるように、それは、三次元を超越しているように思えるのです。無意識を空とすると、実と虚の側面を持っていて二重化しているので、四次元でもあり三次元でもあるのです。
―――
この段階で、虚軸と実軸に配当する内容に混乱があるようです。意識を実軸、無意識を空という配当になっていますが、概念が実軸なので、意識が実軸に配置されるのは明らかに齟齬です。
これは次のように修正します。精神作用が空の役目ですから、意識現象によって、概念が現象化されることになっているので、意識そのものは空に所在するということです。
又、精神=魂を現象化されたものとしている一方で、イデアの虚軸にも精神=魂を配当しているのは齟齬ではありませんが、説明が要るでしょう。
例えば、リンゴは、それが、そのリンゴであれ、リンゴ一般(汎)であれ、実体化された概念です。私達が物質と言っているのは物自体ではなく、記号化された物の概念であるということを忘れないようにしましょう。
リンゴが実体として概念化されるのは、空にある意識が精神作用として働くからです。虚軸には、その精神作用の元としての精神イデアがあります。精神イデアとは、個イデア(そのリンゴに対応する)と汎イデア(汎リンゴに対応する)です。
魂も同じように考えることが出来ます。魂は、それが個魂であれ、汎魂であれ概念です。魂が概念化されるのは、空にある意識が精神作用として働くからです。虚軸には、その精神作用の元としての精神イデアがあります。精神イデアとは、個イデア(個魂に対応する)と汎イデア(汎魂に対応する)です。
概念⇔空(意識=精神作用)⇔イデア
個別実体としてのリンゴ(概念)⇔空(意識=精神作用)⇔個のリンゴイデア
一般としてのリンゴ(概念)⇔空(意識=精神作用)⇔一般的なリンゴイデア
個別実体としての魂(概念)⇔空(意識=精神作用)⇔個の魂イデア
汎としての魂(概念)⇔空(意識=精神作用)⇔汎魂イデア
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from: 生成門さん
2010年04月10日 16時13分52秒
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現実は非現実、非現実は現実である
現実は非現実、非現実は現実である
<プラトンとの共振>
図の引用先。http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/column/world10/world10.html
イデアについては「プラトンのイデアの世界」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069770883
プラトンを正しく解釈するということはどういうことでしょうか。科学と精神をつなぐ架け橋としても、プラトンを正しく理解しておくことは必要でしょう。イデアの王様(1)(2)を参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100083177594
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100083333980
更に、本家、「プラトンの善とイデア界」も参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10000715083.html
以下、編集して引用しました。
プラトンのいう「善のイデア」をどのように解釈すればよいのでしょうか。プラトンの説明では、物が現象化する背景にはイデアがあり、その諸々のイデアの源泉としての超越するイデアがあると言っています。つまり、「善」とは超越イデアであり、イデアのイデア=イデアの王様と考えられます。この場合のイデアと物の関係は、イデアの王様→イデア→物というピラミッド構造です。
そのような構造で示すことが、プラトンのいう現象の背後にある本質を言い当てたことになるのでしょうか。イデアとイデアのイデアは階層関係にあるのでしょうか。
イデアの王様→イデア→物という構造が階層的なら同じ三次元空間に現象化された関係ですから、連続的であるということになります。連続的とは因果関係があると言うことです。
三次元空間上の連続的因果関係とは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖的なストーリーがあるということであり、それらは諸々の実体とそれらを抽象化した観念を「である」「である」とつないでいくということです。「である」は通常省略されたり、変形されたり「ですます調」であったりします。因果を示す小話に、江戸時代に作られた話、「風が吹けば桶屋が儲かる」を記した無跡散人『世間学者気質』があります。これを編集して引用してみましょう。
大風で土ほこりが立つと、人の目の中へ入ります。そうなると、世間にめくらがでます。そこで三味線がよくうれるようになります。そうすると猫の皮が沢山といるので、世界中の猫が大分減るでしょう。そうなれば鼠があばれ出します。鼠が桶を齧るので、桶屋をすれば儲かるでしょう。
ここでは一々「である」という言葉が出てきませんが、「〜ならば、〜である」という形式なっています。
因果の系列を示す例として良いかどうかは別として、科学的な論文、落語、小説、会話のすべては「である」で繋がっていると言ってよいでしょう。つまり、猫という主語が出れば、そこには、「これは猫である」という主語論理が含まれているのです。その猫は、一匹一匹は、目の前にいる実体(名前がある)としての猫ですが、文章で表現される猫は抽象化された猫(属としての猫)と実体として猫(ミケなどと名前のある猫)が出てくるでしょう。それらは実体と概念という区別があるものの、どちらも、三次元空間上に指し示されるものです。指し示されるということは、記号化されているということであり、概念は当然として、実体であっても、生の現実ではないと言うことです。
このような関係は、三次元の世界では森羅万象について言えることです。つまり、私達の日常の会話や科学的な議論においては、固体としての物質は実体を、その実態の概念は認識された精神を意味し、それらを区別しているということです。
個別の犬の集合は犬であると言うように、実体(個別の犬)と概念(集合としての犬)の区別は、会話や議論では、階層として表現されるでしょう。ここで概念と観念は同じ意味とします。
この階層的な区別は、会話や科学的議論では基本的な区別です。この犬と一般論としての犬では指し示す内容が違うのです。政治家が国会答弁で、「個別の案件には答えられないので、一般論としてお答えします。」という前置きをする場合がありますが、それがこの区別なのです。しかし、四次元の視点で見ると、この区別は本質的ではないのです。実体という個別、具体的なものを指し示すからと言って、生の現実を指し示しているのかというと、そうではないのです。このことは後で、明白にしますので覚えて於いてください。
今、ここで重要なことは、この実体と概念の区別が、そのまま、物質とイデアという区別に置換できないということです。イデアの次元=四次元から見れば、概念と実体は同列であり、イデアは観念・概念ではないということです。このことを、明らかにすることが今回のテーマです。
前に述べたことですが、複素平面の実軸に物質、虚軸を精神として、三次元と四次元の定義をしました。それが上で、実体と概念という区別を取り上げました。物質と実体・概念=観念と精神という三つ用語が出てきて、それが三次元と四次元の軸を構成しているので混乱しているようです。
これを整理しおきましょう。先ず、四次元としてのイデアは、非物質的な精神であり、物質としての実体と概念という場合の概念は、確かに非物質ですから、精神です。しかし、厳密には精神に作用の結果であると言えるでしょう。イデアを精神という場合の精神は、精神作用を起こす元という意味があります。
実体と概念に区別における精神
概念・観念=精神作用の結果
イデアとしての精神
イデア=精神作用の元
