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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2009年06月15日 13時17分47秒

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    他力本願は虚軸本願

    他力本願は虚軸本願
    <補完共振>

    経営とは企業の目的を達成するために資源を有効に活用して利益を獲得する行為です。その行為は企業のおかれた業態によって異なりますが、製造業ならば、販売・生産・購買・開発などの機能があります。それらの機能を統括して優先してあるのが経営という機能であり、その中でも、方針・戦略・ビジョン策定という作業がすべての実践に先立ってあります。

    こうした機能は、人間の一人の行為に照らし合わせると、思考し・感じるという精神作業に相当します。ですから、経営という機能は、企業だけにあるのものではなく、人間の精神作業なのです。それを企業という現場の経営という行為にターゲットを当てて見ると、人間の精神というもの実態がわかるでしょう。

    経営とはマネジメントであり、ヤリクリ・キリモリです。これは家庭にも、国家にも、学校にも、自治体にもマネジメンという思考と感情と行動がセットになった様式があります。もっと言えば、個人にもセルフマネジメントがあります。マネジメントとは、想いを達成させる思考と感情と行動の様式なのです。企業に於いては、この様式が特に意識的に行われるということが特徴なのです。

    企業に於いては事業をするにあたって、何をしたいのかという「想い」=ビジョンがあります。それを具体的にしたものが戦略であり、方針です。想いとは目的であり、願望であり、方針はその方向に心を向けさせる精神です。それがなければ、企業の成功はおぼつかないでしょう。

    このような想いがあり、プランドーシー(計画・行動・評価)というマネジメントがあり、それを繰り返すのが経営なのです。

    長い経営の話ですが、ここに複素平面の特徴が良く表れています。意識とか想い=ビジョン、方針といったものはすべて、精神の形であり、心の形であり、その原型は虚軸にあるのです。それがプランドーシー(計画・行動・評価)のように、混合されて現象化しています。プランとシーは精神の形であり、ドーは行動ですから物質的エネルギーの発現です。マネジメントというのはすべて、精神の形と物質及び物質的エネルギーとが混在しています。複素平面というのは、それを同時に表現しているのであり、厳密に区別しているのです。私達の日常に於いてその複素平面を意識していないのです。

    ところで、経営とは全くの極にある神社も複素平面(空間)であるといいました。それは何故なのでしょうか。願をかなえたい人が訪れる所が神社です。願とは想いですから、人は想いを持って神社に来て祈るのです。そしてお賽銭を払って帰るのですが、その後は日常の生活に戻ります。又、年に一回は神社に来るでしょう。それは、経営と同じ様に、一年の計は元旦にありで、発奮して努力する、そして反省するという繰り返しのマネジメント、つまり、プランドーシーの実践があるのです。

    神社での祈りは、神様と個人の会議(交感)なのです。昨今、神社での祈りは儀式化されてしまいましたので、そこに精神があるのかは疑問ですが、儀式とはいえ心がないとは言えないでしょう。嘘も心なのです。問題にしたいのは嘘か真かではなく、心はどこに「ある」のかなのです。

    神社での祈り(交感)を経営で言えば、マネジメント会議に相当するのでしょう。昨今、多くの企業でも会議は儀式であり、実践は現場で勝手にやるようになっており、かなり形骸化しています。

    神社での会議は願をかなえるために神に託すという行為であり、後はお任せですから他力本願です。一方、経営におけるマネジメンは形骸化しているとはいえ、後は現場での真剣な会議があり、自らの責任で行うのですから自力本願です。他力と自力では大きな違いがあるように見えます。この違いは、心はどこにあるのかについて重大な問題を生起させるのでしょうか。

    お祈りをした後は普通の生活に戻ります。大概の人は、神社の会議は儀式としか思っていないでしょう。自分の人生は自分で責任を持って送っていきます。神社参りは遊び、ないし習慣・風習となっています。
    つまり、祈りは遊び、人生はちゃんとセルフマネジメントをしているわけです。つまり、神社の会議は日常の中に組み込まれているのです。最近は日記代わりにブログを書く人が多いようですが、それはセルフマネジメントの一部といえるのではないでしょうか。

    逆に、企業においては、心的な祈りはなくなってしまったのですが、昔は神棚を持っていました。祈りという行為は、どこにでもあったのです。他力本願・自力本願は一面を捉えていっているのであり、どんな場合も両輪のプランドーシーのマネジメント実践だったのです。経営の会議は祈りという儀式の代用なのです。

