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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2010年06月30日 21時37分26秒

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    Re:人間認識概念図2(続き)

    海舌さん

    続きです。

    次は、自己の客観化です。

    第12の原理:すべての人間は自己の位置を確定することができる。

    確定とは、自己を客観的に観察された事態です。以下、第8の原理:確定後は、実軸に配置するに従います。

    「私は今死につつある」「私は死にそうだ」という表現は、ing状態ではありません。表現したのですから自己を観察できている状態であり、従って、自らを客観視しているわけです。つまり自らが自らを確定したのです。

    >  ポイントは、第4象限を、肯定的に観るか、否定的に考えるか、ですね。

    第13の原理:すべての現象を肯定的・否定的に解釈することができる。

    第14の原理:第1象限とは凸と+1の見えない領域である。
    第15の原理:第2象限とは凸と-1の見えない領域である。
    第16の原理:第3象限とは凹と-1の見えない領域である。
    第17の原理:第4象限とは凹と+1の見えない領域である。

    第18の原理:第1象限の作用とは凸凹の共振である。
    第19の原理:第2象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第20の原理:第3象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第21の原理:第4象限の作用とは凸凹の共振である。

    第22の原理:第1象限の凸優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凸)と表記する。
    第23の原理:第2象限の凸優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凸)と表記する。
    第24の原理:第3象限の凹優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凹)と表記する。
    第25の原理:第4象限の凹優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凹)と表記する。

    第13の原理のすべての現象を肯定的・否定的に解釈することができる例を示します。

    恋愛中の場合:凸凹⇒ですから凸凹とも肯定的でしょう。

    普通の裁判中の場合:凸凹とも肯定的でしょう。

    自他共振ですから、肯定的な状態となるのは当たり前です。普通の裁判の場合、相手を裁くので、相手を否定すると解釈することもできますが、凸(裁判官)、凹(被告)としましたので、法律を守るという観点から、被告は認められたと考えれば、肯定なのです。検事と被告という構図では、また違った解釈ができるかもしれません。

    さて、凸凹⇒から、切り離された+1はどうなるでしょうか。

    第1象限の作用の結果、恋愛の場合:(男=凸・女=凹とします)では、互いを観察することになるでしょう。

    凸優位の+1(凸)では、自己の内部では凸(自我)>凹(無我)、二人の間では凸(男)>凹(女)の関係になり形式的、打算的となるでしょう。

    ときに凸凹⇒に復帰し、結婚にゴールすることもあるでしょうが、多くは破局、つまり、-1へ反転するでしょう。

    男と女の関係ではどちらを凸としてよいでしょう。

    自我(凸)・・・無我(凹)
    男(凸)・・・女(凹)

    自我(凸)・・・無我(凹)
    女(凸)・・・男(凹)


    第4象限の作用の結果、つまり、凹が優位の+1の恋愛の場合も、互いを観察するでしょう。

    +1(凹)では、自己の内部では、凸(自我)<凹(無我)、二人の間では、凸(男)<凹(女)の関係になり、深層的、疑心暗鬼となるでしょう。ときに凸凹⇒に復帰し、結婚にゴールするときもありまますが、多くは破局、背信、つまり、凸-凹⇒-1へ反転するでしょう。

    第2象限では、凸と-1(凸と凹の反共振)ですから、相思相愛の恋愛は成立しないでしょう。

    第1象限、第4象限からシフトしてきた凸-凹⇒-1は、他がないing状態ですから失恋中です。

    その他に観察されていない盲目的恋愛、つまり、片思いなどの例があるでしょう。

    第2象限の結果、第1象限、第2象限からシフトしてきた恋愛の場合、破局、背信、つまり、凸-凹⇒-1から、-1となって、「別れ」として観測されるでしょう。

    凸優位の政略結婚の場合を考えてみましょう。

    第1象限、第2象限からシフトしてきた恋愛と違って、初めから凸-凹⇒-1ですから、相手を否定した形式的結婚です。

    互いを観察するでしょうから、-1(凸)では、自己の内部では凸(自我)が主張し、凹(無我)を無視するでしょう。

    二人の間では凸(男)が優位、凹(女)は劣位の関係になり、形式的、打算的となるでしょう。稀に凸凹⇒に復帰し、幸せになるときもあるでしょうが、多くは、凸(自我)が凹(無我)を否定し、凸(男)が凹(女)を否定するので、同居離婚、仮面夫婦となるでしょう。

    第3象限の結果として凹優位の-1になるときの例は凹優位の政略結婚の場でしょう。

    凹優位の政略結婚とは、観察できない凸-凹⇒-1から観察できる-1移行しただけなので、相手を否定していることには違いがありません。愛のない結婚などと噂をされ、凸優位の-1と見分けが付かないでしょう。

    凸-凹とは、i*-(-i)=i*iですから、凸凸=凸ですから互いを観察しないのです。凸がすべてなのに凹優位の-1というのは変な解釈ですが、それが、何故、-1(凹)かといいますと、否定隠蔽された-凹がマグマとなり、事態をひっくり返すからです。

    自己の内部では凸(自我)が主張を強め、凹(無我)は否定されるでしょう。二人の間では凸(男)が絶対優位、凹(女)は絶対服従の関係になり、深層的、猜疑的となるでしょう。

    凸(自我)が凹(無我)を否定し、凸(男)が凹(女)を否定するので、同居離婚、仮面夫婦となるでしょう。

    しかし、否定隠蔽された-凹が、マグマとなっていつ噴火するかもしれないのです。それが第3象限の結果、凹優位の-1の事態なのです。

    これは、第3象限の否定的な例ですが、肯定的に位置付ける例を示します。

    裁判は、第1象限の自他共振の例として取り上げました。自(裁判官)と他=被告(容疑者)は、自他共振、つまり、自肯定・他肯定の関係です。

    これが普通の裁判なのです。自他共振が普通の裁判になるとは、一般的な感覚からするとおかしいかもしれませんが、裁判官は被告を容疑者として認めたのですから、裁判が成立したのです。

    これが第3象限になるときは、自他反共振であり、裁判官が被告を容疑者として認めないのです。ですから、裁判が成立しないのです。

    実際に、そのような裁判はいくらでもあります。検事側の控訴が棄却される場合がそれです。

    第3象限の結果、凹優位の-1の実軸には、裁判官しかいないのです。被告は存在しないのです。この場合、否定された被告凹は、否定されたことを感動しているのです。

    第26の原理:すべての解釈には解釈する人がいる。

    肯定的・・・海舌氏(ホン・ギルドの影響)、生成門、ニーチェ、空海、親鸞
    否定的・・・海舌氏、カント、最澄

    >  この図の場合は、単純、紋切り型に、近代的合理性を持たずに、直観的、体感的な判断で、世俗的、物質的欲望を目指す人間像を「悪」としてみました。

    第27の原理:すべての解釈の解釈は解釈である。

    第28の原理:すべての解釈の原点は、自他の共振関係、反共振から始めるべきである。

    第29の原理:自他の自と解釈する自分を混同してはならない。

    第30の原理: 解釈者はガウス平面の外にいる。

    第31の原理:自他の設定は任意である。

    第32の原理:自他の自を自分に設定することは自己の観察である。

    第33の原理:二つのガウス平面を同時に設置して解釈することができる。
    第34の原理:一つは凸=自=自我、凹=他=無我として、もう一つは、自=自分、他=他者などである。

    第36の原理:自我を肯定し、無我を肯定する中庸状態は、第1、2象限の作用の結果として+1に配置する。
    第37の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ自我優位の偏向状態は、第1象限の作用の結果として+1(凸)に配置する。

    第38の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ、無我優位の偏向状態は、第4象限の作用の結果として+1(凹)に配置する。

    第39の原理:自我を肯定し、無我を否定、ないし、自我を否定し、無我を肯定する中庸状態は、第3象限の作用の結果としての-1に配置する。

    i*-(-i)⇒-1と-i*-i⇒-1

    第40の原理:自我を肯定し、無我を否定する自我優位の偏向状態は、第3象限の作用の結果としての-1(凸)に配置する。

    i*-(-i)⇒-1
    例:西洋の芸術、宗教

    第41の原理:自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態は、第3象限の作用の結果として-1(凹)に配置する。

    -i*-i⇒-1

    例:東洋の芸術や宗教

    自他反共振で凹優位が、何故、東洋の芸術・東洋の宗教かといいますと自=自我、他を無我・無意識と設定するからです。

    西洋の自他の反共振では、他を否定するのですから、無我・無意識が否定されます。当然、無我・無意識の作用である東洋の芸術・東洋の宗教は否定されます。

    否定隠蔽されたからと言って、見えなくなっているのではありません。
    。ちゃんと表に出て観察されているのです。西洋から見ると隠れているだけなのです。ですから、第3象限ではなく実軸-1(凹)に配置するのです。

    しかし、自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態-i*-i⇒-1でみると、自我が否定されるのですから、無我・無意識が肯定されます。当然、自我・意識の作用である西洋の芸術・宗教は否定されます。

    否定隠蔽されたからと言って、見えなくなっているのではありません。ちゃんと表に出て観察されているのです。東洋から見ると隠れているだけなのです。ですから、第2象限ではなく実軸-1(凸)に配置するのです。

    これを纏めますと、

    第2象限:i*-(-i)⇒-1反共振の作用(見えていない)
    実軸-1(凸)科学や一神教
    実軸-1・・・・・・
    実軸-1(凹)芸術・東洋の宗教
    第3象限:-i*-i⇒-1反共振の作用(見えていない)

    となります。

    >  第二象限の芸術、宗教は、西欧のものです。
    >  東洋の芸術、宗教は第三象限です。
    >
    >  さらに、哲学でも、第三象限は、トランス・モダン哲学と書きたいところです。

    トランス・モダン哲学は第4ではないでしょうか。

    第42の原理:自我を肯定し、他を肯定するもの、又は、自我を否定し、他を否定するものは、第1と4象限の作用の結果として+1(凸) 、+1、+1(凹)に配置する。

    i*-i,-i*-(-i)⇒+1

    例:トランス・モダン哲学

    第1象限:i*(-i)⇒-1共振の作用(見えていない)
    実軸+1(凸) トランス・モダン哲学
    実軸+1・・・・・・
    実軸+1(凹) トランス・モダン哲学
    第4象限:-i*-i⇒-1共振の作用(見えていない)

    > >>科学の検証主義

    >  第二、第三、特に、第三象限に、解決の望みがあると思っています。

    私の解釈では、科学は自我肯定、無我否定なので、第2、3象限になるのですが、トランス・モダン哲学は、第1、4象限
    ですから大きな違いですね。


    海舌氏の解釈          
    第1象限 日常生活                    
    第2象限 科学・西洋
    第3象限 東洋芸術、東洋宗教       
    トランス・モダン哲学