これによって、実体と概念という場合の概念=精神は、概念・観念はイデアではなく、精神作用の結果なので、実軸に配置されます。同じ精神を虚としたり、実としたりするので、混乱させてしまったと思います。ここで改めて、概念・観念は精神作用の結果であると確認しておきます。
ずばり、概念・観念はイデアではないということです。虚軸のイデアが精神であるという場合の意味は、精神作用の元という意味ですから、実軸上に実体や物質概念を生み出す精神作用の元としてのエネルギー、即ち、虚のエネルギーのことです。従って「魂はどこに行った」で述べた魂はイデアでしょう。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082616596
精神作用の元か概念が生み出されるのは良いとして、物質や実体が生成されるのは可笑しいと思うでしょうが、これが今回のテーマと関係があります。
観念・概念は非物質的ですから、イデア軸の精神と混同しやすいのですが、精神作用の結果であると言いましたので、これで整理されました。精神作用とは意識現象のことですから、概念・観念は三次元に配置されて当然なのです。三次元の実軸は物質・実体が配置されるのが当たり前と思っていたのが、概念・観念まで配置されるというのでは、実軸はなにやらごった煮のようになってきました。精神の意味は整理されたのですが、実体と概念が呉越同舟とは一体どういうことなのでしょうか。
実体と概念を理解するには、認識という精神作用、つまり、意識現象について理解しておく必要があります。私達の意識現象とは、言語を使った会話や議論、思考ですが、その場合、ポチは犬である、犬は死ぬ。だからポチは死ぬ。こうした形式論理(三段論法)を基本としています。つまり、因果の論理に依拠しているのです。この論理を支えているのが、ポチという実体と犬という集合としての概念です。つまり、実体と観念ないし概念とする関係があるのです。会話や議論は三次元の空間上の出来事ですから、実体と概念が実軸上に配置されても、何もおかしいことはないないでしょう。
さて、実体と概念が同じ実軸に配置されることになったので、一段落しました。そして、イデアは精神作用の元であり、その精神作用の結果である観念は精神そのものではないとことであり、こちらもイデアと区別されました。
これまでは精神という意味を厳密にしてきませんでした。そのため、イデアという精神から、精神作用の結果として、つまり、意識現象として、もっと言えば、言語化されたという概念を精神と言ったりしたので、イデアと精神と概念の区別に混乱が生じたと思います。その上に、実体と概念の区別は曖昧のままだったですから、混乱の輪をかけてしてしまったと思います。これは、四次元能が探検途中にあることとも関係するのですが、多くのプラトンの解釈が、イデアが観念であるとしていることにも原因があります。むしろこちらの方が、要因としては大きいと思います。そこで、「イデアとは観念である」というプラトンの一般的な解釈を修正しておきたいと思うのです。
「このポチ」が個別の実体であり、一般の犬の観念がイデアであるという場合のイデアとは、あの犬、この犬という個別実体の犬を集合して犬を指し示します。つまり、イデアは集合としての概念を意味するわけです。つまり、イデアは太郎や花子を日本人というように、抽象化されたものを意味しているのです。人間の場合、個性のある太郎・花子を実体と言い、日本人を概念・観念と言っているのです。それは、集合論としては正しいのですが、これをイデアとするのには問題があります。もし、イデアを観念であると解釈すると、日本人がイデアであるということになってしまうのです。もしそうなら、プラトンのイデア論からすると、イデアが現象を生起するのですから、日本人という雛形があって、そこから太郎や花子が生まれてことになります。まるで、パソコンで、テンプレートを使って太郎の画像を編集しているようなものです。まさか、誰も、日本人というイデアというテンプレートがあって、それが太郎や花子を生んだとは思わないでしょう。
観念をイデア=テンプレートとすると、こんな可笑しいことになってしまうのです。そんなイデアなら、プラトンを持ち出す必要はないでしょう。テンプレートを母胎とすれば、母親がそのイデアということですから、現実味が帯びてくるのですが、この論理をいくら掘り下げて行っても、せいぜい遺伝子どまりでしょう。イデアを三次元の実軸上の概念とする以上、三次元の因果に依存することになり、最後は遺伝子イデア説となり、その先がないのです。
プラトンのイデア論では、イデアから物理的な実体や非物質の概念が生まれるのですが、三次元上だけで見ると、物理的実体としての犬が先に存在し、そこから犬の観念が生まれているように見えます。犬の観念から実体としての犬が生まれることはないのでしょうか。
確かに、犬の観念から、個別の犬を想像できるのですが、それは、演繹的な推理(トップダウンの思考)であって、想像する前提に個別の犬が先に存在しているのです。ポチを想像するからポチが存在するのではなく、ポチが存在しているから、ポチを想像できるのです。従って、概念・観念から実体が生成されるとは言えないのです。
しかし、プラトンのイデアは実体を生成するのです。概念は実体を生成しませんが、イデアは生成できるのです。遺伝子はテンプレートですが、これをイデアとすれば、プラトンと同じようになります。果たして遺伝子はイデアなのでしょうか。概念なのでしょうか。
プラトンは、イデアは現象の背後にあると言ったのですから三次元の実軸にとどまっていては、先に進むことは出来ません。現象の背後にあるのですから、物質や実体でないこともちろんですが、言語によって抽象化された「概念」がイデアではないことも明らかになったでしょう。プラトンは単に非物質的な存在=観念をイデアと言ったわけではないのです。
もし、精神作用の結果としての概念=観念をイデアというなら、現象の背後などという必要がないのであり、因果関係で表現するだけで十分なのです。犬や猫の話は言語化された「概念としてのもの」の論理で完結できるのです。ただ、三次元の世界の因果の論理に依存して、生成の連鎖を突き止めていくと、遺伝子にたどりつき、そこで止まってしまうと言うことです。これを突破するためには、もう一つの空間を用意しなければならないのであり、プラトンのイデアはそのヒントになったということです。
ところで、実体は生の現実を示しているのではないと言い、説明を後回しにしてきましたので、この当たりでそれについて言及して見ましょう。
一般的な常識では、この世界は、実体が物質的な存在であり、非物質的な存在=観念=精神であるとしています。物質的な現象だけが、この世界の三次元の現象で、非物質的な精神現象は三次元でないというように理解されているのです。精神は、三次元世界では特別扱いなのです。
既に、四次元能では、精神と精神作用の結果を区別して、四次元の虚軸に精神を、三次元の実軸上には、実体と概念を配置しました。精神は非物質の代表ですから、三次元の実軸上に置くことは出来ないということでは、一般的な認識と四次元能に認識は同じなのですが、概念も非物質ですから、三次元に置くことには抵抗があるのでしょう。そこで精神とは何かが問題になってくるのです。
精神とは意識の作用であり、その結果が概念ないし観念です。犬という実体は、ポチという具体的に目の前のいるこの犬という個別の物体を指しています。その犬を集めると、犬全般になります。これが犬の概念です。これが意識の作用です。これを認識と言っても良いでしょう。
四次元能では、この精神作用の結果である非物質の概念を物質と同じ軸に配置しているのですが、これが、何故妥当なのかと言うことを理解しておきましょう。これが理解できないので、プラトンを正当に解釈する上で、大きな障害になっていると言っても良いでしょう。
三次元世界が物質的な世界であるというのは、一面では正しいのですが、しかし、その物質という実体も、実は概念なのです。その犬をポチと呼ぶのですが、ポチはその犬そのものではなく、意識よって構成されたものだということです。認識・解釈された犬を私達は現実=実体と言っているのです。私達はもの自体には絶対に触れることは出来ないのです。
三次元の空間上に配置して、測定し、分析するときは、現実の「その犬」は記号になっているのであり、概念として扱っているのです。
