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from: 生成門さん
2014年02月18日 10時41分48秒
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呟きは私の存在証明だ
呟きは私の存在証明だ
<陰陽科学=S言語ゲーム>
呟くことは思考を断片化・量子化することですが、量子化することは思考を停止させることです。その静止させた思考を今度は文脈化して流れを取り戻します。思考に運動させるのです。問題はその呟きは一人称だということです。唯我独尊です。そしてその呟きを再度読んでみます。つまり、確認するのです。これで再帰します。自己を認識することになります。
一旦停止した思考に動きが出て来るのです。しかし、それは三人称です。自己を他者のテキストとして自己に回帰させるのですから当然です。デカルトはこれを「我思う。故に我あり」と帰結して絶対的な自己の確信を得ました。思ったことは確信できないが、思う自分が存在することだけは絶対確信できると言ったわけです。これを変形してみましょう。「我呟く。故に我あり」となります。呟いたことの内容が真実かどうかについては確信は持てないが、呟いた私がここに存在していることは確かです。
その証拠の一つの断片例が
・・・・・
2014年02月17日(月)86 tweetssource
11時間前@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
電子と陽電子は左巻き/右巻きでエーテル糸のようにとぐろを巻いている。真空中では相殺さる。正負質量も相殺して質量ゼロで真空中に隠れている。
posted at 20:04:03
・・・・・
です。
この短い断片が私の存在証明です。
存在とはアリバイであり、それを証明できることです。それがこの呟きに集約されているのです。言ってみれば存在は三人称化されたスナップショットです。では生きている一人称の私はどこに行ってしまったのでしょうか。それは「ここにいます」。でもそれは生きた私ではなりません。「ここにいる」と言った瞬間に生きている私は死んだ三人称の私に変化してしまうのです。スナップショットとはそういうです認識なのです。
何を言いたいのでしょうか。
そうです。デカルトは自己=自我を証明したのですが、それは三人称としてアリバイを証明したのです。ですから、後の哲学者達によって身体と精神の分離、心身二元論として批判されたのです。しかし、それで批判したからと言って心身一元論の哲学に成功したのでしょうか。それは論として言っただけであり、実践としては相変わらず心身二元論なのです。
科学は皆そういう枠組み(三人称)で構成されています。芸術だって実践は一人称ですが、鑑賞するときになると三人称化されます。つまり、芸術だから一人称だとは言えないのです。認識とはそういうモノなのです。確かにピカソは二つの顔をもった女という絵を一人称で表現しようとしました。頭の中では一人称でした。しかし、表現した瞬間に三人称に変化してしまったのです。表現できなければ認識できませんから表現したものは三人称化されるしかないのです。
デカルトは「我思う。故に我あり」ですが、ピカソは「我描く。故に我あり」です。つまり、我=ピカソを「故に」と帰結することでしか自己の存在を確認する方法がないのですね。絵はピカソの存在を証明する証拠でしかないわけです。ピカソでさえデカルトのスナップショットから逃れることができないのですね。これは人間の宿命だと言って良いでしょう。
生きている者は自己の存在を静止させるしか認識する事ができないのです。この存在と認識のどうしようもない分離は避けられないのです。ですからデカルトを批判しても問題は解決しないのです。デカルトが認識と存在の分離を考えたのではなく人間が先天的に持って生まれきた思考の枠組みを発見したのです。これをデカルトの特有の思考とするのは間違いです。すべての人間の特有の思考というべきでしょう。
それでも人間は聖なる思考=生きた思考を取り戻したいと願っています。それが一人称への回帰です。しかし、我思う=一人称で留まっているなら、それは良いのですが、そうはいきません。言語ゲームは留まる事を許さないのです。ですから、「故に我あり」となって、存在を認識しなければならないのです。
存在と認識を繋ぐのが論理であり、古典論理と言われるものです。古典論理はスナップショットの原理に基づく静止画の世界の論理です。当然ですが、生きている人間という現実が存在しているのですから、それを生で掴みたいという欲望は常に存在しているわけです。そのスナップショットの論理を超越した論理(即非)は仏教や陰陽論の世界にはありますが具体的に成功した訳ではありません。まだ未完成交響曲の状態にあると言った方が良いでしょう。-
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from: 生成門さん
2014年02月16日 10時33分52秒
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ずいぶん長いコメントになってしまいましたが、そろそろお仕舞です。
