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from: 生成門さん
2010年04月10日 16時13分52秒
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現実は非現実、非現実は現実である
現実は非現実、非現実は現実である
<プラトンとの共振>
図の引用先。http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/column/world10/world10.html
イデアについては「プラトンのイデアの世界」を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069770883
プラトンを正しく解釈するということはどういうことでしょうか。科学と精神をつなぐ架け橋としても、プラトンを正しく理解しておくことは必要でしょう。イデアの王様(1)(2)を参照してください。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100083177594
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100083333980
更に、本家、「プラトンの善とイデア界」も参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10000715083.html
以下、編集して引用しました。
プラトンのいう「善のイデア」をどのように解釈すればよいのでしょうか。プラトンの説明では、物が現象化する背景にはイデアがあり、その諸々のイデアの源泉としての超越するイデアがあると言っています。つまり、「善」とは超越イデアであり、イデアのイデア=イデアの王様と考えられます。この場合のイデアと物の関係は、イデアの王様→イデア→物というピラミッド構造です。
そのような構造で示すことが、プラトンのいう現象の背後にある本質を言い当てたことになるのでしょうか。イデアとイデアのイデアは階層関係にあるのでしょうか。
イデアの王様→イデア→物という構造が階層的なら同じ三次元空間に現象化された関係ですから、連続的であるということになります。連続的とは因果関係があると言うことです。
三次元空間上の連続的因果関係とは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖的なストーリーがあるということであり、それらは諸々の実体とそれらを抽象化した観念を「である」「である」とつないでいくということです。「である」は通常省略されたり、変形されたり「ですます調」であったりします。因果を示す小話に、江戸時代に作られた話、「風が吹けば桶屋が儲かる」を記した無跡散人『世間学者気質』があります。これを編集して引用してみましょう。
大風で土ほこりが立つと、人の目の中へ入ります。そうなると、世間にめくらがでます。そこで三味線がよくうれるようになります。そうすると猫の皮が沢山といるので、世界中の猫が大分減るでしょう。そうなれば鼠があばれ出します。鼠が桶を齧るので、桶屋をすれば儲かるでしょう。
ここでは一々「である」という言葉が出てきませんが、「〜ならば、〜である」という形式なっています。
因果の系列を示す例として良いかどうかは別として、科学的な論文、落語、小説、会話のすべては「である」で繋がっていると言ってよいでしょう。つまり、猫という主語が出れば、そこには、「これは猫である」という主語論理が含まれているのです。その猫は、一匹一匹は、目の前にいる実体(名前がある)としての猫ですが、文章で表現される猫は抽象化された猫(属としての猫)と実体として猫(ミケなどと名前のある猫)が出てくるでしょう。それらは実体と概念という区別があるものの、どちらも、三次元空間上に指し示されるものです。指し示されるということは、記号化されているということであり、概念は当然として、実体であっても、生の現実ではないと言うことです。
このような関係は、三次元の世界では森羅万象について言えることです。つまり、私達の日常の会話や科学的な議論においては、固体としての物質は実体を、その実態の概念は認識された精神を意味し、それらを区別しているということです。
個別の犬の集合は犬であると言うように、実体(個別の犬)と概念(集合としての犬)の区別は、会話や議論では、階層として表現されるでしょう。ここで概念と観念は同じ意味とします。
