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  • from: 生成門さん

    2010年08月11日 19時23分36秒

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    ボルトとナット

    ボルトとナット
    <PS理論との共振>

    下のボルトとナットの図はhttp://himeji.jibasan.jp/nut/から引用しました。


    なんの変哲もないボルトとナットで世界を解釈するなんて、PS理論は素晴らしいですね。こういうメタファーこそが生きる原点だと思います。

    PS理論では現象の根源である虚軸に光(凸i)と闇(凹i)を置いたことにより、時間と光が関係あるようなので、光について理解を深めておかなければならないと言いました。

    それ以前に、光を虚軸に配置することになると、光を実軸の物質現象とするための媒介の仕組み(MP==メディアポイント)の解明が必要になってきます。

    すでに、オイラーの式から虚(i,-i)⇒物質が導かれることは示しましたが、もし、虚が光であるならば光(i,-i)⇒物質となるでしょう。

    虚(i,-i)⇒物質から心⇒物質であるという段階では、「気合を入れる」などという日常的な習慣から、これが気合⇒行動(身体の物質的現象)であるとしても、それほど違和感はなく、そんなものかということで理解した気にはなったでしょう。

    一方、光から電力や炭水化物を作る太陽光発電や光合成があります。これらは、「気合を入れる」とは違っているように見えます。この例は、どう見ても虚⇒実という例ではなく、普通の物理的・化学的な反応だからです。これを光(i,-i)⇒物質として心⇒物質と同列に見るのは適切ではないように思えるのです。

    果して、太陽光発電や光合成は、虚軸の光(i,-i)⇒物質という式で表現できないのでしょうか。この疑問をクリアにするためにはKaisetsu氏の物性形成方程式:PS理論的現象イデア数学理論 http://d.hatena.ne.jp/antares/20100625を熟読する必要があります。

    ここでKaisetu氏は1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswtを物性形成方程式としているのです。

    これまでは、i*-i⇒+1を虚⇒共振現象、i*-(-i)⇒-1を虚⇒反共振の現象の式としてきましたが、反共振は破棄することにしました。又、i*-i⇒+1の表現を変えて凸i*凹i⇒+1として、-1の方は凸i♯凹i⇒-1としました。言い換えると、共役(積=*)を共振として反共振はやめて、共立(和=♯)にしたことになります。

    従って、物性形成方程式は共立の式ということになりますが、凸i♯凹i⇒-1の式とは少し違うようです。これについて説明しておきます。


    上の図では、+1を出発した波が二分の一回転して-1で出会うという方を共立として表わしています。これがどうして共立になるのかということです。

    物性形成方程式の右辺はcoswtですから波を表現しています。しかも、それが物性形成となっています。波がどうして物性なのでしょうか。どうして物質ではないのでしょうか。

    Kaisetu氏は1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswtと光(i,-i)の関係をどのように考えているのでしょうか。

    私なりの解釈をしてみます。

    光(i)を陽光、光(-i)=陰光=闇とします。陽光は虚軸(i)ですから、私達が普通に言っている光のことではありません。虚軸の光は見えないからです。それなのに私達は光が見えています。これをどう理解すればよいのでしょうか。

    光が見えていると言いましたが、本当に、私達は光が見えているのでしょうか。よく考えてください。私達が見ているのは視野であり、視野の中の物体です。光そのものが見えているわけでないのです。光が物体に反射して、網膜の電子に当たり、それが励起して、脳内で視野として、物体としてイメージされると脳科学が説明しています。

    ですから、光を直接見ているわけではないのです。光を電子の動きに変え、電子の動きが物質のイメージを生成し、更に、その物質イメージを自ら物質と確認するという認知のプロセスがあるのです。

    これをPS理論的に言えば、光(i,-i)⇒現象には+1と-1があるということです。共振の式i*-i⇒+1は虚⇒物質ですから、光(i,-i)⇒物質現象(+1)であり、これが、私達が物質として観測し、感知し、確認している物質化の現象を意味しています。物理が対象とする物質全般であり、私達の日常世界で食べたり飲んだり、取引する物質世界の出来事です。簡単に言えば、物質世界は、共役・共振によって起きるということです。

    一方で、それとは違う光(i,-i)⇒非物質現象(-1)の世界があるということです。それを1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt、光(i,-i)⇒-1という式で示そうとしているのです。

    非物質現象(-1)の世界とはどんな世界でしょうか。それはいうまでもなく、心理的な世界です。これまでは心理的な世界をMPとして、共振的物質化の現象を+1、反共振的物質化の現象を-1としてきましたが、これが大きく違うところです。

    MPは心の作用であることは違いありませんが、その結果としての心理的現象があります。それが-1の世界であるということです。+1の物質的世界に対して超越的な世界とも言えるでしょう。ただ、超越的というと、何か特別な霊性の棲む世界だけを示すように聞こえるので、ここでは非物質的な世界ということにとどめておきます。

    これからは+1の現象を物質的な現象世界、-1の現象を心理的、又は、非物質的な世界ということにします。

    光の話に戻れば、光(i,-i)⇒+1と光(i,-i)⇒-1の現象があるということです。

    従って、私が物質を見るというのは、光(i,-i)⇒-1の現象(物質のイメージ)ということであり、私が物質を確認するということは、光(i,-i)⇒+1の現象(物質)ということです。