    生成門の解釈
    第1象限 裁判の例・・・普通の裁判
         日常生活(常識に従うもの)
         恋愛
    トランス・モダン哲学              
    第2象限 裁判の例・・・冤罪の裁判
         科学・西洋芸術・西洋宗教
         非日常生活(革新)
         政略結婚・離婚 
    第3象限 裁判の例・・・控訴棄却
         東洋芸術、東洋宗教
    第4象限 裁判の例・・・同情的な裁判 
    トランス・モダン哲学

    >  最後に、私が立っている位置です。最近まで、「+1」だと考えてきました。今も、「+1」だと考えていますが、「+1」に居て、どうして、ダークマターの「-1」を想定できるのか、答えが出ません。

    私、生成門が立っている位置は、相手によって変わります。PS理論に対しては、共感しているので+1です。ですが、現在の日常的な文明に対しては、環境問題を考えても反対ですから-1です。

    ダークマターと私の関係は設定できませんので、私も答えがありません。

    >  今回は、海舌が書きたいことだけ、書きました。質問を待って、さらに、相互理解を深めたいと思います。

    お蔭様で、私の方はだいぶ整理できましたが、これでよいのかという悩みがあります。

    又、日常生活を+1としたのは、現状に満足している人は、自他共振しているので、それで良いと思っているからです。

    自=自分、他=生活であるわけですが、

    現状に満足していない人は、当然、生活を否定するのですから、自他反共振となるわけですから、-1になるわけです。

    つまり、日常生活=+1は、正確に言えば、日常生活を肯定する解釈位置です。日常生活自体が絶対的位置を占めることはないのです。解釈者の立場で決まることなのです。

    従って、日常生活=ー1もありうるわけです。家出人やホールレスにとって、日常はつらいものです。ですから、日常生活を否定する解釈位置です。

    スローライフ者やエコロジストは-1でしょう。

    この論理は政治の体制、企業の経営などにも当てはまると思います。

    体制の中心にいる党は権力を握っていて現状を肯定しているので+1、その党が野党になれば-1です。

    起業家は既成の価値を否定して起業したのですから、現状を否定してあり、-1、それが成功して成金亡者になれば+1です。

    偽装献金者は検察の追及を恐れており、検察を否定しているので-1、それが時効になって逃れば+1です。

    検察から見れば、証拠があり、犯罪行為として有罪を肯定していますから+1、証拠不十分で逮捕を断念すれば-1となるでしょう。

    要するに、どちらの立場で、この認識の図に反映するかで、同じ対象を扱っても違った位置に配置されるのではないでしょうか。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月30日 21時33分20秒

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    「Re:Re:Re:人間認識概念図1」
    海舌さんへ

    丁寧なコメントありがとうございます。

    図式化こそが理解の要だと思います。
    図式化がなければ、これほど要領よく質問もできていないと思います。

    >  この点です、ね。図示化するのは、概念を明示するために行うので、思っていることの内、捨てる部分が多いと、いつも感じています。「生け花」のように、ドンドン、切っていって、チョット、残す。日本料理みたいに、贅沢に、魚の身を、ドンドン、捨てていって、ほんの一部の一番、美味しいとこのみ、客に出す。

    認識の図はそれを示してくれたと思うのです。それだけに、又、新たな疑問(注文)も出てくるわけですが、問題は、この料理や生け花それ自体の出来栄えやその流儀が良いとか悪いとかの次元ではなく、一体それがどんな料理や生け花なのかということです。

    つまり、食する方や鑑賞する方のレベルの問題だと言うことです。こちらサイドが、その程度ならプロの技を見ても、ただ感心して終わりにするか、全く、その意味が分からないで、鵜呑みにするかしかないわけです。

    それでは余りにも情けないし、応用問題が解けません。やはり、PS理論の普及ということを考えると、応用問題が解けなければなければならないと思うのです。プラトンは理解できても、八百屋さんの問題が解けなくては何もならないわけです。

    私は、そういう立場ですので、よろしくお願いいたします。

    従って、何故、海舌さんはそう考えてこの図を描いたのかということが関心の的になると思います。

    出された料理を見て真似して作って見ればガンモドキということにならないようにするには、その調理人が何を思い、内を切り捨てたのか、何を重要視したのか、その背景を知ることが、応用力を高めるのではないでしょうか。

    >  人間認識図の目的は、実軸の+方向を日常世界、世俗世界に取り、-方向を、超越性、非日常性、仙人のような世界というイメージを表したい、モチーフです。

    ここからその視点で質問して見たいと思うのです。なぜ、最初から実軸をこのように割り当ててしまうのでしょうか。

    それは、海舌さんの好みなのでしょうか。それとも何か必然性があるのでしょうか。私は必然性があるだろうと考えてしまいます。というのは、もし、好みなら、どういう配置でも良くなり、人によって変わっても良いということになるからです。

    もともとガウス平面は、実軸と虚軸を交差させた複素平面ですから、それをどのように解釈しても良いはずなのですが、森羅万象に適用しようとしているわけですから、その原理がなければならないと思うのです。

    海舌さんが暗黙かどうかは分かりませんが、考えたその原理を、私が想像して見ると、次のようなものになります。このようなこと良いのでしょうか。

    第1の原理:実軸は±に分極化する。

    これを人間世界に応用するなら、例えば、日常性(+)と非日常性(-)とすることになるのでしょうか。

    第2の原理:分極化への配置は、i*-i,i*-(i)の関係による。
    i*-iは、+1とし、i*-(-i)は-1とする。

    第3の原理:分極化の配置の根拠は虚軸にある。

    つまり、日常性(+)と非日常性(-)とする根拠は虚軸にあるということになるでしょう。

    虚軸とは視点です。実軸は、その精神作用の結果(現象)です。

    日常性と非日常性という性の付く言葉は現象ではないので確定できないものです。確定するには、現象、つまり、量子化、デジタル化、実体化、粒子化しないといけないのではないでしょうか。

    例えば、日常的な生活をしている人=実体化です。人という表現になると、その人とは誰か、その人は、日常的な生活をどう考えているのかということになります。

    そこで、虚軸=解釈者が登場するわけです。

    解釈者が、日常的な生活をしている人そのものだとします。その人は、日常的な生活を肯定している人だとします。その場合は、自我=肯定、日常=肯定という図式になりますから、+1と位置づけできます。

    これに対して、日常的な生活を否定している人の場合は、自我=肯定、日常=否定という図式になりますから、-1と位置づけになります。


    一方、解釈者が、非日常的な生活をしている人だとします。その人は、非日常的な生活を肯定してます。その場合は、自我=肯定、非日常=肯定という図式になりますから、+1と位置づけできます。

    これに対して、非日常的な生活を否定している人の場合は、自我=肯定、非日常=否定という図式になりますから、-1と位置づけになります。


    纏めますと、

    解釈者=日常生活肯定者・・・+1(常識的人間、組織人間など)
    解釈者=日常生活否定者・・・-1(クレイマー、非組織人間など)
    解釈者=非日常生活肯定者・・・+1(スローライフ的人間、ベンチャー人間など)
    解釈者=非日常生活否定者・・・-1(ホームレス人、失業者など)


    >  縦方向の、虚数軸の+は、凸、つまり、日常、電磁波などで観念的に接している部分をイメージしています。問題は、-方向の虚数軸ですが、電磁作用の内でも、或いは、精神作用の内でも、表面に現れない作用が、あるんだろうな、という気持です。理解の仕方でも、「実証的理解」「了解的理解」「直感的理解」のように、異なる次元があるので、+方向が「実証的」「合理的」理解で、-方向は、「直感的」「感覚的」「腹で分かる」みたいなレベルかな、と思っています。

    第4の原理:虚軸は精神作用とする。

    第5の原理:虚軸も分極化する。

    これを人間世界に応用するなら、例えば、
    虚数軸の+(凸):表面に現れる作用「実証的」「合理的」理解
    虚数軸の-(凹):表面に現れない作用
    「直感的」「感覚的」「腹で分かる」理解
    となるでしょう。

    >  別に、一人の人間が、全ての象限を満たすことは、あり得るし、それと、人間認識を区分することは、矛盾しません。

    第6の原理:すべての人間を複素平面上に確率的に、つまり、想像して配置することができる。

    つまり、この人は、このような人間であるとして現れる確率が高いと言うような傾向で表示できるということです。

    人間の性格分析などはすべて、不確定を前提とした確率であるとも言えるでしょう。

    確率でいうことは、見えないことの裏返しであり、想像だということです。

    犯罪で言えば、容疑者の段階です。

    このような表現はすべて天気予報みたいなものです。

    第7の原理:すべての人間の位置を確定することができる。

    つまり、不確定から確定するということは、観察したと言うことであり、特定・断定したということです。

    犯罪で言えば、審判が下った犯人です。
    このような事態は各象限で起きるでしょう。

    第1象限で起きる場合は、日常的な裁判です。

    その理由は、自(裁判官)*他(容疑者)⇒+1(犯人)であり、裁判官は容疑者と認めたのですから自他共振したのです。

    共振とは、普通は良いイメージですが、ここに価値観を入れてはいけないのです。自他共役の成立と捉えた方がよいかも知れません。

    例えば、第2、3象限でも起きる場合もあるのです。

    それは、裁判官が容疑者を犯人と認めなない場合です。

    裁判官は容疑者を認めないのですから自他反共振です。つまり、(裁判官)*-他(容疑者)⇒-1(無罪人)です。従って、容疑者から無罪人となるのですが、このような裁判は非日常的な裁判です。

    ただ、象限というのは正確な表現ではないでしょう。何故なら、それは見えないであり、実軸になったときこそが、見る場所であり、+1(犯罪者)-1(無罪人)となって観察されるのです。

    つまり、⇒犯人は裁判中ないし、終わった瞬間までを言い、判決された瞬間、監獄に収監される事態となって、初めて+1犯罪者となるわけです。ですから、第1象限には存在しないのです。

    更に、犯罪者でもいろいろいるでしょう。
    例えば、同情される犯人です。この場合は、自(裁判官)*他(容疑者)⇒+1(同情される犯人)ですが、裁判官は容疑者を同情される犯人と認めたのですから自他共振したのです。これは心情=無我優位ということなので、第4象限に配置するべきでしょう。

    第8の原理:確定後は実軸に配置する。
    第9の原理:確定後は心的関係で次のように区別する。

    1)+1の場合(自他共振)
    ⇒+1:心的関係が持続している
    ⇒+1(凸):心的関係が持続しているが、自が強い肯定状態(例えば、自によって特定された犯人)
    ⇒+1(凹):心的関係が持続しているが、他が強い肯定状態(例えば、同情された犯人)

