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from: 生成門さん
2010年06月25日 18時28分33秒
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PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面
PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面<PS理論との共振>自己を認識するのは、内部でもない外部でもない位置に立つ必要があるということになりました。で
PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面
<PS理論との共振>
自己を認識するのは、内部でもない外部でもない位置に立つ必要があるということになりました。では、内部でもない外部でもない位置とはどういう位置なのでしょうか。
それを明らかにするために少し観点変えて探求していきます。今までは、オイラー公式を変形して、e^iθ-isinθ⇒cosθとしましたが、今回は、これを、z=e^iθとして、cosθをa、sinθをbとしてz-ib⇒aとしてみます。
複素数は一般にz=a+ibと表現されますのでz-ib⇒aでもよいわけです。
z-ib⇒a
は何を意味するのでしょうか。
元の複素数からの意味から言いますと、複素数とは、測れるものと測れないものとを合成してできた数の概念です。
何故、心のことを理解するのに心理学ではなく、ガウス平面を理解しなければならないのかいう疑問を持ったシムハンターさんはすごい人です。
心理学では、心は理解できないからです。何故なら、心理学は科学的だからです。科学的というのは、客観的という意味と同じです。心とは主観なのです。主観を客観したらそれはもう心ではありません。ですから、主観を主観のまま、客観を取り入れるにしても、主観を除かないように注意しなければならないのです。例えば、直感的に洞察したことを、どうすれば認識できるのでしょう。それを客観的に表現したら、もう直感ではなくなるでしょう。
ガウス平面とは、そうした相矛盾するものを同時に扱うことのできる思考空間であると考えたら分かりやすいのではないでしょうか。
複素数とは、測れるものと測れないものとを合成してできた数の概念であると言いましたが、ガウス平面とはまさにそうした相矛盾する空間なのです。
測れないものとはなにでしょうか。
測れるものの代表は物質、測れないものの代表は心でしょう。心は大きさや重さがないのですから測る方法がないのです。
この心と物質を同じ土俵で扱おうというのがガウス平面なのです。この心を主観的な精神作用と物質を客観的な精神作用とすれば、心⇒現象としたのですから、
主観⇒客観という表現も可能でしょう。
これを発展させて考えると、主観と客観の違いがより明白になってきます。
例えば、株で大儲けしたあなたは客観的には存在しますが、株で大儲けしているあなたは客観的には存在しません。株で大儲けしているあなたは第三者に知られているとしても、それは現在完了したあなたなのです。決して、現在進行形のあなたではないのです。この瞬間に大暴落してすべての儲けを失っているかもしれないのです。
現在進行形のあなたと過去形ないし現在完了形のあなたを次のように表現して区別してみます。
現在進行形:⇒あなた(現象)
過去形ないし現在完了形:あなた(現象)
これがz-ib⇒aという形から解釈した図式です。
従って、z-ib⇒aは、合成してできた数から、測れないものを取り除いて、測れるものだけを残した数となります。つまり、複素数から虚数を除くと実数になるという意味です。
本来の実数と複素数の実数部とは、同じ意味なのでしょうか。お金に色がないように、実数にも色が付いていませんから、どの実数でも、同じはずですが、果してどうなのでしょう。汚れたお金を洗浄して清いお金にすることをマネーロンダリングと言いますから、実数にも、そのようなことをすることがあるのでしょうか。
もし、そうなら、aとは、⇒aからロンダリングされたaなのでしょうか。
⇒からでてきたaという記号で表現されるのは何を意味する実数なのでしょうか。これが今回の謎解きです。単位円の図はhttp://www12.plala.or.jp/mz80k2/electronics/complex/complex.html
から引用しました。
これをz=a+ibで表現したものが下の図です。これらは本質的に同じものです。
⇒が水平になったとき、つまり、実軸に位置したとき、θ=0ではa=1、θ=πではa=-1となります。
⇒が回転するとして、θ=0以外では、z=a+ib は、四通で示されます。第一象限では、a+ib、第二象限では、-(a-ib)、第三象限では、-(a+ib)、第四象限では、a-ibです。
⇒がどこにあっても、aは、ある値を持っています。⇒の先端がiを示すときは0、±1を示すときは、+1とー1です。それ以外では-1<a<1です。
複素数z=a+ibのaは、もともとの定義からして実数部をaとしたのですから、実数であるのは当たり前のことです。ですが、普通の実数と同じかどうかが問われているのです。
一応、実数⇒aは⇒付きですが、これまでの文脈からすると、心⇒現象としたのですから、aも現象していることを示していると考えるのが常套でしょう。
ところが、aを現象しているものと解釈すると、+1(a=1,b=0)を現象とするというPS理論の前提と齟齬が生まれてしまうのです。さて、困りました。
この難問に挑戦するには、まだ力不足は否めないのですが、何とか頑張って見ましょう。