恋愛に於いて愛Fは心理的な距離xの二乗に反比例するでしょう。つまり、疎遠になれば愛は小さくなり、すれ違いになれば愛は消えてしまいます。
これを
F=k/x^2
とします。kは係数ですが、簡単にするためにここではk=1とします。
よって、
F=1/x^2
何故、距離の二乗なのかですが、
これは自然現象はそうなっているからです。チャーマーズは精神物理法則があると言います。これは物理と精神現象の間に構造的な干渉があるなら同型であると言います。力は遠くなれば小さくなるのは精神でも物理でも同じだいうことです。ですから1/xではなく1/x^2であることが重要なのです。
後で出てきますが、1/x^2だからこそメービウス変換が出て来るのです。
F1*v1=-F2*v2=一定
ですので、相手の方から攻めてみましょう。こっちが愛したらどう反応が返って来るのでしょう。
F2=-1/x^2*v2=一定
v=dx/dt
なので
-1/x^2*dx/dt=一定
ですから、
-1/x^2*dx/dt=一定
となり、積分すると
1/x=t
となりました。
どうでしょう。時間が空間となりましたね。これがメービウス変換です。後は本体の方で説明しています。参考にしてください。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 10時20分05秒
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真に相思相愛の運動を表現するには時空の相互浸透だといいました。愛=愛'を「愛する」=「愛する'」に変更しなければなりません。ですからF1=F2では不十分です。どうすればよいでしょうか。運動=「する」をどうこの式に挿入すかです。そこで思い出すのが、相撲の外掛けです。外掛けとは外積のことです。外積はネジの運動を表現する方法です。運動と言えば直線運動を想像しますが、直線運動は相互作用の運動ではありません。単なる一体の移動です。Fだけです。真っ直ぐに進むのは力と進行方向が一致しているからです。円運動も瞬間で見ると直線運動と同じです。
しかし、相互作用となると様相が違ってきます。相撲のような場合は相手がいますからF1=F2です。釣り合っていれば動きませんがから止まっているように見えます。どちらかが大きければ動き出すでしょう。その時は直線運動と同じになります。しかし、瞬間で見れば止まって見えます。こうした直線運動でも相互作用がある場合は、止めてはいけないのです。その為にはF1=F2を「する」に変更しなければなりません。
F1する=F2する
です。
存在1*動詞1=存在2*動詞2
です。これが「私はあなたを愛する」そして「「あなたは私を愛する」という自然言語の二人称の正しい数学的表現でしょう。
後はこれを記号化すればよいだけです。
自然言語は曖昧ですから、もう少し厳密に表現しなければなりません。「私はあなたを愛する」は私は愛する力を持っている。その力を行使してあなたに愛を与える。と言えばより正確でしょう。これは愛の告白からそれの続くすべての行為までの恋愛という言語ゲームです。愛の力=F1、F2とします。与えるは動詞ですから与える=v1、v2とします。
従って、
F1*v1=-F2*v2
となります。ここで-が出て来たのは、相手の力がこっちに向かってきたからです。
ここで*は外積を意味します。外積とは二つの直交するベクトルの積を取ると方向が二つベクトルと直交する方向に出て来るというものです。これがねじの法則と言われ二つのベクトルの積は捻ることに相当します。捻ると回転しますからそうするとその回転面に対して垂直方向にベクトルが向かうのです。これは愛の力と速度の外積をとると愛が前進するという式です。愛を育むには外積という積が決めてなのですね。
そしてこれはなんとニュートンの動的作用反作用の式と同じにったではりませんか。ニュートンでは
力*速度
ですが、ここでは愛=力、動詞=速度としています。
問題は愛を力、動詞を速度として良いのかです。愛=愛'
としたよりは良さそうですが、果たしてそう言えるでしょうか。愛を力とするのは良いでしょう。愛とは心です。その心が言霊となって相手に響くのですから力としても良いでしょう。物理の力とは同じではありませんが、影響を与える物と考えるとそれは可能でしょう。
「与える」という動詞を速度とするのはどうでしょうか。速度とは方向を持って動く速さのことです。動詞はすべて動くことですからそれを速度で代表させることは可能でしょう。動くことの内容は問わないということです。動くことの内容は言語ゲームそのものですので、また違った数学になるでしょうが、ここでは基本ゲームだけを問題とします。
与える速度とは何でしょうか。愛する速度と言っても良いでしょう。運動とは常に二体問題です。二体問題とは二人称の認識になります。一人称では唯我独尊であり、運動の本質は掴めないないのです。
速度とは距離を時間で割ったものですが、恋愛では愛の速度は心の距離と時間の関係です。
愛の速度=心の距離/心の時間
です。
これは遠い二人の間の心理的な距離を短い時間で心を伝えることができたら愛の速度は速いと理解できます。愛を実現するのは早い遅いがあるということです。当たり前ですね。一目ぼれとはあっと言う間の恋愛成就です。片思いもありますが。いずれにしてもこの数式は使えそうです。
