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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年08月28日 12時57分43秒

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    四次元時空体とはクリック観音様

    四次元時空体とはクリック観音様
    <道元との共振>

    温暖化防止のためには、右脳優位の文明の英知を導入しなければならないことは既に述べました。右脳優位のノウハウは東洋文明にその真髄が隠されていたのです。特に次元低下した現代人、自我中心の態度を解体するには四次元時空体を取り戻さなければならないのです。

    四次元時空とは、アインシュタインの相対性理論が示したものと同じ概念です。つまり、時間と空間は単独に独立して存在しないのです。それは遠い銀河系の彼方の世界の事ではありません。私達が生活しているこの世界のことなのです。この世界は、私達が勝手に解釈して作り上げた主観(妄想)の世界です。これを便宜的に現実といっているのです。ですから同じ対象でも多様な三次元の現実として姿を現します。しかし、もっと根本的なもう一つの現実世界があります。それが四次元時空の世界です。四次元時空を脇において、客観的な三次元空間と時間があるとしてみているのは左脳がご都合的に虚構(解釈)したにすぎないのです。私達は無理矢理、そう思わせられているのです。それで失ったものは大きいのです。

    四次元時空をわざわざ次元低下させたのですから本来の世界、本来の自分ではないのです。しかし、私達は、いつでも、どこでも四次元時空体に戻ることができます。仏教では日常の柵の世界、苦の人生から逃れるためには仏になればよいといいます。仏になるためには無になれば良いとします。無とは自我を捨てることであり、自我を捨てるには座禅をして修行をしなさいといいます。読経をしなさい。ヨガをやりなさい、などといろいろな教え方をしてきたのです。

    それでも、なかなか悟りを開いた人はいないようです。出家せよというのですが凡人には世間を捨てることなど簡単にはできないでしょう。皆が世を捨ててしまったら社会は成立たないからです。在家で悟りが得ることなどあり得ないと思います。悟りを得たと言う話は聞いたことがありませんし、実際、仏教は末法になってしまいました。

    しかし、自我とは左脳が作り出した虚構、右脳とは無意識の事であり、言葉を使用しなければ、いつでも悟りの世界=右脳の世界に入れることが分ったことだけでもその意味は大きいと思います。ですから、座禅をして修行をする必要はないのです。

    問題は右脳の世界に入れたとしても、持続が出来ないということです。日常の世界を捨てない限り、言葉を使用しなければならないし、この世界は主語論理が中心ですから左脳を使わなければ生きてはいけないのです。最近では田舎暮しや自然とのふれあいなどいうテレビ番組が人気ですが、それは日常の世界を捨てないまでも一時的に忘れたいという潜在的な願望の表れでしょう。ポストモダンでも、この現実から逃れられるためには「逃走せよ」などという考えが持てはやされたことがあります。若者がその影響を受けたためかフリータ-が増えたように思います。しかし、勘違いしない方が良いと思います。温暖化問題が浮き彫りにしましたように、文明の侵食されていない所などないのです。仙人になっても、それは物理的に人里離れているというだけで、文明という枠組みから逃れることは出来ないのです。熊でさえ食い物がなくて山を降りてきているのです。

    ポストモダンがいう逃走とは三次元から逃走せよということなのです。そして、四次元に戻れということなのです。(そういう説明はないのですが)仙人にならずに日常において右脳優位でかつ左脳も使いながら、仏=四次元時空体となって生活や仕事が出来ないのでしょうか。

    これができなければ、どのように技術を駆使しようとも、自我が蔓延っていれば利己的になるのですからCO2の排出は抑えることは出来ないでしょう。クリーンエネルギー技術よりも以前に、自我を解体しなければならないのです。一瞬だけなら仏=四次元時空体になるのは簡単です。ウォークマンを耳に当て音楽を聞けば、歩きながら四次元時空体になれるのです。これが悟りなんていったら仏さんは怒るでしょうが。仮にこれが悟りだとしても、この方法には弱点があります。音楽を聞くのを止めると元の木阿弥になってしまう点です。

    ビジネスにおいても右脳優位でかつ左脳も使いながら仏=四次元時空体となる持続的な方法はないのでしょうか。それが本題です。

    誰でも観音様を知っているでしょう。不思議だと思いませんか。音を聞くのではなく「音を観る」というのですから。ここに秘密がありそうです。いろいろな解説を調べたが納得のいく答えは見つかりませんでした。そこで、勝手に解釈してみましょう。

