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from: 生成門さん
2009年06月13日 08時09分25秒
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混沌としての空っぽの器(1)
混沌としての空っぽの器(1)
<補完共振>
四次元能では、様々なナビゲーターとシムダンスをしています。ここで紹介するのは、rensi氏が主催するプラトニックシナジー(PS)理論です。
四次元能全体の文脈で、イデアと現象が交差する複素平面、自己認識の方程式{i*(-i)⇒1}、空(メディアポイント)が出てきたら、PS理論からの受売りです。ただし、独自の解釈をしていますので、忠実な受け売りかどうかは怪しいかもしれません。詳しくはPSのHPを参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/
このHPの最初に、「ポスト・モダン理論を乗り越えるトランス・モダン理論として、プラトニック・シナジー理論を深化させています。非常にシンプルですが、多様な領域に適用可能だと考えています。」というイントロがあります。四次元能は、その適用を臨床的に実験していると思ってください。
その中でも、PS理論の中核はなんといってもイデアと現象が交差するメディアポイントでしょう。ここをしっかりと抑えておかないとせっかくのすばらしい理論も応用の段階で、とんだ間違いを犯してしまうでしょう。先端の物理理論を学んで、平和利用と称して原子爆弾を作ってしまうようなことなりかねません。
今回は、その真髄に触れてみたいと思います。ただし、そのまま紹介しても、ちんぷんかんぷんなので、独自の解釈をしていきます。ですから、タイトルも「メディア・ポイント」ではなく「混沌としての空っぽの器」です。詳しくは「英知の探求」を参照してください。
http://antares111.exblog.jp/5772459/
以下、編集引用しました。
メディア・ポイントを、「混沌としての空っぽの器」と理解していきます。四次元能では更に省略して「空」としていきます。この投稿と同じくして「魂はどこに行ったのか(1)から(6)」の予定を連載していますが、そこで「空」が「ゼロ」と同じ意味で出てきます。しかし、いきなり「空」が出てきたのでは、戸惑いがあるでしょう。そこで能には狂言があるように、補完する意味で「混沌としての空っぽの器(1)から(6)」を位置づけます。
PS理論では、タイトルが「メディア・ポイントの構成の試論:即非的一性としての実数軸上の相剋・相生分極性」となっていますが、これでは、何のことか分からないでしょう。そこで、大胆に翻訳(意訳)してみましょう。
「混沌としての空っぽの器」とは一体何なのでしょうか。それは「不況から新しい世界が生まれる」ということです。意訳してしても、なんだか、当たり前のようで、ありがたみがなくなってしまいそうです。そこで、「混迷の後に来るものは、葛藤と聡明かのどちらか」としておきましょう。
しかし、この「混沌としての空っぽの器」という題は、更に、もっと大きな力を持って、真実を語るでしょう。それは、本文を読んでのお楽しみということにします。
この「混沌としての空っぽの器」という概念は、森羅万象の「虚・実」の謎を解く鍵であるだけに難問中の難問です。また、四次元能における最核心の「虚」であり、最重要な「実」であると言えます。
「虚実」の謎を解くにには、虚と実を同時に思考する空間が必要です。それを可能にするのが複素平面なのです。虚と実を同時に思考する空間とはどんな所なのでしょう。直ちに思い浮かぶのは、神聖な場所である「願望成就」を祈願する神社です。「望みかなえたまえ」とお祈りして、お賽銭を出す神社は、実に複素平面的なのです。すべてを神に委ね、宇宙と一体になりたい受容する心、一方ではご利益を欲しがる浅ましい利己的な心が入り混じっている場所なのです。これが虚実の共生空間なのです。現代では神聖な場所も浅ましさだけが現れているようです。
こうした二面性(虚実)を持った場所は、神社だけでなく、虚々実々の駆け引きを行う戦いの場、リストラで修羅場となる経営の現場、家庭的な団欒の場、酒場、井戸端、囲炉裏などおよそ人間が集まる場所・場面はすべてそうだといえるでしょう。二面性を持った場所とは、自分と他者との関係が共振して他を受容できるか、出来ないかといった心の入り混じった混沌とした場所であり、葛藤している場所です。だからこそ複素平面的と言えるでしょう。
このような場所は人間がいる所は、すべてがそうなのですが、二面性をもっていて、葛藤していて、表に姿形として現れるときは、どちらかに偏って現れるということです。そのような場所は普遍的にどこにでもあり、複素平面で表せる構造を持っているということです。
何故そういうことが言えるのでしょうか。それが宇宙の生成の法則(精神)だからです。と言ってしまうと、サスペンスドラマの犯人を先に見せてしまったようなものですから、楽しみが半減してしまうでしょう。ですから、この結論は忘れてください。じっくりと探索することにしましょう。