    +1:光(i,-i)⇒+1 物質的な現象世界
    -1:光(i,-i)⇒-1 心理的、又は、非物質的な世界

    光が作り出したのは物質そのものではなく物質のイメージだということです。しかし、光合成は光が電子を励起して、結果として炭水化物を合成したのだから、光が物質を作り出したと言えるのでないかという反論が聞こえそうです。

    その反論には、次のように答えることになるでしょう。

    光合成というプロセスは、人間が作り出したイメージです。光が意思を持って光合成をしているわけではないということです。つまり、光合成というプロセスは-1(人間の心)にあるということです。

    光は電子にエネルギーを渡したらその役目は終わるのです。炭水化物という結果は、それを確認した人間が物質(+1)と認知したのです。

    つまり、+1は人間という解釈者、観測者が介在することによって行われるのであり、-1は介在なしに、感じているという主観そのものです。

    -1を主観の世界、+1を客観の世界と言っても大きな齟齬はないでしょう。

    人間を離れて、つまり、客観的に光合成があり、炭水化物という物質があると言っても、それは味気のないスープのようなものです。光合成とはこうであると説明されると、あたかも人間が介在しなくても、勝手に、世界が動いており、光が物質を作っているように思ってしまうのですが、事実はそうではないということです。

    勿論、科学的な説明が事実であると解釈しても、間違いではなく、実際にそのように解釈して文明が発展してきたのですし、私達の日常もそのような解釈で生きているわけです。

    ただ、そのような倒錯した解釈が人類を絶滅する危機に追い込んだ事を自覚しなければならないのです。PS理論は、それを乗り超えるための自己の認識の仕組み提示しようとしているのです。

    Kaisetu氏が1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswtを物性形成方程式と名付け、物質(+1)と物性(-1)を区別したのは、私達の倒錯した解釈の仕方を警告しているのだと思います。

    物質(+1)と物性(-1)を区別することは、「闇と光」の共立がとても重要な意味として、世界解釈に現場に立ち現れるということです。そうであるならばKaisetu氏の現場に行って確認して見ましょう。

    光(i)をe^iwt、光(-i)をe^-iwtとすれば、光(i,-i)⇒ -1として、闇と光の共立作用を示すことができるのです。詳しくは【PS理論による電子の「波・粒」の容易な理解】 「闇と光」の共立・衝突の同時作用(ボルト・ナット説の概要)、http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=245を参照してください。

    以下、編集して引用しました。
     
    光と闇の共立は
    1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt
    で表わします。wt=π(1/2回転)で、coswt=-1となりますので、1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒-1となります。

    一方、闇と光の共役(共振=積)は、
    e^iwt * e^-iwt ⇒+1で示します。wt=1/2π(1/4回転)で、i* -i⇒+1となります。

    共役はこれまでも多くの説明をしてきましたので、分かりやすいと思うのですが、共立は難題でした。実際、反共振と解釈して混乱していました。

    海舌氏は、ボルトとナットという概念を持ち込んで、共立と共役の意味を分かりやすくしています。

    どのように、共役:光(i,-i)⇒+1(物質)、共立:光(i,-i)⇒物質のイメージ(coswt)をボルトとナットで説明するのでしょうか。

    ボルトをe^iwt=陽光(光)とします。
    ナットをe^-iwt=陰光(闇) とします。

    おねじ(ボルト)と、めねじ(ナット)は、互いに接して噛み合っています。つまり、押し合っており、PS理論上は「積」、衝突しています。

    ネジの回転は、おねじ(ボルト)と、めねじ(ナット)は逆であり、また、円を描くので、
    共役:e^iwt * e^-iwt ⇒ +1
    と表現できます。

    この式は共役ですから光(i,-i)⇒+1(物質)を陽光*陰光⇒+1と置き換えたことになります。これは、PS理論の自己認識の方程式i*-i⇒+1そのものです。実際、e^iwtをa+ib、e^-iwtをa-ibとおくと、虚軸では、a=0,b=1となりますから、i*-i⇒+1となるのです。

    ともかくも、i*-i⇒+1を陽光*陰光⇒+1に置換されたことは驚きです。

    何故かと言いますと、陽光*陰光⇒+1(物質)となるからです。これを簡単に、「光が物質になる」と言っても支障はないでしょう。つまり、虚の光エネルギーが物質を作るという意味を持っているからであり、物質的な因果で、光が物質化されるという意味とは違っているからです。このようにすれば、光合成に対する科学的な説明とは違った説明の仕方ができると思うのです。今、これに言及することはできませんが、いずれ挑戦して見ます。

    一方、ボルトとナットは、同心円を共有しており、中心も同じです。つまり、e^iwt と e^-iwt は共立しているのです。共立は、「和」であり、重層的に共立しているので、2で割って、共立:1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswtが成立するということです。

    これは光(i,-i)⇒物質のイメージを陽光♯陰光⇒物質のイメージ(coswt)と置き換えたことになります。実際には、wt=πのときcoswt=-1となりますので、それが物質のイメージ(心象)となるでしょう。