この階層的な区別は、会話や科学的議論では基本的な区別です。この犬と一般論としての犬では指し示す内容が違うのです。政治家が国会答弁で、「個別の案件には答えられないので、一般論としてお答えします。」という前置きをする場合がありますが、それがこの区別なのです。しかし、四次元の視点で見ると、この区別は本質的ではないのです。実体という個別、具体的なものを指し示すからと言って、生の現実を指し示しているのかというと、そうではないのです。このことは後で、明白にしますので覚えて於いてください。
今、ここで重要なことは、この実体と概念の区別が、そのまま、物質とイデアという区別に置換できないということです。イデアの次元=四次元から見れば、概念と実体は同列であり、イデアは観念・概念ではないということです。このことを、明らかにすることが今回のテーマです。
前に述べたことですが、複素平面の実軸に物質、虚軸を精神として、三次元と四次元の定義をしました。それが上で、実体と概念という区別を取り上げました。物質と実体・概念=観念と精神という三つ用語が出てきて、それが三次元と四次元の軸を構成しているので混乱しているようです。
これを整理しおきましょう。先ず、四次元としてのイデアは、非物質的な精神であり、物質としての実体と概念という場合の概念は、確かに非物質ですから、精神です。しかし、厳密には精神に作用の結果であると言えるでしょう。イデアを精神という場合の精神は、精神作用を起こす元という意味があります。
実体と概念に区別における精神
概念・観念=精神作用の結果
イデアとしての精神
イデア=精神作用の元
これによって、実体と概念という場合の概念=精神は、概念・観念はイデアではなく、精神作用の結果なので、実軸に配置されます。同じ精神を虚としたり、実としたりするので、混乱させてしまったと思います。ここで改めて、概念・観念は精神作用の結果であると確認しておきます。
ずばり、概念・観念はイデアではないということです。虚軸のイデアが精神であるという場合の意味は、精神作用の元という意味ですから、実軸上に実体や物質概念を生み出す精神作用の元としてのエネルギー、即ち、虚のエネルギーのことです。従って「魂はどこに行った」で述べた魂はイデアでしょう。http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100082616596
精神作用の元か概念が生み出されるのは良いとして、物質や実体が生成されるのは可笑しいと思うでしょうが、これが今回のテーマと関係があります。
観念・概念は非物質的ですから、イデア軸の精神と混同しやすいのですが、精神作用の結果であると言いましたので、これで整理されました。精神作用とは意識現象のことですから、概念・観念は三次元に配置されて当然なのです。三次元の実軸は物質・実体が配置されるのが当たり前と思っていたのが、概念・観念まで配置されるというのでは、実軸はなにやらごった煮のようになってきました。精神の意味は整理されたのですが、実体と概念が呉越同舟とは一体どういうことなのでしょうか。
実体と概念を理解するには、認識という精神作用、つまり、意識現象について理解しておく必要があります。私達の意識現象とは、言語を使った会話や議論、思考ですが、その場合、ポチは犬である、犬は死ぬ。だからポチは死ぬ。こうした形式論理(三段論法)を基本としています。つまり、因果の論理に依拠しているのです。この論理を支えているのが、ポチという実体と犬という集合としての概念です。つまり、実体と観念ないし概念とする関係があるのです。会話や議論は三次元の空間上の出来事ですから、実体と概念が実軸上に配置されても、何もおかしいことはないないでしょう。
さて、実体と概念が同じ実軸に配置されることになったので、一段落しました。そして、イデアは精神作用の元であり、その精神作用の結果である観念は精神そのものではないとことであり、こちらもイデアと区別されました。
これまでは精神という意味を厳密にしてきませんでした。そのため、イデアという精神から、精神作用の結果として、つまり、意識現象として、もっと言えば、言語化されたという概念を精神と言ったりしたので、イデアと精神と概念の区別に混乱が生じたと思います。その上に、実体と概念の区別は曖昧のままだったですから、混乱の輪をかけてしてしまったと思います。これは、四次元能が探検途中にあることとも関係するのですが、多くのプラトンの解釈が、イデアが観念であるとしていることにも原因があります。むしろこちらの方が、要因としては大きいと思います。そこで、「イデアとは観念である」というプラトンの一般的な解釈を修正しておきたいと思うのです。
