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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2008年08月11日 12時45分17秒

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    道元宇宙への接近(1)

    道元宇宙への接近(1)
    <道元との共振>

    スペースシャトルではいろいろな実験がなされています。重力がなく地上の常識が通用しないから大変です。地上でならば先人の知識が役に立つでしょうが、宇宙では何もかもが未知の体験です。道元宇宙への接近も常識が通用しなので工夫がいるでしょう。どのような方法が有効なのでしょうか。

    四次元能がチャレンジしようとしているのは、三次元脳(左脳優位)から四次元脳(右脳優位)への転換です。その転換モデルとして道元が上げられます。道元(釈迦からの文脈を受けつないで来た仏祖を含む)は世界で始めて四次元脳(右脳優位)への転換した人(達)です。それを知る手がかりが道元の悟りを表現したテキスト、正法眼蔵です。正法眼蔵には道元の宇宙観、即ち、悟りの内容が示されています。正法眼蔵の中でも「現成公案」は、悟りのエキスを表現しているのです。そこで現成公案を最初のターゲットに四次元能を試みてみたいのです。

    正法眼蔵全体が難しいのですが、その中でも現成公案は思想詩といわれ難解中の難解です。そのままの直訳ではもちろんのこと、意訳でもなかなか理解できないのです。理解できない理由は、悟りというもののイメージが心的内面のことであり、実態のないものであり、経験がないものにはそれを想像できないからです。

    バナナを食べたことがない子供にバナナとはどういうものかを説明しても、子供は理解できないでしょう。バナナはまだ実体というものがあるからいいのです。悟りには実体すらないのです。それに加えて、悟っていないものが、悟りについて説明するのだから容易なことではありません。それでも悟りについて知りたい、悟りたいという願望があれば、なんとか方法はあると思うのです。

    悟りを理解するにはトレジャーハンティング的アプローチが有効です。つまりシムダンス的アプローチです。スペースシャトルの実験とは人類の夢です。悟りを開くというのも人類の夢です。それが窮地に追い込まれた人類を救うことになるのです。チャレンジしてみる価値があるでしょう。

    さて、分かりにくい道元の悟りにトレジャーハンティング、シムダンスを舞って見ましょう。華麗に行くかどうかは心次第です。心とは世界は解釈であるとする世界観です。この世界観=シムパラダイムは、この世界は四次元であると言う解釈です。私達の常識的世界観は三次元世界でから、この三次元世界観=三次元脳を四次元脳の転換するのは容易ではありません。それでも世界は解釈であるという仮説によって、シムパラダイムは、という解釈により三次元世界観を四次元世界観=四次元脳に編集するという大変革に挑戦してみようと思います。

    シムダンスは編集という方法によって、世界観を編集する四次元能なのです。四次元能とは脳の中の能であり、不可能を可能にする能なのです。

    では、道元の宇宙がどう四次元能と関係するのでしょうか。シムダンスでは既にティトムのエンターテイメント共振が始まっています。しかし、道元とティトムには分かりにくさがあります。ティトムを理解するには宇宙論と素粒子論の基礎が必要です。道元には仏教という文脈が必要です。どちらもこれが厄介です。ですから、理解するためには多くのナビゲータが必要なのです。それを簡単にするためにシムダンスは、<ティトムとの共振>と<道元との共振>という二つ舞を舞うことにします。前者はティトムのナビゲータが中心で、後者は道元のナビゲータが中心で、トレジャーハンティングを進めていきます。もちろん、互いに浸透し合っていきます。ティトムでは道元がパートナーとして絡み合います。道元ではティトムがパートナーとして絡み合います。それ以外にもシムダンスがあります。この能舞台は、数多くのシムダンスで混雑しています。他のシムダンスは、上の二つを補完する補完共振、能の対する狂言のように逸脱する逸脱共振があります。四次元能は複数のシムダンスの舞台になっているのです。四次元能は編集なのですから、必要があれば貪欲にシムダンスするでしょう。したがって、共振は、この他にも増える可能性があります。

    幸い、今日はインターネット時代です。インターネットには多くのナビゲータがいます。インターネットテクノロジー=検索・リンク・その他を利用すれば編集がよりダイナミックにできます。ダイナミックという意味は、インターネットは四次元ライクだということです。道元は瞑想を悟り武器に位置付けていますが、実は、瞑想は四次元世界への入り口なのです。ですから瞑想とは脳の編集なのです。インターネットテクノロジーを利用した編集は脳の編集であり、道元の瞑想と述語的には同一なのです。ですから、シムダンスでは、これをインターネット禅といい、四次元能の最大の武器にしていきます。

