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from: 生成門さん
2008年08月19日 17時44分34秒
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仏とは四次元時空体(4)
図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/
仏とは四次元時空体(4)
<道元との共振>
日常の世界ではあまり横道にそれると支離滅裂であるとか、脇道に逸れっぱなしとか避難されることになるのですがインターネットでは逸脱は常識です。逸脱は述語論理の特徴なのです。一体とは、主語を中心とした閉じた世界をいうのではなくて、述語によって関係したすべての物事がひとまとまりとしてあるような世界です。そして、一如とは、自分が事を行うに当り、すべての物事と共に(Synm)参加することです。述語論理の世界とは、一体一如の世界であり右脳の世界です。スポーツをしている人なら、それを良く理解できるでしょう。ピッチャーならば、マウンドを中心として自分が野球をしている場、関連する世界に包まれていると感じるはずです。一球入魂するその瞬間には自分という主語(自我)がないのです。あるのは述語(他者)です。述語で形成された世界を辿っていくとツリーのように全体と部分が整理整頓された形ではなくなるのです。それらはすべてが同時にあるのです。すべてが共振し共生するのです。無意識ではありますが時間を意識せず、投げることに没頭してゲーム三昧になるのです。
ここからいえることは、運動している時は既に仏=四次元時空体になっているということです。運動しているときは動きが早くなるので集中しなければなりません。言葉は僅かしか必要ないのです。右脳の働きが中心となるのです。運動に限らず、芸術家でも、大工さん、科学者、ビジネスマン、でも熱中して何かをやるときは、いつでも仏になっているのです。即身成仏(そのままで仏になる)、衆生本来仏(人間は本来仏である)とは良く云ったものです。しかし、問題はここからです。そのような三昧は運動が終わると元の木阿弥になるからです。日常生活を営みながら悟るのは容易ではないのです。禅では日常の柵を捨てて出家し、修行をしなければならないとしたのは、悟りを得るのは生易しいことではないと考えていたからであり、不立文字といったのも言葉を使う生活が邪魔になるからと考えていたからです。そして、元の木阿弥に戻らないために切磋琢磨せよといい、一度得た悟りを深めていくべく更に継続的に努力を求めたのです。更に更に、悟りを得ただけで満足せず日常の中に浸透させるために、すべての生活を修行の場としたのではないかと思います。場をモナドと考えれば、そこからすべてが繋がります。ですから、只管打座せよといったのでしょう。しかし、悟りを得る方法として唯管打座(ひたすら座ること)だけとしたのは、右脳の働きが分っていなかったので仕方がないと思います。それにしても、こんなに本質をついた禅が普及しないのが不思議なくらいです。普及しているのは偽者ばかりであるか形式的な仏教だけです。要するに、禅の問題とは時空問題であることが理解されていないからだと思うのです。仏教で悟りとは時空の取り戻しであるとしたのは道元だけです。時空問題とは、もともと四次元の時空の世界に住んでいた人間が、時間と空間を分離させ三次元プラス時間という世界を作り、左脳に依存した生活をしたことに始まりました。それによって生活は豊かになったのですから文句はないのですが、排除された右脳は時々、遊びとか運動とか、芸術、音楽の時に解放してやれば良いのだからということですましてきたのです。よくいうガス抜きです。
日常での右脳と左脳の分裂は本音と建前の使い分けにも出ています。建前が左脳であり、本音が右脳です。これも時空が分裂したことが原因です。本音と建前を使い分けることが上手いのが大人であり、これも仏を捨てたことから始まっているのです。時空問題の根本は、人間が四次元時空体から三次元空間体と時間に分離したために次元低下が起きたというところにあります。次元低下とは時空が時間と空間に分離したことで次元が下がったことを意味します。三次元動物(犬)は二次元動物(蟻)をどう見るのでしょうか。犬は蟻をさげすむかも知れません。犬と蟻を例に出したのは適当ではないかも知れません。人間から見てそう見えるだけで、実際は犬も蟻も四次元動物=仏です。人間だけが三次元、二次元、一次元と低下させたのです。
時間と空間はもともと分離していなかったのであり、時空という脱落心身的存在だったのです。ところが左脳優位となったために、言語が発達し、時間と空間が分離し、それにともなって時間と空間が体から分離して、空間は外部の世界となり、時間は外部の時計で図ることになったのです。どのようにして分離したのかは、又別の機会にお話しすることにしましょう。
仏とは右脳優位の中間多様体=陽優位=四次元時空体であるということを述べました。人間はもともと時間と空間が融合し、外部のリズムと共振した時計を持ち、外部とつながった空間をも持っていたのです。それがいつの間にか分離してしまったのです。現生人は中間多様体=右脳優位=四次元時空体=仏だったのです。生き物はすべてが仏です。だから、禅では生きとし生けるものすべからく仏である等というのです。道元は更に山川草木が仏であるというのです。人間がすべて無意識に述語的に外部と繋がっているということからすれば当然の事です。悟りを開くまでもなく、人は感動したときに仏になるのです。しかし、どうしたことか、人間は二項対立体=左脳優位=言語中心=三次元空間と時間分離体となり、仏を捨ててしまったのです。四次元から三次元へ次元低下したのです。三次元空間時間分離体とは、四次元時空体から三次元空間と時間に分離したことをいいます。ですから、三次元空間と時間の分離体になっても、三次元空間と時間の四次元で思考していることには変わりはないのです。しかし、四次元時空体ではないのです。ここに大きな違いであります。巷では、私達の世界はもともと三次元であり、四次元の世界をイメージするのは難しいといいます。それは歌を忘れたカナリアが云うことであり、かの有名なアインシュタインがその歌を再現してくれたのです。時間と空間は分離していないと言明してくれたのです。それは、宇宙の彼方の事ではなく私達の世界の事なのです。私達自身の事なのです。仏教では遥か昔から、仏とは四次元時空体であるということを、即身成仏(そのままで仏になる)、衆生本来仏(人間は本来仏)として示していたのである。
このテーマ終り。
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