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from: 生成門さん
2010年05月11日 07時45分24秒
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自我(科学)と無我(仏教)は共振できるか
自我(科学)と無我(仏教)は共振できるか
<プラトンとの共振>
哲学者である西田幾多郎は、負け犬となった仏教を救いました。どのようにして救ったのかと言いますと、本来不連続であり、両立できないものどうしを、無理に切ったり張ったりしないで、融合したのです。それは仏教が「空」という概念で、2500年も前にお釈迦様が示していた概念でした。しかし、それを仏教サイドは、俗人には伝えることが難しいからと、方便と称して、様々な解釈を許したのです。その結果は見るもあわれなことになったのです。ですから、葬式のときに上げられる「御経」は、その意味を何も知らなくても、ただ有難いと思うだけで、耳を素通りしていく、音楽のようなものと化してしまったのでした。
それを西田幾多郎は、哲学的思考で、悟りとは即非思考や述語論理による思考の結果の精神状態、つまり、無我と自我が共振している状態であり、それを絶対矛盾的自己同一と言ったのです。それでも、これはまだ、難しい表現だったのですが、それを、詩人ある上村氏がプロセス球という考えで、分かりやすく表現してくれたのでした。起死回生の思考(1)(2)(3)を参照してください。
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070757046
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758122
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550
更に、これを、複素平面を使って端的に示したのが、rensi氏と海舌氏合作のPS理論による{i*-i,i*-(-i)}という表現だったのです。PS理論についてはこちらを参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/theme-10002674224.html
PS理論の最大の核心は、本来不連続であり、両立できないものどうしを、無理に切ったり張ったりしないで、「共振」させると言うことです。
「不連続なものを無理に連続化させないで、不連続なまま包括融合させるには、どうすればよいか」という謎解きのような難問の答えを出したのが、仏教家から出てきたのではく、哲学者サイドから出てきたというのは、考えさせられるところです。しかし、それと同じような答えが、自我思考を極限までつきつめた状態=ミクロの粒子の世界からも同様な考え方が出てきたのです。
自我思考とは何事も二つに分けるという二分法思考のことであり、それが科学の大事でした。しかし、無自我思考=非科学思考と同じ、即非的な状態=「波のような粒子」という考えが、科学の最先端からでてきたことは、科学が非科学になったということです。
勿論、科学界が、それを非科学と言うはずがありません。これまでの科学を古典科学と言い、量子力学を含めた新しい方を科学と言う当たりは、さすがに、自我の代表である資本主義と同じ、構造を持っています。資本主義は、自我の論理から逸脱したものでも、何でも、飲み込んでしまうのです。すべては記号化して、消費してしまうのです。ヒップカルチャーに見られるように、それがアンチなものであっても、カルチャーとして取り込んでしまうのです。ピカソのような芸術だって例外ではありません。
仏教サイドにとっては重要な意味を持っているのです。つまり、「波のような粒子」が発見されたことは、仏教の考え方が正しいことを量子力学が証明したということなのです。仏教が科学の中で生きることになったのです。
これは、言い換えれば、仏教が科学に飲み込まれたということでしょうか。資本主義が仏教(葬式仏教として)を飲み込んだように、自我(科学)が無我(仏教)を食い尽くしてしまうのでしょうか。
四次元能は、本来、不連続であり、両立できないものどうしを「共振」させると豪語したのですが、果たして、自我(科学)と無我(仏教)を「共振」させることはできるのでしょうか。
これを、言い換えれば、仏教が科学に飲み込むことはできないかということです。資本主義を仏教が飲みこむということです。つまり、自我(科学)を無我(仏教)が支配するのです。それが孫悟空と御釈迦様との有り方だったはずなのです。
それはともかく、量子力学で何が起きたと言うのでしょうか。それは「電子の不思議」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069552509で述べましたので、参照してください。
量子力学は即非状態(である・ではない)にある現象を電子の振る舞いを見てしまったのです。それは、波であるのに、波ではないという、これまでの論理的な主語論理の世界では有り得ない、非論理の世界です。
それで、「波のような粒子」と表現したのです。つまり、光や電子は波でもあり粒子でもあるということです。
では、そのような有り得ないことは、三次元のマクロの世界では全くなかったのでしょうか。そんなことはありません。
人間の世界でも自然界でも、そのような中間状態はいくらでも見つけることが出来るのです。「波のような粒子」という表現を、人間で言えば、男でもあり、女でもあるとなるのです。男のような女、女のような男というのとは全く違うのです。男ままさりの女はいますが、それでも女は女です。男でもあり、女でもあるとなると、それは性同一性障害者しかありません。
普通に現れる現象は、二極分化、つまり、男か女ですが、それを仏教では、色といい、その元は空にあるといったのです。空とは、「男でもあり、女でもある」の胎児ないし、それ以前の未分化状態のことです。空には実空と虚空があるのですが、ここでは深入りしません。
空と色の関係は循環しているので、それを纏めて色即是空・空即是色と言ったのですが、性同一性障害者は空がそのまま現象化した現象体=実体と言ってよいでしょう。
そのような現象は自然界には、結構あるのです。雌雄同体はその典型ですし、中性子は文字通り電気的に中性です。この中性子が、物質を作るうえで、大きな役割をしているのです。これについてもここでは深入りしません。