    インターネットと道元の瞑想を述語的に同一視したように、道元との共振した最大の理由は、悟りの様子が述語論理で表現されているからです。述語論理は、四次元世界に行くために欠かせない思考なのです。私達の常識は主語論理です。主語論理とは、何事も、「Aは、Aである」から始まります。人と対面するにしても名刺を差し出します。私はこういうものであると名乗るのが常識です。しかし、道元ではスタートからこの常識が門前払いされてしまうのです。述語論理には主語がないからです。多くの解説書を読んでも理解できないのは、述語論理で表現されたテキストを解説者が主語論理で解釈し、それを更に読者が主語論理で解読するので解釈の悪循環を引き起こし、益々理解不可能にしてしまうことに原因があります。それ以前の問題もあります。例えば、「現成公案」という言葉でさえ、現代語でいうと、いろいろな解釈があるのです。人それぞれに解釈されています。仏はいまここに世界とともにあらわれ永遠に生きています。とか、現に成る公の案などと訳してもてもチンプンカンプンです。悟りを得るために公開する文書というならば、多少は理解できるでしょう。悟りのための行動指針といえば現代風です。しかしそれではありがたみはなくなってしまいます。

    よく現状公案は分かりにくいから、何度も繰返して読むべきであるというようなことをいう人もいます。それは間違ってはいないでしょうが、テキスト自体は数式よりは簡単です。説明して理解できないというのはおかしいでしょう。それを繰返し読んでも、理解できる能力がなければどうにもならないのです。昔読んでも理解できなかった本を、今読めば理解できることがあります。それは人生経験が出来たから読めるようになったのです。

    意訳されたテキストは大概、読めば平易なのですが、それでも分からないのです。例えば、「迷いを迷いと知るのが悟った人であり、仏道に執するのが悟っていない人である」という意訳があったとします。これを言い換えて見ましょう。「自分を知ることが肝心である。そのために無我になろうとすると、身びいきがでてしまい、ますます見えなくなる」このようになってしまうでしょう。別に悪い意訳ではないでしょう。しかし、何の変哲もない現代の啓蒙書と変りがなくなってしまいます。道元はそんなことを言っているのでしょうか。

    どのように意訳しようとも、部分部分を現代的に訳すと余りインパクトがなくなってしまうのです。何かが抜けてしまうのです。元々悟りと云うのは、言葉で表現できないのを表現しているという無理があります。それを理解しようするのですから、ますます理解できなくなるのです。

    「迷いを迷いと知るのが悟った人であり、仏道に執するのが悟っていない人である」これを、道元を読んでみたが理解できないと言う現実に当てはめて解釈をしてみましょう。道元を理解できない自分がここにいることを知ることが肝心である。何故道元を理解できないのかを知ろうとすると、ますます自分は見えなくなる。ということになります。

    ここに道元を理解するヒントがあります。これがシムダンスアプローチ、シム方程式の応用です。

    シム方程式については、シム方程式による世界解釈を参照してください。

    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068971097
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069646691

    簡単に言えば、道元のテキストに忠実になってはならないと言うことです。道元を理解するには、道元を理解してはならないのです。これは逆説です。道元も逆説が好きなのです。忠実でなければならないと云う人は、主語論理、自我の固まりの人なのです。こうして道元理解の突破口が開けたようです。これが、シムダンスが華麗に行くかどうかは心次第ですと冒頭に言った意味なのです。心とは世界は解釈であるとする世界観であり、シムパラダイムという視点を導入することによって道元の理解が可能となるということなのです。

    しかし、シムパラダイムがあれば道元の理解が誰でも簡単にできると保証するわけではありません。やはり、読む側の人生経験、解釈力が必要なのは致し方がありません。弟子入りすれば悟りが開けるというのはあり得ないのです。やはり、修羅場を体験しなければならないのです。こういう事情があるので人生経験のない人では理解するのは無理があるのです。まして、主語論理的な意訳では理解するのは更に絶望的であるといわざるを得ません。解釈する側と読む側の心が大きく左右するのです。