    これによって陽光♯陰光⇒-1と置換されることも驚きです。何故かと言いますと、陽光♯陰光⇒-1(物質イメージ)となるからです。これも又、光が物質(ただし、心象=イメージ)になるという言い方になるのです。

    共立:1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt(wt=πのとき-1)
    光(i,-i)⇒物質のイメージ
    陽光♯陰光⇒-1(物質イメージ)=心象

    共役:e^iwt * e^-iwt ⇒ +1
    光(i,-i)⇒+1(物質)
    陽光*陰光⇒+1(物質)

    海舌氏のボルトとナット説を理解できたでしょうか。この説の重要なことは、ボルトとナットが光のメタファーであるということです。つまり、ボルトとナットは常に一緒にあるということです。ボルトは右回りで進みますが、同時にナット左回りに進みます。更に同時に、共役と共立が起きているという事です。

    単に光が進むということの裏には、これだけの事が同時に進行しているのです。何故、光が進むのかという説明は、電磁気学によれば、右ねじの法則があり、右回りすると、前に進む力が湧き出るというような説明の仕方になります。それを示すのが下図です。「光の量子力学」
    http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld2/2Part3/2P34/QM_of_light.htmから引用しました。


    この図の矢印がその力であり、波と垂直に力として表現されます。右ねじの法則とはこの図のことを言っているのです。

    電場(E)と磁場(B)が直交すると、前に進む力と方向(k)が出るということです。

    しかし、この図には欠落している部分があります。つまり、もう一つの波が表現されていないのです。e^iwt だけが描かれており、 e^-iwtがないのです。つまり、右ねじの法則だけしかないのです。

    電磁力学は完成された理論であり、光は右ねじの法則にしたがって前に進むという理論です。しかし、PS理論のボルト・ナット説は、ボルトが右ねじの法則(遅延波)、ナットが左ねじの法則(先進波)を示してあり、その二つは切っても切れない関係であり、同時に進行すると主張しているのです。

    考えて見ればこれは当たり前のような気がします。何故って? 

    夫婦を説明するのに、夫ばかりを説明しても片手落ちというものです。相手があって始めて成り立つのです。ねじだってそうでしょう。もし相手がないなら、豆腐の角にぶつかるとか、暖簾に腕押しになってしまいます。世界は対称性でできているのです。これを電磁学は忘れているのではないでしょうか。いや、電磁気学は忘れてはいませんでした。ただ、それを、量子力学が巧く解釈できないでいるだけなのです。

    これはとても重大なことです。PS理論は、先端の量子力学を批判することになるのでしょうか。どちらが正しいなどとは、私は言えないのですが、ただ、言えることは、世界を救える考え方は何かという観点で見るという事だけです。

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コメント: 全6件

from: 生成門さん

2010年08月13日 10時50分17秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:ボルトとナット」
海舌さんへ

止観については次のように理解しています。
http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/tera/word/h-rizin.htm

から引用しました。

止観とは、「物となって物を見る」ということで、物となるのが止です。見る努力をして見るのではなく、物自身が自己をあらわして来ることです。自己を捨てて、物になれば、捨てた自己の上に物自身が自己をあらわしてくるのです。ですから、この観には、見ると同時にあらわれるということです。

また、座禅では、目を開けるか開けないかが問題となっております。http://members.jcom.home.ne.jp/webchikoin/zazen_whatsheigen.htm
これは重要なことだと思います。私は止観の基本は光の遮断だと思っているからです。

達磨さんは目を開けることを強調したようですが、それは目を閉じると眠ってしまったり、雑念ばかりが湧き出るからという理由だろうと想像します。光を遮断するということは否定していないと思います。

物を見るのは、光で見るのが普通であり、それが世界を構成しており、科学的な世界も光万能です。

一方、仏教では、光を遮断して、瞑想して世界を作ります。これが、物を観る、つまり、「現れる」という言い方になるのだと思います。

これをPS流に解釈すると、

原点MP⇒物が、科学的な物の見方、常識な見方の見るであり、+1の位置に現れた物が対象化された物であり、見る者と見られる物という関係の世界です。

この世界が作られるメカニズムは、まず、光が物からやってきて光(i,-i)となります。

次に、+1から1/4回転してi*-iとなり、差異共振、MP(i*-i)となります。ここでは、二つの波=光(i,-i)が共役しますから、その結果が「見た」ということになります。

そのときには、見る者の位置は、物があった位置+1に瞬間移動してしまいます。これが波動の収束です。これが見る者と見られる物の世界が作られた瞬間です。決して、物になったわけではありません。

つまり、光(i*-i)⇒物の式の完成です。ですから、この瞬間移動によって、見る者は+1の物の位置に立つわけです。これがそこに物があると確認したことの意味です。つまり、それが現在の意識となるわけです。

しかし、実際には、光は右回りで、過去(+1)から現在(MP)にやってくるのですから、物を見たときは過去を見ているのです。しかし、見るものの位置は何時でも現在です。ですから、見た者は物が現にそこにあると思うのです。

一方で、光には、もう一つの波あります。それは、光が未来(+1)から現在(MP)にやってくるのです。つまり、物を見たということは、未来を見ているのです。この二つのことが、同時に起きているわけです。このときの見る物の位置はMPです。これもまた、現在の意識となるわけです。

