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from: 生成門さん
2008年07月02日 15時05分29秒
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春は夏にならない
春は夏にならない<ティトムの共振>以下はhttp://momloveu.com/titom-j/index.files/Page897.htmオデッセ
春は夏にならない
<ティトムの共振>
以下は
http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page897.htm
オデッセイ2の編集的引用です。
何故地球が丸いのかを科学は説明できていません。四次元能はティトムによって導かれ、「丸さ」は界面張力が生むと主張するのですが、それが認知されているわけではありません。四次元能は「世界は解釈である」と考えます。そう解釈することで人類の絶滅を回避できる四次元脳を持てるからだと信じているからです。それは揺らぐこともあるでしょう。しかし、トレジャーハンティングは続きます。
「丸さ」を生む界面張力は、現味の科学が認める四つの力には含まれません。第五の力なのです。第五の力の源泉は電子です。この電子には軌道があるのですが、綺麗な軌道は見かけであり実際は雲=不確定なのです。
以下の原子の構造は「希土類元素の物理化学」から引用しました。
http://staff.aist.go.jp/a.ohta/japanese/study/REE_ex_fc1.htm
経営の専門書に不確実性の時代という著書(ガルブレイス)があります。世の中が読めないという意味です。KYという言葉が流行っていますが、まさに不確実性の時代の象徴です。私達の常識では不確定とは「そうであるかないか」を予測できないこということです。「生きるべきか死ぬべきか」は不確定です。ですから悩むのです。でも、電子の不確定とは電子が悩むわけではないでしょうから、「あるべきかあらぬべきか」は電子を見ている人間が悩んでいるのでしょうか。まさにその通りです。私達は未来に対して不確定なのです。ですから、不安になり、予測したり、占いに頼ったりするのです。
未来に対して不確定とはどういうことなのでしょうか。この未来に対して不確定という心理は、時間に関わる大きな錯誤から生まれてきます。全てには因果があります。これが解決すれば、人類の悩み、問題は殆んど解決すといっても過言ではないでしょう。
常識の時間=三次元では春が終わると夏になります。「春の後は夏になる」は確定的です。これが私達の世界観です。しかし、道元は「春は夏にならない」といいます。全ての悩み・不安は因果から生まれるというのです。未来は「春は夏になる」という確定的なことばかりではありません。一寸先は闇とも言います。未来は不確定なのです。これは時間に関わる錯誤から生まれてきているのです。どこが錯誤なのでしょうか。過去は確定しています。未来は半不確定なのです。これは時間が川の流れのように上から下に流れるということを前提にしているから帰結されるのです。川の流れは紆余曲折しますが、時間は「光陰矢の如し」です。時間は光のように真直ぐに進むのです。これが私達の思考の基本です。
しかし、本当に時間は光のように真直ぐに進むのでしょうか。光もまた真直ぐに進むのでしょうか。時間が光のように真直ぐに進むだけならば、現在に生きるしかない私達にとって未来は半不確定ならざるを得ません。
では、何故、道元は「春は夏にならない」と言ったのでしょうか。何故全ての悩み・不安は因果から生まれると言ったのでしょうか。何故、悩みから開放されたければ時間を切断しなさいと言ったのでしょうか。これについては既に答えを出しておきました。
二人のシムダンスパートナーを参照して下さい。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069967096
以下引用です。
このクラインの壷を使えば、道元の「春は夏にならない」という意味が簡単に分ります。春は夏になるのは主語論理=因果です。春が過ぎれば夏になると言う時間の経過があります。三次元の世界では春と夏は同時には存在できません。春と春、夏は夏なのです。これが自己同一性です。一方、春は夏にならないというのは四次元世界のことです。四次元世界では裏と表が繋がっています。裏は表なのです。春は夏なのです。春=夏なのですから、「春は夏にならない」のです。これは三次元の経過する時間とは違うのです。有る時=有時です。つまり、表と裏は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。共に在る有時=春の固有の時間=夏の固有の時間なのです。共に在る有時=時間が述語なのです。述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。述語論理は異なるものを同時に存在させるような、或いは、瞬間移動させるようなマジックです。三次元から見たらマジックとしか表現できないのです。春と夏は共に存在するのですから、春=夏であり、「春は夏にならない」のです。クラインの壷は直線ではないのです。確かに直線部分はありますが、その周りを回転する渦で巻かれています。木に絡みつく蔓です。木と蔓が交差しながら反転するダンスをしているのです。
