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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2008年12月12日 11時18分01秒

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    何故物は見えるのか(2)

    何故物は見えるのか(2)
    <華厳と物理との共振>

    四次元能は、様々なシムダンス=生成の舞を舞います。既に幕が開いた<華厳と物理との共振>ですが、シムダンスパートナーは「現代物理と仏教を考えるページ」(岸氏主催)です。


    物が見えるというのは、光が網膜に届いたときに、電子に衝突するからだと言われています。この説明が正しいとすると、見ている物を認識するまでに時間がかかってしまいます。そうすると、テレビショッピングで注文したらテレビ番組が一時間前に終わってしまうことになります。実際はそんなことはありません。光は飛んでいるときは波で、止まった瞬間に粒子になるというのが現代物理の正当な解釈です。しかし、この説では「物が見える」という日常の最も基本的なことの説明が出来ないのです。岸氏はアインシュタインの「光量子」仮説が間違っていると考えているのです。果たしてそうなのでしょうか。今回は「現代物理と仏教を考えるページ」の「物理のおかしさ」の続きです。下記を参照してください。http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page003.html

    以下、編集して引用しました。

    光は電磁波ですが、この電磁波の振舞いは波動方程式(波が伝わる様子)で表現できます。この方程式を解けば、電磁波がどのように空間を伝わってゆくかがわかります。「光は何か」については下記を参照してください。
    http://decima.mp.es.osaka-u.ac.jp/~sekiyama/PES1/kaisetu0_2.html

    また式から、光のエネルギーを計算することが出来ます。光とは電場(電気のオーラ)と磁場(磁力のオーラ)が対(90度で交差する)になって波として伝わって行きます。私達は電化製品に囲まれて生活していますが、その電気(電子の流れ)はいつも見慣れている電柱のちょこんと乗っかっているトランス(変圧器)から宅内に引かれてきます。そこで何が起きているのかです。トランス(コイルを巻いてたもの)というのは電気を磁力に変換して再び電気に変換しているのです。つまり、電気が直接送電線からくるのではなく、一旦、線は切れるのです。つまり、電気と磁力の相互に転換できる特性を利用して、電圧変換しているのです。電気と磁力が相互に転換できるというのは、片方から片方が計算できるということになります。

    電気と磁力は相互に転換できることから、電磁場のエネルギーが計算できます。電磁場のエネルギーがどのくらいなのかを知ることは、光のエネルギーがどれだけ得たのかを知ることであり、それが、「物を見る」ということの本質に関係しているのです。「物を見る」ことは目が光のエネルギーをどれだけ得たのかということなのです。そこで光を発信する側と受け取る側という、発信・受信の二つの関係を想定して見ましょう。例えば、テレビと見る人、星と見る人というような二つの地点を考えるということです。一方は光の発生する場所=発信地点であり、片や光を受け止る場所=受信地点です。もっと言えば、光の発生する場所とその電気のエネルギーを受ける場所です。光の発生する場所というのは、正確には正しくありません。いきなり光が発生するわけではないのです。テレビにしても星にしても、そこには内部の構造(原子)があり、外側に電子があります。内部の反応により電子が励起されてエネルギーが高くなります。つまり、電子が激しく振動=電子が揺れるのです。その結果、電子は安定しようとしてエネルギーを放出します。それが光なのです。その光は放出されたエネルギーに等しい振動数を持っています。これが電場となり、磁場と共に発生した電磁波という波なのです。この発生場所を波動の源=星、テレビとします。一方、光を受け止める場所は、見る人です。正確には目であり、網膜であり、レチナールです。この発生場所と受け止める場所の間には空間があります。この空間を光が伝わって行くのです。この空間を光が伝わる伝わり方は、新幹線「光」が線路を一直線に突き進むようなものではありません。それを示すのが波動関数(光の進み方を示す)です。しかし、これを説明することは容易ではありません。何しろ現代物理の基本中の基本の式なのですから。正確な説明を知りたいのであれば、下記を参照してください。http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page003.html

    ここでは、一切、式を使わずにイメージでいきます。発生場所と受け止める場所の間の空間を光はどのように伝わって行くのでしょうか。先ず、発生場所=発信地点は、たった一個の電子でした。その電子から発せられた光が、その発信地点を中心として四方八方に広がって行きます。広がり方のイメージは波ですから携帯の電波と同じです。もっと正確に言えば、発信地点を中心とする半径が時間と共に光速で広がってゆく球面の形をした波のイメージです。新幹線「光」が360度に張り巡らされた線路を一直線に突き進むようなものです。これらの想定から発生場所と受け止める場所の間の電磁場=光のエネルギーを計算できるのです。式は省略しますが、この式には実に興味深い結果が含まれています。式の意味が重要なのです。この式の構造は、光のエネルギー=<畳み込み><受信地点の電子の揺れ><光の伝播><発信地点の電子の揺れ>となっています。この式の意味を要約すると次のようになるでしょう。