記号化されたものとは言語化されたものです。ですから、実体とは、概念としての「もの」であり、記号化・言語化されたもの物なのです。私達は物自体の世界には絶対に触れたり、見たりできないのです。ですから、逆説的になるのですが、解釈される以前の非言語世界の方が、三次元世界ではなく、四次元世界なのです。そして、言語によって解釈され、概念化された世界を現実の物質的な三次元の世界と言っているのです。
ここが重要なところです。精神分析学者のラカンは世界を現実界・想像界・象徴界の三つに分けました。現実界とは、それこそが「現実に」存在しており、無意識の欲望の精神世界であるとしています。これは基本的に知りえない精神の世界です。想像界とは、自我と意識の世界、知覚とイメージの世界であり、象徴界とは、言語という記号の世界です。この世界は精神作用の結果の世界であるということです。
このように現実界・想像界・象徴界という異なる三つの世界が共に精神世界と言っているので混同するのです。
厳密に言うなら、
現実界=無意識の精神=精神作用の元になる精神世界
想像界=自我の意識が作用する精神世界
象徴界=意識作用が結果する精神世界
これで分かるように、ラカンのいう現実界は、イデア界=四次元=虚軸のことであり、象徴界が物質世界、つまり、三次元の世界です。この定義は、常識とは反対になっています。
ラカンは、常識でいう現実とは違う方を現実と表現したのですが、何故、そのような見方をしたのでしょうか。それは、生の現実があり、それが唯一つの現実だと言うことを言いたかったのでしょう。
生まれてくるときは、非言語の世界を彷徨って無の海を泳いでくるのです。それが生に現実です。しかし、成長すると、言葉を覚え、自分の外に世界が広がっていることを知ります。これが三次元の世界です。
その三次元の世界は、言語ないし記号によってオブラートに包まれた世界であり、同時に、私達の生に現実と隔離するは働きを持ったものでした。その結果、私達は非現実な記号の世界を現実だと錯覚して生きるように仕組まれたのです。
その仕組まれた世界とは、私達が精神の作用の結果として作り上げた世界であり、認識する世界であり、三次元の世界であり、意識が現象化した世界であり、記号化された世界であり、概念化された物質や上位の概念が存在する世界なのです。
ラカンまで引き合いに出したのは、私達の物質と精神に対する認識が錯誤していることを示すためであり、私達は解釈された世界に生きているという四次元能の主張を強調するためです。
私達は抽象化された言語化された世界を物質世界=現実世界としているのであり、天地がひっくり返った世界に生きているのです。ラカンの現実世界という言い方が、ある意味で正しいのですが、私達の解釈された世界を現実世界とする見方からすると、ラカンの現実は非現実であり、触れることの出来ない世界なのです。
ラカンの現実=生きる世界=現実の世界=非言語的な世界
私達の現実=言語化された世界=解釈された世界=物質と観念の世界=これ私達は現実と言っている
私達の現実が実は錯覚であるというと驚くかもしれませんが、その方が生きるために都合が良いのです。そのような生き方を選択したから、ここまで生き残ってきたと言えるのです。
それは、それでよかったのですが、私達の現実が実は錯覚であるということを自覚しておくことも重要なことなのです。
蛙は動くものに反応して、舌を出してそれを捉えようします。そこで、蛙の目を反対にしてみると、どうでしょう。獲物がいる方向とは反対の方に舌を出してしまいます。これは、現実が感覚器官によって解釈されていることを示す良い例でしょう。
私達も解釈して生きているという意味では同様なのです。目の前のコップを見てください。コップは確かにそこにありますが、それが真の現実の世界でしょうか。そうではないのです。貴方はコップに見ているにすぎません。「見ている」とは光を通して、脳に中にそのイメージを構成して、つまり、解釈しているのです。
もっと遠くの宇宙の姿を見るということを想像すればよく理解できるでしょう。私達は望遠鏡と通してそれを見ているのです。生の現実など見ることはできないのです。つまり、私達は決してそのもの自体を見ることなどできないのです。触っても事態は同じです。手の感触を解釈しているにすぎないのです。
四次元世界=生に現実の世界は見るこ-
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2010年04月08日 06時27分30秒
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ツイスターとは捩れた空間
ツイスターとは捩れた空間
<プラトンとの共振>
四次元時空が四次元空間であるというわけではありません。四次元時空は、三次元時空と時間を別々にしていた考え方を、三次元空間と時間を同時に考えるというように修正したに過ぎないのです。空間という意味では、四次元時空も三次元空間なのです。
四次元空間という場合の空間は、三次元の空間とは別の、もう一つの別の次元の容器がなければならないのです。
これまで述べてきた二つの世界(主観と客観、物質と精神)が、その容器ではありません。これまで述べてきた二つの世界は、共に三次元空間での出来事であり、現象として、陰陽、正負、主体と客体など二つに分かれて生起するのです。その根源は空にあり、三次元脳の働きにあるのです。
では、何故、もう一つの容器の話をしなければならないのでしょうか。それは三次元現象の背景には、それを生成する根源の、根源の世界があるからです。三次元から見ると空は根源ですが、真の根源ではありません。ですから根源の根源というような言い方をするのですが、それが、イデアなのかイデアのイデアなのかと言うことを明らかにしたいと思います。
既に、次元誕生のテーマで、三次元はゼロ次元から生成されたと説明してきました。それは空を媒介して生成されるとも言いました。三次元から見ると、原点=ゼロポイントですが、複素平面では虚軸側から見ると、そこは特異点です。そのようなゼロ次元と四次元を兼ねる交差する点を空と呼んでいます。別の言い方をするなら、この空は実から虚へ、虚から実へ反転する点であり、四次元と三次元をつなぐメディアであると言えるのです。根源としての空と、その根源としての虚があるということです。
空が点であるといってもその点のイメージからは空の構造は想像しにくいのですが、結構、複雑な構造を持っているのです。これを空のダイナミズムといい、既に説明しましたので「魂はどこに行った(1)(2)」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082585608
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082616596
ここで示した空のダイナミズムは四次元能が、PS理論を引用して、独自にプラトンを継承し、発展させたものです。しかし、一般に知られているプラトニズムは、このようには継承していないと思います。その理由はプラトン自身のイデアについての説明が曖昧なところがあるからでしょう。
イデアのなかのイデア、イデアの王様こそ「善のイデア」といっただけで、具体的に規定することはしなかったです。ですから、その後のプラトンを受け継ぎたい人達は、勝手に解釈せざるを得ないのですが、その結果として、プラトン的な観念論=プラトニズムが蔓延ることになったのです。
その象徴がプラトニックラブでしょう。プラトニックラブとは、現実のどろどろとした愛とは別の純粋の愛の形(イデア)があるというような愛のモデルです。しかし、このような使われ方をしたために、ここから誤解が始まります。イデアとは観念となり、観念は「絵に描いた餅」となり、ビジョンはスローガンとなり、意味のないことの代名詞にとなったのです。
一方、神秘的な方に走ってしまった人達もいました。その良い例がネオプラトニズムです。ネオプラトニズムはプラトンの正しい解釈として考えられたものですが、実際に構築された内容はプラトンのオリジナルのものとはかけ離れたものとなっているのです。
