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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 18時59分34秒

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    道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな


    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな

    <補完共振>

    山水庵のテキストを編集的に引用しています。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    道元は悟りを四つのカテゴリー(A悟・B悟・C悟・D悟)に分けています。

    A悟:言語による理解
    B悟:荒行による自覚(道元は否定)
    C悟:心身脱落
    D悟:言語による表現

    としています。


    悟りには大きい、小さな、広い、狭いがあるのですから、多様な水と月の検証が必要なのです。多様な水と月とは、自分の自覚、釈迦の自覚を含む、先達の自覚の内容との照合です。天月と水月の関係は、C悟が天月で、A悟が水月です。悟りを得ようとして、何かをすることは一つの悟りなのです。ですから座禅瞑想したらその内容を吟味して、一つの言語表現にするのです。その都度、その都度の座禅の瞑想で得られたアッハ(悟り)の内容を思索して言語にするのです。具体的には問答、提示、仮説的な表現になるでしょう。この言語表現された悟りをD悟と呼ぶのです。 

    言葉にされたものは、座禅の内容そのものではありえません。思索や言語表現においては、一の事に通じたからといって、すべての事に通じるということはないのです。職人芸がすべてのことに万能ではないことから容易に想像できるでしょう。ただ、抽象度が高ければ、「一つの事が通じれば、すべての事に通じる」といえでしょう。それは、宇宙の法則であり、色即是空、空即是色なのです。それを体現できるのは、ただただ座禅だけです。座禅瞑想=体験(C悟)こそが「悟り」を実現するのですが、しかし、悟りについて勘違いしてはなりません。より本当の悟りとは、理解(A悟)したことを体験(C悟)で確認し、その内容を言語として表現(D悟)しなければならないのです。ですから悟りはこういうものだと座禅瞑想=体験(C悟)して、悟り(D悟)を表現できたからといって悟ったと勘違いしてはならないのです。経典を読んで理解(A悟)したからといって悟ったと勘違いしてはならないのです。それは全悟りではないのです。たとえば『正法眼蔵』は「D悟」に過ぎないのです。これが座禅における悟りの全悟り=理解(A悟)、体験(C悟)、表現(D悟)の要請なのです。  

    このように全悟りを自覚すると道元の悟りに対する言語表現、すなわちD悟がいろいろ変化することは当然です。道元の言説で正しいというのは仏教の本質に限ります。『正法眼蔵』各巻は、いってみればその時々の道元の一つの悟りであるにすぎないのです。道元もいろいろと悩んでいたようです。D悟の変化がそれを示しています。道元ものテキストによっては、「仏像を建立するのは仏の道ではない」とか、「仏像建立はまさしく悟りへの入り口である」などと逆のことをいっているのです。あるいはこういう例もあります。「在家出家には関係はない」と言ったかと思うと、15年後には「出家のみ悟りの前提である」といっています。一体、道元はこの頃どんな水月を見て悟っていたのでしょうか。少なくとも、「出家だけが悟りの条件」という表現は、別のテキストからは道元自身が吟味したという形跡はどこにも見られないのです。

    ところで、非思考を言語表現するというのは釋尊すらたじろぎ躊躇した至難の業です。大概は否定を連ねるという工夫をしたり、壮麗な虚構のイメージで仏の世界を描いたりしました。それが仏教のテキストなのです。禅の世界では機智を用いた問答や身体言語、あるいは偈が導入され積み重ねられました。そしてそれは言語を否定するのです。不知・不明・不識・不可など否定がつくのです。それが極まって不立文字ということになったのです。 

    ところが道元はこれを全く無視しました。言語を裏方ではなく、武器として肯定的に使ったのです。道元は無を逆に取ったのです。その無をとって知慧としたのです。それは道元の座禅が知慧、つまり言語や思惟と深くかかわるという自覚以上に、無我を論証するための理法としてではなく、また迷を作り出すものとしてでもなく、座禅において現に生成している仏を肯定するという意図からくるのです。その意図はこう言語化されました。  