    +1:心的関係が切断、自肯定・他肯定の共振状態(例えば、収監された犯罪者)
    +1(凸):心的関係が切断、自己肯定(法律が正しい)が強かった共振状態(例えば、収監された凶悪犯罪者)
    +1(凹):心的関係が切断、他肯定が強かった共振状態(例えば、同情された犯罪者)

    2)-1の場合(自他反共振)

    普通の状況では犯罪者であるが、状況が変われば犯罪者でなくなる場合で、法律は、強く新しい状況を認め自肯定、被告者としての他が否定されるケースです。

    これは第4象限の同情されるケースとは根本的に違います。

    ⇒-1:心的関係が持続している(普通の無罪判決)
    ⇒-1(凸):心的関係が持続しているが、自が強い肯定状態(例えば、戦争責任から解放された政治的な無罪人など)
    ⇒-1(凹):心的関係が持続しているが、他が強い否定状態(例えば、同情された無犯人、限りなく黒に近い無罪人など)

    -1:心的関係が切断した普通の無罪人
    -1(凸):心的関係が切断した無罪人
    -1(凹):心的関係が切断した同情された無罪人、限りなく黒に近い無罪人

    次は見えない場合の主観的な原理です。

    第10の原理:すべての人間は自己の位置を不確定(確率)的にさえ表示することはできない。

    これは内観的、主観的な他人からは見えない事態です。つまり、本人にとっては現在進行形、ing状態、自己を観察できない状態であり、従って、自らを客観視することはできないので、自己の位置を確定的に表示できないのです。

    何かに熱中、ないし、恐怖に慄いているときなどです。

    ing状態とは、自他⇒a<+1であるから無言です。自-他⇒a<-1のing状態です。

    第11の原理:特別な人間、ないし、特別な状態にあるときも、自己の位置を不確定(確率)的にさえ表示することができない。

    予感や不安、期待感がそうです。言葉にはならないが、つぶやくことがあります。夢でもそうです。こうした事態は、時間が未来から来ている右回転の状態です。即ち、凹の力が影響しています。

    特別な人間、ないし、特別な状態とは、右回転の状態の凹の力が強い場合であり、オイラーの式のe^-iθ=cosθ-isinθの働きです。

    自他⇒a<+1を、e^iθ*e^-iθ⇒とおくとe^-iθ強いのです。e^-iθが強いとは、自分の中の他が強いということです。自分の中の他とは無意識・無我です。

    従って、無意識はe^-iθ=右回りで未来から来るのです。

    無我状態で且つing状態の自他⇒a<+1では、凹の力が強いので、未来からのメッセージを受け易いのです。

    ただ、このメッセージを発信してしまうと、唯の予言者となり、観察の対象になりますから、第7、8の原理で処理されることになるでしょう。

    自-他⇒a<-1のing状態もあります。これについては別途とします。

    長くなりましたので分割します。

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  • from: kaisetsuさん

    2010年06月29日 22時31分04秒

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    「Re:Re:人間認識概念図」
    生成門さんへ

     双方の理解が深まる良い機会だと思います。

     さて、内容に移ります。

     まず、図示する理由は、ポイントを明示することだと思います。そのため、極力、紋切り型に、ステレオタイプ型にする方が、却って、良い図示化が得られる、というように、海舌は指導された経験が拭い去れず、かなり、ナタで切ったような図示化をしてしまいます。
     ですから、この点は、海舌の流儀ということです。

     本題に入ります。

     以下、海舌が答えられる点について答えてみます。

     他の点は、海舌にとって、現時点で即断できない項目です。

     
    > 複素平面であるということ自体が見えないのではないのでしょうか。見える場所は+1と-1の地点しかないのではないでしょうか。
    >
    > 人間は見える見えないに関わらず生活しているのですから、複素平面で生活していると思います。
    >
    > ですから、第1象限 生活世界の生活、だけでなく、第2象限の生活、第3象限、第4象限の生活というものがあるのでないかと思うのですが、如何でしょうか。
    >
    > それを、日常生活者と言わないで、宗教家の生活、哲学者の生活と捉えるのでしょうか。
    >
    > もし、そうだとする、人はいろいろな顔を持っていますから、一人に人間は、全複素平面で生活しているということになります。そういう理解でよいのでしょうか。
    >
    > 全複素平面での生活とは、四つの象限をめまぐるしく生きるのが人間であると言うことなのでしょうか。
    >
    > あるときはサラリーマン、あるときは芸術家、あるときは哲学者、あるときはXとして生きていると言うことでしょうか。
    >
    > 卑近な例ですが、ホームレスや自閉的な人は、他人との関わりを捨てていると考えれば、超越的ですので、第4象限に入るのでしょうか。
    >
    > 人間は多重人格者であるとも言いますから、それらはどこに入るのでしょうか。
    >
    > ぶつぶつとつぶやきながら生きている人がいますが、この人は、自分の殻に閉じこもって生きているようですから、他者を否定しているというより、他者が存在していないかのようなので、第2象限でよいのでしょうか。
    >
    > 象限と人間の分類を決めるルールのようなものがあると良いのですが、どうでしょうか。
    >

     この点です、ね。図示化するのは、概念を明示するために行うので、思っていることの内、捨てる部分が多いと、いつも感じています。「生け花」のように、ドンドン、切っていって、チョット、残す。日本料理みたいに、贅沢に、魚の身を、ドンドン、捨てていって、ほんの一部の一番、美味しいとこのみ、客に出す。
     人間認識図の目的は、実軸の+方向を日常世界、世俗世界に取り、-方向を、超越性、非日常性、仙人のような世界というイメージを表したい、モチーフです。
     縦方向の、虚数軸の+は、凸、つまり、日常、電磁波などで観念的に接している部分をイメージしています。問題は、-方向の虚数軸ですが、電磁作用の内でも、或いは、精神作用の内でも、表面に現れない作用が、あるんだろうな、という気持です。理解の仕方でも、「実証的理解」「了解的理解」「直感的理解」のように、異なる次元があるので、+方向が「実証的」「合理的」理解で、-方向は、「直感的」「感覚的」「腹で分かる」みたいなレベルかな、と思っています。

     別に、一人の人間が、全ての象限を満たすことは、あり得るし、それと、人間認識を区分することは、矛盾しません。


    > このことの言っている意味は、同じi*-i⇒+1でも、i<<*-i⇒+1、i*>>-i⇒+1というように強弱をつけているのでしょうか。
    >
    > 従って、
    > i*-i⇒+1:中庸
    > i>>*-i⇒+1:凸i に支配されているi*<<-i⇒+1:凹i に支配されている
    >
    > 従って、i>>*-i⇒+1を第1象限に配置して、i*<<-i⇒+1:凹i の支配が強まった場合を第4象限に位置するということに解釈してよいのでしょうか。
    >
    > 第1象限と第4象は自己肯定・他者肯定と理解しているので、良いイメージでしか解釈できないのですが、海舌さんの解釈では自我がここにきているので、理解に苦しんでいるところです。


     ポイントは、第4象限を、肯定的に観るか、否定的に考えるか、ですね。

     ここは、ずっと、洋の東西、争いのある部分です。親鸞は、肯定的です、ね。空海も肯定的で、最澄は否定的です。ニーチェは肯定的で、カントは否定的ですね。

     「他者肯定」の部分です。

     鼠小僧次郎吉、ホン・ギルドンは、単なる「泥棒」か、「英雄」か。

     海舌は、最近、ホン・ギルドンを見たので、余計、肯定的ですが、図示化する場合は、シンプルに、「悪」のラベルを貼っています。

     この部分は、かなり長く論文が書ける部分だと思います。いろんな人が、いろんな見解です。

     この図の場合は、単純、紋切り型に、近代的合理性を持たずに、直観的、体感的な判断で、世俗的、物質的欲望を目指す人間像を「悪」としてみました。

     
    > 自他の関係からいいますと、他者の否定の仕方が、自己を強く肯定することで、他者を否定するような仕方でしょうか。
    >
    > 他者を否定することが、どうして宗教世界なのかということが、分かりにくいのですが、これが一神教の宗教であるといういなら分かりますが、一方、芸術までここに配置されているので、とたんに分からなくなってしまいます。
    >
    > 芸術とか東洋の宗教などは、第4象限にくると分かりやすいのですが、どうなのでしょうか

     この部分は、仰る通りです。海舌も、後で、そのように、再度、ここでコメントしようと思いました。

     第二象限の芸術、宗教は、西欧のものです。
     東洋の芸術、宗教は第三象限です。

     さらに、哲学でも、第三象限は、トランス・モダン哲学、と書きたいところです。


    >>科学の検証主義

    これです、ね。罠です。

     今、問われているのは、この「科学の検証主義」ですね。
     
     イラク戦争、イランの核疑惑、或いは、ダークマターの存在、地球温暖化詐欺、911、ビックバン理論の検証可能性・・・

     第二、第三、特に、第三象限に、解決の望みがあると思っています。

     シムダンスの言葉を借ります。

    「人類は絶滅危惧種に指定されました。この危機を乗り越えるのには、もちろんエネルギー問題を解決しなければなりませんが、もはや、CO2を削減すれば済むということではなくなってきました。それと同時に、急いで変革をしなければならないことがあります。それは心です。心、精神の有様が問題なのです。」

     このテーマの解決が、緊急課題で、その鍵を求めるたびに出ているのです、ね。我々は。

     海舌は、その鍵が、第三にあるという思いを示すために、「人間認識図」を作りました。

     
     最後に、私が立っている位置です。最近まで、「+1」だと考えてきました。今も、「+1」だと考えていますが、「+1」に居て、どうして、ダークマターの「-1」を想定できるのか、答えが出ません。