その解釈の特徴は、イデアを神と考えることです。その必然的な結果は、一神教になるということです。絶対に正しい一つの観念、価値、思考があるというのは、独裁的な政治家や古典科学の態度にも通じるところがあります。
プラトンをどのように解釈するのも自由なのですが、間違ったイデアの陥穽に嵌らないようにしなければなりません。
「正当な解釈とはこうである」と一旦口を開いてしまうと我田引水になってしまいますが、そのような強引さを避けるには、三次元科学の先端である量子論(力学)が、何故、古典科学を否定しなければならなかったのか、そして、何故、「波のような粒子」という、まるで「幽霊のような人間」という表現を認めなければならなくなったのか、そして、量子論自体が混迷の淵にあるのかということを明らかにしなければならないでしょう。そこに正当な解釈の答えあると思っています。
科学の先端の量子力学は、さすがに、それと対峙するイデアを取り込むことなどは決して出来ないでしょう。イデアの科学は成り立たないからです。取り込んだ瞬間、それは科学ではなくなってしまうからです。
しかし、物理の専門家たちが現実に観察したことは、「幽霊のような人間」としか表現できない現象です。かろうじて、量子論(力学)は科学の淵に立っていますが、ちょっと間違えば、量子論も神秘主義の中に落ち込んでしまう危険をはらんでいるのです。「量子力学の神秘」を参照してください。
http://www.kochi-tech.ac.jp/~cheon/res/resfld_j.html
以下、編集して引用しました。
量子力学には、その根底にいい知れぬ不思議さ、「形而上学的神秘」とでも呼ぶしか無いものをたたえています。量子論はそれまで知っていた「古典物理学」の法則に少し変更を加えた、といった生易しいものではなく、人間の認識そのものに関する考え方の変更を迫る「非常識な」ものだったのです。
量子論の不思議さそのものは、依然本当には理解されておらず、量子論がどんな非常識な現象を生むのについての全体像はみえていないのです。量子論のあれこれの奇妙な側面が、相互の連関無く知られている事情は、文字通り「群盲象を撫でる」かのようです。
―――
プラトン的な量子論があり得るのかは分かりませんが、少なくとも現象の背後には本質があるという考え方を取り込めば、三次元の現象の因果で堂々巡りして袋小路に陥穽してすることもないと思うのです。実際に、そのような因果関係を断ち切ようとする努力がなされています。
フリーエネルギーというと正当な科学ではないと言われるのですが、それもいつまで否定し続けられるのか分からなくなってきました。真空の海に無限のエネルギーがあることまでは分かってきましたし、ゼロポイントエネルギーも身近になってきました。http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%A5%BC%A5%ED%A1%A6%A5%DD%A5%A4%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%EB%A5%C9
こうした考え方の先には、実の世界の裏には空があり、更にその先に虚の世界があり、そこには虚のエネルギーがあり、それがゼロポイントを介して三次元のエネルギーになるという展開が考えられます。その代表がリサ・ランドールという若き天才物理学者です。http://yogananda.cc/nature/5_dimention.html
以下引用しました。
彼女の提唱する新しい宇宙理論が、今全米の注目を浴びていますが、2006年世界のキーパーソンの一人に選ばれています。その彼女は素粒子を観察している過程で、突然、実験空間から姿を消す素粒子を発見し、その理論的解明に取り組んだ結果、私たちが住み、知覚しているこの三次元世界と密接した形で、時間、空間ともに一つ次元の高い、五次元宇宙が存在しているのではないかという理論に到達したのです。
―――
又、似たような説としてニュートリノゼロ点生滅理論があります。http://www1.odn.ne.jp/shishakamo/bin'9/bin09-07-15.htm
以下、引用しました。
―――
この説を唱えているのはトンデモのレッテルを貼られている高尾博士ですが、トンデモと言っているのは古典的な態度からの評価なので、必ずしも当たっているとは言えないのでしょう。
この説の重要な点は、虚領域と実領域があり、その虚・実境界域には虚<0>実からなる螺動ゼロ場があり、そこから質量のない光子が対生成し、その光子から質量のある電子とニュートリノが対生成しているということです。そのゼロ場では六角形や五角形に“形態波動共鳴”して電子とニュートリノが生じるとも説明されています。
今、この説を詳しく取り上げることは出来ませんので、別のテーマで取り上げます。四次元能と高尾氏の説に共通している点は、虚領域を想定していることです。高尾氏は、自分のHPで、自然観・社会観を科学的に模索すると言っているのですが、まさに哲学と科学を架け橋たらんとしているようです。
リサ・ランドールは五次元を導入し、ペンローズはツィスターという新しい空間を導入していますが、いずれも、従来の理論からは袂を別れた理論であることは間違いないでしょう。
科学者のリサ・ランドールは、Newsweekで2006年世界のキーパーソンの一人に選ばれたほど人気があり、美人なので、誰でも知っていると思いますが、その著書「ワープする宇宙」も魅力に溢れています。しかし、その内容はとてつもなく異端です。http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/Lisa.htm
ランドールの「ワープする宇宙」は五次元なのですが、この五次元は三次元空間に時間を加え、更にもう一つの空間を加えて五番目の次元としています。四次元能では時間を次元としてカウントしないのですが、もし、時間をカウントすれば、ランドールと同じ次元になります。
ただ、四次元能の四次元が虚空間であるのに対して、ランドールの五番目の次元が異次元というのですが、これらが同じ空間であるかどうかは、現段階では不明です。ランドールは、この異次元空間を、粒子を実験で追跡しているときに、その粒子がある確率で消えてしまうことから発想したと言っています。
この「消える」ということから発想したのは、次のペンローズも同じです。ペンローズのキー概念はツイスターです。ツイスターとは捩れたという意味ですが、消える粒子を説明するのは、通常の三次元空間空では説明できないので、捩れた空間を導入したのです。これはランドールと同じように、電子が消えてしまうという性質に着目したのです。つまり、電子は、二回転しないと元に戻らないという性質を持っているのですが、このような空間は三次元ではあり得ません。ファッションショーで美形のモデルは一回りしてくれれば、すべてを見たことになります。二回転しないと元に戻れないモデルがいたとしたら、一回転分は、どこかに行っていたとしか考えられません。このことを端的に示すのはメビウスの帯です。メビウスの帯を鉛筆でなぞってください。元の位置に戻るためには二回転しなければならないでしょう。その場合、一回転分は観覧者の前から姿を消してしまうでしょう。
メビウスの帯は二次元ですから、三次元の空間ではありません。三次元でイメージできる二回転して元に戻る空間はクラインの壷ですが、それはイメージするだけであって、実際には作れない空間です。ですから、二回転して元に戻るような空間というのは、三次元には存在しないのです。しかし、三次元は四次元に含まれると考えれば、四次元は三次元にその影として現れるでしょう。とうことで、ペンローズは捩れた四次元空間を複素空間と考えたわけです。ツイスター空間を可視化した図を見てください。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1253/tuistor.html
以下、引用しました。
―――
この図は、左右対称となっており、捩れていますが、ティトムで示した宇宙サイクルの図と似ています。
二回転しないと元に戻らない捩れた空間とは、四次元能では複素空間=クラインの壷となるのですが、ペンローズではツイスター空間となるわけです。