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電子が不確定であるというのは、私達の世界が三次元ですから、不確定に見えるだけなのです。電子はクラインの壷が軌道です。見えたり見えなかったり=点滅するのです。電子の点滅を春(点)と夏(滅)とすれば、春が夏になるというのは点滅ということになります。これが三次元世界です。四次元世界では点滅が繋がっています。点と滅は同時に存在しているのです。ですから、述語論理的には滅は点なのです。点=滅(同時に存在)なのですから、「点は滅にならない」のです。これは三次元の経過する時間とは違うのです。有る時=有時です。つまり、点滅は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。共に在る有時=点の固有の時間=滅の固有の時間なのです。共に在る有時=時間が述語なのです。述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。点滅は共に存在するのですから、点=滅であり、「点は滅しない」のです。
行ったきり戻ってこない人のことを鉄砲玉といいますが、要するに当てならない不確定の人の性格を評したのです。電子は鉄砲玉=不確定ではないのです。キッシンジャーは神出鬼没で姿が見えなくなったらと思いきや突然現れる不確定政治パーソンでした。つかみどころがない透明人間のようでした。所在を掴もうとすると動きを見せず、動きを掴もうとすると、所在が分からなくなるのです。これが三次元から見た電子の姿です。キッシンジャーは電子人間だったのでしょうか。
サッカーのゲームでお目当ての選手の動きとポジションを同時に追い掛けると選手を見失ってしまいます。そこで動きを優先して観察するとどこにいるのかがぼやけてしまい、ポジションを優先して観察すると動きが分からなくなるというジレンマに陥ります。野球でも、バッターがボールのスピードと打つべきポイントを同じに追い掛けるとボールが見えなくなってしまいます。ボールの早さに意識を集中するとポイントがずれてしまいボールを捉えられないのです。反対に打つポイントに意識するとスピードに合わずタイミングがずれてしまいボールを捉えられなくなります。いずれにしても線で打つか点で打つかの選択しかないのです。こういう例は沢山あるでしょう。
道元も「一方を証するは、他方は暗し」といっています。つまり、居所と動き、ポジションと運動、ポイントと早さは同時に確定出来ないのです。これが不確定性の原理の隠喩的説明です。電子の場合は、その運動量と位置エネルギーを同時に確定できないというものです。
不確定性の原理を克服することは三次元の世界ではどうにもならないものです。しかし、道元は、それは迷である。自我が邪魔をしている。自我を解体して、四次元脳=クラインの壷=述語思考を持ったスキゾ人間になれば不確定性の原理=不安・悩みは乗り越えられるというのです。自我とは三次元時間を土台に置いた因果の世界に堕ちた悲しいパラノ人間のことです。
不確定性原理の克服=悟り=四次元という図式が道元によって発見されていたというのは驚きです。しかもそれは乗り越え可能であるというのです。不確定性原理は世界万事塞翁が馬で克服してみましょう。しかし、悟りを得るのは簡単ではありません。何せ、常識との戦いであり、パラノとの戦いであり、多勢に無勢でもあります。四次元の電子を取り押さえるのは鶴への恩返しどころか仇になってしまいます。さて、どうしましょうか。とりあえず、先に駒を進めてみましょう。
地球では、地球自身を含めて、水滴、シャボン玉、風船と丸い形が多いですね。太陽系でも、惑星と丸い物で溢れています。このように丸い物で溢れている裏には、丸くなろうとする何かの力が働いていると思いませんか。そうです。その力が界面張力なのです。身の回りの水滴から始まり、中性子星まで、電子由来の界面張力が働いているのです。このような仮説を出せるところが四次元能のティトムの真骨頂です。
電子とは何なのでしょうか。電子は何故界面張力を発現させるのでしょうか。それがどうして丸い形になるのでしょうか、それが何故、脳の発生に繋がるのでしょうか。こんな疑問に本当に答えがあるのでしょうか。何故とは問わない科学では、こういう風にはいかないでしょう。いけないといった方が良いでしょう。巨大宇宙、微少世界では信じられない現象が起きています。検証可能な現象だけを対象にするのが科学であるといっても、スケールの違いは如何ともし難いようです。不確定性というのは、そういう科学に限界を突き付けているのではないでしょうか。私達に身近な電子が宇宙の本質に関わっているなどというのは驚きというより、何故もっと早く気がつかなかったのでしょうか。そんな気がします。
ティトムの主張を以下に要約しておきます。本当は断定調では言えないのですが、シムダンスの勢いで断定調にしてしまったようです。
・電子を知ることは宇宙を知ることである。
・ビッグバン時のその外に電子があった。
(ビッグバン論では電子由来は不明)
・最大界面張力は事象の地平にある。
・事象の地平の内/外では、物質の状態が違う。
・内/外では流れる時間も違う。
・宇宙に固体は存在しない。
・ニュートリノから見たら固体でもスカスカである。
・ビッグバン以前には辿れない。
(ビッグバン論では光を基準にしている)
・ビッグバン以前もあった。
(光以上の存在も必ずある)
こうしてビッグバン説では解けない謎解を四次元能=ティトムとの共振では、いとも大胆に推理していくのですが、それを納得できるものにするには光以上の存在を示さなければならないでしょう。今はまだ、それを示す時ではないのですが、それは光とは似ても似つかない姿をしているでしょう。そして、それは、例えば、星が球状であることの中にヒントが隠されていでしょう。丸い形が世界の鍵であるとは思いもよらなかったのでしょう。よくよく考えてみると、円というのは深遠な真実を含んでいるのかも知れないのです。