    ① 発生地点に波動の源(光源)の電子の揺れがあります。
    ② 電子の揺れが光となります。電子がエネルギーを受けると振動します。そして、エネルギーを放出します。それが光です。この光の波動は、同心球面上に広がって運ばれていきます。
    ③ 受信地点=到達点には、全空間、全時間の波動が同心球面上に乗って集まってきます。そして全空間、全時間について足しこまれます。
    ④ 同心球面上に乗って集まってきた全波動が、到達地点の電子と相互作用をします。
    ⑤ その相互作用を、全空間、全時間で足し合わせると、電磁場のエネルギーになります。

    これで発信地点の電子の揺れが光というエネルギーになり空間を伝播して、受信地点の電子の揺れとなり、光のエネルギーが電子に移ったことを意味します。

    波動方程式のエッセンスを箇条書きにしてみると、こんな具合になります。

    受信地点の電子が、観測装置(人間の目)としての役割をしている一方で、発信地点の電子が場の源(星)として説明されていることに、注意していただきたいと思います。また発信地点や 受信地点=観測装置がかなり局在(小さな場所)していることも重要です。この二つ間は、見ないのですが、何かで結ばれているのです。新幹線のような線路ではありません。携帯の電波が届くのは、発信局と携帯の間に見えないルートが出来ているからです。携帯はある決まった周波数を選択しますが、目の場合は可視光線のみを選択します。このように、あらゆる方向から来る光を選別的に取り入れるのです。この「選別的に取り入れる」とは何を意味しているのでしょうか。それは可視光線のすべての波が一点に波束することを意味しています。これを波束の収縮といいます。まるで、水が渦を巻いてシンクに吸い取られえるような感じです。

    もっと正確に言えば、波束の収縮とは、発信地点から広がった球面状の波が、観測することによって、観測されたその一点でのみ大きな値を持ち、他の点では値が0となる形に変わることをいいます。このような現象は、テレビのスイッチを入れた時に見られます。すぐに画面が安定して映る事はなく、パチッと明るくなって、そして画面がじょじょに安定します。人間の場合も瞬間にパルスが入り、それからゆっくりと映像が安定していくようになっているのかもしれません。暗いところから急に明るいところに出て行くと、まぶしいですが、徐々に慣れていきます。これも波束の収縮と言えるのでしょう。

    このことから、③では、受け止める場所=受信地点には、全空間、全時間の波動が同心球面上に乗って集まってきます。そして全空間、全時間について足し込まれます。といいましたが、
    ③’到達地点には、全空間、全時間の波動の源である電子の揺れが、波束として集まってきています。そして全空間、全時間について足しこまれます。
    と③を読み替えることが出来ます。

    つまり、同心球面状に広がっていた波が、方向が定まった波束に変わったのです。これが「波束」の収縮と言われるものです。そして、「全部の波が一点に」収束することこそが、粒子性を現した光なのです。このように、波の性質を追求することで、光の粒子性が出てきます。つまり、コペンハーゲン解釈とは全く反対の立場をとり、光はあくまでも「波動性」が主の性質であり、「粒子性」は「波束」という形で波動性から導き出せるのだと考えると波束の収縮が自然に導けます。

    ここで重要な前提は、発信地点と受信地点が共に局在(小さい)であるということです。光のエネルギーは二つの点が局在していると仮定して、計算したのです。二つ点の局在性とは、一体、具体的には何を意味しているのでしょうか。これは「観測装置=人間の目=網膜=受け取り場所」と「場の源=発信地点」の局在性(小さい)を意味しています。私達の目を考えて見ましょう。私達の目の中の網膜には、光を感知するための高分子タンパク質であるロドプシンが敷き詰められています。そのロドプシン一つ一つのなかに既に説明したレチナールという分子があります。実際にはこのレチナールの電子が光を検知しています。つまり私達の目の中には、観測装置としてみた場合には、局在したレチナールが一面に敷き詰められていることになります。そして、私達が「物を見る」ということは、空間のある一点から発せられた光源の光とレチナール一個との相互作用を最小単位として、空間の別な一点と別のレチナール一個という組み合わせを、全空間、全網膜上でトータルしたものが、今見ている光景ということになります。一般に光源から出た光は360度の全方向に放射されますが、これをレチナール一個で観測するということは、この全方向に放射された光のごく一部(ごくごく小さな立体角)を見ることに他なりません。この光源とレチナール一個という最小単位で考えた場合、光源とレチナール一個の間には必ずあるルートが選択的に決まります。つまり「観測する」ということは、言い換えれば「光源」と「観測装置」との間に「あるルートを決めてやる」ということであると考えられます。そして、「あるルートを決めてやった」事によって、「波束」つまり「粒子性をもつ光」が現れたのです。

    同心球面状に広がっていた波が、観測することによって、波束に変化したわけです。これが、観測による波束の収縮のメカニズムです。光を波と考えれば、コペンハーゲン解釈では解決できなかった波束の収縮のメカニズムが、このように説明できるようになるのです。