     今、この問題に取り組んでいます。

     今回は、海舌が書きたいことだけ、書きました。質問を待って、さらに、相互理解を深めたいと思います。

    海舌
     


    > 海舌さんへ
    >
    > ありがとうございます。
    >
    > >  「人間認識概念図」ですが、結構、「やっつけ仕事」です。
    > >
    > >  まず、細かく見ていきます。
    > >
    > >  +1は、勿論、物質です。-1も勿論、物質です。-1も質量を持っています。重力があります。見えないだけです。実軸上の点なので、
    >
    > +1が物質で、-1が暗黒物質ですね。
    >
    > 私はPS理論の最初のころの定義、i*-i,i*-(-i)に依存しており、i*-iを自己肯定・他者肯定、i*-i,i*-(-i)を自己肯定・他者否定と考えております。
    >
    > これが原点で自己肯定・他者肯定の物質A、自己肯定・他者否定の物質Bと分類したのです。
    >
    > それで、
    > 物質A:-1・・・すべての物質
    > 物質B:+1・・・ポジトロニウム
    >
    > としました。
    >
    > 理由は、
    > すべての物質は、自己保存のために自己を維持しようとしています。つまり、他者を否定して存在しているのが物質だと考えたのです。エネルギーの保存則は、
    > そう仕向けるようになっているのではないかと考えました。
    >
    > ですから、暗黒物質は、まだ、よく検討していませんが、
    >
    > 第二象限物質A:自己肯定・<他者否定>・・・自己を強く主張することで、他者否定する物質
    >
    > 第三象限物質A:<自己肯定>・他者否定・・・他者を強く否定することで自己を強く主張する物質
    >
    > 第二象限物質A:-1・・・すべての物質
    > 第三象限物質A:-1・・・暗黒物質
    >
    > として見ました。
    >
    > >
    > > > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
    > >
    > >  
    > >
    > > 「+1に物質、-1に物質」です。
    > >
    > >  第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界は、「この部分が、複素平面」ですので、海舌の理解は、生活世界に置いても、常に、凸iの虚数の影響を受けて生活していると考えています。
    >
    > 複素平面であるということ自体が見えないのではないのでしょうか。見える場所は+1と-1の地点しかないのではないでしょうか。
    >
    > 人間は見える見えないに関わらず生活しているのですから、複素平面で生活していると思います。
    >
    > ですから、第1象限 生活世界の生活、だけでなく、第2象限の生活、第3象限、第4象限の生活というものがあるのでないかと思うのですが、如何でしょうか。
    >
    > それを、日常生活者と言わないで、宗教家の生活、哲学者の生活と捉えるのでしょうか。
    >
    > もし、そうだとする、人はいろいろな顔を持っていますから、一人に人間は、全複素平面で生活しているということになります。そういう理解でよいのでしょうか。
    >
    > 全複素平面での生活とは、四つの象限をめまぐるしく生きるのが人間であると言うことなのでしょうか。
    >
    > あるときはサラリーマン、あるときは芸術家、あるときは哲学者、あるときはXとして生きていると言うことでしょうか。
    >
    > 卑近な例ですが、ホームレスや自閉的な人は、他人との関わりを捨てていると考えれば、超越的ですので、第4象限に入るのでしょうか。
    >
    > 人間は多重人格者であるとも言いますから、それらはどこに入るのでしょうか。
    >
    > ぶつぶつとつぶやきながら生きている人がいますが、この人は、自分の殻に閉じこもって生きているようですから、他者を否定しているというより、他者が存在していないかのようなので、第2象限でよいのでしょうか。
    >
    > 象限と人間の分類を決めるルールのようなものがあると良いのですが、どうでしょうか。
    >
    > >微分自体が、無限大など、日常生活を超越した概念を用いているので、一般的に、「第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界」は、+1と凸iの影響力が大きいエリアと捉えています。
    >
    > このことの言っている意味は、同じi*-i⇒+1でも、i<<*-i⇒+1、i*>>-i⇒+1というように強弱をつけているのでしょうか。
    >
    > 従って、
    > i*-i⇒+1:中庸
    > i>>*-i⇒+1:凸i に支配されているi*<<-i⇒+1:凹i に支配されている
    >
    > 従って、i>>*-i⇒+1を第1象限に配置して、i*<<-i⇒+1:凹i の支配が強まった場合を第4象限に位置するということに解釈してよいのでしょうか。
    >
    > 第1象限と第4象は自己肯定・他者肯定と理解しているので、良いイメージでしか解釈できないのですが、海舌さんの解釈では自我がここにきているので、理解に苦しんでいるところです。
    >
    > 近代的自我とは、自己肯定・他者否定の典型ですよね。ならば、第2か3に配置されると思うのですが、これが第1に来ているので困っているのです。
    >
    > i*-iを自己肯定・他者否と理解することが間違っているのでしょうか。
    >
    > >
    > >  次に、第2象限。マイナス1の分野と凸iの精神分野です。
    > >
    > >  一応、マイナス1を超越的な存在としています。超越的存在が、質量を持たないというのが、近代合理性だと思いますが、中世以前は、質量を持っていることが当然だったと思います。dark matterは、勿論、質量を持っています。宗教家、芸術家などの基本的なスタンスは、ミメーシス、
    > >
    > > ミメーシス【ギリシャmimēsis】
    > >
    > > 1 芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。
    > >
    > > 基本的には、「超越的存在」を積極的に肯定する立場だと思います。逆に、第1象限は、「世俗領域」で、「超越的存在を断固否定します。」この意味では、虚数は、超越的存在ではなくて、単に、電磁関連作用です。
    > >
    > >  勿論、コスプレを何処に入れるか、など、悩ましい問題もありますが、一応、伝統的な立場で区分しました。
    >
    > この場合も、i*-(-i)からしか考える手立てがないので、
    > i*-(-i)⇒-1:中庸
    > i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されているi*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている
    >
    > 従って、i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている場合が、第2象限ということになるのでしょうか。
    >
    > 自他の関係からいいますと、他者の否定の仕方が、自己を強く肯定することで、他者を否定するような仕方でしょうか。
    >
    > 他者を否定することが、どうして宗教世界なのかということが、分かりにくいのですが、これが一神教の宗教であるといういなら分かりますが、一方、芸術までここに配置されているので、とたんに分からなくなってしまいます。
    >
    > 芸術とか東洋の宗教などは、第4象限にくると分かりやすいのですが、どうなのでしょうか。
    >
    > >
    > >  第3象限。ここが、最も、難解な部分です。私達の日常性から、最も乖離した領域です。
    > >
    > >  -1と凹iの複合した領域です>
    > >  ここは、本来、不明な部分ですが、プラトニック・シナジーにとっては、好ましい領域と、解釈しました。
    > >
    > >  プラトニック・シナジーで主に使う、「哲学」「数学」を此処に入れました。両者とも、超越性を積極的に肯定し、また、精神世界のバックグラウンド、背景、地下水脈を暴くもの、というイメージです。
    >
    > 第3象限は自己肯定、他者否定ですが、
    >
    > i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている
    >
    > と考えて、凹iと他者とすれば、徹底して他者を否定することで、結果として自己を肯定していると解釈できますから、それが「哲学」「数学」だと言われれば、なんとなく分からないでもありません。
    >
    > しかし、科学の検証主義と言うのは、それが前提ですから、科学全般はここには入っても良いのではないでしょうか。
    >
    > 人間は正当化する手段として、「俺が正しい」と先ず、自己主張をする人と「お前が悪い」と先に相手を非難する人に分かれますが、
    >
    > 「俺が正しい」・・・i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている・・・第二象限
    >
    > 「お前が悪い」・・・i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている・・・第三象限
    >
    > これはニーチェが分析した事例からです。
    >
    > >  第4象限は、世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージです。
    > >
    >
    > i*<<-i⇒+1:凹i に支配されている
    >
    > 自己肯定、他者肯定の場合ですが、自分より、他者肯定の度合いが強いと解釈すれば、良い場合は他者尊敬、悪い場合は、
    > 謙遜とかになるのでしょうか。
    >
    > 世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージが自己肯定、他者肯定から湧いてこないのですが、どう理解すればよいでしょうか。
    >
    > 生成門
    >

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  • from: 生成門さん

    2010年06月29日 19時57分22秒

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    Re:人間認識概念図

    海舌さんへ

    ありがとうございます。

    >  「人間認識概念図」ですが、結構、「やっつけ仕事」です。
    >
    >  まず、細かく見ていきます。
    >
    >  +1は、勿論、物質です。-1も勿論、物質です。-1も質量を持っています。重力があります。見えないだけです。実軸上の点なので、

    +1が物質で、-1が暗黒物質ですね。

    私はPS理論の最初のころの定義、i*-i,i*-(-i)に依存しており、i*-iを自己肯定・他者肯定、i*-i,i*-(-i)を自己肯定・他者否定と考えております。

    これが原点で自己肯定・他者肯定の物質A、自己肯定・他者否定の物質Bと分類したのです。

    それで、
    物質A:-1・・・すべての物質
    物質B:+1・・・ポジトロニウム

    としました。

    理由は、
    すべての物質は、自己保存のために自己を維持しようとしています。つまり、他者を否定して存在しているのが物質だと考えたのです。エネルギーの保存則は、
    そう仕向けるようになっているのではないかと考えました。

    ですから、暗黒物質は、まだ、よく検討していませんが、

    第二象限物質A:自己肯定・<他者否定>・・・自己を強く主張することで、他者否定する物質

    第三象限物質A:<自己肯定>・他者否定・・・他者を強く否定することで自己を強く主張する物質

    第二象限物質A:-1・・・すべての物質
    第三象限物質A:-1・・・暗黒物質

    として見ました。

    >
    > > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
    >
    >  
    >
    > 「+1に物質、-1に物質」です。
    >
    >  第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界は、「この部分が、複素平面」ですので、海舌の理解は、生活世界に置いても、常に、凸iの虚数の影響を受けて生活していると考えています。

    複素平面であるということ自体が見えないのではないのでしょうか。見える場所は+1と-1の地点しかないのではないでしょうか。

    人間は見える見えないに関わらず生活しているのですから、複素平面で生活していると思います。

    ですから、第1象限 生活世界の生活、だけでなく、第2象限の生活、第3象限、第4象限の生活というものがあるのでないかと思うのですが、如何でしょうか。

    それを、日常生活者と言わないで、宗教家の生活、哲学者の生活と捉えるのでしょうか。

    もし、そうだとする、人はいろいろな顔を持っていますから、一人に人間は、全複素平面で生活しているということになります。そういう理解でよいのでしょうか。

    全複素平面での生活とは、四つの象限をめまぐるしく生きるのが人間であると言うことなのでしょうか。

    あるときはサラリーマン、あるときは芸術家、あるときは哲学者、あるときはXとして生きていると言うことでしょうか。

    卑近な例ですが、ホームレスや自閉的な人は、他人との関わりを捨てていると考えれば、超越的ですので、第4象限に入るのでしょうか。

    人間は多重人格者であるとも言いますから、それらはどこに入るのでしょうか。

    ぶつぶつとつぶやきながら生きている人がいますが、この人は、自分の殻に閉じこもって生きているようですから、他者を否定しているというより、他者が存在していないかのようなので、第2象限でよいのでしょうか。

    象限と人間の分類を決めるルールのようなものがあると良いのですが、どうでしょうか。

    >微分自体が、無限大など、日常生活を超越した概念を用いているので、一般的に、「第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界」は、+1と凸iの影響力が大きいエリアと捉えています。

    このことの言っている意味は、同じi*-i⇒+1でも、i<<*-i⇒+1、i*>>-i⇒+1というように強弱をつけているのでしょうか。

    従って、
    i*-i⇒+1:中庸
    i>>*-i⇒+1:凸i に支配されているi*<<-i⇒+1:凹i に支配されている

    従って、i>>*-i⇒+1を第1象限に配置して、i*<<-i⇒+1:凹i の支配が強まった場合を第4象限に位置するということに解釈してよいのでしょうか。

    第1象限と第4象は自己肯定・他者肯定と理解しているので、良いイメージでしか解釈できないのですが、海舌さんの解釈では自我がここにきているので、理解に苦しんでいるところです。