「このポチ」が個別の実体であり、一般の犬の観念がイデアであるという場合のイデアとは、あの犬、この犬という個別実体の犬を集合して犬を指し示します。つまり、イデアは集合としての概念を意味するわけです。つまり、イデアは太郎や花子を日本人というように、抽象化されたものを意味しているのです。人間の場合、個性のある太郎・花子を実体と言い、日本人を概念・観念と言っているのです。それは、集合論としては正しいのですが、これをイデアとするのには問題があります。もし、イデアを観念であると解釈すると、日本人がイデアであるということになってしまうのです。もしそうなら、プラトンのイデア論からすると、イデアが現象を生起するのですから、日本人という雛形があって、そこから太郎や花子が生まれてことになります。まるで、パソコンで、テンプレートを使って太郎の画像を編集しているようなものです。まさか、誰も、日本人というイデアというテンプレートがあって、それが太郎や花子を生んだとは思わないでしょう。
観念をイデア=テンプレートとすると、こんな可笑しいことになってしまうのです。そんなイデアなら、プラトンを持ち出す必要はないでしょう。テンプレートを母胎とすれば、母親がそのイデアということですから、現実味が帯びてくるのですが、この論理をいくら掘り下げて行っても、せいぜい遺伝子どまりでしょう。イデアを三次元の実軸上の概念とする以上、三次元の因果に依存することになり、最後は遺伝子イデア説となり、その先がないのです。
プラトンのイデア論では、イデアから物理的な実体や非物質の概念が生まれるのですが、三次元上だけで見ると、物理的実体としての犬が先に存在し、そこから犬の観念が生まれているように見えます。犬の観念から実体としての犬が生まれることはないのでしょうか。
確かに、犬の観念から、個別の犬を想像できるのですが、それは、演繹的な推理(トップダウンの思考)であって、想像する前提に個別の犬が先に存在しているのです。ポチを想像するからポチが存在するのではなく、ポチが存在しているから、ポチを想像できるのです。従って、概念・観念から実体が生成されるとは言えないのです。
しかし、プラトンのイデアは実体を生成するのです。概念は実体を生成しませんが、イデアは生成できるのです。遺伝子はテンプレートですが、これをイデアとすれば、プラトンと同じようになります。果たして遺伝子はイデアなのでしょうか。概念なのでしょうか。
プラトンは、イデアは現象の背後にあると言ったのですから三次元の実軸にとどまっていては、先に進むことは出来ません。現象の背後にあるのですから、物質や実体でないこともちろんですが、言語によって抽象化された「概念」がイデアではないことも明らかになったでしょう。プラトンは単に非物質的な存在=観念をイデアと言ったわけではないのです。
もし、精神作用の結果としての概念=観念をイデアというなら、現象の背後などという必要がないのであり、因果関係で表現するだけで十分なのです。犬や猫の話は言語化された「概念としてのもの」の論理で完結できるのです。ただ、三次元の世界の因果の論理に依存して、生成の連鎖を突き止めていくと、遺伝子にたどりつき、そこで止まってしまうと言うことです。これを突破するためには、もう一つの空間を用意しなければならないのであり、プラトンのイデアはそのヒントになったということです。
ところで、実体は生の現実を示しているのではないと言い、説明を後回しにしてきましたので、この当たりでそれについて言及して見ましょう。
一般的な常識では、この世界は、実体が物質的な存在であり、非物質的な存在=観念=精神であるとしています。物質的な現象だけが、この世界の三次元の現象で、非物質的な精神現象は三次元でないというように理解されているのです。精神は、三次元世界では特別扱いなのです。
既に、四次元能では、精神と精神作用の結果を区別して、四次元の虚軸に精神を、三次元の実軸上には、実体と概念を配置しました。精神は非物質の代表ですから、三次元の実軸上に置くことは出来ないということでは、一般的な認識と四次元能に認識は同じなのですが、概念も非物質ですから、三次元に置くことには抵抗があるのでしょう。そこで精神とは何かが問題になってくるのです。
精神とは意識の作用であり、その結果が概念ないし観念です。犬という実体は、ポチという具体的に目の前のいるこの犬という個別の物体を指しています。その犬を集めると、犬全般になります。これが犬の概念です。これが意識の作用です。これを認識と言っても良いでしょう。
四次元能では、この精神作用の結果である非物質の概念を物質と同じ軸に配置しているのですが、これが、何故妥当なのかと言うことを理解しておきましょう。これが理解できないので、プラトンを正当に解釈する上で、大きな障害になっていると言っても良いでしょう。
三次元世界が物質的な世界であるというのは、一面では正しいのですが、しかし、その物質という実体も、実は概念なのです。その犬をポチと呼ぶのですが、ポチはその犬そのものではなく、意識よって構成されたものだということです。認識・解釈された犬を私達は現実=実体と言っているのです。私達はもの自体には絶対に触れることは出来ないのです。