    このことは、ある重要なことを示唆しています。人間は人生においても経営においても、
    ・想いを託す祈りと人生の実践
    ・想いを託すマネジメント会議とその実践

    という、それぞれ二つをセットでまわしているということなのです。どちらにも共通していることは、虚を実に変換する複素平面の構造を持っているということです。

    進化と占いは「偶然を必然にするゲーム」だと言いましたが、他力本願かもしれません。経営にも、もともとは他力本願的な要素があったのです。他力本願とは虚軸本願といってもよいでしょう。つまり、私たちは無意識に複素平面上を生きているということなのです。

    いずれにしても、三次元の物質世界では、虚と実は繋がらない不連続な関係ですが、無意識レベルでは、人間社会(だけではないですが)では、いつでも繋がっているというわけです。繋がっているというのは連続的ですから、正しい表現ではありません。虚実が繋がるために空という反転装置があることを忘れてはなりません。

    願望祈願は他力本願=虚軸本願ですが、特別な力を与えるものとして神社の役割(神頼み)がありました。他力本願の上手いところは、神社は成功を保証するのではないということです。ですから、信じるか信じないかは自己責任です。他力本願=虚が自力本願=実に反転する仕組みがあるのが空なのではないでしょうか。

    それほど大げさな願望祈願ではなく、小さな願(神頼み)モデルなら、子供のころの「明日天気なーれ」の「照る照る坊主」でしょう。願望モデルは、他力本願=虚(祈り)が自力本願=実(後は野となれ山となれ)に反転する仕組みでしょう。

    これまでの話は、信仰と経営を同じ土俵で論ずることを示しましたが、それが出来るのが複素平面的思考の強みなのです。

    この強みをどう考えたらよいのでしょうか。虚が実になるということは理屈では説明がつきません。しかし、それを確実に繋がっているということを、私達は無意識に知っているということです。複素平面の強みとはこの無意識のことなのです。

    複素平面の強みは複素平面を駆使してはじめて明確に出来ることでしょう。ただ、こういう言い方は自画自賛しているようです。「自己言及のパラドックス」に嵌まってしまうかもしれません。「天に唾を吐く」ともいいます。

    「クレタ人は嘘つきだ」という話があります。それを言った人がクレタ人であるときにパラドックスになるのです。言ったことが真であれば「クレタ人は嘘つきではない」ことになり、言ったことが偽であれば、「クレタ人は嘘つきだ」は偽になり、どちらにしても、「クレタ人は嘘つきだ」は否定されます。

    このパラドックスから逃れるには、どうすればよいのでしょうか。それは未来に畳み込むことです。矛盾のまま生きることです。神社とは、このパラドックスから逃れる術なのです。

    経営に於いて成功するためには人・資本・物の有効活用が必要であるというのは、経営の基本であり、三次元の世界の論理です。しかし、その基本が守れずに破産してしまうという事態が起きることがあります。GMの破綻は、その典型でしょう。それはパラドックスから逃れる術を持っていなかったということでしょう。

    企業というには矛盾だらけの存在です。三次元の空間だけに存在し、虚軸が無関係なら、XとYとZ軸という実数軸を交差させ、その空間で思考すればよいでしょう。しかし、そうではないから破綻が起きるのです。経営においては、満足や気力や文化風土といった精神面が重要であり、成功するために、必要であることは誰も否定しないでしょう。GMの破綻は、サブプライムローン問題が、不況を招き、その影響を受けたとするのが、大方の理屈です。そのことは否定しませんが、もっとも、大きな原因は精神面を忘れてからにほかならかなりません。精神と物質は矛盾の有り様なのです。これをそのままに放置すれば、袋小路は免れないでしょう。

    このような破綻の原因が物質と精神の矛盾にあり、その根源が四次元にあることを理論化している経営理論はないように思われます。

    「精神一倒何事か成らざらん」というのは、虚軸本願なのでしょうが、精神論だけでは、お話にならなのです。自力と他力が融合した祈りのマネイメントが必要なことは、どんな経営者でも暗黙に自覚しているのですが、それを自覚して経営していることはないでしょう。無自覚では経営と宗教を混同した経営者と同じ憂き目を見るでしょう。
    自覚して経営と宗教を共生させる経営者
    が求められているのです。経営と宗教をきちんとした思考で繋げてみたいなら、複素平面を持ち込まなければならないのでしょう。