さて、そうすると、自分はどちらの位置に立っているのでしょうか。

物を見るということは、MPと+1の二つの位置に同時にたっているということになるのではないでしょうか。これは光の速さで振動(行ったり来たり)しているとも言えますし、MPが伸縮しているともいえますし、MPの原点と+1を同一視しているとも言えます。

これを新幹線光1に乗って東京から大阪に行くと考えて見ましょう。大阪に着くとそれが現在になるわけです。しかし、同時に、大阪から東京に向かっている新幹線光2があるとします。東京に着いたときが現在です。私はどっちにも乗っているとします。

私には、大阪も東京も現在なのです。これが即非の正体かも知れません。

実際は、本人は自分が移動してきたと思っているので、自分が大阪にやってきたと思うわけです。これが物を見るという言い方になるわけです。一方の、大阪から東京にやってきた自分は無意識化されてしまい捨てられてしまいます。

これが自我同一の正体かも知れません。


さて、止観の見方、「ものになる」ということですが、これは共立の方でしょう。

「ものになる」ということの意味は、+1の位置で物を見るというのとは違ったやり方で物との出会う方法があるということを意味していいます。

それは光を遮断するということです。止観とはまさに光を遮断して、物を観るということなのです。見ると観るの違いは、共役と共立の違いです。

よく仏教では、観音といいます。これは音を見ると表現していますが、ここに、仏教の本質が隠されていると思うのです。

つまり、観音とは光を遮断するということなのです。光は世界を作りますが、同時に自我も作り出すのです。

しかし、音は自己を作るといいますか、本来の自己を取り戻すといいますか、悟りの境地(-1)へ導くのです。光とは違った世界を作り出すのです。


では音とは何なのでしょうか。光は波ですが、電子との相互作用して視界=世界を作り、物と出会いさせます。一方、音は、やはり、電子の振動で、音の世界を作り、物と出会いさせます。どちらも、電子が介在しているのです。同じ電子であるにしても、こちらは1/2回転の共立の電子の波です。1/4回転の光の波とは違うのです。

止観とは、新幹線光に乗って物に会うのではなく、光を遮断して電子だけの新幹線に乗って物に出会うのです。電子の新幹線とは何でしょうか。

結論的に言いますと、光新幹線の経路は、物→光→電子→網膜→神経→左脳→言語→自我=物であり、

電子新幹線の経路は、物→電子→電子→鼓膜→→神経→右脳→非言語→自己=物のイメージであるでしょう。

ですから、止観とは非物としての物のイメージを想起させることを言っているのでしょう。

ただ、瞑想すれば、物のイメージを想起させることができるのですが、いつでも、いいイメージばかりとは限りません。なぜなら、光新幹線の経路からノイズが入るからです。それで、雑念を払い、正しい瞑想をするには、どうしても光を遮断する必要があるわけです。

それで、小止観、摩訶止観といったマニュアルができてきたのではないかと思います。

勝手な解釈をして見ました。

お蔭様で、二つの波があって、共役と共立があって、共立の方も光だとすると、1/2回転との整合が取れないので困っていたのですが、共立は電子の波だと解釈すれば、電子の1/2スピンとも整合が取れることに気がつきました。

これも止観のお陰です。ありがとうございました。

後は、共役が1/4回転で、何故光の波なのかということです。光はスピンが1なので、これを解決しなければなりません。

又、もう一つの収穫は、光(共役)⇒自我、電子(共立)⇒無我ということが言えることが分かったことです。

やはり、光と電子について、探求する必要がありそうです。


>
>  プラス1に関する記述について、次のように補足します。
>
>  それは、「止観」という点です。
>
> 2009.05.28 のブログで、海舌は次のようなことを書きました。
>
> 「そのころ、親戚に不幸があり、禅宗の寺で葬式をしたので、禅宗にも興味があり、「止観」について、ぼんやり、考えたりしていた。
>  実は、海舌が、ずっと好きで、しかも、今だに、よく分かっていないなあー、と思うのは、
>
> 天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3) (文庫)
>
>  である。
>
>
>  淡々と作法を書いているだけであるが、実は、心の制御法を解説しているのである。心と身体のバランスを解説しているのであるが、心と身体の絶対的差異も解説しているのである。不必要なことは何も書いていないし、必要なことはすべて書かれている。遊びは無く、無理もない。実に絶妙な本である。当たり前のこと淡々と書いているようで、物凄く高尚な所に精神状態を持って行くのである。
>
>  天台小止観は、天台小止観であって、これを要約したり、内容を説明することが非常に難しい書物である。一つの言葉を替えると、意図するところから離れるのである。
>
>  海舌は、この「天台小止観」に踏み留まっていて、「摩訶止観」など、雲上のものです。」
>
>  つまり、観察者が自分がプラス1に居ると認識する時点では、その指し示し、矢印、の元は原点にある。また、実は、原点に自分が居るはずで、自己の存在を構成している「宇宙」、存在自体というような認識を感じている時、それが実は自分ですが、その時の矢印の元は、プラス1にあって、原点を指し示している。
>
>  止観⇒「仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。」
>
>  止:この位置がプラス1でしょうか、ゼロでしょうか。虚数軸でしょうか。
>
>  観:この位置がゼロでしょうか、虚数軸でしょうか、マイナス1でしょうか。
>



