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from: 生成門さん
2010年09月08日 16時02分47秒
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三つの自己{-1・0・+1}
三つの自己{-1・0・+1}
<PSとの共振>
PS理論では、イデアとは虚のことですから、ガウス平面上では物質(+1)と非物質(-1)の実軸とは直交するする方向にある異質な次元のことになります。
四次元能ではこれを四次元と言ってきましたが、四次元時空=三次元空間+時間という四次元と区別がつかなくなるので、しばらくは、海舌氏に習って異次元ということでいきます。
下図は、海舌氏の認識の区分です。詳しくは、http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=251
を参照して下さい。
この図には科学がどこにも配置されていないのですが、科学は物質的な世界を対象にしていますから、図から解釈すると、右半球(第一象限)に配置すべきと思われます。
しかし、科学は「物」ではなく、非在の思考の産物ですので、数学や哲学と同じ左半球に配置すべきとも思えます。
この辺りの解釈については、もう少し、海舌氏の認識に区分基準が明らかになったところで再配置しましょう。それまでは私の独自の解釈で配置していきます。
先ず、ガウス平面に関しての私なりの解釈ですが、単位円内は心の内面という考え方をします。当然、内面は「見る」ことができません。自己が自己の内面を「観る」ことはできますが、それをする方法は、瞑想・内省・内観と言います。
試合や仕事をした後で反省会をしようなどといって、飲み会をする口実にしますが、反省なら誰でもいつでもしていることです。後悔だって反省の一種です。自閉や睡眠も内側に入るという点では、瞑想や反省と変わりがありません。
しかし、自閉というのは、内側にいつまでも居続けるということでしょう。普通は、内側にいつまでも居続けることはできないのです。睡眠でさえ8時間が精々です。
植物状態になったということは、内側に居続けるということであり、危篤の状態と同じと言えるでしょう。
正常な状態では、睡眠から目が覚めると、すばやく外界が飛び込んできて、私という身体と外界に境界が生まれます。ですから、何時までも、内側にいることはないのです。何時までも、内側にいることは、生命を危険に置くことになるのです。
生まれたばかりで、歩き出す動物がいますが、それはまさに、そのときに内から外に意識が変わったのです。
内側に居たままでは、外部を知ることができませんし、まして表現もできません。会話が成り立たないということです。
ですから、生まれたばかりの動物のように身を守るためには、一旦、外部に出て、それから観察して、歩き出して、表現しないといけないのです。
これは瞑想にも言えることです。瞑想はあるところで終わります。その後、瞑想したことを表現するでしょう。その内容を外部の観測者(導師)が見て、修行者が本当に悟っているかどうかを判断するわけです。
瞑想の場合、その表現された内容が内面、つまり、心(悟り)をそのものかというと、それは違います。それは既に「失恋を受け入れられますか」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097186019で述べたことです。
表現するということは言語という媒体を使い、表現するのですから、それはもはや内部そのものではなくなります。ここで、内面とか内部といういい方をしていますが、いまは余り気にしなくてもよいでしょう。
要するに、単位円の内部の原点に位置するときは、それが内部の中心、即ち、それが完全な自己ということであり、外部とは完全に遮断されているということです。
ところが、一旦、この内部から外へ出てしまうと、そこには、新たな世界があって、その中に私=自己がいるという構図になり、それが日常的な物質世界となるわけです。
大事なことは、外部に出るということは、そこは+1の世界であり、三次元空間(四次元時空=三次元空間+時間)だということです。-1の世界ではないということです。
では、-1の方には出られないのかということです。そんなことはありません。人間なら誰でもやっていることです。
-1の方に出るには、内省したまま、感覚し思考することです。それは具体的にどのようなことでしょうか。それは対象に没入するということです。つまり、自他の区別をなくすることです。
「私は〜である」と覚醒し、自覚し、誰かに主張したときは、間違いなく+1の位置にいるということです。それが外に出るという意味なのです。何も主張をしないで、白昼夢をしたり、何かに熱中しているとき、ただ、何も考えずに、黙々と働いているときは、-1の位置にいるのです。
ですから、+1の状態とは、自己が自己でないものをしっかり区別できており、対象を指し示しており、自己と他者、自己と対象との間には境界があります。そういう状態を意識的とか、観測者の位置にいるとか、客観的に自己を認識できているとか言いますが、それを徹底したのが自我の状態と言えるでしょう。
それに対して、-1の状態とは、自己と自己でないもの区別しておらず、未分化の状態にあり、対象を指し示すと同時に、指し示される状態であり、自己と他者、自己と対象との間には境界がありません。そういう状態を無意識的とか、主観的な当事者の位置にいるとか、自己を認識できていないとか言いますが、それを徹底したのが無我の状態と言えるでしょう。海舌氏が、認識の区分として宗教や芸術を左半球に位置付けしたことは、まさしく、そのような意図があってのことだと理解できます。
以上の内部の解釈から、私という自己は、0、+1、-1の三つの位置を取ることができるということです。
では、0の自己とはどういう状態なのでしょうか。
それは言うでもなくPS理論の要であるゼロポイント、即ち、MP=空です。0の自己とはMPの位置にいることなのです。
簡単に纏めておきましょう。
私が取れる可能な位置
0:MP=空の位置<共立・共役の状態><無念無想の状態><即非の並存状態と即非の共振状態><凸i♯凹iと凸i*凹i><MP1とMP2>
+1:実在=実体の位置(存在、現存在)<日常的な物質世界・アンチ日常の世界>
-1:非在=超越的な位置
<芸術・宗教・倫理的な世界・数学・哲学の世界>
MPには、虚軸に繋がるMP1と実軸に繋がるMP2があると言いましたが、これらの構造を解明することが、PS理論の最大の課題であることは既に述べたとおりです。
MP1は差異の共立(凸i♯凹i)であり、MP2は差異の共役・共振(凸i*凹i)です。このMPの相互作用によって⇒+1と⇒-1のどちらかに分岐してくるのです。
分岐した後は、⇒+1と⇒-1から⇒
が分離して、+1(ただの物質的存在)と-1(ただの非在)となる場合もあります。
この⇒が付くか付かないかの違いは、とても重要なことです。⇒が+1(実在)付くということが、対象が指し示されているということであり、心がまだ離れていないということです。恋する人を思っているということです。気合が入っているということです。
一旦心が離れてしまうと、相手はただの人になってしまいます。それが+1の状態です。気合がはいていないときは、対象はただの物質になるのです。心がこもっているときは、ただの贈り物も心の一部となるのです。この差は日常においても誰も実感できることでしょう。それを
⇒+1と+1として表現しているのです。
この差異の共役では、心が対象に向かい、内部では、自*他⇒+1になり、+1の位置では、自と他が分離して、⇒+1(自己→他者)の構図になるのです。
⇒は心の作用(指し示し)ですが、+1では観測者としての自己と対象が対峙します。つまり、自己→対象という構図になるのです。⇒と己→では、全く意味が違うのです⇒は内部から外部に向う方向を示していますが、→は+1に於ける外部の構図です。
この→構図は自が自己となり、観察者となった瞬間を示しているのです。当然、他は他者ないし、対象物となります。これが、日常の生活者の態度であり、科学者の観察者としての態度なのです。つまり生活者とは観察者なのです。
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