重要なことは、一般化した動的作用反作用の式:F1*v1=F2*v2から時空相互浸透のメービウス変換が出て来るのかということです。それが言えることを証明しなくてはなりませんね。ではやってみましょう。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 08時33分24秒
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真に相思相愛の運動を表現するには単なる視点の移動ではなく、時間が空間になり空間が時間になる事が必要なのです。それを実現するのがメービウス変換です。相思相愛は時空相互浸透が必要なのです。恋愛の真実が時空相互浸透だということです。こういう論理はまだ誰も言ったことはないでしょう。
考えて見れば直観では当たり前のことですよね。しかし、直観では分かっていてもそれを数学という形式で表現することができないということでしょう。球体モデルはその一つですが、残念ながらそれは直観とは裏腹に死んだ恋愛の姿を表現してしまいました。
何がいけないのでしょうか。
相思相愛を愛=愛`としたのがいけないのです。「私はあなたを愛する」は「あたしはあなたに愛を与える」です。決して「私は愛する。だから、私は存在する」ではありせん。デカルトでさえ間違ってしまうのですから、凡人である私達だって短絡するのは当たり前です。「だから、私は存在する」と帰結する思考は人間の特性です。人間は本来一人称的でしたが、知性によって三人称化して、スナップショット的思考が得意になってしまったのです。写真が写実である=時間を止めることはその典型的な例です。角度を変えて、つまり視点を変え写しても見た面は変わりますが大したことでありません。運動を取り逃がしているのです。
「私は愛する。そして、あなたも私を愛する。だから、互いに存在する」
このような愛の形が自然です。これを数学的な形式できないといけないのですね。その為には、相思相愛を愛=愛'ではいけないのです。愛=愛'に足りないのは「する」です。つまり動詞がないのです。愛する=愛する‘から相思相愛が成り立つのですね。当たり前のことです。これを数学て表現することができなかったのです。数学というのは人間の直感でわかることを表現できないのですからかなり遅れているのですね。
愛=愛'の方が簡単ですからF1=F2で十分です。十分ですが運動が抜けてしまいます。それで後で動かすのですが、疑似的になります。本物の恋愛でありません。他人の恋愛を動画で見ているようなものです。恋愛をセックスと置き換えればもっと生々しく理解できるでしょう。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 08時04分00秒
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何故、私の愛⇄あなた愛は相思相愛のように見えるが決してそうではないことを証明してみましょう。
先ず、球体愛モデルは視点の移動だけであって愛の運動ではありません。私の愛⇄あなた愛は愛=愛‘です。F1=F2です。相撲で言うとガップリ四つです。止ったまま動かないのです。行司が催促してようやく動き出しますが、行司がいなければ、じっとしたままです。そのうちに疲れてお仕舞です。止まっている物を見かけ上動かしてとしても、やはり止まっていることには変わりがありません。球体愛モデルから導かれる私の愛⇄あなた愛、F1=F2は相思相愛の運動を表現できないモデルなのです。
ですからこの枠組みは採用できません。替ってメービウスの枠組みを使います。
メービウスは私とあなたという二人称の枠組みです。私とあなたは始めからおなじ時空に存在しているという球体の枠組みではありません。球体ではあなたは対象であって主体ではないのですね。自己(私)の所有物なのです。対等ではないのですね。メービウスの環の構造は対等であり、不連続であり、捻じています。この捻じれを通して時空が相互の浸透します。時間が空間になり空間が時間になるのです。これは球体ではできない芸当です。球体の視点の移動では時間は時間、空間は空間です。アインシュタインのローレンツ変換はx‘=xλ,t`=tλとなっています。つまり、空間は空間空間は空間の変換なのです。
メービウス変換における変換は視点の変換ではありません。時間⇄空間です。これはとても重要です。過去の記憶が現在の出来事に、未來への想像が現在に栄養を与えるのです。これこそが現実的な愛の姿を表現するモデルではないでしょうか。では、そのメービウスはどこから来たのでしょか。球体モデルは光のモデルです。宇宙は球体だと仮定してミンコフスキーがかってに持ってきたのです。
では、メービウス構造はどこから持ってきたのでしょうか。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 07時30分28秒
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球体愛の自己認識は静止画ですので、それに「愛する」という運動を相互作用=相思相愛と看做して式で表現すると私の愛=あなたの愛となります。「=」ではまだ静止画ですのでとこれを私の愛⇄あなたの愛とします。これで時間が入りますので運動したようになります。これが果たしてWatashiさんの言う「8の字軌道で自分が反転して、交互に変身しているような運動をしている自己」となっているのでしょうか。