    経営と宗教を繋げるということは、三次元のX・Y・Z軸を一本にまとめ、これを実数軸として、もう片方を虚数軸とすることです。略して虚軸と実軸として、虚軸を想いの空間、つまり非物質なイデア空間、実軸を物質的な現象空間として代表させることです。

    ここで空間という言葉が出てきましたが、「空の間」と書いて何を意味しているのでしょうか。私達の身の回りは、物で溢れています。それを一般的には三次元の空間といいます。つまり何もないところに物があるわけです。一つの物が占めてしまうと他の物は占めることが出来ません。

    ですから、空という何もないところに物が入り、その物と物の間には隙間があり、その隙間はいくらでも大きくでき、いくらでも小さくできます。このような隙間を空の間、つまり空間といいます。空間とは空=隙間が一杯詰まっているといってもよいでしょう。

    ゼロ次元は、ゼロが一杯詰まっているといいました。「反転と無限の次元学」を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082053639
    ここで、三次元空間はこのゼロの点=空間から生まれたことを示したのですが、ゼロとは虚のことであるとも示しました。そして虚とは四次元でもあります。ゼロとは大きさ、長さ、幅がない点ですから、空っぽと同じ意味です。よって空とはゼロのことなのです。

    何もないゼロの次元を空間といい、虚次元空間ともいうのですから、空間という言葉自体が誤解のもとになるのです。私達が知っている空間とは、物が溢れている三次元の空間なので、ゼロの次元の空間というのは分かりにくいでしょう。ただ、三次元空間の元になっているのがゼロ次元の虚空間だったことを覚えておきましょう。

    私達は三次元空間という物の世界に住んでいるということは理解しやすいのですが、想像したり、空想したりする世界にも住んであるという実感があるでしょう。ですから、空想世界を三次元ということには抵抗があるでしょう。しかし、私達は間違いなく身体という物質的存在であり、精神的な存在、つまり、矛盾した存在なのです。

    このように三次元空間に存在していながら、虚空間にもいるという不思議な存在、それが人間なのです。この虚空間を虚次元の空間ということにすると、次元の誕生で示したように、虚次元がゼロ次元ということになるのです。

    三次元世界を物質のある具体的な空間とすれば、想像したり、空想したりする世界は、虚空間、即ち、抽象的な空間といってもよいでしょう。私達が夢を見ているボーとした空間があることを想像できますか。それが虚空間なのです。こうして複素平面の基礎が出来たことになるわけです。

    しかも、その想像上の空間が、実は三次元空間の元になっているゼロ次元であるのが「反転と無限の次元学」の逆説的なところです。

    空間を世界と言い換え、想像上の世界をイデア(世)界といい、物が溢れている三次元の世界を現象(世)界としましょう。かれが複素平面を導入するための虚軸と実軸の下地です。後は、話を急展開させて、イデア界と現象界の中身に移ります。

    イデア界とは虚次元ですから、あらゆるものを生み出すゼロ次元のゼロが詰まっています。ゼロから三次元が生まれたことは既に示しました。これをエネルギー的な観点から言えば、虚空間とは、そこから三次元の物質が生まれてくる温泉のようなものです。根源のエネルギーが隠れているところでしょう。表層を物質として、深層を非物質的世界、神秘的な精神世界と二分させて考えてもよいでしょう。

    科学は表層だけを相手にして、あたかも、深層がないかのように覆い隠してしまったのですが、それを拾い上げ続けてきたのがオカルトや宗教やSFだったのです。ただ、拾い上げることはできたのですが、あまりのもその対象とする世界が、大きさと広がりのない世界だったので、取り扱い方法が分からなくて稚拙だったのです。

    そのいい例が神様の概念です。確かに、神頼みは、この虚の世界を無意識に相手にしていることを暗に示しています。その無意識というのが、実は大事なことなのです。つまり、無意識にはイデアの匂いがするのです。

    イデアとは根源の力ですから、神という概念が生まれてくるのは当然のことなのです。ただ、神が「神がかり」のままに置かれているので、虚と実を結びつける方法がなかったのです。虚と実を結びつける方法がなければ、虚は虚のままであり、この世に現れ出る虚は、奇跡であり、「神がかり」なのです。それを良いことに、「神がかり」ビジネスを蔓延らせるということにもなったのでしょう。

    四次元能では神を単なる虚にしているのですから、神を冒涜していると批判されるかもしれません。むしろ、神を正しく解釈しようとしているのですが、果たして上手く行くでしょうか。


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