    道元においても同様な事情があったようです。道元の経歴を見ると相当の苦労があったようです。私達が当時の道元と全く同じような状態で思考ができるわけではありませんが、私達なりの人生経験とか修羅場を潜っていれば、なんとか理解できる可能性があるのです。従って、道元の宇宙に接近するには述語的論理と読む側の心の問題という二つの障害を克服する方法でなければならないのです。それを満足できるようにするのがシムパラダイムという視点によるシム方程式の導入です。これを四次元能ではシムダンスといいます。シムダンスとは編集工学的、臨床実験的、心的冒険などの要素があります。ここではシム方程式を駆使すれば、道元も料理できるとしておきます。

    それではシム方程式を駆使したシムダンス的編集的解釈にチャレンジしてみることにしましょう。シムダンス的アプローチは、既にティトムとの共振で実践中です。詳しくは、<ティトムとの共振>の付いたテキストを参照してもらうことにして、ここでは道元解釈の妙を示すことにします。シム方程式による解釈は大変に奇抜なアクロバット的アプローチとなるでしょう。道元自身、正法眼蔵を記述するにあたっては古典的テキストを切り刻んで、文脈を無視してアクロバット的な編集をしたのです。編集工学なとど言う言葉もなかった時代に随分と乱暴なことをしたのです。空海も同様の方法を駆使したらしいです。四次元能でもそれに習って、道元を切り刻んで、文脈も無視し、かなりアクロバット的にシム方程式を駆使して編集をします。下手をすればトリック、マジシャンなどと避難されるかも知れませんが、これはトレジャーハンティングという心の冒険・精神革命なのです。リスクマネジメント(失敗に備える。言い訳)もしておかなければならないでしょう。

    シムダンス的とは、道元と共振の舞いを舞うことです。あくまで道元を忠実に解釈してコピーするのではありません。編集するのです。編集とは編集する側に意図がなければなりません。道元が何を云っているのかに沿うのではなく、道元が先達にしたように、四次元の編集者として述語的に解釈するのです。道元の本質さえきっちりと把握していれば、検証が可能でしょう。これが四次元能の考え方なのです。

    ここで四次元とは何かが問題になります。四次元イメージについては<ティトムとの共振>で明らかにします。そのエッセンスを受けて、<道元との共振>では四次元とはシムパラダイムの視点であるとします。シムパラダイムの視点とは四次元的世界観であり、宇宙の法則であり、生成の原理であり、宇宙精神です。この宇宙精神が悟りと述語的に同じであるという仮説を立てて舞を舞って行きます。悟りとは自我(左脳優位)を解体することであり、右脳優位にすることですから、最大の狙いは時空概念の解体にあります。もともと、人間は四次元時空体(四次元人間=シムピープル=玄生人)であったのです。四次元時空体が本来の人間の姿です。本来の人間の姿が仏なのです。仏とは四次元時空体なのです。ところが、自我の発達により、人間は時間と空間を分離させてしまいました。それは左脳の発達とも関係します。左脳は視覚脳ともいわれ光と関係します。光は直進を好みます。実際は時空の歪みによって真っ直ぐには進めないのですが、地球では時空の歪みが無視できるので、私達は光の本質が直進性であると思っています。私達はその影響をもろに受けて直線的思考、光と影の二元対立という思考の特徴を持つようになりました。これが便利、快適な物質文明の発展を支えてきました。しかし、光の世界にどっぷりと使った人間は大きな代償を支払わされることになったのです。それが右脳の封じこめによる次元降下です。四次元から三次元プラス時間の世界、疑似四次元世界に住まわされることになったのです。

    このことに初めに気がついたのは釈迦です。釈迦は四次元という概念をもっていませんでしたが、シムパラダイムによって解釈すると疑似四次元世界=三次元世界は色で、真正四次元世界は空ということになります。本当の真の世界=四次元世界は三次元世界を含むので、色即是空、空即是色ということになるのです。

    これを受け継いだ道元は独自にその宇宙観をつくりあげたのです。ただ、四次元、時空、次元、右脳と左脳といった概念は道元自身にもなかったので、道元が四次元であるとは言っていないのです。あくまで、これは四次元能の解釈であることを明確にしておきます。道元は只管、打座による瞑想によって、無意識の世界から真実を明らかにしようとしただけなのです。

    続く。



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