>  また、
>
> 「即非」の概念は鈴木大拙氏に忠実に従う
> http://blog.kaisetsu.org/?eid=811448
>
>  で書きましたが、
>
>  『鈴木大拙氏は、上記の本の冒頭で、禅を語る前に、是非とも事前に述べる必要があると前置きして、「禅的事実・体験」と「禅の解釈・説明」とを明確に区別して、両者の差異を明確に意識するべきことを述べている。
>
>  
> 「禅と言う経験事実」と、「禅理又は禅哲学とも言うべきもの」との区別』
>
>  
>  としています。
>
>  天台小止観は、「禅と言う経験事実」の作法書、教科書です。
>
>  
> 「即非」の概念は鈴木大拙氏に忠実に従う
> http://blog.kaisetsu.org/?eid=811448
>
> に写真を載せましたが、
>
> 孫悟空でも釈迦の手から逃れることは出来ません。
>
>  科学も全能では無いと思います。
>
>  このため、自分は何ものなのか、謎のままです、ね。

孫悟空(科学)が暴れだして、釈迦さんも手を焼いているのが現状ではないでしょうか。

PS理論で、仏教の新しい孫悟空(科学)をなだめる必要がありそうですね。


生成門

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from: kaisetsuさん

2010年08月12日 17時41分39秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:ボルトとナット」

生成門さんへ

 プラス1に関する記述について、次のように補足します。

 それは、「止観」という点です。

2009.05.28 のブログで、海舌は次のようなことを書きました。

「そのころ、親戚に不幸があり、禅宗の寺で葬式をしたので、禅宗にも興味があり、「止観」について、ぼんやり、考えたりしていた。
 実は、海舌が、ずっと好きで、しかも、今だに、よく分かっていないなあー、と思うのは、

天台小止観―坐禅の作法 (岩波文庫 青 309-3) (文庫)

 である。


 淡々と作法を書いているだけであるが、実は、心の制御法を解説しているのである。心と身体のバランスを解説しているのであるが、心と身体の絶対的差異も解説しているのである。不必要なことは何も書いていないし、必要なことはすべて書かれている。遊びは無く、無理もない。実に絶妙な本である。当たり前のこと淡々と書いているようで、物凄く高尚な所に精神状態を持って行くのである。

 天台小止観は、天台小止観であって、これを要約したり、内容を説明することが非常に難しい書物である。一つの言葉を替えると、意図するところから離れるのである。

 海舌は、この「天台小止観」に踏み留まっていて、「摩訶止観」など、雲上のものです。」

 つまり、観察者が自分がプラス1に居ると認識する時点では、その指し示し、矢印、の元は原点にある。また、実は、原点に自分が居るはずで、自己の存在を構成している「宇宙」、存在自体というような認識を感じている時、それが実は自分ですが、その時の矢印の元は、プラス1にあって、原点を指し示している。

 止観⇒「仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。」

 止:この位置がプラス1でしょうか、ゼロでしょうか。虚数軸でしょうか。

 観:この位置がゼロでしょうか、虚数軸でしょうか、マイナス1でしょうか。

 また、

「即非」の概念は鈴木大拙氏に忠実に従う
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811448

 で書きましたが、

 『鈴木大拙氏は、上記の本の冒頭で、禅を語る前に、是非とも事前に述べる必要があると前置きして、「禅的事実・体験」と「禅の解釈・説明」とを明確に区別して、両者の差異を明確に意識するべきことを述べている。