先ず、⇒aと⇒+1では根本的に違うと考えることからはじめましょう。
実軸とは見える地平であるとしたのですから、-1<a<1であっても実数ですから、見える地平であることに違いはありません。単位円は、無限の直線を丸めて円にしたものだという話をしたことがあります。つまり、+1、―1は無限の代用なのです。
そうなると、aはすべての実数となりますから、aを現象しているものと解釈するのは間違っていないようです。
しかし、PS理論では、現象とは+1、ないしー1としたのですから現象化する前のaは見えないはずです。これより、しばらくは+1だけで考えていきます。
実数a<1とは、そもそも何なのでしょうか。
見えないはずの現象化前の状態が見えるまるで、赤ん坊(+1)が生まれてくる様子(a)を超音波で見ているような感じです。果して、胎児は+1の現象なのでしょうか、それとも、aは現象ではないのでしょうか。最近では帝王切開で生むこともありますから、この喩えは適切でありません。胎児も+1の現象なのです。
このとは現象とは何かを提起しているのです。見えるということはガウス平面ではどういうことなのでしょうか。
ガウス平面は人間の心を表現しているのですから絶対に見えない内部です。胎児のようなものには喩えられない内部なのです。
自分の心は、何かに熱中している最中は自分でも分からないものです。自己を分析し、反省すれば分かったと言えるのでしょうが、それで心を見たと言えるのでしょうか。
分っても見えたことにはならないのですから、まして、他人の心など見ることなどとてもできないでしょう。言葉を聞くとか振る舞いを見ない限り相手が何を考えているなど分からないのですから、見ることなどとてもできないでしょう。
自分や他人の心を「こうだ」と確定的に言えるというのは「何か」を見たからなのです。見るまでは心の状態は不確定なのです。不確定な心を外から見るというのは、このようなことを考えている「だろう」という推理であり、想像なのです。それは事実でありません。
確定=事実と不確定=想像では、天地の差があるのです。ただし、想像していること想像したことでは違います。想像したことを言葉にした瞬間に、それは確定した事実なのです。
推理したことを、恰も確定したかのように断定して「言うこと」があります。それに対して、それは憶測に過ぎないと嗜めることがありますが、憶測でも、言った瞬間に、言った人の心は確定したのです。
言ってはいけないことを口に出すことを、「それを言っちゃおしまいよ」と言いますが、言うまでは、お互いの関係は不確定なのですが、言った瞬間に、断絶することが確定するからなのです。
このように、表面化するということは、すべて内面に対する+1という地点での言葉の戦いという現象なのです。
表面化するということは、まだ確定していない心aを想像して表現しているのです。aは見えない内面zを、aだけを取り出して、不確定なのにも関わらず、aだろうと表現したのに過ぎないのです。つまり、見たわけでもないのに、見たかのように誤認ないし虚言しているのです。
誤認ないし、虚言であろうと、それは言葉として発せられたのですから現象したのです。では、心の中で呟くと言いますが、それは内面なのでしょうか。それも現象でしょう。呟きと観察したのですから現象なのです。
では、見えないaがどうして実軸に現れるのでしょう。現象とガウス平面の関係に対して何か大きな解釈の間違いを犯しているのでしょうか。
もう一度、ガウス平面に戻りましょう。
+1に現象化する前は、⇒は第一象限にあります。他の象限に移動することもありますが、今は、第一象限に限定して話を進めます。
⇒から実軸にはz=a+ibのaが出てきています。これをz-ib⇒aと変形して、しかも、aは実軸ですから、心が現象化したと解釈したのです。
しかし、a<1です。これが⇒+1と大きな違いです。これによってPS理論と齟齬が生じたのです。これをどう考えるのかということが問題なのです。
⇒a(a<1)は⇒+1ではないのですから、まだ、現象していないのです。z-ib⇒aの⇒は現象化させるMPの働きと解釈しましたが、形式的にはそれでよいでしょう。
しかし、現実には、⇒aを現象化と解釈してはいけないのです。何故なら+1以外では、⇒は+1の象限の途中なのです。⇒aの根元は原点0から伸びてきていますが、aは、+1までは達していないのです。
現象化していない(現在進行形)
0===⇒(a)―――――+1
現象化した(現象化した瞬間)
0========⇒(a)+1
+1が現象化ですから⇒a(<1)は、まだ、現象化していない状態、即ち現在進行形なのです。ですから、見えない心の中の出来事なのです。
従って、+1に達していない⇒aは、象限内にいるのですから心の内部なのです。図では原点から⇒が伸びていますが、+1に届いていない⇒aは、見えないのです。
要するのに、ガウス平面上の単位円の内部は見えないということです。言ってみれば、単位円の内部とは原点=MPを拡大した図なのではないでしょうか。単位円そのものがMPなのではないでしょうか。
所謂、MPとはブラックホールのようなものなのではないでしょうか。
そう理解すれば、円の淵が事象の地平面ということになり、私達はその外側にいて、赤ん坊の誕生(+1)という現象化を見ていると解釈できます。
もちろん、MP=単位円とは私自身でもあるのですから、現象化を見る私と合わせると、二人の私がいることになるわけです。従って、ガウス平面は、自分が自己を指し示している図なのです。
私(自分)⇒私(自己)
この⇒aのaを現象と解釈したのは間違いでした。それはz-ib⇒aとしたことに起因します。z-ib⇒a は複素数z=a+ibを、便宜的にaとibに分けて表現しただであり、本来は分離できない⇒z(=e^iθ)なのです。分離できるのは、+1、-1のときだけなのです。
