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from: 生成門さん
2008年12月09日 18時55分23秒
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時間と空間を畳み込む(2)
時間と空間を畳み込む(2)
<補完共振>
畳み込むという述語から主語になりそうなモナドを見つけました。畳み、折り紙、たんぱく質が「畳み込み」の主語に選ばれました。しかし、その様に考えると、あらゆる物は時間と空間を畳み込んでいるように思えます。
風呂敷、電車、自動車、テレビなどです。モナドは機械ではないといいました。それは矛盾なのでしょうか。それは人が関係していると矛盾になりません。人という精神=述語が関係しているからです。遺伝子は人ではありません。それでもモナドであるといいました。それは何故でしょうか。宇宙精神=述語が関係しているからです。モナドは精神という述語の塊なのです。もっとすごい述語の塊があります。それは仏です。仏は究極のモナドです。そこで、今回、主題にするのは仏教です。物理の世界と仏教の世界の述語的な共通性=同一視を言う人は多くいます。物理の世界の方から仏教によってくるケースが多いようです。それは、世界の見方に関して仏教の方が進んでいると言うことでしょう。物理がようやく、追いついたとも言えるでしょう。物理と仏教が対話をしているといるのは、そこに述語的な共通性があるからでしょう。下記「まんだらや」を参照してください。
http://mandalaya.com/kegon.html
以下、編集して引用しました。
仏教と言えば、多くの人が知っている経典は「般若心経」でしょう。それに並ぶ経典に華厳経があります。この華厳経に、「相入」と「相即」という概念があります。相入とは簡単に言えば、一の中に多があり、多の中に一があるということをいいます。「一の中に多がある」はイメージしやすいでしょう。弁当のように一つの箱の中に、ご飯と数種のおかずが入っているものです。「多の中に一がある」はどのようなイメージでしょうか。弁当を考えて見ましょう。一つの弁当には多くのおかずがあります。そのおかずの一つを取り出してみましょう。それを魚とします。その魚は、多くの器官から構成されています。その一つの器官は多くの細胞から構成されています。その細胞は多くの微小器官から構成されています。更に、たんぱく質があり、遺伝子があり、元素があります。このように、入れ子、多重層、玉ネギ構造になっています。こんなイメージでしょう。
相即とは「一即多、多即一」のことをいいます。算数では、一に一を加えると二ですが、仏教では、そう考えません。一に一を加えると、一つが二つ集まったものに過ぎないもので、一つが増えたというだけであり、二という一つの自然数にはならないからです。新しい自然数は一を足すことによって出来ますが、単に一を足したばかりでなく、一を足した全体を同時に直感することによって、二という自然数が生まれるのです。それではそのような直感は、どのようにして可能となるのでしょうか。それは一の中には二ないし十の意義をもっていますから、一から二ないし十を生じることができるのです。一の中には二・三・四・五が備わっているのです。そこで一といっても、それは二以下と切り離されて単独に存在しているものではなくて、二以下と相対することによって一であるのです。これを「縁成によるが故の一」であるというのですが、一という自然数、二という自然数が成り立つためには、他の自然数との関係において成り立つのです。しかも一という時には、一の中に他の自然数全体が内包されているのです。これを相入というのです。
次に任意の自然数の一つを取り出すと、その任意の自然数が自然数全体をあらわし、任意の自然数と自然数全体が相即することを明らかにしてみましょう。一をたてると、一は絶対の主体となり、二以下は依存従属の関係に入らなければなりません。一は有力となり、二以下は無力となります。それによって一即二。一即三。・・・・一即無限数が可能となります。次に二を主体として考えると、一および三以下は二に従属する関係になります。二が有力のとき、一および三以下は無力となり、二の中に吸収されます。そして二即一、二即三、・・・・二即無限数が可能となります。このような関係を一即十、十即一、というようにあらわすのが相即ということです。ちなみに華厳では十を円満完全な数、無限数とみなして十銭の喩えを説いたのです。 以上、鎌田茂雄氏の華厳経物語、大法輪閣より抜粋した内容です。
奈良の東大寺の大仏の台座になっている蓮の華の一枚一枚に、大仏様が描かれています。その小さく描かれている無数の大仏様も、それぞれの蓮の花の上に座っています。それ以上は細かすぎて描かれていませんが、その蓮の華にも、さらに小さい大仏様がいて、その大仏様がいる。つまり大きな世界と小さな世界が無限に重なり合って、この宇宙が存在しているのです。華厳のイメージを立体的に表現するとこの大仏様になるのです。華厳経の世界観は一即一切・重々無尽です。一即はすべての時間、一切はすべての空間です。これが幾重にも重なり合って、畳み込まれて存在しているのです。
デジャ・ビュー(既視感)を体験したことはあるでしょうか。映画マトリックスでネオが黒猫を見るシーンがあります。時間は畳み込まれているのですから時々、時系列とは、ずれて受け取ることがあるのです。さまざまな予言が的中するのは、華厳経の世界観によって説明できるのです。この華厳のイメージ、一即一切重々無尽を絵画的に表現したのがインドのクリシュナ=ビシュヌ神の絵画です。(宇宙を呑む・杉浦康平・講談社)果てしなく広がる広大な空間。黒くもが逆巻く天と、炎の色に燃え立つ大地がせめぎ合う地平線から、鮮やかな虹が立ちのぼる。この荒涼たる大自然にすっくと立ちつくすのは、青黒い体色をした巨大な神の姿です。この神の全身に、多くの物語が描かれています。世界がこの身体の中にあるという表現なのです。現象世界が別にあるのではなく、神の身体の中にあるのです。
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