 
「禅と言う経験事実」と、「禅理又は禅哲学とも言うべきもの」との区別』

 
 としています。

 天台小止観は、「禅と言う経験事実」の作法書、教科書です。

 
「即非」の概念は鈴木大拙氏に忠実に従う
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811448

に写真を載せましたが、

孫悟空でも釈迦の手から逃れることは出来ません。

 科学も全能では無いと思います。

 このため、自分は何ものなのか、謎のままです、ね。

海舌


> 海舌さんへ
>
> コメントありがとうございます。
>
> >  まず、プラス1ですが、ここに、「認識者が立っている」という想定だと思います。本当に、認識者、自分が、プラス1の位置に居るのかどうかは不明ですが、立論の最初の仮定として、プラス1で、世界の認識者が立っている、存在しているというのが、仮の前提だと思います。矛盾が出てきた時点で、仮定の誤りが発覚します。
>
> 私が外界を認識する場面を想像すると、大概は、その位置は原点ですよね。つまり、自己中心点です。所謂、自分を中心に世界が回っているという暗黙の了解です。この場合は、思考者、行為者の位置であるでしょう。
>
> しかし、それを瞬間にして+1に移動することはできます。
>
> それが「はっと気が付く」という場合です。つまり、これが視点の移動ということでしょう。
>
> +1に移動するということは、認識者の位置=観察者の位置になる、つまり、客観的な位置になるということでしょうか。
>
> 日常的な言い方をすると「冷静になれ」といいますが、それが+1の位置なのでしょうか。
>
> 思考者・行為者の位置=あつい、かっかとした自己中的な、ただし、無の位置=それが原点
> 冷静な位置=客観の位置=認識者の位置=+1
>
> 私達は、絶えず+1と0を振動しているのでしょう。
> いや、+1、0、-1を振動していると言った方がよいかも知れません。
>
> 思考者というのは変な言い方ですが、内観者、反省者という意味です。
>
> このように考えると、原点=0=自己中心からスタートすべきだと思うのです。
>
> そして、次に、-1=空想ないし混迷、妄想に出て、それから+1=仮説になるというのが私の実感です。
> これがガウス平面の回転の仕方と、実感の違いがあるところです
>
>
> やはり、MPを介在させないとこのあたりは説明が難しいようですね。
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> >
> >  光、波、磁力など、実際には異なる作用についての詳細な検討が必要ですが、現在の所、それが分かっていながら、「電磁関連作用」と一括して括って、逃げてきています。
> >
> >  但し、ボルト・ナット説で、
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> > 「ボルト・ナット説」 フェルミ粒子 3/2 スピンの概念図
> > http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=248
> >
> > の稿で書きましたが、
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> >  ボルトとナットが一回離れてから、また会う。
> >  回転面から垂直に見た場合の同心円で、ガウス平面プラス1から、時計回りと反時計回りに回転するボルトとナットが、次に会う地点がマイナス1として、それまでに、ボルト(ナット)が進んだ距離、ネジが対象に嵌りこんだ距離、この距離で、スピンの差異化を計量する仕組みを考案しています。
> >
> >  DSC00278図
> >
> >  その説明で、「3/2スピン構造は、1/2スピン構造よりも、ピッチが3倍長い(或は、短い)という表現で容易に説明できる。」
> >
> >  電子がボルトなら、磁力(線)はナットとか、○○粒子のピッチはaで、△△粒子のピッチはbとか、そんな感じです。
> >
> >  この辺も、今は曖昧です。
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> 1/2スピンは-1で出会いがありますが、3/2スピンも同じく-1で出会いがあることは分かりました。ピッチの違いということですね。これは簡単で意味のある説明だと思います。
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> しかし、ガウス平面で回転するという意味は、実から虚から実ということを繰り繰り返していますよね。つまり、つまり、何が言いたいかと言いますと、これが次に答えがあると思いました、
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> >  また、ボルト、ナット説では、回転面から垂直に見た場合の同心円で元に戻ったように見えますが、実際はピッチ分だけ動いていますので、捩れの位置にあるというか、時間を逆回転しないと元には戻りません。
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> これが、答えではないでしょうか。
> 単に回っているのではなく、捩れがあるということです。ここにMPの構造が潜んでいるのではないでしょうか。
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> 一回転ごとにMPが介在すると考えれば、人間の場合にも適用できます。
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> >
> >  この辺りも、ボルト・ナット説も、深みがあるように思います。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』から思いつきました。
> >
> >  前から思っていたことですが、意味不明な「ヒモ理論」を不要にしたいと思っていて、ボルト・ナット説で、「ヒモ理論」という怪しげな理論から脱却できるよう期待しています。
> >
> >  アインシュタインも、電子・電磁波までは順調でしたが、「光」「重力」の部分で悪戦苦闘しています、ね。
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> >  とりあえず、今は、光を「電磁関連作用」として、光を電子と同じと看做して議論を進めています。ですから、これ以上前に進む場合、ダークマターも含めて、電子に認められて、今の所、光には認識できない存在も、在るように仮定して理論を展開している所です。
> >
> >  仰る通り、「光と電子は連れ子のようなものですから、ここらあたりに、この疑問を解く鍵があるのでしょう」。
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> >  以上です。
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> 光を電子と同じと看做すという点は、大胆な発言ですが、私も賛成です。その方向で探求して見たいと思います。
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> 生成門

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from: 生成門さん

2010年08月12日 15時14分24秒

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「Re:Re:Re:Re:ボルトとナット」
海舌さんへ

コメントありがとうございます。

>  まず、プラス1ですが、ここに、「認識者が立っている」という想定だと思います。本当に、認識者、自分が、プラス1の位置に居るのかどうかは不明ですが、立論の最初の仮定として、プラス1で、世界の認識者が立っている、存在しているというのが、仮の前提だと思います。矛盾が出てきた時点で、仮定の誤りが発覚します。

私が外界を認識する場面を想像すると、大概は、その位置は原点ですよね。つまり、自己中心点です。所謂、自分を中心に世界が回っているという暗黙の了解です。この場合は、思考者、行為者の位置であるでしょう。