    言語の肯定です。しかし、説明の対象に限定されるような実体があるわけではありません。だから無なのです。知では把捉できないものですから、「虚空」とも表現されます。しかもその知慧と座禅が「虚空」を接点に、ものの見事に結ばれているのです。このように道元における言語表現の天才的能力は、漢語の経典を脱構築して和語の思考の中に自在に取り込む独特のスタイルを創造したのです。つまり、一応ふつうに自覚できる(たとえばおとぎ話が論理的ではなく事実と反していても、自覚はできるという意味で)テキストの文脈を無視して寸断して、それを自在に編集してアクロバット的に用いて、座禅において成り立っている理解できないことがら(非思考 )を説き示すという前代未聞のことをしたのです。
     
    その『正法眼蔵』(D悟)は、「悟り」としての正法眼蔵(C悟)ではないのは当然ですが、映された水月として、間違いなく月です。月でないものではないのです。仏法であるからには、悟りは言説を離れてはないのですから、言語の悟りも一応の真理なのです。道元は「悟り」とその言語表現の関係を、《夢中説夢》《空華》《画餅》《葛藤》などで省察しています。

    たとえば理解できない「悟り」を道元は「夢」と示します。ふつうは悟りとは夢のような現実から覚醒することであるとされ、あるいは覚醒してみたら現実と思っていたものが夢であったとわかると考えます。ところが道元はこの夢のみが真実であり実相なのだというのです。

    これは道元一流の逆説です。この夢は明らかな百草であるといいます。つまり、夢といっても仮想の世界ではなく、目前にある具体的現象ということです。それを人間が見れば歪みや迷を生じるのですが、普通はそれを現実といっているのです。また「夢」は、悟りを言葉で思考して掴もうとすることへの警告でもあります。悟りはただ心身脱落するところにあり、それを説明するのは、ただ夢を説明しているのであって、それが普遍の真実だなどと誤解してはならないのです。

    D悟は、いわば重層する夢ですから、道元のいうこと、学習方法、説得方法は変わるのです。道元の言葉に騙されてはならないのです。そうはいうものの、その言葉を使って「悟り」を示さねばならないのです。伝統的に禅宗は言語表現、とりわけ経論を、飢えを充たすに足らない画餅だといって揶揄してきました。ところが道元はいいます。〈画餅でなければ、飢えを充たさない〉、〈画餅でなければ、悟りは得られないし、悟りの道でもない〉と。画餅が、ぜったい必要だというのです。また仏教で空華というのは、迷っている人の妄想の例えとして、目の悪い人が網膜に映る眼球自身の傷を華と見るようなものだとしてきました。ところが道元はいいます。〈仏の世界は空華である〉と。真実の世界を「空華」というのです。 

    普通は、経典の言葉を仏法であるとみなし、たとえば法華経に書かれていることが真実だと思うでしょう。しかし、道元は、それらは空華であり、夢であり、画餅であるというのです。たぶん道元は、たとえゴータマが実際に説いたと科学的に証明される言葉があっても、それを悟りとか涅槃とか真実とかは言わないでしょう。なぜならゴータマでさえ知り得ないことを語るのです。

    その言表がどうして絶対的真実なのでしょうか。道元ほど言語表現が俗世であること、言語的悟りであることを自覚している人はまれなのです。以上によって道元における理解しえないことを語るというC悟(心身脱落)とD悟(悟りの言語表現)をめぐる事態が明らかになったと思います。  

    さて、では何のため、だれのために言語表現が必要なのでしょうか。換言すれば〈悟りを検点し、仏の悟りを理解〉するのは、何のためまのでしょうか。見方によっては誰の為、何の為でもなく、座禅の瞑想がおのずからに自覚の言葉、たとえば悟りの証明する言葉、悟りを感じた言葉になるともいえます。しかし、まずは道元自身のためでしょう。  

    自分の悟りの大小を点検しなければ、道元自身がどのくらいの悟りなのか、どちらの方向に行くべきかの選択を間違うでしょう。たえず釈迦の言という広大深々な水月を見比べ、古仏や新仏たちの大小の水月である言語表現を較校してはじめて、道元の水月の量 が明らかになるのです。逆にいえば命をかけて探究し、了解しない言葉など、たとえ釈迦の言葉であっても生きて働くことはできないのです。しかしながら道元の学習方法は、どこまでも道元の学習方法であり、それは「悟り」(C悟)としての真理でも悟りの標準でもないのです。むしろ道元という水月を、人は今、自らの水月を量るために、点検し、了解すべきなのです。身心脱落が「悟り」だ、と誰かがいうこともすでに道元は警告しているのです。  

    終り。

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