人間に心=精神があるとは誰もが当然のごとくに思っているでしょう。しかし、この「ある」というのが曲者なのです。どこにあるのでしょうか。「魂はどこに行った」では、一粒の砂にも魂が「ある」と言いました。それは心=魂の形であり、心そのものではありません。本当の心・魂はどこに「ある」のでしょうか。
その答えは今のところ、複素平面にあるとしておきます。というのは、「ある・ない」というのは、三次元の場合のことであり、もし、心が四次元に根拠があるならば、「どこにある」という答えは意味がなくなるからです。
次元が生成されるところで述べたのですが、次元はゼロ次元から一次元が、次に二次元が、そして三次元が生まれたのです。その三次元が「有り無し」の世界です。
しかし、その「有り無し」が、ゼロ次元から生成されてきたのです。ゼロとは無です。何もないところから、物が「あるない」という世界が生まれたのです。しかし、心は物ではないですから、私達が心といっているのは、心の痕跡なのです。ですから、心はどこのあるというのは無意味なのです。あえて言うなら、心は無から生まれてきたと言うしかないでしょう。或は、心は無にあるというしかないでしょう。
さて、おかしなことになってしまいました。三次元にあるのは心の痕跡であり、心そのものではなく、三次元はゼロ次元から生まれてきました。ゼロは無ですから、心は無から生まれてきたことになります。つまり、心はゼロ次元にあるということになりました。
次元については、「反転と無限の次元学」を参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082053639
まだ次元がない、つまり世界が生まれていないときを想像してください。そのときは、すべての場所がゼロ次元であり、無限にゼロだけがありました。長さもない大きさもない無の世界です。その無=ゼロからすべてが生成されたのです。トンデモだと思うでしょうが、先端の宇宙論でも量子力学でも、はっきりと無からすべてが生まれたと言っています。それによると、何もない無=ゼロとは、何もないのではなく虚のエネルギーが詰まっていて、中性であるといいます。つまり、虚の±0だということです。中性ですが静的であり動的なのです。何かの切っ掛けで分岐するのです。そのときが次元の顕在化ということになります。
虚の±0は、0次元の原点であると同時に虚次元の特異点でもあります。特異点というのは、実と虚という本来異質なものが交差している点です。原点というのは実軸に開かれている点ですが、特異点は虚に開かれている点です。この二つの点が一つであるというのも、おかしな点ですが、それを一つにまとめてしまうのが、空という「空っぽの器」なのです。
原点であると同時に特異点であり、中性であり、無であり、エネルギーであり、次元が飛び出す「空っぽの器」であるといった引く雑な構造をもった「空」なのです。
この「空」を簡単に表現するとi*(-i)⇒+1、i*-(-i)⇒-1となります。これは根源にイデアエネルギーがあり、空を媒介して、現象化するという式です。i*(-i)とi*-(-i)は空を意味しており、共振と反共振する状態を示しています。これが空の二重構造であり、虚と実の二面性であり、+1がその共振状態、-1が反共振として、三次元に現象することを意味しています。
二重性・・・i*(-i)とi*-(-i)の即非的(ある・ない)側面
二面性・・・虚軸と実軸に開かれている矛盾的(虚実)側面
現象したということは、姿形として現れることを意味します。空は即非的矛盾状態にあり、見掛けは静的ですが中性(±0)とはいえ、振動していて、綱引きの葛藤状態にあります。中性(±0)から+1と-1のどちらになるのかは、空の葛藤状態により決まります。ペーハー値のように、アルカリが強くなるか酸性が強くなるのかは、その濃度によりますが、人間の場合は、左辺偏向(-1)があるようです。
この現象化の仕組みがゼロ=無という空を媒介しているのですが、これが複素平面の空のダイナミックなところなのです。イデアという根源の力が空を介して表に出るのですが、目に見えないものを「あると思え」と言われてもすぐには信じられないように、空のダイナミズムはなかなか理解出来ないでしょう。そこで、根源の力があるという虚軸=虚次元=虚の世界から説明をはじめましょう。
一体、虚の世界とは何でしょうか。
植物も思考し・感じると言ったら信じられますか。朝顔をじっと観察して見てください。あたかも心があるかのように見えるのです。スピードカメラで撮影してみるとよく分かるのですが、先端の蔓が竹の棒をくるくると巻いて上に伸びていく様子が分かるでしょう。その動きはまるで生き物のようです。動物を思考し・感じる心があるといっても誰も反対はしないでしょう。実際に童話や映画には擬人化された物語が多くあり、それに連動したキャラクター製品もあります。それは誰もが思考し・感じる心がると思っているから受け入れられているのです。
