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from: 生成門さん
2008年12月07日 18時31分37秒
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モナドには窓がない
モナドには窓がない
<ティトムとの共振>
ティトムはモナドであり、モナドは部分がない単体であり、予定調和するといいました。今回の舞台はオデッセイ24「銀河一枚の絵」宇宙生成モデルの更なる進化の続きです。下記を参照してください。
http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page1836.htm
以下、その編集的引用です。
モナドについては、下記を参照してください。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89
以下、編集して引用しました。
モナドは人間、動物、物、天体などすべての森羅万象を説明するための考え方です。モナドは分割するとモナドでなくなってしまいます。人間を頭と胴体に分けたら、人間ではなくなってしまいます。モナドは、人間とは「こうである」という主語が先にあるのではありません。モナドは主語が述語を含むのではなく、生きるために必要な述語=事=(意識する、呼吸する、食べる、その他)が、先ずあるのです。人間が意識するのではなく、意識する人間がいるのです。呼吸する人間がいるのであって、人間が呼吸するのではありません。食べる人間がいるのであって、人間が食べるのではありません。述語という事の集まりが人間という事的実体をつくり、主語を含むのです。それがどこかで逆転してしまいます。事的実体がモノ的実体とない、それが絶対となり、永久不変のモノと思ってしまうのです。実体とは仮想なのです。
主語が述語を含むのか、述語が主語を含むのかでは大きな違いがあります。前者を主語論理(自己同一性=である)、後者を述語論理といいます。モナドは述語優位のモデルなのです。
意識する、呼吸する、食べる人間ならすべてが同じ人間なのでしょうか。人間はクローンではありません。人間をモナドと見れば、人間一人一人には個性があります。個性がなければ一人一人を区別できないでしょう。個性とは差異(違い)があるということです。人間の場合、それを多様性というでしょう。多様性とは後で出てきますが、予定調和なのです。
「差異」を差異と認識するには差異が必要です。つまり、他が必要だと言うことです。他との共生連鎖、差異の連鎖があります。差異は互いに作用して、その結果、すべての差異に影響します。もっと分かりやすくいえば、一人の人間の小さな変化は世界中の人間に影響するということです。これがモナドの持つ「互いを映す」反映能力です。この能力を「モナドは鏡である」ともいいます。モナドは互いを無限に映すのです。しかし、科学は、人間は頭や心臓などの部分を取り出して、これが人間を構成しているといいますが、そんな部分をいくら寄せ集めても人間にはならないことは常識です。モナドは部分を持たない述語的な集合体なのです。幼虫が蛹になるときに変態という段階を経ます。そのときの状態をイメージすればモナドの意味が理解できるでしょう。ドロドロに溶けても全体としては生命を維持しています。部分に分割できないことは明らかであり、生命という述語の中に実体があります。蛹の段階では、蛹という入れ物中に閉じ込められており、他のものと関係することはできず、厳密に相互に独立しています。このような状態を「モナドには窓がない」といいます。モナドには窓がないと同時に鏡なのです。
他のモナドとの関係ができない状態で、どのように他を認識したり、関係したりできるのでしょうか。それは、表面に見えるような「相互関係」によるものではありません。もっと、本質的なものです。例えば、双子の場合を考えて見ましょう。何のコミュニケーションを取らなくても、息が合います。これは予定・調整された「調和」です。モナドの様々な対応は、そのモナド自身が、本来、有しているもののすべての可能性の中の一つの展開に過ぎません。遺伝子の中には、ジャンクな遺伝子がありますが、無駄なものではないようです。それは生命としての可能性の潜在する能力なのです。
どのような出来事にも繋がりがあります。今起きたことは、次の事を引き起こします。因果応報です。このような連鎖が予定調和するという能力です。すべてがすべてを反映するという能力が、未来を含んだ予定せれた調和に仕上げるのです。砂浜には綺麗な波の干渉した後の縞模様が見えます。ここには、波に強さ、石、対岸、海底の形など、あらゆる関係が反映した結果として表現されています。山の天辺から水を垂らすと、地形に沿って流れます。その形は、あらゆる関係が反映した必然の結果として表現されます。しかし、こうした反映は、いつも同じではありません。反映能力は、モナドによって差があるのです。すべての他の事物や世界の状態が同等に反映されるわけではないのです。例えば、何となく不安な事態を前にしたときの反応は人によって違います。その原因に心当たりがあるときもあれば、全く分からないときもあります。その場合でも、何かが変だという直感があり、これは何か異変があるかもしれないと意識します。地震の前に鯰が騒ぐのはそのような一つの例でしょう。
