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from: 生成門さん
2009年02月08日 15時08分18秒
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ティトムはサスペンスよりずっと面白い
ティトムはサスペンスよりずっと面白い
<ティトムとの共振>
宇宙にはクラインの壷が隠れており、爆発と収縮を繰り返しているようです。爆発は私達が目にする現象ですが、収縮の方は目立ちません。しかし、宇宙はサイクルしており、三次元では不連続ですが四次元では繋がっているのです。その繋がりを示すのが、内と外が反転する時空、クラインの壷であり、球体の原理です。今回の舞台は「四次元へのチャレンジ 」です。下記を参照してください。
http://momloveu.com/titom-teller-j/index.files/Page330.htm
以下その編集的引用です。
先ずは「クラインの壷」を頭に焼き付けてください。「クラインの壷」を参照してください。
http://www2.neweb.ne.jp/wc/morikawa/sya.html
以下引用しました。
ーーー
クラインの壷の導入によって、四次元への入口らしきところに辿りついたのですが、まだまだ障害があるようです。陰光が邪魔をしているからです。しかし、私達を罠にかけた陰光には自身のパートナー(陽光=真の光)がいるらしいのです。陽光は私達の四次元脳の再生に力を貸してくれるのでしょうか。もしそうなら、その陽光を見てみたいものです。陽光はどこに行けば見ることが出来るのでしょうか。今付き合っている陰光を追求していけば、四次元への入口が見つかるでしょうか。
反重力、反引力、斥力の働く場所に陰光がいるでしょう。そこはまた四次元の入口らしいのです。分かりやすく言えば爆発している場所です。閃光が飛び出す場所を発見することから始めましょう。
ところで、四次元世界に入れたとして、そこはどんな感じの所なのでしょうか。宇宙の四次元なんて見たことがないのですから想像することすら難しいのではないでしょうか。
三次元の人間が四次元を認識するには、認識の限界という障壁が待っています。例えば、二次元生物がいたとして三次元空間を認識できるでしょうか。立体を認識できないだろうことは容易に想像できます。ですから、三次元の人間が四次元を認識できないのは当然のように思えるのです。
しかし、四次元能でいう四次元とは、人間の手の届かないところにある時空ではありません。今、ここにある時空のことです。もっと言えば私達自身が既に四次元時空体なのです。ですから、二次元生物は現実にいないのですが、もしいるとしても、それが二次元から三次元を目指して飛躍するのとは分けが違うでしょう。
人間は元々から四次元時空体であるということを確認しておきましょう。スピリット系の考え方は、祈りなどによって高い次元に昇華するというストーリーですが、それは、まるで、二次元生物が三次元生物になるようなことを意味しているわけです。次元を上げるというのは数学の世界では簡単なことです。変数を増やせばよいだけだからです。しかし、生物が数学的操作で、次元を上げるなどという芸はとても出来ないことは進化の歴史を見れば容易に想像が付くと思います。最も進化というのは次元を上げる歴史ではないので、喩えとしては相応しくないでしょう。生物の次元は上がらないのですから。単に、隠れているものを顕在化させるということをやろうとしているだけなのです。
人間は本来四次元時空体だったのですが、どこかにそれを忘れてきてしまったのです。それを探して取り戻すことが、本来成仏のあり方なのです。「仏に成る」というより「仏に戻る」のです。光の誘惑に負けて、三次元に次元低下させられているだけであって、本来は四次元時空体なのです。ですから、三次元から四次元へは戻るのであって、四次元へ行くのではないのです。しかし、四次元の自分を探しに行くのですから、四次元へ行くといってもさして変わりはないでしょう。ただ、全く知らないところに行くのではなく、自分の片割れを探すのですから、何時か来た道を戻るということです。ですから不可能ではないのです。
陰光によって分断された時間と空間の意識を取り戻すことですから、「ない」ものを発見するのとは違うでしょう。もともとある時間と空間の意識を時空意識に戻すことなのです。