    瞑想をしているときには回りは静かです。人の声は聞こえません。沈黙、静寂です。しばらくすると木々のそよぐ音、波の音、虫の声などは聞こえてきます。当然、右脳がそれを聞くのでしょう。瞑想とは思い巡らすことです。しかし、明日借金取りが来ることを考えたら瞑想にはならないでしょう。禅では妄想はするなといいます。これは現実世界の柵に囚われた主語(自我)中心の思考を停止しろということです。それには音に気を向けると良いのです。しかし、借金の返済期日が迫っているなど緊迫しているときは、すぐに左脳優位となって現実に戻らされてしまうでしょう。ですから、禅では世間との柵を断ち切り出家を前提としたのです。それほど左脳の力は強いということです。欲望は左脳が拡大するのです。

    柵を気にすることなく音に集中できれば瞑想は深まります。言語を使わないのですが思考はできるのです。この思考は主語思考ではありません。述語的妄想です。先の左脳優位の妄想とは違うでしょう。妄想というのは余りいいイメージではないので想像といってもいいでしょう。右脳優位、左脳劣位の中間的状態の想像です。これは述語思考です。述語的想像とは取り留めなくハイパーリンク(飛ぶ)することです。借金のことが浮かんできても述語的にずらすのです。例えば、借金とは貸借対照表の借入金である。貸借対だから、貸し付けがあり資産がある。資産とは家と土地、株券である。株券は電子化される。ITの時代はインターネットが進化している。インターネットはweb2.0となり、グーグルが画期的ビジネスモデルを登場させた。と果てしなく想像を続けるのです。述語的想像を意識してすれば述語的思考といってもいいでしょう。述語的思考とは瞬間移動です。こうした述語的思考に近い様式に芸術があります。例えばピカソの抽象画です。ピカソにはこうであるという唯一の主題がありません。その絵を見た者の解釈にゆだねられているのです。ある人が見たものがAであるとして、別の人がBであると見たとします。この場合、ピカソの絵は述語になります。述語論理ではA=X、B=XからA=Bとなります。Xが述語です。述語を同一視することで、AとBが同時に存在する平行世界です。これが四次元の世界です。このようなことを可能にするのが述語論理なのです。

    四次元能では、述語論理からヒントを得て右脳優位でかつ左脳も駆使して、持続的に仏=四次元時空体になる方法を開発しようとしています。それをシムダイアグラムといいます。シムダイアグラムとは四次元脳になるための脳の編集といってもいいでしょう。詳しくは四次元のことが明確になってから示すことにします。

    シムダイアグラムで脳を編集すると左脳との共生が図れることにもなります。しかし、主語論理ではなく述語思考ですから自我は消え、客観的時間がなくなり、客観的空間もなくなり、真に時間と空間が融合し、心身が一体一如となり、音楽を聞いているような状態、仏=四次元時空体になるのです。シムダイアグラムによって仏=四次元時空体になれるのはAからBへの瞬間移動であり、述語思考だからできるのです。すべてが述語によって限定されるのですから、未来も過去も直線的に配列されるのではなく、空間と一緒になって平行して配列されるのです。

    シムダイアグラムによる思考は次のようにイメージできるでしょう。パソコンの画面はマルチウインドウになっていて、クリックした経歴がそのまま雑多にディスクトップやブラウザの履歴に残っています。すべてがそこに平行してあるのです。このハイパーリンクとクリックと検索し、経歴巡りを見るという行為が脳を編集することになるのです。つまり四次元脳への転換を実現するのがシムダイアグラム法なのです。

    シムダイアグラム法は、パソコンからインターネットにアクセスしてクリックして、検索して、Webを渡り歩き履歴を配置して巡るという振舞と述語的に同じです。シムダイアグラム法は右脳優位の思考ですが左脳と連係するのです。これは、実は禅の瞑想と同じ構造なのです。ですから、座禅は必要がないといったのです。

    実際のパソコンで操作では、検索し、Webリンクしてクリックしたものを配列して観るのです。観音のかわりにクリックするのです。クリックによって右脳優位の左脳劣位に転換し、二つを連係させるのです。述語思考のようにリンクして、その経歴を観るのです。これは禅の瞑想と同じ思考です。実際にパソコンで操作しているときは、パソコンと自分と机と部屋とインターネットとWebは一体となっていて、本人は一如となって無我状態となっているはずです。

    これが仏=四次元時空体になっている姿であるといったのでは、余りにも仏を貶めているでしょうか。そうではないことを示したいと思います。リンク、検索、経歴を見るという行為はクリック観音なのです。禅の瞑想では音から入るでしょう。読経のときに木魚を叩くのはというのは、音が重要な要素だったのでしょう。音により右脳が優位となったところで、パソコンの画面のように、いろいろなイメージが出てくるでしょう。それはマルチウインドウになっていて切り替え自由と同じです。述語に気を向けると、まるでクリック検索したように他の主語に飛ぶのです。その経歴がそのまま雑多に脳のディスクトップやブラウザに履歴として残るのです。すべてがそこに共にあるのです。この経歴を見るというのが音からスタート(クリック)したので観音(検索)というのです。

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