私達は、このような漠然としたものに対して、肌で感じるとか、気配を感じるなどといいます。これは無意識の領域に近いものです。眠っているときでも無意識は働いており、身体や外界の状態に反応しています。このような無意識的な反応は、機械的に説明できるものではありません。人間に限らず動物の場合でも、このようなことがあります。否、動物の方が、鯰の例のようにもっと敏感でしょう。ここには無意識という精神の作用があります。物質的な現象に見える波の模様にしても、非物質的な述語的作用があります。これを無意識と同じ精神や生命と呼んでもなんら齟齬は生じないでしょう。非物質的な述語的作用を精神と呼んでもいいのなら、述語の意味のある集まりとしての実体、即ち、モナドは精神ということになり、そのモナドの反映する能力によって森羅万象を説明できるでしょう。逆に言えば、「述語実体=モナド」の「反映の能力」という考え方を押し広げて行けば、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなります。
モナドは窓を持たない
一般にモナドロジーは「窓がない」という言い方で因果関係を否定しています。しかし、因果関係を否定しても、現実には因果があります。ライプニッツは、一体何を否定しようとしたのでしょうか。「窓がない」という言い方で否定しようとしたのは、因果関係の前提となっている入力と出力の関係です。入力と出力は簡単に破れると言いたかったのです。例えば、自動販売機があります。お金を入れると、ジュースが出てきます。犬に食べ物を与えるときにベルを鳴らすと涎が出る条件反射と同じです。これらは一つの確かな因果関係です。ブラックボックスを考えて、入と出の関係があるものを因果と言います。ブラックボックスが因果を確信させるというわけです。コミュニケーションを考えて見ましょう。話をする人と聞き手がいます。話は一方から出て他方へ入り、理解されて、話をする人と聞き手が入れ替わって会話が続きます。この場合、話をする人と聞き手は共に、ブラックボックスです。システムも同じように考えられます。一つのブラックボックスから「出力」が出てきて、次のブラックボックスの「入力」になります。電気回路のようなものはもっと複雑です。更に、人間社会は先の例のコミュニケーションがシステム化されているので、もっと複雑でしょう。いずれにしても、何かが入力されるとブラックボックスの内部の状態が変化します。そして期待される出力がなされます。このように因果関係が確定であるというよう意味で予測可能なモデルをシステムといいます。
ライプニッツは、この一見当たり前のシステム的な因果関係を「簡単に破れる」と言うことを示すことで、因果関係を否定したのです。私達にとって、テレビのスイッチを捻ると映像が飛び出すという仕組みは、テレビというブラックボックスの内部の仕組みを知らなくても、因果関係がありさえすれば、役に立つものであり、生きていくためには便利なものです。それを否定するとはどういうことなのでしょうか。それを否定することによって、もっといい世界が見えてくるのでしょうか。
ライプニッツの言い分を聞いてみましょう。たしかにブラックボックスという考え方をすれば、内部のことを無視できるので手間が省けます。何となく不安な状態を前にして、無意識が気配を読み取って、反応するなどなどという不確かさありません。明確な確信に基づいた計算された行動が可能となります。ところが、世に中そんなに甘くはありません。今回のアメリカ発の金融危機は未曾有の厳しい出来事です。先端の予測工学を駆使したシステムであったにもかかわらずリーマンブラザーズは破綻してしまいました。自動車のビッグ3も破産の危機に見舞われています。一人の人生でさえ、明日は予測できないのです。誰が、小室哲哉が転落すると考えたでしょうか。
ブラックボックス化=システム化の問題は、因果関係を成立させる前提があるということです。年金のシステムが危ないのですが、どのような前提があったのでしょうか。一番大きな前提は人口増加でしょう。ところが、少子化でそれが狂ってしまったのです。このように、未来予測は当てにならないのに、それに胡坐をかいてしまうのです。テレビは故障に関しては信頼性が高いですが、それでも、やがて寿命がきて止まってしまいます。それは予測の範囲です。しかし、最近、雷が多くなってきて、テレビや電化製品が壊れることが多いようです。雷が多くなってきたのは、気候変動と関係しているでしょう。設計段階では、そのようなことは前提にしていないのです。要するに、ブラックボックス化=システム化の弱点は、前提が崩れると、想定外ということになり、因果関係がなくなるのです。システム化するときに、周辺との関係が複雑であればあるほど、設計者が都合よく範囲を切り取り、目的とする因果関係を成立させる要件以外は排除するのです。その結果、事態が変化したときに、そのような事は想定外だったなどという問題が起きるわけです。
周辺との関係が複雑であればあるほど、勝手に都合よく切り取れる境界というのかなくなります。国境というのは、政治的な都合でつくったものです。しかし、渡り鳥に取っては関係がありません。最近鳥から人間に感染し、突然変異するインフルエンザが問題になってきています。越境する問題は気候変動も同じです。ブラックボックス化=システム化は、越境する問題には歯が立たないようです。ライプニッツは、それをモナドという概念で、因果関係が成り立たないのは、境界のとり方にあるといいたかったのです。
