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from: 生成門さん
2010年04月05日 17時54分23秒
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もう一つの空間
もう一つの空間
<存在との共振>
「空間は歪んでいる」と述べましたので要約しておきます。空間は固有の場であり、場には差異があり、差異は力であり、その差異が場を歪ませ、空間を歪ませ、そして時間を遅らせ、進ませます。
それがスポーツの場では当たり前であり、その空間の歪みは心理的な空間なので観戦者からは見えないのです。場と言うのはグランドだけではなく脳の中にもあるのです。そして、その様な場は普段は隠れているのですが、時に露出することがあます。場が露出するのは笑いが球場を支配したときです。笑いがでるということは、空間が歪んでいて、時間が遅れたりすることの証拠なのです。時間と空間は場を構成するのであり、分けて考えることは出来ないのです。
時間と空間は絶対であり、普遍であるというのは、スポーツでは素人の見方(しあいに参加していない冷めた観戦)であって、選手にとっての場とは、その場限りの関係なのです。古典科学では、この素人の観戦態度が真理であり、空間は歪んではいないのです。ですから時間も一様なのです。
ここまでが要約です。
時空というと、物理の先端の概念ですから難しいと思ってしまいますが、野球を例にとって「笑いが時間である」と説明をしたので、時間と空間と場の関係が分かりやすくなったのではないでしょうか。
時間が空間=場との関係であるということを示す良い例として生理的な時間があります。食事をとるという場合、私達は時間に対して二つの態度を持っています。それは時間がきたから食べる、腹が減ったから食べるという態度です。正午の鐘がなったので食べるというのは、学校の規則ですが、このような態度が古典科学の時間に対する態度なのです。つまり、時間とは意識の外にあり、時間は時計が刻むと考えているのです。意識の外にあるとは、場を無視するということです。
しかし、猫はどうでしょうか。猫は腹が減ったから食べます。つまり生理的な時間によって行動しているのです。つまり、猫は時計などもっていませんから、自分の体内にある時間によって、生きる場の状況に応じて行動しているのです。つまり、時間は体内=場にあるのです。
時間を刻む遺伝子が発見されたこともあり、時間と空間は一体であるということが分かってきました。スポーツ選手の感覚と同じ常識の方が真実だということを科学が証明してくれたのです。
科学が証明する以前に、私達は場の時間で生きてきたのです。生命は場という限定された条件でしか生きられないのです。ですから、空間と時間が場によって構成されるのが当たり前なのです。それがいつの間にか忘れてしまっていたのです。それを思い出させてくれるのが「笑い」なのです。
野球の例で示したように空間は場であり、そこには心理的な時間というものがあり、時間の遅れや進みを経験します。楽しいことをしているときは時間の進みが速く感じられ、楽しくないことを嫌々ながらやっているときは、時間の進みが遅く感じられます。このような時間は、古典科学では扱っていません。しかし、アインシュタインはそれを時空という概念で、空間の歪みによって、時間が進んだり遅れたりすると宣言したのです。
相対性理論では、空間に歪をもたらすのは重力ですが、私達の日常の世界は心理的な空間です。そして、その心理的な空間を歪ませるのは、感覚という力=差異です。重力と感覚の違いがありますが、共に、空間=場という概念を使っていることに留意しなければなりません。
二つの世界でも説明したように、この世界は、客観的な空間と主観的な空間があります。客観的な空間だけが実在であり、真実であるかのように思ってきましたが、実は、それは古典科学の態度であり、それは錯覚であり、むしろ、非非科学的な主観的な世界の方が真実だったのです。アインシュタインの相対性理論は客観的な世界の理論ですが、それでも、空間を重力の力によって歪ませるという考えは、それまでの客観的な絶対的な世界が唯一つ存在すると考え方を否定する重要な出来事だったのです。
つまり、重力には大きい小さいがありますから、場所によって、現象が異なってくるということなのです。つまり、時間の進みが違うということです。物理空間(重力)と心理空間(感覚)の違いがありますが、客観的な絶対的な世界が唯一つ存在すると考え方を否定しているということでは同じ土俵なのです。