    さて、さらにこの考え方は、プランクの黒体輻射の式(エネルギーは振動数の整数倍に比例する)とアナロジーが成り立ちます。つまり、黒体輻射の式も、<畳み込み><受信地点の電子の揺れ><波動の伝播><発信地点の電子の揺れ>の構造で表せるのです。そして、当然、波動の収束に導けるのです。これも「粒子性を現した光」である、ということを裏づけたといってもいいのです。アインシュタインは死ぬまで量子力学のコペンハーゲン解釈に反対していましたが、皮肉なことに、アインシュタインが提唱した光の粒子説を破棄することにより、量子力学のコペンハーゲン解釈は否定されることになるのではないでしょうか。

    コペンハーゲン解釈に反対していた、もう一人の高名な物理学者が、もう一人いました。隠れた変数理論などで有名なデビッド・ボームです。デビッド・ボームは量子力学のコペンハーゲン解釈に対抗する解釈方法として、ホログラフィックパラダイム理論を提唱しています。
    ホログラフィックパラダイム理論では、この宇宙には、「内蔵秩序(隠れている)」と「顕前秩序(現れている)」とよばれる二つの秩序が存在し、「顕前秩序」の全ての物質、空間そして時間が「内蔵秩序」に包み込まれているというものです。デビッド・ボームはこれをホログラフィーに喩えて説明しています。ホログラフィーとは、写真乾板上に一見不規則な干渉縞が記録されているもので、これにレーザー光線を当ててみると、被写体の立体構造が浮かび上がってくるというものです。しかも、この写真乾板を一部分引きちぎって、それにレーザー光線を当ててみても、被写体の一部ではなく全体像がしっかりと浮かび上がってくるというものです。つまり、ホログラフィーの部分部分にそれぞれ、被写体の全体構造が包み込まれています。ホログラフィックパラダイム理論とは、ホログラフィーの被写体を「顕前秩序」、乾板上の干渉縞を「内蔵秩序」に置き換えたものがこの宇宙だとするものです。デビッド・ボームの著書である「全体性と内蔵秩序」の中では、この「包み込み」のことをメタモルフォシス(変態)とよんでおり、ホログラフィーの例の考察において、デビッド・ボームはこのメタモルフォシス(変態)が畳み込められるとしています。つまり、被写体の全体構造が、乾板上の各領域に、畳み込みによって「運ばれ」そこに「包み込まれる」としています。被写体上の点xと乾板上の点yとの間にはもはや一対一の対応関係があるのではなく、マトリックス的な変換(多対多)で、被写体の全体構造が、乾板上の各領域にばら撒かれ、包み込まれるのです。

    さて、光の話に戻って、もう一度考察してみます。

    ③到達地点には、全空間、全時間の波動の源である電子の揺れが、球面に乗って集まってきます。そして全空間、全時間について足しこまれます。

    ③’ 到達地点には、全空間、全時間の波動の源である電子の揺れが、波束として集まってきています。そして全空間、全時間について足しこまれます。

    この二つの表現に着目してみましょう。この文章をよく見てみると、これはデビッド・ボームが提唱している「包み込み」の概念が、まさに現れています。つまり、波動の源である電子の揺れが「顕前秩序=現れている」に相当し、これが球面を伝わり、波束によって到達点に「運ばれ」、全空間、全時間の波動の源である電子の揺れが到達点に「包み込まれ」ています。波動のエネルギーが伝わる仕組みの中に、しっかりと、「顕前秩序」と「内蔵秩序」の概念が組み込まれていることが大変興味深いのです。さらに、ホログラフィーの例では、空間のみが「包み込まれて」いたのに対し、波動のエネルギーの伝わる仕組み、ひいては、この宇宙においては、空間に加えて時間さえも「包み込まれ」てしまうことに注意を払いたいものです。

    アインシュタインの唱えた光の粒子説を捨てて、光の波動説を採用し、ニールス・ボーアに代表されるコペンハーゲン解釈を捨てて、デビッド・ボームのホログラフィックパラダイム理論を採用することによって、現代物理学は正しい方向へ戻ることが出来るのではないかと考えております。
    ―――
    さあ、大変なことになりました。アインシュタインを否定するなんて、とても恐れ多いことです。しかし、それによって、物が見えるという仕組みが明確になったのですから、その御利益は大きいのです。

    このような「畳み込まれる」体験は、日常の世界では、意識して体験は出来ないのですが、それを修行しなくても体験し、理解できるというのが華厳経です。華厳経の世界観は、「一即多・多即一」であり、微塵の中に大きな世界が全部入り込んでしまうという考え方です。これは、武道、華道、茶道、能に通じるでしょう。要するに、言語以前の主観を重視していることです。道元は「山は山なり。山は山に非ず。山は山なり。」と言いますし、維摩経の「維摩の一黙」、大乗起信論の「言説の極、言に依って語を遣る」というのは、その辺りの事情を表しています。
    そして、華厳経の最大眼目は、「事事無礙法界」という考え方です。事事無礙法界から見ると、私が花で、私が川で、川が私で、山が私なのです。四次元能では、このような考えを、述語的同一視といいます。私が川で、川が私で、山が私であるはずがないと思うのは、自我に汚染されているからであり、二つを繋ぐ場を重視すれば、目と星の関係からも明らかなように、私は星であると言えるのです。更に、多対多の重曹関係ですから、私は宇宙なのです。

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