このツイスター空間における、電子が雲隠れする振る舞いを説明できるのです。つまり、別の空間に一旦行って、そして戻ってくるのですが、これを複素空間でイメージしたものがツイスターとなるのです。
ですから、電子はツイスターの実空間と虚空間を行ったり来たりしていると考えれば良いわけです。これと似たような振る舞いをする非周期彗星があります。非周期彗星は、双曲線の軌道を描いて動くのですが、その双曲線の軌道では無限になってしまいます。つまり、元に戻ってこられないわけです。しかし、現実には戻ってきています。これを説明するためには時空が歪んでいて、ワープしていると考えればよいのです。「未来から戻ってきた彗星」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100077755560
「未来過去をつなぐ時間回廊」も参照してください。https://c-player.com/ad00178/thread/1100078483941
四次元能、ランドール、ペンローズ、高尾氏に共通しているのは、虚空間=異次元=ツイスターといった脱三次元的発想をしていることが明らかになりました。これらのすべてがプラトンを正しく引き継いでいるかどうかは分かりませんが、少なくとも、彗星や電子が消えるという現実がある以上、三次元空間の延長で論じていても、展望がないことでは一致しているのです。ですから、プラトンを正しく受け継ぐためにも、或いは、プラトンを超えるためにも、プラトンを正しく解釈する必要があるでしょう。-
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2010年04月05日 17時54分23秒
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もう一つの空間
もう一つの空間
<存在との共振>
「空間は歪んでいる」と述べましたので要約しておきます。空間は固有の場であり、場には差異があり、差異は力であり、その差異が場を歪ませ、空間を歪ませ、そして時間を遅らせ、進ませます。
それがスポーツの場では当たり前であり、その空間の歪みは心理的な空間なので観戦者からは見えないのです。場と言うのはグランドだけではなく脳の中にもあるのです。そして、その様な場は普段は隠れているのですが、時に露出することがあます。場が露出するのは笑いが球場を支配したときです。笑いがでるということは、空間が歪んでいて、時間が遅れたりすることの証拠なのです。時間と空間は場を構成するのであり、分けて考えることは出来ないのです。
時間と空間は絶対であり、普遍であるというのは、スポーツでは素人の見方(しあいに参加していない冷めた観戦)であって、選手にとっての場とは、その場限りの関係なのです。古典科学では、この素人の観戦態度が真理であり、空間は歪んではいないのです。ですから時間も一様なのです。
ここまでが要約です。
時空というと、物理の先端の概念ですから難しいと思ってしまいますが、野球を例にとって「笑いが時間である」と説明をしたので、時間と空間と場の関係が分かりやすくなったのではないでしょうか。
時間が空間=場との関係であるということを示す良い例として生理的な時間があります。食事をとるという場合、私達は時間に対して二つの態度を持っています。それは時間がきたから食べる、腹が減ったから食べるという態度です。正午の鐘がなったので食べるというのは、学校の規則ですが、このような態度が古典科学の時間に対する態度なのです。つまり、時間とは意識の外にあり、時間は時計が刻むと考えているのです。意識の外にあるとは、場を無視するということです。
しかし、猫はどうでしょうか。猫は腹が減ったから食べます。つまり生理的な時間によって行動しているのです。つまり、猫は時計などもっていませんから、自分の体内にある時間によって、生きる場の状況に応じて行動しているのです。つまり、時間は体内=場にあるのです。
時間を刻む遺伝子が発見されたこともあり、時間と空間は一体であるということが分かってきました。スポーツ選手の感覚と同じ常識の方が真実だということを科学が証明してくれたのです。
科学が証明する以前に、私達は場の時間で生きてきたのです。生命は場という限定された条件でしか生きられないのです。ですから、空間と時間が場によって構成されるのが当たり前なのです。それがいつの間にか忘れてしまっていたのです。それを思い出させてくれるのが「笑い」なのです。
野球の例で示したように空間は場であり、そこには心理的な時間というものがあり、時間の遅れや進みを経験します。楽しいことをしているときは時間の進みが速く感じられ、楽しくないことを嫌々ながらやっているときは、時間の進みが遅く感じられます。このような時間は、古典科学では扱っていません。しかし、アインシュタインはそれを時空という概念で、空間の歪みによって、時間が進んだり遅れたりすると宣言したのです。
相対性理論では、空間に歪をもたらすのは重力ですが、私達の日常の世界は心理的な空間です。そして、その心理的な空間を歪ませるのは、感覚という力=差異です。重力と感覚の違いがありますが、共に、空間=場という概念を使っていることに留意しなければなりません。
二つの世界でも説明したように、この世界は、客観的な空間と主観的な空間があります。客観的な空間だけが実在であり、真実であるかのように思ってきましたが、実は、それは古典科学の態度であり、それは錯覚であり、むしろ、非非科学的な主観的な世界の方が真実だったのです。アインシュタインの相対性理論は客観的な世界の理論ですが、それでも、空間を重力の力によって歪ませるという考えは、それまでの客観的な絶対的な世界が唯一つ存在すると考え方を否定する重要な出来事だったのです。
つまり、重力には大きい小さいがありますから、場所によって、現象が異なってくるということなのです。つまり、時間の進みが違うということです。物理空間(重力)と心理空間(感覚)の違いがありますが、客観的な絶対的な世界が唯一つ存在すると考え方を否定しているということでは同じ土俵なのです。
空間と時間を別々に扱うのは、素人の観戦者であり、時間と空間を同時に扱うのは、熱気に溢れた高校野球の観戦者であるでしょう。場=空間の考え方にはこの二つがあることを理解しておきましょう。
話はこれで終わるわけではありません。ここからが始まりです。
これまでは、二つの世界、二つの空間についての話でしたが、それは人間の認識の問題であり、世界をどう見るかの違いにすぎません。しかし、どう見ようとも、それは同じ三次元の空間について語っているにすぎません。科学的には、空間が歪んでいるというのは大事件かもしれませんが、人間の世界ではたいした事件ではありません。心理的な状況としては空間が歪んでいるのは当たり前のことだからです。空間が歪んでいると言うから難しいのであって、心が歪んでいるから卑しくなると言ったら分かり易いのではないでしょうか。最も、歪んでいるから卑しくなるのではなく、すべては歪んでいるのですが、その歪み方で、卑しくもなり、美しくもなると言うことでしょう。
さて、話がここから始まると言ったのは、このような空間の他に、もう一つ別の世界=空間があるということを言いたいためです。これまでのシムダンスでは、このことを四次元と言ってきたわけですが、時間と空間を次元と考えて、四次元時空とするのが、アインシュタインの世界なので、それと四次元能の四次元空間とが異なることを明確にする必要があるためです。
四次元時空は、三次元の延長であると言うことです。確かに、空間は歪んでいますが、それも近似的には平らな三次元空間で十分です。その違いは修正すればよいからです。
宇宙衛星と地上では重力の影響を受けて時間の進みが違いますので、修正が必要になってきます。しかし、それは微々たる差異なのです。宇宙衛星がある場所が四次元ではないことは、送られてきた船内の映像を見れば分かるでしょう。
遥かかなたの遠い宇宙ではその差異は天文学的な差となるでしょうが、それでも量的な差異なのであって、大きい小さいと言った差異でしかありません。