しかし、それを瞬間にして+1に移動することはできます。

それが「はっと気が付く」という場合です。つまり、これが視点の移動ということでしょう。

+1に移動するということは、認識者の位置=観察者の位置になる、つまり、客観的な位置になるということでしょうか。

日常的な言い方をすると「冷静になれ」といいますが、それが+1の位置なのでしょうか。

思考者・行為者の位置=あつい、かっかとした自己中的な、ただし、無の位置=それが原点
冷静な位置=客観の位置=認識者の位置=+1

私達は、絶えず+1と0を振動しているのでしょう。
いや、+1、0、-1を振動していると言った方がよいかも知れません。

思考者というのは変な言い方ですが、内観者、反省者という意味です。

このように考えると、原点=0=自己中心からスタートすべきだと思うのです。

そして、次に、-1=空想ないし混迷、妄想に出て、それから+1=仮説になるというのが私の実感です。
これがガウス平面の回転の仕方と、実感の違いがあるところです


やはり、MPを介在させないとこのあたりは説明が難しいようですね。

>
>  光、波、磁力など、実際には異なる作用についての詳細な検討が必要ですが、現在の所、それが分かっていながら、「電磁関連作用」と一括して括って、逃げてきています。
>
>  但し、ボルト・ナット説で、
>
> 「ボルト・ナット説」 フェルミ粒子 3/2 スピンの概念図
> http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=248
>
> の稿で書きましたが、
>
>  ボルトとナットが一回離れてから、また会う。
>  回転面から垂直に見た場合の同心円で、ガウス平面プラス1から、時計回りと反時計回りに回転するボルトとナットが、次に会う地点がマイナス1として、それまでに、ボルト(ナット)が進んだ距離、ネジが対象に嵌りこんだ距離、この距離で、スピンの差異化を計量する仕組みを考案しています。
>
>  DSC00278図
>
>  その説明で、「3/2スピン構造は、1/2スピン構造よりも、ピッチが3倍長い(或は、短い)という表現で容易に説明できる。」
>
>  電子がボルトなら、磁力(線)はナットとか、○○粒子のピッチはaで、△△粒子のピッチはbとか、そんな感じです。
>
>  この辺も、今は曖昧です。

1/2スピンは-1で出会いがありますが、3/2スピンも同じく-1で出会いがあることは分かりました。ピッチの違いということですね。これは簡単で意味のある説明だと思います。

しかし、ガウス平面で回転するという意味は、実から虚から実ということを繰り繰り返していますよね。つまり、つまり、何が言いたいかと言いますと、これが次に答えがあると思いました、

>  また、ボルト、ナット説では、回転面から垂直に見た場合の同心円で元に戻ったように見えますが、実際はピッチ分だけ動いていますので、捩れの位置にあるというか、時間を逆回転しないと元には戻りません。

これが、答えではないでしょうか。
単に回っているのではなく、捩れがあるということです。ここにMPの構造が潜んでいるのではないでしょうか。

一回転ごとにMPが介在すると考えれば、人間の場合にも適用できます。

>
>  この辺りも、ボルト・ナット説も、深みがあるように思います。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』から思いつきました。
>
>  前から思っていたことですが、意味不明な「ヒモ理論」を不要にしたいと思っていて、ボルト・ナット説で、「ヒモ理論」という怪しげな理論から脱却できるよう期待しています。
>
>  アインシュタインも、電子・電磁波までは順調でしたが、「光」「重力」の部分で悪戦苦闘しています、ね。
>
>  とりあえず、今は、光を「電磁関連作用」として、光を電子と同じと看做して議論を進めています。ですから、これ以上前に進む場合、ダークマターも含めて、電子に認められて、今の所、光には認識できない存在も、在るように仮定して理論を展開している所です。
>
>  仰る通り、「光と電子は連れ子のようなものですから、ここらあたりに、この疑問を解く鍵があるのでしょう」。
>
>  以上です。

光を電子と同じと看做すという点は、大胆な発言ですが、私も賛成です。その方向で探求して見たいと思います。

生成門

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from: kaisetsuさん

2010年08月12日 09時34分31秒

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「Re:Re:Re:ボルトとナット」

生成門さんへ

 私に的確な回答が出来るか、不安ですが、思い浮かぶことを書いてみます。

 まず、プラス1ですが、ここに、「認識者が立っている」という想定だと思います。本当に、認識者、自分が、プラス1の位置に居るのかどうかは不明ですが、立論の最初の仮定として、プラス1で、世界の認識者が立っている、存在しているというのが、仮の前提だと思います。矛盾が出てきた時点で、仮定の誤りが発覚します。

 光、波、磁力など、実際には異なる作用についての詳細な検討が必要ですが、現在の所、それが分かっていながら、「電磁関連作用」と一括して括って、逃げてきています。

 但し、ボルト・ナット説で、

「ボルト・ナット説」 フェルミ粒子 3/2 スピンの概念図
http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=248

の稿で書きましたが、

 ボルトとナットが一回離れてから、また会う。
 回転面から垂直に見た場合の同心円で、ガウス平面プラス1から、時計回りと反時計回りに回転するボルトとナットが、次に会う地点がマイナス1として、それまでに、ボルト(ナット)が進んだ距離、ネジが対象に嵌りこんだ距離、この距離で、スピンの差異化を計量する仕組みを考案しています。

 DSC00278図

 その説明で、「3/2スピン構造は、1/2スピン構造よりも、ピッチが3倍長い(或は、短い)という表現で容易に説明できる。」

 電子がボルトなら、磁力(線)はナットとか、○○粒子のピッチはaで、△△粒子のピッチはbとか、そんな感じです。

 この辺も、今は曖昧です。

 また、ボルト、ナット説では、回転面から垂直に見た場合の同心円で元に戻ったように見えますが、実際はピッチ分だけ動いていますので、捩れの位置にあるというか、時間を逆回転しないと元には戻りません。