三次元の空間上に配置して、測定し、分析するときは、現実の「その犬」は記号になっているのであり、概念として扱っているのです。
記号化されたものとは言語化されたものです。ですから、実体とは、概念としての「もの」であり、記号化・言語化されたもの物なのです。私達は物自体の世界には絶対に触れたり、見たりできないのです。ですから、逆説的になるのですが、解釈される以前の非言語世界の方が、三次元世界ではなく、四次元世界なのです。そして、言語によって解釈され、概念化された世界を現実の物質的な三次元の世界と言っているのです。
ここが重要なところです。精神分析学者のラカンは世界を現実界・想像界・象徴界の三つに分けました。現実界とは、それこそが「現実に」存在しており、無意識の欲望の精神世界であるとしています。これは基本的に知りえない精神の世界です。想像界とは、自我と意識の世界、知覚とイメージの世界であり、象徴界とは、言語という記号の世界です。この世界は精神作用の結果の世界であるということです。
このように現実界・想像界・象徴界という異なる三つの世界が共に精神世界と言っているので混同するのです。
厳密に言うなら、
現実界=無意識の精神=精神作用の元になる精神世界
想像界=自我の意識が作用する精神世界
象徴界=意識作用が結果する精神世界
これで分かるように、ラカンのいう現実界は、イデア界=四次元=虚軸のことであり、象徴界が物質世界、つまり、三次元の世界です。この定義は、常識とは反対になっています。
ラカンは、常識でいう現実とは違う方を現実と表現したのですが、何故、そのような見方をしたのでしょうか。それは、生の現実があり、それが唯一つの現実だと言うことを言いたかったのでしょう。
生まれてくるときは、非言語の世界を彷徨って無の海を泳いでくるのです。それが生に現実です。しかし、成長すると、言葉を覚え、自分の外に世界が広がっていることを知ります。これが三次元の世界です。
その三次元の世界は、言語ないし記号によってオブラートに包まれた世界であり、同時に、私達の生に現実と隔離するは働きを持ったものでした。その結果、私達は非現実な記号の世界を現実だと錯覚して生きるように仕組まれたのです。
その仕組まれた世界とは、私達が精神の作用の結果として作り上げた世界であり、認識する世界であり、三次元の世界であり、意識が現象化した世界であり、記号化された世界であり、概念化された物質や上位の概念が存在する世界なのです。
ラカンまで引き合いに出したのは、私達の物質と精神に対する認識が錯誤していることを示すためであり、私達は解釈された世界に生きているという四次元能の主張を強調するためです。
私達は抽象化された言語化された世界を物質世界=現実世界としているのであり、天地がひっくり返った世界に生きているのです。ラカンの現実世界という言い方が、ある意味で正しいのですが、私達の解釈された世界を現実世界とする見方からすると、ラカンの現実は非現実であり、触れることの出来ない世界なのです。
ラカンの現実=生きる世界=現実の世界=非言語的な世界
私達の現実=言語化された世界=解釈された世界=物質と観念の世界=これ私達は現実と言っている
私達の現実が実は錯覚であるというと驚くかもしれませんが、その方が生きるために都合が良いのです。そのような生き方を選択したから、ここまで生き残ってきたと言えるのです。
それは、それでよかったのですが、私達の現実が実は錯覚であるということを自覚しておくことも重要なことなのです。
蛙は動くものに反応して、舌を出してそれを捉えようします。そこで、蛙の目を反対にしてみると、どうでしょう。獲物がいる方向とは反対の方に舌を出してしまいます。これは、現実が感覚器官によって解釈されていることを示す良い例でしょう。
私達も解釈して生きているという意味では同様なのです。目の前のコップを見てください。コップは確かにそこにありますが、それが真の現実の世界でしょうか。そうではないのです。貴方はコップに見ているにすぎません。「見ている」とは光を通して、脳に中にそのイメージを構成して、つまり、解釈しているのです。
もっと遠くの宇宙の姿を見るということを想像すればよく理解できるでしょう。私達は望遠鏡と通してそれを見ているのです。生の現実など見ることはできないのです。つまり、私達は決してそのもの自体を見ることなどできないのです。触っても事態は同じです。手の感触を解釈しているにすぎないのです。
四次元世界=生に現実の世界は見るこ-
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