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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2009年06月15日 16時04分59秒

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    無限の地獄

    無限の地獄
    <補完共振>

    四次元とはイデア界=虚軸と現象界=実軸とが共生する世界です。現象界とは、三次元空間=実軸のことであり、森羅万象が生成消滅するところです。無機・有機物、宇宙空間の物質世界です。ところが人間世界になってくると喜怒哀楽する俗世間、人間社会、文明など人間の様々な意識現象、精神現象が混在してきます。人間世界とは四次元世界の典型なのです。問題は、三次元空間=実軸=現象界に、非物質が混じってくることです。これをどう考えたらよいのでしょうか。既に、物質は正四面体が重合した非物質的な形であるといいましたから精神現象が入り混じってもおかしいことではありません。イデアは非物質、三次元の物質も非物質ということです。ですから、虚と実を区別するのは、物質も非物質ではないということです。では何が区別の指針となるのでしょうか。

    イデアは原型であり、現象は形であるということです。イデアとして丸い円があるとして、それが現象化したのは凸凹のある円です。形は現象化するにあって、様々な力学的な要素によって形となるのです。私達は形が固定的なものを物として扱うのです。流動的なものを幽霊とか気とかいうわけです。

    形が頑固なものから柔らかいものまでが入り混じった現象世界と、その元であるイデア界を考えるためには、イデア界を虚軸、現象界を実軸として識別するところから、思考実験しなければならないでしょう。イデアの世界は見ることも触ることも出来ないのですから、あくまで、想像上の世界です。そこに現象化させる根源の力があるのです。

    イデア界=虚軸の原型が実軸上の形に現象します。原型と形はどう違うのでしょうか。それは円が凸凹円であるというように、原型は理想であり、現象は現実であるということです。ですから、人間は、イデアとしては完全な理想としての正四面体なのですが、それが重合の重合を重ねて三次元物体として発現して、更に意識を発現して、この世に生きているのです。

    イデアとしての精神は、それがあると想像(仮説)しているだけです。ですから、否定することは可能です。しかし、否定してしまったら、すべてはこの三次元世界のみであるという、これまでの状況と何も代わりがなく、物質と精神が分離され、不可思議なことは奇跡や神の力でしか説明が出来なくなります。そのような袋小路から抜け出すために、「畳み込まれる」複素平面を持ち出したのです。「イデアの王様」を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100083177594

    現象としての精神とイデアとしての精神は区別されなければならないです。意識が現象として現れていることは誰でも認めるでしょう。私が今ここに「いる」ということを、私は知っているのですから。自分が「怒っている」ことを知らない人はいないでしょう。

    ところで、この意識は本当に現象として現れたものなのでしょうか。自分の意識なら確実だと言えるのですが、他人の意識は確認のしようがありません。

    サスペンスドラマを引き合いに出してみます。「私はやっていません」と犯人がいったとしても検事は信じません。それを客観的に証明するために三点セット、物証、アリバイ、動機を揃えます。物証(物的証拠)、アリバイ(そこにいたか、いないか)は、客観的な三次元の因果です。犯人が、そこにいたことを物的な証拠で証明します。ここまでは科学です。しかし、動機はどうでしょうか。動機というのは、事件を引き起こしたという、心の作用であり、心の因果です。しかし、自白は嘘もありますから、客観的に示さなければなりません。裁判ではこの主観的な心の有様、つまり動機が「ある・ない」を証明するのに苦労するわけです。直接に本人の脳を解剖してみることはできませんから、人間関係や行動から推測するしかありません。嘘発見器はそれを見ようとするものですが、どこまで正確に表現できるのか限界があるでしょう。

    人間が人間の行動から心の内側を推測するのですから、因果の系列を手繰ることになるでしょう。結局、事件の原因は恨みがあったとかの理由になることでしょう。それで事件は一件落着なのですが、本当にそれが真の原因なのでしょうか。それは分からないままなのです。裁判は結論を出さなければなりませんからある程度の因果で白黒を決します。

    さて、このような推測は因果の系列を追っているだけです。恨みが最後の因果でしょうか。もしその原因が分かったとしても、更にその原因は何かと問うことが出きるでしょう。無限の地獄に嵌まってしまいます。三次元は閉じているので、そこから抜け出ることは出来ないのです。

    その恨みはどこからきたのでしょうか。家庭の貧困やいじめかもしれません。或いは性格かもしれません。とにかく、因果に初めはあるのでしょうか。仏教では本人の過去の行いがすべて無意識に畳み込まれ、更に、先祖の行ないまでが動機に反映されるというのです。それが本当なら、責任を問えなくなってしまいます。もし、本人以外に真の原因があるとなれば、裁判は破綻するでしょう。

    意識(動機)と無意識(過去の記憶)との関係ははっきりとしてはいません。科学では、先祖の行いが本人の意識に現象として現れているとは決して認めないでしょう。

    今日では無意識は心理学では認められています。様々な気質が遺伝であることは分子生物学が徐々に明らかにしつつあります。

    切れやすい遺伝子があるそうですから、それが犯罪の真の原因かもしれません。もし、そうだとすると、その遺伝子は偶然によって生成されたものですから、因果が偶然によって発生したということになり、因果律が破綻します。

    遺伝子が無意識の巣であり、それが意識現象を起こすとなると困ったことになります。意識はあくまで、三次元の現象であり、因果の系列は閉じていなければなりません。今、分かっていることは、遺伝子は核酸(塩基の配列)でできている物質(正四面体重合)です。

    しかし、その配列に意味があるのです。テキストは単なる文字の配列ですが、意味があるのと同じです。文字が意味にあるためには解釈が必要になります。同様に、遺伝子は暗号であり、解釈が必要であり、そこから脳内物質が生成され、気質という非物質を生成します。