    近代的自我とは、自己肯定・他者否定の典型ですよね。ならば、第2か3に配置されると思うのですが、これが第1に来ているので困っているのです。

    i*-iを自己肯定・他者否と理解することが間違っているのでしょうか。

    >
    >  次に、第2象限。マイナス1の分野と凸iの精神分野です。
    >
    >  一応、マイナス1を超越的な存在としています。超越的存在が、質量を持たないというのが、近代合理性だと思いますが、中世以前は、質量を持っていることが当然だったと思います。dark matterは、勿論、質量を持っています。宗教家、芸術家などの基本的なスタンスは、ミメーシス、
    >
    > ミメーシス【ギリシャmimēsis】
    >
    > 1 芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。
    >
    > 基本的には、「超越的存在」を積極的に肯定する立場だと思います。逆に、第1象限は、「世俗領域」で、「超越的存在を断固否定します。」この意味では、虚数は、超越的存在ではなくて、単に、電磁関連作用です。
    >
    >  勿論、コスプレを何処に入れるか、など、悩ましい問題もありますが、一応、伝統的な立場で区分しました。

    この場合も、i*-(-i)からしか考える手立てがないので、
    i*-(-i)⇒-1:中庸
    i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されているi*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている

    従って、i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている場合が、第2象限ということになるのでしょうか。

    自他の関係からいいますと、他者の否定の仕方が、自己を強く肯定することで、他者を否定するような仕方でしょうか。

    他者を否定することが、どうして宗教世界なのかということが、分かりにくいのですが、これが一神教の宗教であるといういなら分かりますが、一方、芸術までここに配置されているので、とたんに分からなくなってしまいます。

    芸術とか東洋の宗教などは、第4象限にくると分かりやすいのですが、どうなのでしょうか。

    >
    >  第3象限。ここが、最も、難解な部分です。私達の日常性から、最も乖離した領域です。
    >
    >  -1と凹iの複合した領域です>
    >  ここは、本来、不明な部分ですが、プラトニック・シナジーにとっては、好ましい領域と、解釈しました。
    >
    >  プラトニック・シナジーで主に使う、「哲学」「数学」を此処に入れました。両者とも、超越性を積極的に肯定し、また、精神世界のバックグラウンド、背景、地下水脈を暴くもの、というイメージです。

    第3象限は自己肯定、他者否定ですが、

    i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている

    と考えて、凹iと他者とすれば、徹底して他者を否定することで、結果として自己を肯定していると解釈できますから、それが「哲学」「数学」だと言われれば、なんとなく分からないでもありません。

    しかし、科学の検証主義と言うのは、それが前提ですから、科学全般はここには入っても良いのではないでしょうか。

    人間は正当化する手段として、「俺が正しい」と先ず、自己主張をする人と「お前が悪い」と先に相手を非難する人に分かれますが、

    「俺が正しい」・・・i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている・・・第二象限

    「お前が悪い」・・・i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている・・・第三象限

    これはニーチェが分析した事例からです。

    >  第4象限は、世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージです。
    >

    i*<<-i⇒+1:凹i に支配されている

    自己肯定、他者肯定の場合ですが、自分より、他者肯定の度合いが強いと解釈すれば、良い場合は他者尊敬、悪い場合は、
    謙遜とかになるのでしょうか。

    世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージが自己肯定、他者肯定から湧いてこないのですが、どう理解すればよいでしょうか。

    生成門

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  • from: kaisetsuさん

    2010年06月29日 14時02分49秒

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    「人間認識概念図」

    生成門さんへ

     御質問、ありがとうございます。

    > そこで、質問です。
    >
    > 今、海舌さんの概念図を考えているとことろですが、
    >
    > 科学と数学と宗教を生活物質、哲学などを象限にきっちりと分けているのですが、例えば、上に分類したように芸術にもいろいろあると思うのですね。
    >
    > これを同じ象限に配置するのはどうしてなのでしょうか。
    > 勿論、宗教について同じように言えると思うのです。
    >
    > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
    >
    > 今、悩んでいるところです。




     「人間認識概念図」ですが、結構、「やっつけ仕事」です。

     まず、細かく見ていきます。

     +1は、勿論、物質です。-1も勿論、物質です。-1も質量を持っています。重力があります。見えないだけです。実軸上の点なので、


    > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。

     

    「+1に物質、-1に物質」です。

     第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界は、「この部分が、複素平面」ですので、海舌の理解は、生活世界に置いても、常に、凸iの虚数の影響を受けて生活していると考えています。
     微分自体が、無限大など、日常生活を超越した概念を用いているので、一般的に、「第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界」は、+1と凸iの影響力が大きいエリアと捉えています。


     次に、第2象限。マイナス1の分野と凸iの精神分野です。

     一応、マイナス1を超越的な存在としています。超越的存在が、質量を持たないというのが、近代合理性だと思いますが、中世以前は、質量を持っていることが当然だったと思います。dark matterは、勿論、質量を持っています。宗教家、芸術家などの基本的なスタンスは、ミメーシス、

    ミメーシス【ギリシャmimēsis】

    1 芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。

    基本的には、「超越的存在」を積極的に肯定する立場だと思います。逆に、第1象限は、「世俗領域」で、「超越的存在を断固否定します。」この意味では、虚数は、超越的存在ではなくて、単に、電磁関連作用です。

     勿論、コスプレを何処に入れるか、など、悩ましい問題もありますが、一応、伝統的な立場で区分しました。

     第3象限。ここが、最も、難解な部分です。私達の日常性から、最も乖離した領域です。

     -1と凹iの複合した領域です。

     ここは、本来、不明な部分ですが、プラトニック・シナジーにとっては、好ましい領域と、解釈しました。

     プラトニック・シナジーで主に使う、「哲学」「数学」を此処に入れました。両者とも、超越性を積極的に肯定し、また、精神世界のバックグラウンド、背景、地下水脈を暴くもの、というイメージです。

     第4象限は、世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージです。

     以上、描いた時のイメージを述べました。

     御役に立てれば幸いです。

    海舌

     



    > 海舌さんへ
    >
    > >
    > >
    >
    > そこで、質問です。
    >
    > 今、海舌さんの概念図を考えているとことろですが、
    >
    > 科学と数学と宗教を生活物質、哲学などを象限にきっちりと分けているのですが、例えば、上に分類したように芸術にもいろいろあると思うのですね。
    >
    > これを同じ象限に配置するのはどうしてなのでしょうか。
    > 勿論、宗教について同じように言えると思うのです。
    >
    > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
    >
    > 今、悩んでいるところです。

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  • from: Renshiさん

    2010年06月29日 11時50分45秒

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    「Re:PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面」
    生成門さん

    aの問題を興味深く見ました。
    ここでは、私見というか直感を述べさせていただきます。
     +1は覚醒の時だと思います。日常レヴェルの意識です。同一性=物質の意識をもっています。
     しかしながら、同時に、media point(MP)をPS理論では、なんらか、身体内に意識しています。
     そうすると、正に、⇒+1の意識をしていることになります。それに対して、
    近代的自我、つまり、理論的に絶対的な近代的自我は+1であり、⇒がありません。
     日常、社会生活において、PS理論は、MPと+1とを共立・共生させていると考えられます。
     そうすると、その日常意識とaが関係しているのではないのかと思いました(思いつきですが)。
     文学作品で言うと、意識の流れのようなつぶやきに当たるのではないかと思いました。
     ですから、⇒aと⇒+1が共存ないしは混淆しているのが、日常意識ではないのかと思いました。
     ここで、視点を変えますが、私の夢試論では、aが夢において、変形されて反映されるような気がします。
     ですから、おそらく、やはり、芸術と夢は類縁性があると思います。
     近代合理主義/唯物論の世界、+1の世界は、aやMPを排除した世界ですから、芸術や宗教、哲学は生まれません。つまり、精神的に不毛な世界です。
     生成門さんの新しい論考にも、後でできれば、コメントしたいと思っています。
     

    > PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面
    > <PS理論との共振>
    >
    > 自己を認識するのは、内部でもない外部でもない位置に立つ必要があるということになりました。では、内部でもない外部でもない位置とはどういう位置なのでしょうか。

    ・・・・・

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  • from: 生成門さん

    2010年06月29日 11時46分05秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面」
    海舌さんへ

    >
    >  今日は、一日、心の何処かで、ミニチュア「a」について考えていました。
    >
    >  「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
    >
    >  藤原定家の有名な句ですね。
    >
    >  「花も紅葉もなかりけり」
    >
    >  眼前には「無い」です。
    >
    >  でも、内心には、確固として、「花も紅葉も」存在している、というのが定家の趣旨だと思います。
    >
    >  その定家は、どの位置に居るのでしょうか。
    >
    >  「浦の苫屋」は、何処で、「花も紅葉」は何処だろう。
    >
    >  まだ、解明できません。

    「ある」けど「ない」、「ない」けど「ある」ですね。

    戦闘パイロットは、視点転換を高速度で行うそうです。
    これができないと墜落してしまうのですが、要するに、ズームインアウトという方法です。

    戦闘機で急降下するときは、地平線を基準にして内から外をみているのですが、地面すれすれで上昇するときは、自分が外に飛び出して、外から内を見るようにしないといけないのです。

    このタイミングを間違えると危ないのです。

    このぎりぎりのタイミングが⇒+1の場所でないのでしょうか。
    早すぎて(a)もいけない、遅すぎて(+1)もいけないのでしょう。


    定家の場合、眼前には「無い」言ったのは、謳ったときの心情が関係していると思うのですが、何も見えていない自分がいると言っているのかもしれません。

    あるのは事実として分かっているのだが、敢えて、それは否定しているように思えます。

    要するに、自分はそんな心境ではないようようなことでなないでしょうか。

    勿論、否定的捉えたわけですが、これを全く、逆に捉えることもでできます。

    つまり、感動したから「ない」のであって、私の中には特別なものとしていきいきととあるというわけです。


    定家の位置ですが、当然、主観的な内的視点だと思うのです。もし、外的な視点なら、写実的に描写する様なことになるでしょうから、心情とは関係ないわけですよね。

    芸術の描写方法には、写実・印象・抽象とありますが、これと視点の関係を上げてみました。

    写実・・・内から外への視点・・・科学的に近い客観芸術
    印象・・・外から内への視点・・・芸術的らしい主観芸術
    抽象・・・どちらともいえる・・・科学的芸術的中間芸術