空間が歪んでいる例は、この世界を見渡せばいくらでもあるでしょう。家を建てるときに、平地を選んで立てるでしょう。仮に、平らでなくても平らに整地するでしょう。しかし、どんなに整地しても、平らにすることは出来ません。地球は丸のですから、平らにすることは出来ないのです。それでも、近似的には平らであると思っても差し支えないのです。つまり、空間の歪みをもってしては、三次元の領域を超えることはできないのです。
人間の感覚的な現象で、青天の霹靂の事件(現象)に遭遇しても、同じことです。たまに、芸術的な感動を得られたときの表現として、天地が反転する衝動とか、無限の至福を得たなどとかの表現をしますが、それだって、私達が、生きているこの世界の出来事です。人によって、多少の差異がありますが、だからといって、三次元と四次元の差異ほどに心理的な空間に差異があるわけではありません。臨死体験をしたからと言って四次元に行って来たとは言えないということです。野球の例で示したように、空間の歪みによって三振した時は、誤魔化せる範囲なのです。
心理的な空間=抽象的な世界と宇宙衛星や家を建てる物理的な空間=世界、素人観戦者の世界と選手の世界の例を挙げて、時空の違いを説明しました。
空間の歪みがあるというだけで、また、それを時間と結びつけたからと言って、四次元時空が四次元空間であるというわけではありません。四次元時空は、三次元時空と時間を別々にしていた考え方を、三次元空間と時間を同時に考えるというように修正したに過ぎないのです。
四次元空間という場合の空間には、三次元の空間とは別の、もう一つの別の次元を持ってこなければならなないのです。二つの容器でなければならないのです。
これまで述べてきた二つの世界(主観と客観、物質と精神)が、その二つ容器ではありません。これまで述べてきた二つの世界は共に三次元空間での出来事であり、三次元空間では、すべての現象が、陰陽、正負、主体と客体など二つに分かれて生起するのです。
では、何故、もう一つの容器を用意しなければならないのでしょうか。それは三次元現象の背景には、三次元ではない根源の世界があるからです。既に、次元誕生のテーマで、三次元はゼロ次元から生成されたと説明してきました。
この問題を繰り返すと、四次元能をはじめからおさらいすることになるので、省きますが、今は、プラトン的な考え方であるとしておきます。
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2010年04月04日 19時42分27秒
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空間は歪んでいる
空間は歪んでいる
<時空との共振>
私達は無意識にこの世界を二つの世界に分けて考えていると言いました。それを主観的、客観的世界と呼んだり、芸術的態度、古典科学的態度と呼んだりしました。
この態度や世界は、三次元空間上に実体として実在するものを、どのように見るかという見方の問題であり、実体が客観的に実在するとする見方を古典科学的物質世界(唯物)、実体を実在させる心の作用があるという見方を主観的精神世界(唯心)といっても良いでしょう。
古典科学的といったのは最近の先端の科学(量子力学)では、見るものと見られるものを切り離して論じられなくなっているからです。いずれにしても、このような世界は、三次元世界(空間)の見解の相違であって、真の世界=四次元を見ていないのです。
先端の物理(相対性理論)では、空間に時間を加えた次元を四次元と言っているのですが、この考え方は、まだ、物質的な容器というイメージから抜け出ていないのです。つまり、三次元空間を延長的している考え方なのです。
現象を探求するに際して、空間と時間を別々に扱う態度から時間と空間を分離せず時空として対処するという態度に変えるというのは、呉越同舟と同じくらいの大事件だったことでしょう。現象というのは、空間の中にある物体=実体が時間と共に移動ないし、変化することを意味しています。そのような空間では、時間は別に扱われています。私達の常識もそれに近いものです。「経済成長率3%」などと表現しますが、成長はまさに時間軸に沿って変化するのです。つまり、市場という空間があり、経済取引される物質的な量が時間軸に沿って表現されるのです。新幹線が走るような場合も同じです。これをグラフで表せば、縦軸が取引量や距離で、横軸が時間となるでしょう。ここではグラフそのものを空間と看做しています。
ところが、物理の先端で空間が歪んでいるとアインシュタインは言い出したものですから、とんでもないことになったわけです。今で言うトンデモ科学のレッテルを貼られたことでしょう。
空間が歪むということをどうイメージすれば分かり易いでしょうか。トランポリンで飛び跳ねている体操を想像してください。トランポリンが場であり、空間です。それは飛び跳ねる重さで歪んでいます。ただし、トランポリンの場は観戦者からは見えないとします。観戦している者は、選手だけが見えているのです。
選手は様々な姿勢をとって、体制が崩れても、うまく対応しています。「うまく」というのは上手く、巧くという意味ですが、そこに空間の歪みを体勢で調整している何らかの仕組みがることを示唆しています。つまり、場から受ける力が変化するので、ある時は、落下するタイミングを少し遅らせたり、早めたりして、調整しているわけです。それが姿勢の調整という形で観戦者には見えるということです。
このような例は日常的にはいくらでもあることです。スポーツが一番分かる易いでしょう。柔道なら受身を取る時、野球ならスライデング、サッカーなら、シュートするときなど、すべてが姿勢の調整によって空間の歪みを調整しているのです。スポーツでは空間=場の歪みが見えないので、トランポリンを例にして示したわけです。
トランポリンを例に出したのは、空間=場に対する常識的に思っている平らでテーブルのようなもの、容器のようなものというイメージを捨てなければならないことを言いたいからです。
それが分かればトランポリンのことは忘れてよいでしょう。スポーツの場では、空間が歪んでいることを気づかされる場面、つまり、それが露出するときがあります。それを示して見ましょう。
野球場(グラウンド)は、見た目では平らな空間=平面です。ドームに囲まれているのですから球状=球場であっても事情は同じです。その空間が実は歪んでいるのです。
では、その場面を実況中継して見ましょう。2ストライクとバッターは追い込まれました。ピッチャーはここでチャンジェアップを投げました。バッターは空振り三振です。バッターはタイミングが合わず、体勢を乱して、もんどりうって倒れてしまいました。
この瞬間はピッチャーからすると「してやったり」の場面なのですが、バッターからすると悔しくて仕方がありません。でも、その姿を見ている観戦者には、とても可笑しいものに映るのでしょう。この場面に、空間の歪みがどうして露出していると言えるのでしょうか。
場には、様々な力が働いているということです。物理的なグラウンドという平らな空間だけが場ではないのです。心理的な空間の場なのです。熱気や期待、駆け引き、作戦などの圧力、速球とチェンジアップとの緩急の差異が空間を構成しているのです。バッターボックスは見えないトランポリンなのです。
それが、バッターが空振りした姿を見ることによって、「そうだったのか」と気づかされるのです。それが空間の歪みの露出なのです。
場を物理的な空間としか見ないバッターはマシーンであり、とても良いバッターとは言えないのです。プロ野球でさえデータ中心と言われるようになったのは最近のことであり、そのように考えるのは、つまり、野球は腕力が強い者が勝つなどという単純な物理的な力と力の鬩ぎ合いではなく、心理的な力も加えた様々な力がせめぎ合う場と考えているからです。当然そのような場は平坦ではなく歪んでいるでしょう。
場を物理的な空間としか見ないような見方には、心理的な力=差異を無視した見方であって、地球を平らとする見方と同じなのです。近似的にはそれでも良いのですが、必ず、どこかで三振したバッターのように、その考え方が間違っていることが露出するのです。
バッターが空振り三振すると空間の歪みが露出して「笑い」が起きるのですが、その笑いの本質とは何でしょうか。それが時間なのです。それをもっと詳しく説明して見ましょう。