原子は電子と原子核でできており、その原子核は陽子と中性子で出来ているのですが、安定している電子と陽子の数は一致しています。つまり、原子はプラスとマイナスでバランスがとれているのです。
陽子は陽電子であるという説があるのですが、もしそれが本当なら、中性子は陽子と陽電子が対消滅してしまうのを妨げているということです。つまり、中性子は、それ自体空の現象でありながら、原子も空の現象体=一体かした実体であるということです。
地球の磁場は南極と北極に分極していますが、それらいつでも一対であり離れることはありません。宇宙では、プラズマのようにプラスマイナスとなって分極化して存在していますから中性といって良いでしょう。
更に、全体としての宇宙は真空ですから、空そのものなのです。現象として現れるのは一部であって、宇宙では殆どは真空であり、真空は所謂中間的な空の状態なのです。
もっと面白い現象はポジトロニウムでしょう。ポジトロニウムというのは、電子と陽電子が対で、水素原子のように原子状態なっているというものです。真空とは電子と陽電子が対消滅した状態ですから、ポジトロニウムは果たして真空であるといって良いのでしょうか。
「新しい原子核理論」によれば、ポジトロニウムは原子番号0の原子であり、ニュートムということになります。ニュートムとは真空のことですから、話がややこしいのですが、詳しくは下記を参照してください。http://po4.ueda.ne.jp/~guoningqiu/dojutaihome/index.htm
参考までに、この理論の原子番号と原子量を示しておきます。原子番号は陽電子数、原子量は中性子数です。
原子番号 原子量 原子名 原子核(陽電子・中性子・電子)
0 0 ニュートム 1 0 1
1 1 水素1 1 1 1
1 2 水素2 1 2 1
1 3 水素3{トリウム} 1 3 2
2 3 ヘリウム3 2 3 2
2 4 ヘリウム4 2 4 2
ポジトロニウムは現象として存在する粒子であり、真空そのものではありません。ニュートムは、仮想粒子であり、その仮想粒子から、電子と陽電子が飛び出してくるのですから、真空であるとうことでよいでしょう。まさに、空即是色です。
不思議なのは、ポジトロニウムは中性子がなくても、対消滅しないで、存在できるということです。その発生のメカニズムは良くわかっていないのです。
電子と陽電子が生成された後に、いずれは消滅するのですが、その途中で、まわりに電子に数が少ない場合に、ポジトロニウムという形で一時的に存在すると言われています。
ここで、ポジトロニウムを取り上げたのは、ニュートムのような真空と区別が難しい実体が存在するという事実を確認するためです。
これを一般化して言えば、森羅万象の生成(空即是色)には、即非状態の空から、二極に分極し、二項に分離して、対立したまま存在するだけではなく、一体化して、空の様な中間状態として存在したりするということです。
要するに、ミクロの粒子の世界だけでなく、このマクロ世界にも、即非様の状態は存在していると言うことです。即非様としたのは、現象として中間態としてあるという意味です。空とは即非そのものですから、それと中間態を区別しておきたいからです。
ここで、再び、「波のような粒子」という現象に戻ります。このような粒子の状態は、仏教でいう空に近いのですが、これが観測によって裏付けされたということは、仏教の勝利と言っても良いでしょう。しかし、仏教サイドでその発見を示唆できなかったのは、何故でしょうか。それは、仏教を学んだ科学者がいなかったということでしょうか。
例外はいるものです。それはノーベル賞をもらった湯川博士です。博士は、中間子理論を発見したいきさつを、こう述べています。李白の詩「天地は万物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり」がそのヒントになったと。李白は道教ですが、少なくとも、宗教的な素養があれば、東洋の思想は科学の発想に生かされることがあるということを証明してくれたのです。
ゼロという概念も、空のホームグラウンドのインドで発見されたのですから、さすが、仏教のオリジナリティーが出たと言ってよいのではないでしょうか。
逆のことも言えると思うのです。もし、宗教的科学者が複素平面を学んでいれば、その教えを「喝」などと言わないで、もっと簡明に説明するのではないでしょうか。
とにかく、仏教は自我を嫌う余り、言語を遠ざけてしまい、しがらみを切り捨てることばかりに執着したしまったと思うのです。仏教はすべてに執着するなと言いながら、無我に執着しすぎたと思うのです。自我と無我は本来仲良くすべき双子の兄弟なのですから、受け入れるべきものなのです。
一休さんは、唯一人、仏教世界の中に合って、しがらみの中に生きた庶民派の破天荒坊さんだったのでしょうか。
ともかくも、カオスの即非状態=空から対極の二つに分離し、それぞれがせめぎあって存在する、或いは、中間態として存在する、そして、またカオスに戻る。これが宇宙の法則(真実)であり、陰陽論の本質なのです。陰陽論は中国で生まれた思想ですが、これもやはり、科学との折り合いをつけられずに中途半端のまま放置されてきたようです。
さて、仏教の弱点、間違いを言及してきましたが、仏教サイドの弁護をすれば、このジレンマから抜け出せないで、喘いでいたことは、仕方がないと思うのです。量子力学の発見でさえ、最初は誰も信じなかったのですから。
ここでは、量子力学がミクロの世界で発見するもっと以前に、仏教では、それをマクロの世界で発見していたという事実を確認することにとどめて、本題の仏教と科学をどう共振させるかという話に移りたいと思います。でも、長くなってしまったので、ここで切り上げて、次の投稿にします。
でも、心に引っかかることを付け加えておきます。もし、空+イデアを前提とした科学が存在できるとするなら、プラトンや仏教がその中心となるでしょう。そのようなイデア科学が、果たして存在できるのでしょうか。それは、どうかは分かりませんが、量子力学がどのようにして生まれたかを知れば、その可能性を信じることも出来るでしょう。
では、その発生の現場に行ってみましょう。
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