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from: 生成門さん
2009/01/12 16:26:45
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光には陽光と陰光がある
光には陽光と陰光がある
<ティトムとの共振>
「永遠の今」という不思議な場所を探検するはずが、大分逸脱してしまいました。これもスキゾの特徴ですが。そして、時間は光の連子であるとか、光には陽光と陰光があり、仏教は陽光を断罪していたと述べました。その仏教は敗北し、堕落してしまいました。しかし、光明があるものです。文明は交替するという法則があるのです。再び、仏教は力となるのでしょうか。陰陽はサイクルするというのが宇宙の法則ですから、文明の法則も宇宙の法則の反映なのかもしれません。
今回の舞台はオデッセイ25「永遠に今という不思議な場所」の続きです。下記を参照してください。
http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page2004.htm
以下その編集的引用です。
仏教が光と時間の関係を突止めたわけではないのですが、光が宇宙からの使者であり、時間は欲望の媒体であること、そして、その裏には宇宙精神があることを発見していたのです。仏教は時間も光も宇宙の精神の端くれであり、時間は空間とは本来一体であり、陽光は陰光と一体であり、すべては対生成、対消滅し、すべては色即是空、空即是色であるというのが宇宙の法則、即ち、宇宙精神であり、すべての時空にはこの精神が宿っていると教えてきたのです。更に、陽光だけを見て自我を拡大し、時間と空間を分離して、次元降下させたのは、あくまでも、見せ掛けの真実であり、そうさせたのは光の陰謀であり、危険であることを警戒、警告してきたのです。私達は光の恩恵を受けながら、実はもう一つの光を見ていなかったのです。
仏教は、もう一つの光の力=光明=陰光を見ること、そして、自我の解体、時間と空間の一体化、次元昇華をすることが真の真実、つまり悟りであるというメッセージを発信し続けてきたのです。道元は、このメッセージを受け継いで、只管打座して瞑想する禅を提唱したのです。詳しくは道元の悟りを参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070723845
その道元禅では瞑想する只管打座が自我解体のただ一つの方法であると強調しました。陽光が自我の生みの親であることを鑑みれば、実に正しい方法と言えるでしょう。瞑想は陽光を遮断して内部の意識に働きかけるのです。陽光の遮断こそが内部の意識を統合するのでしょう。脳の進化の過程を見ればその正しさが分かります。
サルは森に住んでいましたから、暗い森の中では聴覚が発達しました。耳を澄まして、周りで何が起きているのかを察知したのです。こうして聴覚と大脳の思考経路ができたのです。このルートは聴覚―右脳-述語思考です。「敵だ。逃げろ」というのは主語なし述語です。場の論理です。これで生きるためには十分なのです。ところが大陸隆起によって真二つに切り裂かれた一方のサル達は森のない草原に放り出されてしまいました。突然の出来事でしたから適応できないサル達は絶滅しましたが、一部の幸運なサル達は視覚を中心とした生活様式に変えていきました。それがすばやく対応出来たのは既に聴覚―右脳-述語思考ができていたからなのです。つまり、視覚―聴覚―右脳-述語思考というルートができたのです。これは脳の進化の大事件だったのです。視覚―聴覚―右脳-述語思考から、視覚―聴覚―左脳-主語思考に変化したのは、既に、述べたように光の陰謀であり、それはもっと後のことになります。プラトンは光についてこういっています。人間は洞窟にいて、その外界の映像を見ているようなものである。見ているものは幻であり、光の錯覚であると言い放ったのでした。何を言いたかったのでしょうか。それは光の錯覚とは、主語思考のことであり、ですから光が当たる外に出なさいと言ったのです。洞窟に映し出される映像は、光の操作であり、真の像ではない。映像を作り出す前には真の像=イデアがあるのだといいたかったのです。洞窟に映し出したのは陽光であり、外のある光が陰光だといいたかったのです。陽光が作り出すのは幻であり、陰光がもたらすのはイデアであるというわけです。現生人は陽光と陰光を取り違えてしまったのです。
現代人の脳は、視覚―聴覚―右脳-述語思考と視覚―聴覚―左脳-主語思考が平行していますから、視覚を遮断すれば
聴覚―右脳-述語思考が働くことは自明でしょう。ですから、音楽を聴くと瞑想に入りやすいのです。仏教では観音といいます。何故、「音を見る」というのか。これが不思議だったのですが、今やっとその謎が解けました。観音とは「遠くの音を観る」という意味ですが、遠くとは三次元的な「遠い」という意味ではありません。彼岸という意味なのでしょう。この時代、四次元という概念はなかったのですから、彼岸=遠い世界というアナロジーは仕方がありません。今なら、彼岸=四次元=虚の世界で済ましてしまします。もっとも、それでは有難くないでしょうが。いずれにしても、遠い近いという概念を超えるのは、位相幾何学=トポロジーを持ち出せば簡単です。例えば、取っ手のついたコップをまげたり、ねじったり、ひきのばしてみましょう。ただし、ちぎったり、ちがう点をいっしょにする、などのことはしないでください。どうですか。ドーナツ(円環)になりましたか。このようにドーナツと取っ手のついたコップが同一視できたなら、あなたは立派な上級のシムハンター(悟りへの挑戦者)です。でも、まだ、シムピープルではありません。このように遠近、右左、大小などの三次元的差異を無視して、質だけを追求するのがトポロジーです。そうすることで、コップとドーナツを同じと見る目=思考が可能となります。これが実は述語的編集=変形に対する自在性なのです。四次元能はクラインの壷が頻繁に出てきますが、これこそが四次元のシンボルなのです。
それでは、トポロジー的に観音=「遠くの音を観る」を解釈すると、陽光=コップ=実の世界=瞑想=光の遮断=音を聞く=虚の世界=悟り=彼岸=仏を見る=観音=実の世界=ドーナツ=陰光となったのではないでしょうか。
別の言い方をすると、聴覚―右脳-述語思考-悟り-陰光のことを言っているのではないでしょうか。要するに瞑想とは、聴覚―右脳-述語思考という本来の脳が持っている時間と空間が一体となった宇宙=モナド=トポロジーの世界=コップとドーナツが同じに見える世界であることを悟らせる一つの方法なのではないではないでしょうか。このような脳=モナドという考えは「宇宙のすべてが大脳をつくった」というティトムが追い求めてきた宇宙の法則、精神そのものなのです。そして、こうした瞑想をすると「永遠の今」という不思議な場所に突き止たるのです。今回の舞台は、その「永遠の今」を突止める瞬間に立ち会うことになるでしょう。
仏教では悟りの状態を、三昧、無我の境地といいますが、それは「今、ここ」という時空一体となった心身脱落の状態を意味します。「今、ここ」という時空が持続すれば、そこは永遠の今となるでしょう。この「永遠の今」という不思議な場所は、どこにあるのでしょうか。
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