自分が自己を指し示している「私(自分)⇒私(自己)」は、⇒aでは指し示しが終わっていないのです。
ですから、単位円の途中にいるときはz-ib⇒aは見ることができないのです。何故なら、まだ、現象化+1していないからです。この世に現れていないものを見ることはできないのです。指し示しが終わっていないのですから、自己反省もできないのです。見ることができなければ、それがどのようなものかも確定できないのです。
実軸+1、-1こそが見えるための場所であり、同じ実軸でもa<1=円内部は、見えないのです。いや、a<1=円内部はMP=原点であり、実軸ではないのですから見えなくて当然なのです。
このように見るまでは確定されないというような事態は、量子力学でいうところの幽霊波ではないかと思うのです。
幽霊波というのは複素数の波であり、a+ibの形をもっています。幽霊波ですから見えないのですが、見ることによって粒子に変身するのです。つまり、観測したときに、そこに波が粒子に変身した姿を見るのです。
これこそが、見ることで見えないものを確定したと言える事態を示しているのです。
不確定⇒確定
幽霊波a+ibの aだけを取り出して見ることはできないのです。もし、aだけを取り出して、それを現象というなら、それは波が粒子に変わりつつある途中の状態を見たというようなことなのです。
脳を砕いて、これが言葉として発する前の言葉になる前の未熟な言葉なのだと言うようなものなのです。そのようなことは実際には起こりえません。それは誰でも知っていることでしょう。
ですから、波のような粒子と表現しても、波であり粒子であるような混合した状態にあるというわけではないのです。見る前は、波であり、見た瞬間に粒子になるのです。それは、一瞬にして無時間に波が消滅するのです。
海舌氏の海塩の例でも、食塩水から結晶化した塩になるのに途中の段階はありませんでした。それは突然やってくるのです。
これで、aと+1ではまるで異なるということを理解して貰えたでしょうか。
ところで、aは現象ではないという話はこれで終わりではありません。
私達は、想像することができます。人の心を憶測できるのです。自分の内面でさえ覗くことができるのです。
だからと言って、それで、内面を見たことにならないとは、既に述べたことですが、実は、これが、自己を認識する内部でもない外部でもない位置の話に繋がっていくのです。
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from: 生成門さん
2010年06月29日 11時46分05秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面」
海舌さんへ
>
> 今日は、一日、心の何処かで、ミニチュア「a」について考えていました。
>
> 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
>
> 藤原定家の有名な句ですね。
>
> 「花も紅葉もなかりけり」
>
> 眼前には「無い」です。
>
> でも、内心には、確固として、「花も紅葉も」存在している、というのが定家の趣旨だと思います。
>
> その定家は、どの位置に居るのでしょうか。
>
> 「浦の苫屋」は、何処で、「花も紅葉」は何処だろう。
>
> まだ、解明できません。
「ある」けど「ない」、「ない」けど「ある」ですね。
戦闘パイロットは、視点転換を高速度で行うそうです。
これができないと墜落してしまうのですが、要するに、ズームインアウトという方法です。
戦闘機で急降下するときは、地平線を基準にして内から外をみているのですが、地面すれすれで上昇するときは、自分が外に飛び出して、外から内を見るようにしないといけないのです。
このタイミングを間違えると危ないのです。
このぎりぎりのタイミングが⇒+1の場所でないのでしょうか。
早すぎて(a)もいけない、遅すぎて(+1)もいけないのでしょう。
定家の場合、眼前には「無い」言ったのは、謳ったときの心情が関係していると思うのですが、何も見えていない自分がいると言っているのかもしれません。
あるのは事実として分かっているのだが、敢えて、それは否定しているように思えます。
要するに、自分はそんな心境ではないようようなことでなないでしょうか。
勿論、否定的捉えたわけですが、これを全く、逆に捉えることもでできます。
つまり、感動したから「ない」のであって、私の中には特別なものとしていきいきととあるというわけです。
定家の位置ですが、当然、主観的な内的視点だと思うのです。もし、外的な視点なら、写実的に描写する様なことになるでしょうから、心情とは関係ないわけですよね。
芸術の描写方法には、写実・印象・抽象とありますが、これと視点の関係を上げてみました。
写実・・・内から外への視点・・・科学的に近い客観芸術
印象・・・外から内への視点・・・芸術的らしい主観芸術
抽象・・・どちらともいえる・・・科学的芸術的中間芸術
とならないでしょうか。
そこで、質問です。
今、海舌さんの概念図を考えているとことろですが、
科学と数学と宗教を生活物質、哲学などを象限にきっちりと分けているのですが、例えば、上に分類したように芸術にもいろいろあると思うのですね。
これを同じ象限に配置するのはどうしてなのでしょうか。
勿論、宗教について同じように言えると思うのです。
物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
今、悩んでいるところです。
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