例えば、直線があるとします。直線の端はどこになるでしょうか。端を決めるとその先が出てきてしまいます。だから無限は直線では現実を示さないのです。この直線を丸めるとどうなるでしょうか。当然、無限が垂直方向の天で一点になります。直線を平面に置き換え、丸めると球になります。こんな簡単なことで無限が解決できるのです。無限というのは現実的ではないのです。ビッグバンの欠点は一点から始まって直線的に拡大するとしたことにあると思います。ですからビックバンは円にならなければならないのではないでしょうか。
仏教でも無限はありません。円は道元でも出てきます。道元禅は、ティトムと同じく円を大事にします。道元において「悟り」とは、円月相です。円月相とは満月輪のことです。坐禅している姿であり、透脱した姿です。円相は姿が消えた様ではなく、坐禅の姿そのものなのです。
詳しくは「道元の悟り」を参照してください。
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/dogen/do-sato2.html
これからも分かるように、丸い形が悟りを象徴していることが分かります。象徴というより真理そのもの形でしょう。何故真理が丸くなければならないのでしょうか。丸みには定常宇宙論と同じ即非構造(陰陽のバランス、対称性)が見えるのです。だから円なのでしょうか。道元の当時、地球が丸いとは分からなかったでしょう。身近なところの円といえば月です。ですから、悟りのメタファーとして月が選ばれたと思うのです。欠けた月ではなく、満月輪、即ち満月の丸い輪でなければならなかったのです。更に重大なことを発見しました。円相は姿が消えた様ではなく、坐禅の姿(透脱している姿)そのものです。このテキストの意味がそうなのです。月は、一部が欠けたり、昼は姿が見えなくなったりします。しかし、それでいて姿が消えたのではなく、見えないだけです。透脱している姿とは自我が解体されていることです。それで見えなくなっているのです。見えないからといって、姿が消えたのではありません。これって電子の姿に似ているではないでしょうか。ここにも不確定性の原理が顔を出しているのです。偶然ではないように思えます。真理というのは、必要ならば顔を出すのです。
この幕の結論です。
・理由のない存在は存在しない。
・宇宙が存在しているには理由がある。
その理由を探しに行こうではありませんか。それがトレジャーハンティングの醍醐味です。
・界面張力は身近に見られる現象である。
・宇宙と宇宙にも界面がある。
・宇宙は複雑な界面の集合体である。
・大脳宇宙も界面がある。
・大脳出現に約10億年は必要だった。
大脳は何故、右と左脳の二つに分離しているのでしょうか。何故脳幹という中心があるのでしょうか。更に、何故神経は、体の中心線を境にして右と左が交差しているのでしょうか。何故意識があるのでしょうか。脳に関しては、分からないことだらけです。脳科学がどれだけ発展しても、このような問いには答えられないだろうと思います。四次元能は、その可能性を求めてのシムダンス=トレジャーハンティングです。
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icon拍手者リスト
from: 生成門さん
2008年12月21日 19時49分25秒
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「Re:Re:春は夏にならない」
> 星は何故丸いんだろう??
> 誰に言われた訳でなく
> 強制さた訳でもないのに
> 何故みんな「丸なんだろう?」
> それとも初めから星は丸くなるように法則を決めた
> 誰か(何か)がいるのだろうか?
>
> 沸々とそんな素朴な疑問が沸いてきて
> 家族に聞いてみた事があります
> 「何で星ってみんな丸いんだろうね?」
> 却ってきた答えは
> 「それが一番バランスがとれるからだろ」。。
安定する形と言う意味では、六角形のようですね。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100073508636
でもそれを包むのは円ですから、円にはかないません。
>
> 確かにそれもあるのだろうけれど・・・
> 何かそれだけではない「意味や理由」が
> あるような気がしてなりませんでした
そうですね。
意味や理由を追求するのが大事だと思います。
科学はそれを教えてくれません。
>
> 光以上の存在とは何なのか?!
> 読み進めていくのが
> 楽しみです!
>
> > 仏教でも無限はありません。円は道元でも出てきます。道元禅は、ティトムと同じく。坐禅している姿であり、透脱した姿です。円を大事にします。道元において「悟り」とは、円月相です。円月相とは満月輪のことです
>
> 悟りとは体験する事でなく座禅の姿そのものである・・
> と解釈してみたのですが
> これも述語論理に繋がるのでしょうか
主語論理では、悟りとは透脱した姿である。透脱した姿とは、円月相のように丸い形である。丸い形は座禅の姿である。よって、悟りとは座禅の姿である。というような三段論法です。
説得力のある論理ではありませんが。(^-^)
基本は、「AはBである。BはCである。ならば、AはCである。」です。
これに対して、述語論理ではどうなるでしょうか。
「悟りは丸い」「座禅の姿は丸い」とします。述語で同一視すると、「悟り」が「座禅の姿」になります。というように水平思考となります。
こちらの論理は、「AはBである。CはBである。だから、AはCである。」です。
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