突き詰めると、境界のない対象に対してはブラックボックス化=システム化はできないということです。蛹のような溶けた実体=モナドをどうやってシステム化できるでしょうか。溶けた実体を蛹のような特殊なケースと見てはならないのです。社会は溶けた実体です。ですから、社会問題は複雑です。評論家が都合よく切り取って評論しようとしますが、なかなか手に負えないのは、境界がないからです。虐め一つとっても、子供と親、学校、教員、国、その他の要因が複雑に絡んできてしまいます。都合よく切り取った瞬間に、越境する渡り鳥が現れるのです。
すべてがすべてに含まれるというような世界では因果も複雑です。このような複雑な問題はどうすればよいのでしょうか。そこで、ライプニッツのモナドが出てくるのです。ライプニッツは複雑な状況では、単純な因果関係に還元できないと言ったのです。ですから、モナドは部分や構成要素を持たない、溶けた実体なのです。蛹のように殻の中にいる時は「外から何かが中に入る」ことはありえません。すべては中の出来事です。内部は「境界のない変化」であって、「都合よく閉じた内部の限定したやり取り」ではないのです。この殻を大きくしてみましょう。人間の大きさになると器官が分化してきますから、部分があり、システム的に関係を表現できるように見えます。実際、現代医学が、そのような見方によって成功していますが、慢性病など原因不明の病はたくさんあります。免疫機構などを見ても、脳と器官との間には頻繁なやり取りがあり、精神が頭蓋骨の中にあるというというのは断定できないのです。医者の勝手な境界設定には限界があるようです。ライプニッツは、勝手な都合で境界を引くなといいたかったのでしょう。
俗語としての「予定調和」
ライプニッツが主張した「予定調和」の意味は筋書き通りと言う意味ですが、それではだれの筋書きなのでしょうか。それはモナドです。モナドというのは実体ですが、主語ではありません。述語の最大公役数です。それに含まれる述語が鬩ぎあって生成される状態、それが真の予定調和というものです。
現代の日本では「予定調和」という俗語が「予測どおりの物事が起きること」という意味で用いられています。しかし、小室哲哉の転落、気候変動、金融危機、年金問題を挙げるまでもなく、その主体の都合のよい予測は、前提があり、予測どおりの物事が起きることは有り得ないのです。特に小説や漫画などの物語(ストーリー)においては「このような状態になったら、次はこのような物事が起きる」という物語の類型が多数存在しているため、ある状態になったときに次に起こる物事を予測できることがままあります。その予測どおりに進行したときに、物語の評価として「予定調和」という言葉を用いる。「フラグ」(伏線)は物語における「予定調和」の一種です。本来の予定調和とは、なすがまま、ケセラセラです。
―――
システムの特徴は、観察している主体を前提にしていると言うことです。医学は人間を対象として見ているのです。科学は物的世界を対象としているのです。見ている者は、対象を場全体からある観点を設定して切り取ります。その場合、抜け落ちるものがあります。医者は心臓移植をする場合、心臓を対象としています。その場合、免疫系という働きは無視します。心臓移植した後、免疫系が働きます。免疫系は移植された心臓を非自己とみなして、攻撃してきます。これが不適合と言う現象です。この手術は、とりあえずは、免疫の働きを抑えたりして役に立っています。これが更に対象が大きくなるとそうは行きません。気候変動問題がそれです。部分化・局所化できないのです。地球規模で反映するのです。このような問題を取り扱うには観察すると言う態度を捨てなければならないのです。解決する者が対象の外に立って、外科手術をするようなことが出来ないのです。何故なら、自分がその対象の中に含まれているからです。医者が自分で自分を手術するようなものなのです。ここで、クレタ人の嘘つきの話を思い出して下さい。それは、「クレタ人は「クレタ人は嘘つきだ」と言いました。」という話です。この場合、本当にクレタ人が嘘つきだとすると、それを言ったのは、クレタ人ですから、「クレタ人は嘘つきだ」というのは「嘘」だと言うことになります。
つまり、「クレタ人は嘘つきではない」ということになります。逆に、「クレタ人は嘘つきではない」とすると、「クレタ人は嘘つきだ」といったのは嘘つきではないクレタ人ですから、「クレタ人は嘘つきだ」は本当になります。それでは、「クレタ人は嘘つきではない」ということと矛盾してしまいます。このように、言ったことといった本人までを含んでしまうと、矛盾が出てしまうことを自己言及のパラドックスと言います。観察する物と対象を分離したままでは、前提が崩れると予測が外れ、基盤が破綻します。それは、対象に自分が含まれていることを知らなかったからです。昔から、このようなことを因果応報とか、天に唾を吐くなどと諌めてきました。かといって対象に自分が含まれていることを知ってしまうと、医者が自分で自分を手術できないように、何も出来なくなります。さてどうすればよいのでしょうか。
それに答えるのが、モナドという内的視点の見方ともいえます。モナドというのは外がないのですから、すべてを飲み込んで、内部にしなければなりません。すべてはすべてを含むのですから、排除してはならないのです。このような結論に至ったのが、絶対自己矛盾的自己同一という西田幾多郎です。これは生きているということ自体が矛盾そのものであるから、それを受け入れるより仕方がないと言う妥協的な考え方です。ここから、話は、突然に、悟りの世界に入ります。色即是空・空即是色です。そうです。矛盾に答えるのが、モナド=¬悟り=ティトムなのです。-
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