同じ様に、その動く様子を見れば朝顔にも心があると思えるでしょう。これは外から見た感じですが、もっと詳しく見るためには科学の力が必要です。朝顔には重力を感知する遺伝子があり、それがくるくると巻きながら上に伸びていく行動を取らせています。ここまで分かると生き物の本質にたどり着いたことになります。
つまり、遺伝子がそうさせていることです。人間もかなりの行動・思考・感情を遺伝子に依存しています。遺伝子がどこまでやっているのかは現在解明がなされているところですが、いずれ全容が解明されるでしょう。ただ、四次元能は遺伝子にすべてをゆだねているのではありません。遺伝子がそのイデアの原型を反映しているというだけであり、現象化するときはもっと違う力が働くでしょう。円は丸い形をしていますが、その原型は完全無欠でしょう。しかし、現象化された円は完全とは言えません。地球だって、表面は凸凹だらけです。
虚の世界とは何かという問題を設定したら、遺伝子の話になってしまいました。遺伝子を追求していけば、虚の世界に行けるのでしょうか。今のところ、その気配はありそうもありません。先端のX解回折などで遺伝子を見ても、塩基配列と二重螺旋が見えるだけです。遺伝子は三次元の物質ですから、実軸に現象化されたものですから虚的な影すらも見えようがないのです。後は分子の一つ一つであり、更に分解すれば元素であり、更に分解すれば、粒子の世界になります。
それでも、「問い」は残ります。遺伝子は何故命のような情報を持っているのでしょうか。それは、一体何によってもたらされたのでしょうか。遺伝子というのは、生命の設計図であるとも言われています。私達の命が遺伝子に書かれているというわけですが、尊い命がただの物に還元されてしまうのでしょうか。
朝顔が竹の棒をくるくると巻いて上に伸びていく様子を命の原点であると思うと、そうであるかもしれないと思ってしまいそうです。四次元能はそんなところで探求の手を緩めることはありません。もっと深く追求していきます。
仮に、遺伝子が命の設計図だとしても、それはどうして、そこに設計されたのでしょうか。進化論は偶然だといいます。創造論では神が創ったとなるでしょう。いきなり神が出てきてしまっては、それ以上を探求することが出来ませんから、四次元能としては、進化論の偶然説から後を続けたいと思います。
進化論によれば偶然に遺伝子が命の情報を持ったということです。ここで鍵となる言葉は、「偶然」と「情報」です。偶然とは、塩基配列の並び方が変異するということであり、放射線やコピーミスなどによって起こることを言います。この偶然から意味のある配列=命が生まれたたというのです。次に情報ですが、「情報」とは何かということです。情報とは意味のある配列のことです。つまり、塩基は物質ですが、配列は非物質です。非物質的現象が三次元に現れたということです。三次元というのは、長さ、幅、奥行きのある、つまり、大きさのある空間です。塩基は確かに物質ですから、分子が沢山並んでいて、大きさのある空間を占めています。それだけなら、ただの物質なのですが、「意味のある」ということになると、ちょっと事情が違ってきます。何が違うのでしょうか。
物質の上に物質ではないものが乗っかってしまったのです。それはどこから来たのでしょうか。その物質は塩基でなければならなかったのでしょうか。塩基はたまたまでもよかったのかもしれません。情報といえば、今日ではデジタル化が進みましたので媒体(メディア)を選びません。インターネットから好きな曲をダウンロードして、ipodに入れて持ち歩くことが出来ます。遺伝子情報というのも、そのようなものかもしれません。実際に、遺伝子は転写されてあちこちに動き回ります。遺伝子は命という情報の乗り物なのかも知れません。そう考えると主役は情報です。
その情報の元はどこから来たのでしょうか。意味のある配列=命は偶然から生まれたたとされています。進化は偶然を必然に変えるゲームであると言いました。「進化は偶然を必然に変えるゲーム」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082328001
果たして命は偶然に現れたのでしょうか。
仮にそうだとしても、「偶然を必然に変えるゲーム」というのは、何故、存在するのでしょうか。ゲームというのも物質では有りません。非物質的です。遺伝子情報は塩基という物質に乗っていますが、ゲームはどこに乗っているのでしょうか。乗り物のない情報などというのは「ある」のでしょうか。コンピュータゲームだってプログラムされていて、プログラムという媒体に乗って配布されます。「偶然を必然に変えるゲーム」を「命を生成するゲーム」とすれば、それはどこに隠れているのでしょうか。ここでまたまた神を出したくなります。しかし、それでは、思考の停止です。諦めずに頑張ってみましょう。
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