    ここでのポイントは、遺伝子が単なる正四面体の物質ではなく、非物質的な形=情報を保持しているということであり、それが気質という非物質的なものを生成するという非因果的な因果があるということです。

    虚軸のイデア=非物質=原型=完全な形
    例 円のイデア=完全無欠な円

    実軸の物質・・・・・・・・・・実軸の非物質
    硬い形           柔らかい形
    例 凸凹の円=ボール 凸凹の円=輪ゴム

    石を投げるという非物質的な意思によって、石が飛ぶという運動に変わるという物質現象は三次元の現象として因果が認められるでしょう。しかし、その石を投げるという非物質的な意思と物質現象が繋がるということが問題になるのです。硬い形から柔らかい形に変わることはありうることです。
    凸凹のない新品のボールが凸凹のボールになるようのものです。それと石を投げる非物質的な意思と石が飛ぶ物質現象が繋がることが同じかということです。

    非物質か物質化はこの際重要ではありません。水平的な実軸のみの現象かということです。ボールの場合は因果の科学で説明が出来ますが、石を投げる意思と石が飛ぶ現象が因果の科学では説明ができないとういうことです。科学が意志の力を方程式に組み込めないことからも明らかです。

    意思は現象ですが、何か虚軸が関係しているのではないかということです。このような現象を適切に説明するためには虚実のリサイクル、畳み込みを考えなければならないでしょう。空にすべてが畳み込まれて、次の実に移管されるのです。

    虚→空→実→空→虚→ノサイクルがものすごい速さで回転していると考えてください。私達は(虚→空→)実→(空→虚)→実→(空→虚→)実→の実しか認識できないのです。実際は並行して進行するので、

    現象   実→実→実→
    畳込み 空  空  空
    イデア  虚→虚→虚→

    と表現した方が良いでしょう。
    私達は実→実→実→しか認識できないのです。

    火が燃えたら灰になります。因果とは物質的な系列なのです。そこに虚的非因果が入る余地はありません。しかし、虚的非物質的と物質的な因果が繋がるというのは、人間の世界では日常茶飯事です。

    気質はどこから来たのでしょうか。いくつかの気質については遺伝子にあるとされています。遺伝子の原因は偶然です。偶然ということは因果の鎖が切れたということです。「偶然が必然化するゲーム」という非物質的な情報が、三次元の因果を切断したのです。この情報はどこから来たものなのでしょうか。虚が実になるという連鎖をどう考えたらいいのでしょうか。
    このような現象も、

    遺伝子(気質) 実→実→実→
    畳み込み   空  空  空
    気質イデア  虚→虚→虚→

    と考えればよいでしょう。私達に見えるのは、遺伝子と気質ですから、空と虚はないに等しいのです。しかし、空と虚が関係していることは間違いないでしょう。それをどう説明するのかです。

    虚が実になることは連鎖とは言えません。虚が実とは連鎖ではなく反転であると言いました。つまり、ゼロをいくら並べても、線にはならないのです。ゼロを線にするには、反転するしかないのです。これが虚を実にする奥の手だったのです。

    イデア界=虚軸を精神が住む世界としておきながら、実軸上にも精神が現象するということの理由が分かってきたのです。

    イデア界=虚軸に属する精神をどう考えたらよいのでしょうか。それが物質なら現象であると言い切れるのですが、芸術家のような頭の中に湧き出る精神性は、現象であるようにも見えます。しかし、それを見ることは出来ないのですから、形として現れた絵を持ってしか想像することができません。

    絵を見てそこに精神性を感じたたら、それはイデアを感じたことになります。それが意識です。頭の中に湧き出たというのは現象でもあり、無意識であるとも言えます。このような実でもあり虚でもあるような中間的な状態があると言うことになります。イデア(精神)→中間的な状態(精神)→現象(精神)があるということです。どれも精神では話にもなりません。このメカニズムを明らかにしたいのです。

    イデアという背後の世界を認めなければ、ただの現象が因果の系列に従って、生成消滅していることになり、薄っぺらな世界となってしまうでしょう。芸術家の生み出す作品も、単に偶然か、もしくは感性があるといった程度のことでしかないでしょう。

    ですから、そのような人では、虚と実は決して交わらないのですが、そのような人でも、死ぬような目に会ったとか、異常な体験をすると、神秘性=精神性=神を信じるようになるようです。「藁にもすがる」、「神頼み」というのはそのようなことを言い表しているのです。人間は決して虚の世界を無視してきたのではないのです。神仏を敬うという文化があることが、それが証明しています。ただ、今日のように科学万能の時代になったこともあって、神秘的なことが片隅に追いやられてしまったことは事実です。

    もともとは虚と実の世界は渾然一体であったのであり、その復活こそが、今求められているのです。ただ、復活させるといっても、単に、渾然とさせればよいわけがありません。そこには、これまでの精神に対する先人が通ってきた並々ならぬ努力と苦しんだ戦いの歴史があります。それを引き継いでいかなければならないのです。

    その引き継ぐためのもろもろの作業は四次元能には出来ません。その作業はPS理論の提唱者であるrensi 氏にお願い
    しましょう。四次元能の役割はそれを受け継いで応用することです。

    四次元能全体の文脈で、イデアと現象が交差する複素平面、自己認識の方程式{i*(-i)⇒1}、空(メディアポイント)が出てきたら、PS理論からの受売りです。ただし、独自の解釈をしていますので、忠実な受け売りかどうかは怪しいかもしれません。詳しくはPS理論のHPを参照してください。
    http://ameblo.jp/renshi/



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