それならば、何も137億年もの遠い宇宙にまで行かなくても良いのではないかという反論が聞こえてきそうです。それはその通りです。実際、仏教では四次元という言葉は使用していないのですが、ティトムの天球輪廻説と同じ世界観、陰光による自我の解体、俗世界の認識の否定、色即是空、無我、即非的思考等による世界観を提示しているのです。それで十分ではないかと言われそうです。しかし、四次元能では十分ではないと思っているのです。何故ならば、仏教では、悟り=時空一体としているのですが、修行に於いては因果律の世界、つまり、時間と空間の分離で留まっているように思えるのです。ただ、道元だけが四次元という言葉は使用していないのですが、四次元時空を想定しているように見えるのです。
仏教に限らず、宗教的方法で四次元を検証するのは難しいでしょう。啓示や神のお告げがあった等と云われてもどうにもならないからです。「ああそうですか」というしかありません。
宗教と言うのは心の問題ですから、客観の対象にならないのです。ですから、宗教は信じるものであって観察の対象にはならないのです。従って、内面の検証はできないのです。悟りとは主観的なものであり内観的です。ですから検証は問題にしないのです。
しかし、それでは悟ったことをどのように判断したら良いのでしょうか。科学が存在理由(何故)を問わないのですが、宗教では、悟りの内容を問わない約束なのです。
一方、客観的世界の代表である量子力学ではこの検証について異変が起きています。心が関係していない現象に関するすべてを観察し、分析し、論理化すれば、真実を検証できるとされていたのですが、それが怪しくなってきたのです。
その最たる現象が電子(粒子)の不確実性です。捉まえようとすれば捉まえられず、捉まえようとしなればおとなしくしているのが電子です。まるで天の邪鬼であり、因果律に従わない事が起きているのです。
「意図」と「事実」の間には関係がないというのが科学です。「捉まえよう」というのは意思です。それが観測です。その意思が対象に影響するというのですから、晴天の霹靂です。これはでは信じれば救われるというのと大して変らないでしょう。科学はどうしたというのでしょうか。
科学は、電子の気紛れ性を乗り越えるためにも、四次元へ踏み込む必要に迫られているのです。もっとも時空で言えば四次元へはとうに踏み込んでいるのですが、不確実性を乗り越えるための四次元時空モデルが出来ていないのです。
科学は、次元数だけから言えば5次元から11次元までジャンプしているので、そこでは乗り越えられるのかも知れないのですが、いつになるのか、全くわかりません。更に、光より早い粒子、タキオンなどという検証できない仮説まででてきていますので、ますます、SFがかってきたようです。
当分、電子の不確定性は乗り超えようのないものとして放置されるようでしょう。意思と事実の関係が今後どうなるのか心配です。歴史は意思によって歪められたりするのですが、それでも事実が歪められる訳ではないでしょう。科学は意思によって事実を歪められたりすることを受け入れるのでしょうか。単なる観測精度の問題なのでしょうか。
ティトムは科学ではないのですから、想像逞しく冒険ができるでしょう。しかし、オカルトやSFではないと思っています。出来る限り、能力の範囲ですが、事実に迫ってみましょう。そのためにクラインの壷を登場させたのでした。クラインの壷は四次元を覗く鏡なのです。既に、鏡どころか、回廊であるかもしれないことを示しました。こっちの方がサスペンスドラマよりずっと面白いこと請け合いです。
クラインの壷を受け入れると、どうなるのでしょうか。まず、電子の振舞いが不連続ではなく、未来と過去を行き来して繋がっているということになります。つまり、時間の因果がなくなるのです。四次元世界に行こうとすると宗教的言説に似てしまうのは当然かも知れません。それが本来的なのでしょう。科学と宗教は元々が一体だったのですから。またこれが疑似科学に付け込まれることにもなるのですが。ここには主観と客観の二元論的思考に問題があることを示唆しています。四次元の世界では二元論的思考が通じないと言うことなのでしょう。
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