    とならないでしょうか。

    そこで、質問です。

    今、海舌さんの概念図を考えているとことろですが、

    科学と数学と宗教を生活物質、哲学などを象限にきっちりと分けているのですが、例えば、上に分類したように芸術にもいろいろあると思うのですね。

    これを同じ象限に配置するのはどうしてなのでしょうか。
    勿論、宗教について同じように言えると思うのです。

    物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。

    今、悩んでいるところです。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月29日 10時38分05秒

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    PS理論の基本10:未来からきた私と過去からきた私のがっちんこ

    PS理論の基本10:未来からきた私と過去からきた私のがっちんこ
    <PSとの共振>

    鶴の恩返しの話から、光のエネルギーの話に飛び火して、卵が先か鶏が先かの話になって、一応の結論が出たようです。

    虚軸の凸凹(iと-iが振動するMP=ゼロポイントでは、まだ、何も現象化していないのですから、現象が先とは絶対に言えないという結論です。

    つまり、凸凹が単に存在しているだけのMP=ゼロポイントからは、ガウス平面は生成されていないということです。つまり、まだ、回転がはじまっていないということです。

    では、凸凹(i,-i)が静的に単振動しているような状態から、どうして回転して現象化するのでしょうか。

    虚軸の凸凹(iと-i)が振動するMP=ゼロポイントでは、ガウス平面は生成されていないのですから、最初の世界はゼロ次元なのです。ゼロ次元とは、イデア界のことですから、当然、イデアが先なのです。

    既に、MP=ゼロポイントには二つの顔があると言いました。MPは虚軸と実軸に顔を向けているということです。虚軸に顔を向けているほうをMP1、実軸に顔を向けているほうをMP2とました。四次元能の文脈で言うと、虚空、実空としたものです。

    iと-iが振動する状態というのは、MP1を意味しています。

    この状態から何時、どうしてMP2にシフトして、更に、そこから+1となり、回転するのでしょうか。

    それはMP1に揺らぎが生じるからです。MP1では、iと-i、凸と凹が鬩ぎあっているのです。それがMP2にシフトするとiと-i、凸と凹が反発したり、衝突したり、共振したり、反共振したりするのです。

    MP1からMP2にシフトするときは、いろいろな状態があるのですが、ここでは簡単に、i*-i、i*-(-i)、ないし、凸i*凹i, 凸i*-凹iとしておきます。

    凸凹はまだ使い慣れていないので、i*-i、i*-(-i)でいきます。i*-i、i*-(-i)を説明しだすと長くなるので、今はi*-iだけに限定します。

    MP1で、i,-iが振動しているとして、MP2でi*-iになるということはどういうことでしょうか。

    MP1とMP2の関係を深層心理の意識と無意識とし、この関係で説明すると、分かり安いのですが、それでは四次元能の文脈に入ってしまうので、ここでは、PS理論のi*-iとは、衝突であり、共振であるということから思考してみたいと思います。

    従って、オイラーの公式に戻ってみましょう。



    オイラーの公式、e^iθ=cosθ+isinθでは、iしか出てきませんでした。-i がでてきていないのです。

    図でも分かるように、-iが出てくるのは、ガウス平面でe^iθが第三、第四象限です。しかも、第一と第三は、第二と第四は、鏡像の関係にあり、第一と第四、第二と第三は共役の関係にあります。

    すべての関係を扱うと複雑になってきますので、第一と第四の共役だけを取り上げます。

    共役というには、共存、共生、協力などと近い意味ですが、数学的には共役複素数といって、a+ibの共役複素数をa-ibなどと言います。互いに、共役複素数となっているわけです。ごく簡単に言えば、「虚数部分が反対符号の複素数」のことです。こちらを参照してください。http://onohiro.hp.infoseek.co.jp/amanojack2/a/kisokaku018.htm

    ibに対して-ibとなっているのですが、iにだけ注目すると、i,-iの関係です。これこそ虚軸のi,-iの関係そのものです。

    この共役関係が、renshi氏が指摘した「同時の指し示し」の謎を解決してくれそうな予感がします。

    では、その探求に参りましょう。



    ガウス平面はMPであり、心の内面であると考えましが、図に示したように、⇒は第一象限にしか表記していませんでした。これはガウス平面には波が一つしかないことを意味しており、しかも、回転していない上に、ぽつんとa+ib 即ち、e^iθ=cosθ+isinθがあるだけです。

    これでは世界の始まりを示していないので、ビッグバン理論に替わって、イデア創世論、を証明するために、「先ずイデアがありき」の図を描いて見ました。

    何もない世界では、実軸がないのですからビッグバンがおきようもありません。MP1では、iと-iが振動しているだけです。しかし、この状態で、既に共役関係は発生しているということです。つまり、iと-i は同時に存在しているということです。

    この状態から揺らぎが発生して、共役関係(MP1)から共振関係(MP2)に移ります。MPはカオスの状態にあり、そこから揺らぎが発生するということです。カオスの状態から揺らぎが発生するということは、この世界でも、よくあることです。MPに於ける揺らぎの発生とは、iと-iの衝突といってもよいでしょう。

    この衝突が一回限りでなく、固定され、次の共振状態に移ると解釈(想像)してよいでしょう。この共振状態を*で表記します。

    これで、i*-iとなりましたが、この、iと-iが同時にあることの意味が、イデア創世論にとって、とても重要な意味を持っていることになります。「イデアありき」とは、凸凹のイデアであり、世界の初めはイデア対称性があることが前提でなければならないのです。その理由が、これで証明されたといっても良いのではないでしょうか。

    つまり、イデア対称性からイデア振動、イデア衝突、イデア共振(メディア共振)へと、つまり、虚軸からMP1、MP2と変遷していくわけです。そして、MPの最も重要な仕事は⇒です。これが指し示しとなって、+1、つまり、現象化に進むのです。

    ここで、エネルギーの話が出てきていません。イデアとはエネルギーでもあるのですが、実エネルギーと区別して、イデアエネルギーということにします。

    Renshi氏によると、MPのエネルギーとイデアのエネルギーと現実のエネルギーを厳密に区別しているようですので、こちらを参照してください。http://sophio.blog19.fc2.com/blog-category-0.html

    世界は現象化して終わるわけではありません。世界は生々流転するのです。その流転は物質界だけで閉じているのではなく、必ず、そこにはイデア界に戻り、MPを介して、再び、イデアエネルギーを供給されて、現象化するのです。

    エコロジーが環境問題を考える重要な概念として持て囃されているようですが、物質循環しか考えていないのです。物質循環しか考えていないエコロジーなど、早晩、行き詰ってしまうのです。もう、行き詰っているのですが、それはエコロジー論ではエネルギーの限界があるからです。

    横道に逸れそうなので、抑えていきましょう。

    現象化した後はどうなるのでしょうか。

    ⇒は、⇒と⇒の二手に分かれて、方や、反時計回りに、第一象限に向かって、しかし、最後は里帰りとでもいいましょうか、自身の故郷である、イデアの世界のiに向かって回帰していくのです。

    もう一つは、時計回りに、つまり、第四象限に向かって、同じ里帰りですが、-iに向かって回帰していくのです。

    そして、二つの波が、iと-iに達したときに、再び、MPでi*-iに戻り、リサイクルするのです。このリサイクルはいつまで続くのでしょうか。

    それはイデアエネルギーが供給される限り続くのです。だから、光は永遠に進むのです。しかし、実際は、光子となって、どこかで静止するのですが、それでは、いつ、光子になるのでしょうか。それは観測者が+1に現れたときです。MPが収縮して、光子となるのです。

    これは鶴の恩が恩返しの場合も同じ構図です。自分が観測者となって+1に現れたとき、MPが収縮して、娘が鶴となったときにガウス平面の回転は止まるのです。

    ところで、シムハンターの皆さんは、三つの不思議なことに気が付いたのではないでしょうか。

    一つは、回転すると言いながら、四分の一しか回転していないということです。電磁波の図でも、フル回転で進むようなイメージでしか描かれていませんから齟齬があるように思えます。ガウス平面はメビウスの帯のように、虚と実が反転するとも言いましたので、四分の一しか回転していないとなると反転はどうなるのでしょうか。特に電子の場合、二回転しないと元に戻らないとも言いましたので、それとの関係はどうなるのでしょう。

    もう一つは、⇒の方向は原点から+1の方向に負かっているのですが、それは瞬間の出来事であり、無時間です。ところが、+1から回転すると、a+ib,a-ibのaはどちらも、+1から、0に向かって、だんだん小さくなっていくのです。

    これまでは、下の図に示すように、⇒a(<1)は、+1に向かってだんだんと大きくなるようなイメージ捉えていました。

    現象化していない(現在進行形)
    0===⇒(a)―――――+1
    現象化した(現象化した瞬間)
    0========⇒(a)+1

    これも齟齬があるように思えます。皆さんは如何でしょうか。

    そして三つ目は、二手に分かれて回転すると言うことです。何故、二手に分かれるのか、何故、反時計回りが時間の向きであり、時計回りが逆向きなのかということです。更に、逆向きに進むということは、どういうことなのかです。

    これらに答えるためには、少し思考する時間が必要です。

    その前に、共役から共振に変遷する理屈を考えておきましょう。

    a+ib の共役とは、a-ib ですから、オイラーの式は、e^iθ=cosθ-isinθとなるでしょう。

    この-iのついた式が何を意味するのかと言うことです。これが三つ目の疑問と同じ意味になるでしょう。

    a+ibとa-ibを考えると言うことは、同時に考えるということです。同時とは、文字通り、同じ時間に同じように「ある」ことです。

    ところが、同じように「ある」という「あり方」が問題なのです。

    -isinθという波を考えた場合、図でも分かるとおり第四象限にあります。



    このように、同時にあるということを拡張して考えると、MPとは波が閉じ込められた空間であると言いましたので、幽霊の波が無数に同時に存在しているということになるのではないでしょうか。

    無数の幽霊波を考えるのは厄介なので、とりあえずは、二つだけを考えていきます。

    この二つとは、第一象限のz=e^iθと第二象限のz`=e^-iθであり、z=a+ib z`=a-ibとなります。これらは同時に存在する共役する波なのです。

    同時に存在する波とはどういうことなのでしょうか。

    幽霊の波とは、縦波と横波が同時に存在すると言いましたが、この場合は、二つの幽霊の波が同時に存在するということです。

    紛らわしいので、縦波と横波が同時に存在ことを共立、二つの幽霊の波が同時に存在することを共役と言うことにします。

    この互いに共役するz=a+ib z`=a-ibの積を取ると、(a+ib) *(a-ib)となります。ここで、a=0とすると、i*-iとなります。

    このことは何を意味するのでしょうか。

    これは、始めにi と-iが衝突して共振する形として示したものです。波は、最初は単振動していて、虚軸にしかないのですから、(a+ib) *(a-ib)ではないわけです。