 この辺りも、ボルト・ナット説も、深みがあるように思います。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』から思いつきました。

 前から思っていたことですが、意味不明な「ヒモ理論」を不要にしたいと思っていて、ボルト・ナット説で、「ヒモ理論」という怪しげな理論から脱却できるよう期待しています。

 アインシュタインも、電子・電磁波までは順調でしたが、「光」「重力」の部分で悪戦苦闘しています、ね。

 とりあえず、今は、光を「電磁関連作用」として、光を電子と同じと看做して議論を進めています。ですから、これ以上前に進む場合、ダークマターも含めて、電子に認められて、今の所、光には認識できない存在も、在るように仮定して理論を展開している所です。

 仰る通り、「光と電子は連れ子のようなものですから、ここらあたりに、この疑問を解く鍵があるのでしょう」。

 以上です。

 海舌

> 海舌さんへ
>
> コメントありがとうございます。
>
> まだまだ、理解していないで解釈していると思いますし、疑問もありますので、よろしくお願いします。
>
> 例えば、何故、+1を出発点にしなければなければならないのでしょうか。
>
> 光のスピンは1であり、電子は1/2ですよね。共立の1/2回転で-1となる場合は、電子ですが、それがどうして、+1ではなく、粒子としてはー1になるのでしょうか。-1粒子は仮想粒子と考えればよいでしょうか。それとも反物質でしょうか。それともアイソスピンでしょうか。
>
> 電子は二回転しないと元に戻らないので、更に1/2回転の共立で、(1/2回転をメビウスの帯では一回転すると考える)二回転で+1になるから、それで良いのでしょうか。
>
> しかし、今、光の波を回転させているのであって、電子ではないので、これをどう解釈するか、いまいちすっきりしていないところです。光と電子は連れ子のようなものですから、ここらあたりに、この疑問を解く鍵があるのでしょうか。
>
> 次回当たりからこのあたりの突入(共振^-^)することになりそうです。
>
>
> お助けをお願いします。
>
> > 生成門さんへ
> >
> >  とても楽しく、流れるように読みました。
> >  
> >  海舌は、文章が紋切り型になってしまうので、生成門さんやRenshiさんのように、別の角度からの研究を進めることで、一次元能から二次元能、三次元能、或は、四次元能へと飛躍的に進歩していることが実感される今日この頃です。
> >
> >  まさに、差異共立、差異共振です。
> >
> >  海舌
> >
> > > ボルトとナット
> > > <PS理論との共振>
> > >
> > > なんの変哲もないボルトとナットで世界を解釈するなんて、PS理論は素晴らしいですね。こういうメタファーこそが生きる原点だと思います。
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from: 生成門さん

2010年08月12日 06時57分29秒

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「Re:Re:ボルトとナット」
海舌さんへ

コメントありがとうございます。

まだまだ、理解していないで解釈していると思いますし、疑問もありますので、よろしくお願いします。

例えば、何故、+1を出発点にしなければなければならないのでしょうか。

光のスピンは1であり、電子は1/2ですよね。共立の1/2回転で-1となる場合は、電子ですが、それがどうして、+1ではなく、粒子としてはー1になるのでしょうか。-1粒子は仮想粒子と考えればよいでしょうか。それとも反物質でしょうか。それともアイソスピンでしょうか。

電子は二回転しないと元に戻らないので、更に1/2回転の共立で、(1/2回転をメビウスの帯では一回転すると考える)二回転で+1になるから、それで良いのでしょうか。

しかし、今、光の波を回転させているのであって、電子ではないので、これをどう解釈するか、いまいちすっきりしていないところです。光と電子は連れ子のようなものですから、ここらあたりに、この疑問を解く鍵があるのでしょうか。

次回当たりからこのあたりの突入(共振^-^)することになりそうです。


お助けをお願いします。

> 生成門さんへ
>
>  とても楽しく、流れるように読みました。
>  
>  海舌は、文章が紋切り型になってしまうので、生成門さんやRenshiさんのように、別の角度からの研究を進めることで、一次元能から二次元能、三次元能、或は、四次元能へと飛躍的に進歩していることが実感される今日この頃です。
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>  まさに、差異共立、差異共振です。
>
>  海舌
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> > ボルトとナット
> > <PS理論との共振>
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> > なんの変哲もないボルトとナットで世界を解釈するなんて、PS理論は素晴らしいですね。こういうメタファーこそが生きる原点だと思います。
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from: kaisetsuさん

2010年08月12日 01時51分18秒

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「Re:ボルトとナット」

生成門さんへ

 とても楽しく、流れるように読みました。
 
 海舌は、文章が紋切り型になってしまうので、生成門さんやRenshiさんのように、別の角度からの研究を進めることで、一次元能から二次元能、三次元能、或は、四次元能へと飛躍的に進歩していることが実感される今日この頃です。

 まさに、差異共立、差異共振です。

 海舌

> ボルトとナット
> <PS理論との共振>
>
> なんの変哲もないボルトとナットで世界を解釈するなんて、PS理論は素晴らしいですね。こういうメタファーこそが生きる原点だと思います。
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