空間と時間を別々に扱うのは、素人の観戦者であり、時間と空間を同時に扱うのは、熱気に溢れた高校野球の観戦者であるでしょう。場=空間の考え方にはこの二つがあることを理解しておきましょう。
話はこれで終わるわけではありません。ここからが始まりです。
これまでは、二つの世界、二つの空間についての話でしたが、それは人間の認識の問題であり、世界をどう見るかの違いにすぎません。しかし、どう見ようとも、それは同じ三次元の空間について語っているにすぎません。科学的には、空間が歪んでいるというのは大事件かもしれませんが、人間の世界ではたいした事件ではありません。心理的な状況としては空間が歪んでいるのは当たり前のことだからです。空間が歪んでいると言うから難しいのであって、心が歪んでいるから卑しくなると言ったら分かり易いのではないでしょうか。最も、歪んでいるから卑しくなるのではなく、すべては歪んでいるのですが、その歪み方で、卑しくもなり、美しくもなると言うことでしょう。
さて、話がここから始まると言ったのは、このような空間の他に、もう一つ別の世界=空間があるということを言いたいためです。これまでのシムダンスでは、このことを四次元と言ってきたわけですが、時間と空間を次元と考えて、四次元時空とするのが、アインシュタインの世界なので、それと四次元能の四次元空間とが異なることを明確にする必要があるためです。
四次元時空は、三次元の延長であると言うことです。確かに、空間は歪んでいますが、それも近似的には平らな三次元空間で十分です。その違いは修正すればよいからです。
宇宙衛星と地上では重力の影響を受けて時間の進みが違いますので、修正が必要になってきます。しかし、それは微々たる差異なのです。宇宙衛星がある場所が四次元ではないことは、送られてきた船内の映像を見れば分かるでしょう。
遥かかなたの遠い宇宙ではその差異は天文学的な差となるでしょうが、それでも量的な差異なのであって、大きい小さいと言った差異でしかありません。
空間が歪んでいる例は、この世界を見渡せばいくらでもあるでしょう。家を建てるときに、平地を選んで立てるでしょう。仮に、平らでなくても平らに整地するでしょう。しかし、どんなに整地しても、平らにすることは出来ません。地球は丸のですから、平らにすることは出来ないのです。それでも、近似的には平らであると思っても差し支えないのです。つまり、空間の歪みをもってしては、三次元の領域を超えることはできないのです。
人間の感覚的な現象で、青天の霹靂の事件(現象)に遭遇しても、同じことです。たまに、芸術的な感動を得られたときの表現として、天地が反転する衝動とか、無限の至福を得たなどとかの表現をしますが、それだって、私達が、生きているこの世界の出来事です。人によって、多少の差異がありますが、だからといって、三次元と四次元の差異ほどに心理的な空間に差異があるわけではありません。臨死体験をしたからと言って四次元に行って来たとは言えないということです。野球の例で示したように、空間の歪みによって三振した時は、誤魔化せる範囲なのです。
心理的な空間=抽象的な世界と宇宙衛星や家を建てる物理的な空間=世界、素人観戦者の世界と選手の世界の例を挙げて、時空の違いを説明しました。
空間の歪みがあるというだけで、また、それを時間と結びつけたからと言って、四次元時空が四次元空間であるというわけではありません。四次元時空は、三次元時空と時間を別々にしていた考え方を、三次元空間と時間を同時に考えるというように修正したに過ぎないのです。
四次元空間という場合の空間には、三次元の空間とは別の、もう一つの別の次元を持ってこなければならなないのです。二つの容器でなければならないのです。
これまで述べてきた二つの世界(主観と客観、物質と精神)が、その二つ容器ではありません。これまで述べてきた二つの世界は共に三次元空間での出来事であり、三次元空間では、すべての現象が、陰陽、正負、主体と客体など二つに分かれて生起するのです。
では、何故、もう一つの容器を用意しなければならないのでしょうか。それは三次元現象の背景には、三次元ではない根源の世界があるからです。既に、次元誕生のテーマで、三次元はゼロ次元から生成されたと説明してきました。
この問題を繰り返すと、四次元能をはじめからおさらいすることになるので、省きますが、今は、プラトン的な考え方であるとしておきます。
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