心理的な空間を場といい、熱気や期待、駆け引き、作戦などの圧力、速球とチェンジアップとの緩急の差異が空間を構成していると言いましたが、最終的には、緩急の差異に集約されるでしょう。緩急の差異が空間の歪みなのです。
バッターは速球が来ると、その速度が残像として残ります。次にチェンジアップが来ても、身体は速球の速度に反応してしまい、バットが出てしまいます。しかし、ボールはまだきません。それでタイミングが外れるのです。バッティングはタイミングがすべてですから、タイミングが外されるとどうにも始末が悪いのです。脳は騙されるのです。このことから、世界は解釈であり、実在は錯覚であるという話にに繋がっていくのですが、もう少し後の話になります。
緩急の差異によって、空間の歪んでいることになったのですが、具体的に言えば、どういうことでしょうか。通常、つまり、平坦な空間を場とするならば、ボールはある速度で投げられたならば、ベース上のある時間にある位置にあるでしょう。それをバッターは頼りにするのです。ですから、そこに来ると思ってバットを振るのです。しかし、現実にはボールがそこにこないのです。ボールの速度が思ったより遅いので、そこに「ない」のです。「そこ」とは、打つポイントであり、三次元空間の一点です。
ボールが来るのが遅いと言いましたが、バッターからすると時間が遅れているということです。この結果として、空振りして笑いを誘うのです。
笑いを誘う差異があるとは、後から言えるのでであって、現在進行形にあるバッターにとって、その場の歪みは見えていないのです。それでも、巧いバッターになると、自分でタイミング調整するのです。つまり、遅いボールが来るかもしれないという「読み」をするのです。事前にそのような読みをするとうことは、その場を歪んだ空間であると想定していることになります。これによって、ボールの来るポイントを遅らせて、つまり、バットを振る時間を遅らせて調整するのです。勿論このようにすると、早いボールが来たときには振り遅れる可能性があります。リスクがあるわけですから、そこに難しさ、面白さがあるのです。
これで、場は空間であり、場には差異があり、差異とは力であり、空間とは力のせめぎ合う場であり、差異が空間を歪めるのです。その空間の差異が時間の差異となって、場を作っているのですが、それは普段は隠れているので、見えないのです。それが、時に露出するのです。そしてそれを見たものが笑うのです。ですから、笑いとは差異の発見であり、場の発見であり、時間の発見であり、空間の歪みの発見の証拠なのです。
このように、バッターにとって時間が遅れたり進んだりするというような事態は、現実に起きることであり、当たり前のことなのですが、素人の観戦者にとっては、そのような空間であると知りませんから、難しさ、面白さも感じられないのですが、そういうことが分かってくると、野球の醍醐味を味わえるということになるのです。
素人の観戦者にとっての空間=ベース上の空間=場とは、所謂、無味乾燥な、機械的な平らな空間であるにすぎません。ですから、空間とは絶対であり、どこでも一様であり、普遍であるというように短絡してしまうのです。しかし、バッターにとっての空間とは、その場限りの空間であって、自分にとっての固有の場です。ですから、他の球場の場と同じであるとは言えないのであり、まして他人とも同じ場とも言えないし、自分自身であっても、たとえ、同じ場=試合であっても、次の場面=打席では違う場になってしまうのです。場とは固有なのです。ここから、時間の進みも固有であると言えるのです。
このような空間=場という考え方は、スポーツに限らず、私達にとっては常識でしょう。素人でも、その対象に真剣に向き合えば、自然に受け入れるものです。ところが、それが逆転している世界が古典科学の世界なのです。古典科学の代表であるニュートン力学では、野球の素人の感覚が真実とされているのです。そこでは、空間は絶対であり、どこでも一様であり普遍なのです。
従って、アインシュタインが発表した当時は、ニュートンのいう絶対空間が唯一つの真理でしたから、空間と時間は共にあり、空間は歪んでいるなどという考え方は、そう簡単に受け入れられるものではなかったと容易に想像できるでしょう。でも、いったん、学問から離れた学者でも、歪んだ生活空間の中で、生きているのですが、それをアインシュタインが指摘したのですから皮肉としか言いようがありません。
スポーツに限らず、生きるものにとって、時間と空間はいつも共にあり、その場限りの関係であるというのは当たり前のことなのです。世界のすべてがどこでも同じように分刻みで動いているなどというのは、時計が発明されてからのことであり、それがいつの間にか、主流になってしまったのですが、そのことについては、ニュートン以前のことであり、「光の陰謀」で述べましたので省略します。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100077569992
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from: 生成門さん
2010年04月03日 12時25分21秒
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二つの世界
二つの世界
<存在との共振>
私達が見る「もの」を存在する「もの」として認識するのは、それが「もの」即ち、物・者であるからです。その「もの」は、名付けられた「物」であり「者」です。しかも、その「もの」は、高さと深さと幅で決められる容器の中に「ある」でしょう。それをコンピュータ内に実現するときは実体、哲学的に表現するときには実存とか、世界内存在と言うでしょう。
実体にせよ実存にせよ、それらは暗黙裡に物理的な容器の中にあることを前提にしており、その容器を空間と看做しているので、すべての実体は空間の中に「ある」ということになります。時には社会と呼んだり世界と称したりもします。
さて、実体とは花とか犬や石のように実際に存在するものです。当然、それらの実体は時間と共に変化するので、存在を現象という場合もあるでしょう。すべての森羅万象は空間の中に、時間と共に「ある」というような言い方も出来るわけです。実存は人間に対してのみ使われるようです。
ところがこのような実体・実存は「錯覚である」というのが、この四次元能の主張です。錯覚であろうがなかろうが、現実にこの私は、この地球の、この地域の、この家の中で、日々を生きているのですから、何も問題はないではないかということを言われそうですが、ところがそうではないということを、再三、繰り返して述べてきました。
私というのは存在しないのです。存在していると思い込んでいるのであり、それは実は錯覚なのです。このことを手っ取り早く理解するためには、仏教や存在の科学を学ぶ方が早いかもしれません。実存の裏には本質があるとするプラトンのイデア的な考え方を学ぶのもいいかもしれません。
もし、それらを学んでも、存在しないものがどうして存在しているのかという疑問が残っているようでしたら、そして、日常世界のおいての実践的な方法や悩みが解決できないようでしたら、まだ、探求の終着駅にはついていない四次元能に戻ってきてください。幕はいつでも開いているでしょうから、ご安心ください。
日本では多くの経営者や指導者が経営の神様と言われるピーター・ドラッガーをお好きのようですが、もし、彼に物足りなくなってきたら、再び、この四次元能に惑ってきてください。ここにはピーター・ドラッガーが無視してきた環境問題に取り組む世界、本質を探究する道があります。気候変動の難問は、四次元脳を持って対峙しなければ解決できない問題なのです。
容器は空間であり、世界であり、社会であると言ったのですが、その口が渇かぬ前に、環境問題に取り組む世界、本質を探究する道が必要だと言いました。こうした言い方に違和感を覚えませんか。物理的な空間(世界)と抽象的で概念的な空間(世界)が混同しているように思いませんか。また、現象と本質、存在と本質といった難しい用語で戸惑っていると思いませんか。これらを少し整理しておきたいと思います。