静止した愛に運動を与えることはできます。しかし、問題はそれが生きた愛の姿かどうかということです。相思相愛は一人称ではなく、まして他人の愛=三人称ではありません。二人称の愛=相思相愛でなければなりません。自然言語ではそれが相思相愛愛などと言うことができますが、数学的には球体のモデルは愛の死んだ形になってしまうのです。決して止まっていながら移動して運動する愛にはならないのです。私の愛⇄あなた愛は相思相愛のように見えますが決してそうではないのです。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 07時15分36秒
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球体愛は三人称の自己認識のモデルです。これを数式で現してみましょう。「私はあなたを愛する」は変形すると「私はあなたに愛を与える」です。これをデカルト風にすると、我愛を与える。ゆえに我の愛ありです。つまり、愛だけがあるのです。名詞化された愛は私の存在証明なのです。従って、「愛」だけです。これが自分の愛を球体という鏡に映した360度の私の姿です。視点の移動が運動ではないことが分かっていただけたでしょうか。実際、アインシュタインの相対性理論では、愛の姿は時空と共に違って見えるが、私が存在していることは間違いないという自己認識を導き出しています。流石に、それだけでは「愛する」という運動を捉えたことにはならないので、相互作用=相思相愛を持ってきます。それを式で表現すると私の愛=貴方の愛です。
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from: 生成門さん
2014年02月16日 06時54分27秒
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座標を変換して視点を移動することで、運動したと想いがちですがそうではありません。運動とは「愛する」ことであり、「愛する」ことを見ることではありません。愛の形がさまざまに見えるとことは自分の愛の姿が何であるかに気が付かせてくれるかもしれませんが、それと「愛する」こととは違います。
球体の愛は過去から未来に向かう一方通行の愛です。確かに原点0に過去とと未来が集約されますから、互いに運動をしている自己のように見えますが、決して球体にはそのような運動は存在しません。愛するという瞬間を止めて静止画で見たのです。それを時間の方向に動かしてみるのです。それを互いに運動している8の字軌道で自分が反転して、交互に変身しているような運動をしている自己だと思ってしまうのです。icon
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from: 生成門さん
2014年02月16日 06時39分39秒
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24時間無休の明晰夢のお蔭でクリアカットになりましたので補足します。愛というのは名詞的な表現ですね。名詞というのはスナップショット的な思考になりやすいですね。動詞に変換してみましょう。「愛する」となります。当然、「私はあなたを愛する」となります。動詞的な表現こそが重要です。その世界は一人称ですから原点0は私です。視点をずらしても私であることには変わりはありません。球体はミンコフスキー空間のモデルです。アインシュタインはこれをインフラとして時空変換の式を考えました。確かに360度の視野が開けたという点では世界を掴んだかのように思われます。しかし、どれだけ座標を変えたとしても見え方違うだけで本質は変わっていません。親しみやすい座標は直交座標ですが、それ以外は斜交座標になります。斜に構えると言いますが、そのように対象を見ることも重要でしょう。
「私は愛する」がどのような自己を認識させるのかを「私は思う。故に我あり」から類推してみましょう。「私は愛する。だから私が存在する」となりますね。これはスナップショットです。思考が停止するのです。icon
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from: 生成門さん
2014年02月15日 20時38分05秒
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動的相互作用は二人称の認識だ
動的相互作用は二人称の認識だ
<心霊科学=S>
静的な作用反作用は三人称の認識です。動的相互作用は二人称の認識です。一人称からどうして二人称に変容するのでしょうか。これが肝です。
ーーー
森のように深い
http://twilog.org/fractaleman68
https://twitter.com/fractaleman68
F1*V2=-F2*v2が三人称から一人称へ向かう動的作用反作用でるあることを示してみよう。
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