    しかし、重要なことは、i と-iは、初めから実数部のない二つの波であり、他の象限のどこからかやってくるのではないということです。初めは虚軸だけなのです。

    それがMPに入り、MP1では振動、MP2では共役するような形に変遷していくのです。

    共役した状態から共振する状態へは、ちょっとした加減でおきます。それが起これば同時に現象化するということです。そのちょっとした加減というのが揺らぎであり、MP作用の活動の始まりの合図でもあるのです。

    従って、世界の始まりは、共振であり、共振、即、現象化i*-i⇒+1なのです。しかも、⇒+1は時間的に無時間でおきるのです。これが本当のカタストロフでしょう。

    前回は、一つの波で、つまり、a+ibで、考えたので、b=0のときでも、a=1となるとしてのですが、これは間違いでした。

    二つの波で考えるとa+ib,a-ibで、b=1,a=0のときに突然に+1となるのです。aだけみるとaが0になると、突然1になるのですから、これが正真正銘のカタストロフです。これが不思議なところです。

    これまでは、一つの波a+ibがあり、それがb=1、a=0から次第にb=0、a=1になる右回転のイメージで考えてきたために、
    0===⇒(a)―――――+1
    となることをカタストロフとしたのですが、このようなことではないということです。

    実際は(?想像)、+1になった後に、+1から左回転が始まり、aが0に近づいていくのです。つまり、下のようになるのです。
    0――――a←====(a)+1

    そして、aが0になったときに、突然
    0(i*-i)⇒+1
    になるのです。

    二つの波が共役すると考えたことで、オイラーの式から自己認識の方程式が以外にも簡単に導かれました。

    ここには二つの幽霊が裏で画策、つまり、共役(共振)していると言うことです。

    二つの幽霊が共役するとは何を意味しているのかです。これが又、とんでもないことを示唆しているのです。

    鶴の恩返しでは、二人の自分がいると言いましたが、それは外と内の自分のことでしたが、ここでは、内に二人の自分がいると言うことになったのです。

    その一人は未来からやってきた自分であり、もう一人は過去から来た自分であり、それらが共振して、自分が飛び出してくるということです。

    ここで、iに-が付いているのは、時間が逆向きであることを意味しており、時間が逆向に進むなんて、皆さんはとても受け入れられないことでしょう。

    時計回りの右回転とは、自分が未来からやってくることを意味しているのです。つまり、この二つの波が共役共振することは、現在から未来に向かう自分と未来からやってくる自分が「がっちんこ」して自分になるのです。

    つまり、このi*-iこそが、同時の指し示しという「がっちんこ」状態なのです。

    ここから⇒が出て、i*-i⇒となって、i *-i⇒+1となって、⇒+1となり、更に+1となり、同時の指し示しの完了です。

    ここで、注意することは、回転のことはまだ、十分に検討していないのですが、初めに⇒+1があって、そこから回転がはじまるとうことです。

    オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθからすると、θ=0からスタートするように思えるのですが、基点は虚軸、つまり、θ=90度(1/2π)の位置なのです。しかし、そこから回転するのではなく、i*-i⇒+1となって、θ=0から回転するのです。

    しかも、ぐるぐると一回転するのではなく、θ=1/2πで、i*-i⇒+1となるのですから、いつも、1/4回転してリセットされてしますのです。

    このことが何を意味するのか、二つの幽霊が共役と含めて、またまた、疑問が出てきました。

    追記です。

    先に、二人の自分がいると言いましたが、MPの世界は波の混合体でできています。この二つの波とは、時間の2つの方向、つまり「過去から未来」と「未来から過去」の2つです。これは、螺旋状に回転する回転する波、つまり「時計回り」と「反時計回り」の波でもあります。


    これらの二つの波が絡み合った世界、それが私達の世界なのではないでしょうか。

    二つの波が絡み合った世界をもう少し覗いて見る必要がある様です。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月28日 23時02分44秒

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    PS理論の基本9:鶴の恩返し

    PS理論の基本9:鶴の恩返し
    <PSとの共振>


    自己認識の方程式i*(-i)⇒+1を、オイラーの式の変形から、どのように導くことができるかを解明しようとしているのですが、まだ、その答えが出ていません。

    もう少し、頑張ってみましょう。

    オイラーの式を次のように変形しました。
    e^iθ-isinθ⇒cosθ
    z-ib⇒a

    z-ib⇒aで考えても、b=0のときに、⇒+1となりますから、特に、i*(-i)⇒+1でなくても⇒+1となります。数学的な操作ならそれでも良いのですが、物理現象や心理現象にはエネルギーが必要なのです。

    そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。i*(-i)⇒+1は、それと関連しているのでしょうか。

    鶴の恩返しの話でも、娘(主観)であるときは、心もおだやかだったのですが、覗いてみたくなったときから、つまり、主観⇒?となったときから、穏やかでなくなりました。

    どうしても見たいという欲望(エネルギー)ができたのです。そしてついに見てしまったのです。その結果、娘(主観)⇒鶴(客観)のカタストロフが起きたのです。

    でも、その代償は、とても大きかったのです。そこにいたのは、可愛い綺麗な娘ではなく、ボロボロにやつれた鶴だったのです。娘を失うことになった⇒+1は、それほどダメージが大きかったということです。⇒は心の欲望が向かう方向、つまり、主観⇒客観を意味しているのです。

    心の欲望がエネルギーだとすると、エネルギーとは何かということになります。

    当然、心⇒現象から欲望⇒客観化された形(鶴)となりますので、心エネルギー⇒物質が成り立つでしょう。

    実際、物理の世界では、エネルギー=質量×光の速度の二乗が成り立っていますので、エネルギー⇒物質としても、おかしくないと思うのです。一方、光のエネルギー=振動数×プランクの定数とも表現されるのですから、エネルギーとは波であるとも言えるでしょう。

    プランクの定数とは、エネルギーの最小単位のことですから、粒と考えればよいでしょう。そうすると、エネルギーとは粒の数ということになります。振動数が大きいということは、それだけ粒の数が多い、つまり、エネルギーが大きいということです。

    紫外線が普通の光(可視光線)より波長が短い、つまり、振動数が大きい、つまり、エネルギーが大きいので、肌に良くないという意味がこれからも理解できるでしょう。

    エネルギー=〇+〇+〇+〇+〇+〇+・・・・・=〇×n(振動数)
    〇:一粒のエネルギー

    エネルギーとは波であるということになったのですが、これでエネルギーの正体を掴んだことにはなりません。これまでの説明、つまり、エネルギー=〇×n(振動数)は、エネルギー⇒現象の現象面を説明しにすぎません。エネルギーその本性については何も言っていないのです。

    鶴の話を思い出してください。言うと、本性が逃げてしまうのです。本性を逃がさないためには、このジレンマから逃げ出さなければならないというのですから、皮肉なものです。

    そこで、再び、オイラーさんが登場してくるのです。ガウス平面の単位円の内部には波が閉じ込められているとも言いました。これが、その本性を逃がさない砦なのです。

    オイラーの式は、e^iθ=cosθ+isinθですが、この式に出てくるサインカーブがsinθの作る波であり、コサインカーブがcosθの作る波です。オイラーの式が示す波を示したのが下の図です。

    下の図は、http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ed35400df27a2bc7e597531c08d99869から引用しました。


    オイラーの式が重要なことは、単にサインカーブとコサインカーブが別々にあるのではなく、同時にあり(共立)、しかも、それは複素数の、つまり、それ自体は見えない幽霊の波としてあるということです。

    光は電磁波(横波)であると言われるのですが、実際は、複素数の波ですから、オイラーの式で表現されます。すると、横波と縦波があります。横波である光が縦波もあるとは、どう説明したらよいのでしょうか。

    光という電磁波は、電場の変化が磁場を生み、磁場の変化が電場を生み出し、何もない真空を伝わっていくという説明が一般的ですので、これに従っていきます。

    そこで、オイラーの式の実数部分を横波=コサイン波=電場とすると、縦波=サイン波=虚数部分は磁場に相当するとしましょう。

    何故、磁場が虚数部分に現れるのでしょうか。磁場は電場の変化なり、電流すなわち電荷の移動によって生じるものです。これが電磁誘導といわれる現象ですが、私達の身近なところに、これを利用した装置があります。それが電柱の上に乗っかっているトランスです。

    磁場と電場は、異なる次元をもつのであり、e^iθ-isinθ⇒cosθからすると、磁場⇒電場であり、光は横波=電場である言っていることと符号します。しかし、実態は光の本性は縦波と横波の共立(同時に存在する)なのです。

    ただ、磁場⇒電場であるとすると、「電場が磁場を生み、磁場が電場を生む」ということ、つまり、電場⇒磁場を説明ができません。

    実際、トランスで起きている電磁誘導というのは、二次側に負荷(あなたがテレビのスイッチをオンにすること)がかかると、一次側(送電線)の電流から磁場が誘導されて、電場⇒磁場(トランス内部)となり、更に、磁場⇒電場(トランス内部)となって、二次側に電流が生起されて、テレビがつくという仕組みになっているのです。

    これまでのPS理論では、磁場⇒電場は説明ができるのですが、電場⇒磁場は説明が出来ません。四次元能では、これを色即是空・空即是色(電場⇒磁場・磁場⇒電場)と説明してきたので、問題がないのですが、PS理論ではこれをどう説明するのでしょうか。

    言ってみれば、心から物質への次元転換は説明できるのですが、物質から心への次元転換が説明できないのです。オイラーの式はe^iθ=cosθ+isinθですから、e^iθ- cosθ⇒isinθと変形してもよさそうなものですが、これまでの文脈から、私が勝手にそうするわけにも、いきません。

    それでは、どこに問題があるのでしょうか。

    それは、まだ私の理解がPS理論の基本から始めたので、PS理論の奥深いところまで、達していないということだけなのです。

    ガウス平面の第一象限に留まっているからです。ガウス平面の単位円は回転するのです。回転すれば、+1からi方向にも行くでしょう。

    つまり、実軸から虚軸へも行くのです。実⇒虚のような現象は電磁誘導以外に、実際にあるのでしょうか。それは溢れていますから示すことは簡単です。

    あなたが生まれてここに存在していること自体がそれを物語っているのです。

    今現在のあなたは心を持ったあなたですよね。しかし、生まれてくる直前はどうだったでしょうか。

    心のもっていない受精卵としてのあなたがいたと思うのです。そこから、心のあるあなたがここにいるのです。

    つまり、
    物質⇒心
    ですね。

    これを、更に、詳しく見てみましょう。

    オイラーの式を変形すると、
    e^iθ- cosθ⇒isinθ

    です。これを応用すると、

    あなたという存在-肉体⇒あなたの心

    つまり、
    物質⇒心
    となりました。

    後は、オイラーの式を変形したe^iθ- cosθ⇒isinθが認められるのかということだけです。

    このことを理解するために、再び、光の話に戻します。

    光は真空を進みます。ですから、単位円に閉じ込めておいたのではかわいそうですから、外に引き出してやりましょう。

    オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθのθを時間と解釈して、その様子を示したのが、上に示した螺旋の図です。