先ず、世界という言葉の使い方です。環境問題に取り組む世界という場合、その世界は物理的な容器のイメージなのでしょうか。それとも概念的な空間なのでしょうか。気候変動が起こる場所は地球であり、物理的な現象ですから、容器としての空間を意味していることは、抵抗なく受け入れられるでしょう。
一方、環境問題に取り組む姿勢とか、議論、理論という世界があります。それらは抽象的な空間ですが、表現としては、物理的な容器としての空間と同列に扱っています。人間が見る対象自体としての世界とそれを対象として研究したり、何かを言うときの世界があります。例えば、会社の同僚のAさんは、それ自体物理的な存在であり、Aさんは会社に属しています。また、Aさんについて何かを語るときはその存在についての抽象的な存在であり、抽象的な会社に属しています。解釈し認識するという前提には、必ず主観的な空間と客観的な空間の二つが同時に存在しているということです。
夕日を見て感動するあなたは、そこの場所に立ち風景を見ています。それは紛れもなく、物理的な空間の中にいます。一方、夕日を見て感動する自分を見ている自分がいます。そのときのあなたは、その場にいるわけではなく、別の場所で、物思いに耽っているときです。それは頭の中の想像的な出来事であり、抽象的な主観的で、概念的な空間の夕日です。
このように客観と主観に二分される世界に生きているのが人間なのです。科学は徹底した客観的な姿勢で物事を追求しようとします。すべての実体は物理的に存在するのです。しかし、科学がどんなに、物質を優先しても、その理論や主張は、精神という作用の結果なのです。つまり、すべては、精神作用であり、それは思考空間の中の出来事だと言えるのです。四次元能は、脳の中の能であると言ってきましたが、精神的な世界が物理的な世界に優先して存在していることを強調するための表現であると思ってください。もっと、言えば、物理的な世界は実は「錯覚である」であると思ってください。
卑近な例を示しましょう。最近、3Dテレビが開発されまもなく市場に投入されるようですが、この仕組みは存在が錯覚であるということを実に良くあらわしています。というのは、断片の映像を、メガネを通して右目と左目に別々に脳に送り、脳の中で編集させるというもので、編集された映像は3Dになるという仕組みなのです。編集とは解釈ですから、「世界は解釈である」という四次元能の主張を証明している製品であると言えるでしょう。3D製品を使わなくても、同じことは言えるでしょう。私達は裸眼で見た世界を、つまり、目を通して編集され生成された世界を実在と思っているのですから「実在とは生成されたもの=錯覚である」と言えるでしょう。
極論すれば、この宇宙の存在、森羅万象は、すべては解釈、編集、認識するから存在するのであって、認識の外に存在はしないということです。実際、人間が死んでしまったら意識がなくなってしまうのですから、死んだ人間にとって世界はなくなってしまうのですから、客観的な世界はないということになります。しかし、そう言っても、人間がこの地球に現れたのは高々45億年程度です。それに対して、私たちの宇宙は、今から100億年ほど前に、ビッグバンとよばれる高温、高密度の火の玉状態で誕生したと言われます。人間の意識があろうがなかろうが、宇宙は存在したのですから、やはり、物理的な空間は実在するということになります。しかし、ビッグバンは説であり、人間の思考です。ですから、精神がなければ宇宙という実在は存在しないのです。
この論理をいくら展開しても、結論が出そうにもないので、永井俊哉氏の「認識するとはどういうことか」に任せることにします。この論は、広松 渉氏の世界の共同主観的存在構造」について語ったものです。こちらを参照してください。http://www.nagaitosiya.com/a/epistemology.html
以下、編集して引用しました。
認識とは、対象を受みで模写するだけのことでしょうか。それとも対象を積極的に構成することでしょうか。模写説か構成説か、実在論か観念論か、唯物論か唯心論かということです。哲学史上の論争をジェンダー論の観点から振り返り、システム論的な止揚を試みてみましょう。
1. 認識論の根本問題
哲学者たちは、長い間、唯物論と唯心論、実在論と観念論のどちらが正しいかをめぐって論争してきました。一方で科学主義を標榜する唯物論者たちは、「真に実在するのは、物質とエネルギーだけであり、意識とか観念といった幽霊は、実在の世界から退治しなければならない」と主張し、他方で、極端な観念論者たちは、物の実在を否定し、すべては意識が主観的に作り上げた観念にすぎないと主張しました。
中略します。
近代以前の認識論では、母権社会であれ、父権社会であれ、人間は、世界の意味を与えられ、受動的にそれを体験しました。近代になって、人間は、自ら神となって世界の意味を能動的に創ろうとしました。世界を意のままに支配する野望が幻想と化したポスト近代においては、人間は、認識対象と対等の立場で対話することを余儀なくされています。男と女の関係についても、同じことが当てはまります
―――
この重要なことは「認識の対象と対等の立場で対話する」というくだりです。四次元能はまさにシムダンスという方法によって、その対話を実践しているところです。
「実在は錯覚である」ということを示すシムダンス=対話を続けましょう。
世界には物理的な空間と精神的な空間があると言いましたが、別の観点から検証しておきましょう。それは次元という表現です。私たちが次元という場合、それは空間とは違うのでしょうか。認識した世界を次元と呼ぶことがあります。この場合の次元とは、3D映像でも確認したように三次元空間を暗黙に指しています。
ところで、議論しているときに、相手と違った論理であることを主張するために、それは次元が違うという言い方をします。例えば、環境問題に取り組む次元が違うといった言い方です。この場合の次元は視点といっても良いでしょう。三次元空間とは異なる抽象的な空間を次元ということもあるわけです。
物が入っている容器は三次元空間ですが、環境問題に取り組む次元という表現からは容器=空間のイメージは湧いてこないでしょう。視点=次元=世界ですから、見る角度によって対象が異なるのは当然です。このような見方をすることで、ある重要なことを示唆していることに気が付かなければならないのです。
見る角度によっては対象物が違って見えるというのは当たり前のことですが、すべて網羅して全体像を掴むことは出来ないので、視点を固定して見ているのです。そして、その視点で見たものを私達は客観的に実在すると言っているのです。
しかし、本当に実在するのでしょうか。私達は「人を見る目がある」などという言い方をしますが、見る人によって対象が異なることを認めているのでから、本当の対象は存在しないのではないでしょうか。対象の真の人間像に迫るには対話(探求)をし続けるしかないわけです。しかし、それは、又、対象物=人が客観的に存在しないことを意味しているということです。
三次元という客観的な物理空間とは違う異質な精神的な次元=空間=視点=世界があり、私達はそれを暗黙にしかも何の抵抗もなく無意識に使っているのです。このような抽象的な空間を精神の世界として、私達は受け入れているのです。ところが、科学はこの当たり前のことを、逆にと言いますか、科学によって構築された世界のみが、正しい唯一つの真の世界であるかのように、私達に押し付けているのです。
科学の作る物理的な世界と科学と言う精神作用の抽象的な世界、この二つの世界は別れ別れになっています。この三次元の世界ともう一つの世界をどうブリッジするか、どうシムダンスするのかが、四次元能の大きなテーマなのです。
見る対象(物)に対する二つの見解
見るものによって異なる=主観的に認識した実在・実体・現象は存在しない=錯覚(解釈に過ぎない)=芸術的態度
⇔
見るものに依存しない=客観的に認識した実在・実体・現象が存在する=科学的態度
見る者が存在する二つの世界(空間)の見解
見るものもその世界に含まれる=主観的に認識した世界だから客観的には存在しない=錯覚(解釈に過ぎない)=芸術的態度
⇔
見るものに関係なく存在する=客観的に認識した実在・実体・現象が存在する=古典科学的態度
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