    この螺旋の波は、時間が虚数的に振舞うので幽霊の波と言われるのですが、電場と磁場が交互に入れ替わって進む波ということも意味しています。

    つまり、光とは、虚=磁場と実=電場が入れ替わって進む波であるということは、この時点で、既に、虚⇒実だけではなく、実⇒虚も含んでいるということです。虚と実が入れ替わるイメージは、ここからは読み取れないので、下の図を「電磁波」http://homepage2.nifty.com/eman/electromag/wave.htmlから引用しました



    「あまり正しくはない」という注釈がついていますが、光はこのようなイメージ伝わっていると考えても良いでしょう。

    縦波と横波というイメージ捉えるためには、下の図が最適です。「光の量子力学」
    http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld2/2Part3/2P34/QM_of_light.htmから引用しました。


    こうして、あたかも見てきたかのように、光が進むイメージを捉えたのですが、どっこい、幽霊波なのですから見たわけではありません。あくまで想像です。見たといった瞬間に、ぼろぼろの鶴しか見えないのですから要注意です。

    そうならないようにするために、再びこれを単位円の内部に閉じ込めましょう。

    閉じ込められた内部が外部に現象化するためには回転しなければならないということが分かるでしょう。回転している波を時間軸に表現したものが、上の波の図なのですが、では、光が進むその原動力はどこから来るのでしょうか。言い換えれば、光を回転させるものとは何なのでしょうか。

    単位円で言えば、⇒が回転するということです。従って、⇒を回転させるエネルギーとは何かという質問に変わるということです。

    鶴の恩返しの話から、⇒は心の欲望が向かう方向、つまり、主観⇒客観を意味しているとなり、心の欲望は、エネルギーとなり、エネルギーとは波ということになり、その波は、幽霊なので見えないが、実と虚を交互にくり返しているようだということになり、その繰り返しは回転しているからだということになり、回転させるエネルギーがあるとなり、その元とは何かということになって、元に戻ってしまいました。

    電磁波は磁場=縦波と電場=横波があって、磁場⇒電場、磁場⇒電場が交互に繰り返して進むと言いましたが、では、どっちが先なのでしょうか。

    人間と受精卵ではどっちが先なのでしょうか。鶏と卵ではどっちが先なのでしょうか。

    PS理論では、現象化とイデア界のどっちが先なのでしょうか。当然、PS理論では、ではイデア主義ですから、イデアが先です。磁場、卵、受精卵が先なのです。

    でも、本当にそうなのでしょうか。そうであることをどう説明できるのでしょうか。

    四次元能では、これを次元化と現象化という概念で説明をしました。次元化と現象化は、交互に進むのですが、最初はゼロの次元から始まり、それが現象化して一次元になり、それが収縮してゼロ次元になり、それが現象化して二次元となり、それが収縮してゼロ次元になり、それが現象化して二次元となり、それが収縮してゼロ次元になります。それが現象化して三次元となり、それが収縮してゼロ次元になります。

    ゼロ次元とは四次元のことですから、三次元世界が出来てしまえば、常に三次元と四次元が繰り替えしていることになります。一、二次元はその中に含まれているのです。

    要するに、虚→実→虚→実と進むのですから虚が先なのです。

    すべてはゼロポイントから始まるのです。

    ゼロポイントとは、MPのことであり、MPは、虚軸に繋がっているのであり、虚軸とはガウス平面で示したiと-iです。最近では、海舌氏は凸凹で示すようです。

    虚が先という意味は、その凸凹の虚軸が、実軸のない無次元状態、つまり、凸凹が単に存在しているだけで、ガウス平面が生成されていない状態にあるということです。

    これは、凸凹が静的に単振動しているような状態であり、嵐に前の静けさのようなものです。真空とは、そのようなものなのです。

    ただ、本当に静かであるかどうかは、別のことです。それは外から見ての話しであり、内部に入って見たら、とても静かだとは言えないでしょう。

    実際に量子力学では、このゼロポイント=真空の世界を母なる海と称しているぐらい、活発に動いていて、粒子がダンスしている世界だと言っているのです。

    粒子という言葉でさえ、外から見た表現ですから、まだ正しい表現ではないと思うのですが、このことはこれ以上、触れないことにします。

    さて、凸凹(iと-i)の虚軸が振動するMP点=ゼロポイントでは、まだ、何も現象化していないのですから、現象が先とは絶対に言えないわけです。

    つまり、凸凹が単に存在しているだけで、ガウス平面が生成されていない状態にあるということです。

    では、凸凹(i,-i)が静的に単振動しているような状態から、どうして、現象化するのでしょうか。

    いよいよ、本丸に近づいてきたようです。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月28日 22時42分44秒

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    PS理論の基本8:カタストロフの地点

    PS理論の基本8:カタストロフの地点
    <PSとの共振>


    aは実数でありながら現象ではないということは、なかなか理解しにくいところです。

    何故なら、+1は無限大の代わりなのですから、それ以上の実数はないからです。

    このような行き詰まりをどう打破すればよいのでしょうか。

    ガウス平面は内部であると言いましたので、それを手掛かり解明してみます。外部から内部が見えないように内部から外部は見えません。

    このことは、私達が地平線にと喩えて見ればよく分かるでしょう。地平線までは見ることはできますが、その先は見えないのです。当然、地平線の向こう側にいる人は、こちらを見ることはできません。

    もし、自分一人でこれをするとどうなるでしょうか。地平線の向こう側にいる自分とこちらにいる自分、これをどう呼べばよいのでしょうか。

    今、自分が内部にいるとします。ガウス平面は、内部をMPとして心を意味しているので、自分の見える範囲が内部となります。

    つまり、内部の中心、即ち、原点に私がいるとして、その私から見える範囲は地平線であり、それが単位円の淵、無限遠点の+1だということです。

    ただ、この位置は私の位置、つまり、主観の位置なので、誰にも報告ができないのです。もし、誰かに秘密をもらしたら罰が下されるのです。

    鶴の恩返しの話を思い出して下さい。お爺さんとお婆さんは、娘から着物を織っているので、私を見ないでくださいと口止めされたのですが、見てはいけないと言われても、どうしても気になって、ついつい見てしまったのですが、そこには娘はいなくて、くたびれた鶴がいたという話です。

    このなんの変哲もない鶴の恩返しという昔話は、一体何を意味しているのでしょうか。何か重要なことを教えてくれていると思いませんか。

    四次元能らしく解釈をすると、これは自己の指し示しを意味しているのではないかと思うのです。

    これを海舌氏が、自分の分身である「a」が、自分に会うために近づいてくるけれども、「a」が自分だとはっきり分かるほどに近づいてきた途端に、カタストロフ、自己と重なって消え去るという表現で言い表わしてくれました。

    ただ、自分に会うために近づいてくるわけですけれども、それは想像上のことで、実際には、近づいてくる姿は外からは見えないわけです。内から見ると、離れていっているように見えるのですが、それが突然消えてしまうわけですね。外から見ると突然見えるわけです。どちらにしても、途中の姿は見えないのですからカタストロフなのでしょう。

    それでも、何故、実数なのかという疑問が残ります。

    これを解明するには、やはり、MPの問題を明確にする必要があります。

    内側から見れば、実数でも外から見たら、実数とは+1から始まるのではないかと思うのです。内側というのは実はMPなのでないかと思うのですが、如何でしょうか。

    内側から見たMP世界は、原点から無限大までありますが、外から見ると、それがどんなに大きなMPでも、それは点でしかないわけです。

    どちら側にいても、その境界をまたぐときに、カタストロフとなるわけです。

    外側にいれば突然の現象の現れですし、内側にいれば、突然の消滅です。

    波動の収縮というのは内側から見た、つまり、想像して、そう言っているのではないでしょうか。

    又、粒子として見えたというのは、外から見て、つまり、観測して言っているのでではないでしょうか。

    このことをもう少し具体的に検討してみたいと思います。

    鶴の恩返しの話に戻します。

    綺麗な娘と鶴とは自分のことなのです。綺麗な娘となって現れたのが主観的な自分、そして自分の分身が鶴なのです。

    どっちが自分の分身かというのは、自分の本質をどっちに置くかで変わってきますが、とりあえず、主観の自分を本質とします。

    娘を主観の自分とすれば、この物語は、自分が感じたことを口に出して言ったら、それはもう主観=娘ではなくなるということ暗示しています。

    主観の娘=自分を見ようとしたら、見た瞬間に娘が消えてしまったというのは、自分が自分を指し示すことの不条理といいますか、当然の帰結を言い表しているのです。つまり、この物語は客観と主観は、同時に存在し得ないことを暗示しているということです。

    このことをPS理論の文脈で言うならば、主観の娘が消えたということは、単位円が収縮したということではないでしょうか。単位円のMPが元の原点に戻ったのです。

    ですから、後には実軸の世界だけが広がるのです。MP、単位円、複素数の話をしているときは、見えない主観の世界の話をしているのです。

    では、どうして内部を覗くことができないのでしょうか。覗いてはいけないと言われても、覗きたくなるのが人間の本性です。

    鶴の話に出てくるおじいさんとおばさん達は失敗しましたが、実は内部を見る方法があるのです。

    それは簡単なことです。想像することです。

    想像することで、覗くことができるのです。人の心を憶測できるのです。想像することで、自分の内面でさえ覗くことができるのです。

    想像したことを口にすれば、既に述べたように、内面は逃げてしまうことを注意してください。

    想像するとはガウス平面ではどの位置にいるのでしょうか。

    これが、自己を認識する内部でもない外部でもない位置の話に繋がっていくのです。

    これまでの基本事項を要約すると、以下の通りです。

    ・ aは見えない
    ・ ⇒aと⇒+1は雲泥の差がある
    ・ ⇒+1と+1は異なる
    ・ ガウス平面は心の内面である
    ・ 単位円はMPを拡大した図である
    ・ 内部には複雑な構造がある
    ・ 外部でも内部でもあるという特別な位置がある
    ・ 特別な位置とは⇒+1と⇒-1である
    ・ 二人の自分がいる
    ・ <+1の⇒aは現象化していない
    ・ ⇒aと⇒+1は現在進行形の内部の出来事である
    ・ +1、-1は現在完了ないし過去の現象である
    ・ aとは不確定の心、⇒+1は確定の瞬間、+1とは確定の現象
    ・ 心⇒現象、主観⇒客観、不確定⇒確定
    ・ 二回転すると自己が認識できる

    二人の自分がいる、二回転すると自己が認識できるということに関しては、まだ不明な点もあると思いますが、徐々に明らかにできると思います。

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